『Ceonsoyclopedlia』は、Censor(検閲)にまつわるEncyclopedlia(百科事典)です。旧称『表現規制用語集』。民主主義社会の根幹をなす最重要の「人権」である表現の自由――その規制・弾圧・バッシングにまつわる事例や用語について、あらゆる知識を保存伝達するためのサイトです。

 責任や罪を問い質して非難すること。
 差別問題や表現規制の文脈では、「差別表現」を問題視する側が「差別表現をした」とされる人のところに集団で押し掛け、あるいは呼び出すことによって、「糾弾」側が圧倒的多数・有利である状況を人工的に作り出して、怒号と威圧によってつるしあげて謝罪や自己批判を引き出し、利益誘導や示威行為につなげようとするといった行為のことである。「確認」の名目で行われることもあった。
 20世紀に部落差別反対運動最大級の組織である「部落解放同盟」が特に得意としており、同団体の勢力拡大の主たる手段とまでなっていた。
 要するに現在のネット上で問題となっている「キャンセル・カルチャー」を、原始的な手段で行っていたと考えると分かりやすい。

 糾弾については、その前身といえる全国水平社の時代から
一、吾々に對し穢多及び特殊部落民等の言行によつて侮辱の意思を表示したる時は徹底的糾彈を爲す。(1922年3月3日『全国水平社決議』

 と明言されており、部落解放同盟はこれをいわば盾に「糾弾」を通して勢力拡大を図ってきた。
 しかしその実態は極めて暴力的かつ一方的なもので、同じ部落反対運動団体である全国部落解放運動連合会によって「差別事象にたいする全解連の方針」(1989年1月)などで厳しく批判されている。
 しかし今日では、部落解放運動にかかわって使われる「確認・糾弾」は、本来的な意味・性格とは異質なものとなっています。「解同」などが「差別事件」と称しておこなう「確認・糾弾」行為の主な矛先は、勤労国民です。そしてその「確認・糾弾」行為は、差別でないものまで「差別」にデッチあげ、「当事者」に対して多数で押しかけたり、呼び出したりして、「その見解の表明と自己批判を求める」ものであり、相手の人権や人格を踏みにじり、身柄を拘束し、「解同」の言い分を受け入れるまで、脅迫・恫喝する私的制裁以外の何物でもありません。そのため「解同」員が、たびたび「逮捕」「監禁」「強要」などの罪で罰せられています。このような「確認会」「糾弾会」に公務員が同席するなどは、決して許されるものではありません。(中略)
 「解同」は最近、国民的批判をかわすために、「確認・糾弾」の場を公開にするとか、第三者に立ち会ってもらうなどと“手直し”を口にしていますが、彼らの「確認・糾弾」行為の本質はいささかも変わらず、国民の恐怖が払拭できるわけがありません。また、どれだけ平穏を装った「確認・糾弾」であても、この形態と方法そのものに問題がある以上、社会的に一掃されなければなりません。(赤字・太字は筆者)

 部落解放同盟による糾弾の実態はあまりに暴力的かつ数を恃んだもので、「矢田事件」「八鹿高校事件」といった刑事事件までも引き起こしていた。そのあまりに一方的で人権侵害的な実態から、法務省人権擁護局すらも見るに見かねて1989年、「『確認・糾弾』についての法務省の見解」を発出した。その中で「そもそも、国の行政機関は、基本的には、民間運動団体の行動についての意見を述べるべき立場にないものである」としながらも、差別の解消という行政目的を達成する上で障害となっているものがあるとすれば、これを取り除くよう提言すべきことは当然である」と述べ、敢えて同見解を発出しなければならないほどであった。
(1) 基本的な問題点
ア 確認・糾弾会は、いわゆる被害者集団が多数の威力を背景に差別したとされる者に対して抗議等を行うものであるから、被糾弾者がこれに異議を述べ、事実の存否、内容を争うこともままならず、また、その性質上行き過ぎて被糾弾者の人権への配慮に欠けたものとなる可能性を本来持っている。
 
イ 確認・糾弾会においては、被糾弾者の人権擁護に対する手続的保障がない。すなわち、被糾弾者の弁護人的役割を果たす者がいない上、被害者集団が検察官と裁判官の両方の役割を果たしており、差別の判定機関としての公正・中立性が望めず、何が差別かということの判断を始め、主観的な立場から、恣意的な判断がなされる可能性が高い。
ウ 被糾弾者には、確認・糾弾会の完結時についての目途が与えられない。反省文や決意表明書の提出、研修の実施(同和問題企業連絡会等への加入、賛助金等の支払い)等々確認・糾弾行為を終結させるための謝罪行為が恣意的に求められ、これに応じることを余儀なくされる。
 
(2) その他の問題点
ア 何が差別かということを主観的な立場から、恣意的に判断されて、確認・糾弾会の開催が決定され、それへの出席が求められる。
 
イ 確認・糾弾会に出席する法的義務はなく、その場に出るか否かはあくまでも本人の自由意思によるべきであり、解同もその出席は被糾弾者の自由意思に基づくものであり強要はしていないとしている。しかし、現実には解同は、出席を拒否する鮫糾弾者に対して、差別者は当然確認・糾弾会に出席すべきであるとし、あるいはこれを開き直りであるとして、直接、間接に強い圧力をかけ、被糾弾者を結局、出席せざるを得ない状況に追い込むことが多く、その出席が被糾弾者の自由意思に基づくものであるとされても、真の自由意思によるものかに疑問がある場合が多い。
ウ 被糾弾者に対する確認・糾弾会の開催は、「同和問題はこわい問題である」との意識を一般的に植え付け、人々が地域・職場などのあらゆる場面で同和問題について自由な意見交換をすることを差し控えさせてしまったと言える。
 
エ 行政機関に対して確認・糾弾会への出席が強要されているが、これは行政の公正・中立性を損ない適正な行政の推進の障害となっている。
 以上のとおりの様々な問題点にかんがみると、確認・糾弾会は、同和問題の啓発には適さないといわざるをえない。このため、法務省の人権擁護機関は、差別をしたとされる者(被糾弾者)から確認・糾弾会への出席について相談を受けた場合は言うまでもなく、相談を受けない場合にも必要に応じて、「確認・糾弾会には出席すべきでない」、「出席する必要はない」等と指導をしてきている。
 

 これを見ても、旧来の「糾弾」が持っていた問題点は、現代のインターネットで繰り返される「炎上」「キャンセル・カルチャー」と基本的に同一であることが分かる。

 なお部落解放同盟側は、1991年に「何を、どう糾弾するか」と題する文書で糾弾の正当化を図っている。

参考リンク:資料:
「確認・糾弾」についての法務省の見解
「差別糾弾」とは何か
高木正幸『差別用語の基礎知識'99』土曜美術社出版販売

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