Censoyclopedia:センサイクロペディア - 【人権は公権力に対するもの】
 表現規制派が、集団でのクレーム攻撃や圧力によって表現を弾圧するのを正当化するのに用いる誤解。もしくはデマ。
「私たちは公権力じゃないから何をやっても人権侵害にならない!」というわけである。
 当然そんなわけはなく、【ブラック企業】に侵害されている労働者の権利は、立派な人権である。
 そもそもこの理論だと「民間の『差別表現』が女性の人権を侵害している!」などとも一切言えないことになってしまう。
 人権そのものの定義に「公権力に対するだけのものである」という内容は何も含まれてはいない。

 ではこのデマはどこから来たのかというと「人権の規定が書かれているのが憲法であること」「憲法は『公権力を縛るもの』とされていること」という2点から生まれた「人権は憲法がその内容を定めているものだ」という誤解に起因している。
 しかし人権は「憲法が作っている」ものではなく「もともと存在しているもの」であり、憲法はそれを書いたに過ぎないとされるのである。
 この考えは天賦人権論といって現在でも憲法学の骨子をなすものである。
 天賦人権論の「天」とはようするに「神様」という意味であるが、この考え方は「人権を定める権威を国家から切り離す」ためのものであって本当は何でもよい。ただ人権思想が始まった啓蒙思想期のヨーロッパで「国家が好き放題にできない権威を持つ」と考えられていたものといえばキリスト教の神であったので、それを当てはめたのである。

 なぜそうする必要があったか。
 人権が公権力に対するものとして始まったからである。

 冒頭と矛盾しているように思われるだろうが、このまま読み進めて欲しい。
 確かに人権や憲法は、専制君主――つまり国家の横暴に対抗するものとして始まった。
 だからこそ『人権』は「憲法の内容によって縛られるものではない」としなければならなかったのである。
 なぜなら憲法は国家=公権力が定めることができてしまうのだから。

 もし人権の内容を憲法で好きに定めてよいものだとすると、結局「人権の内容は公権力しだい」ということになってしまい、公権力に対抗するという目的が果たせなくなってしまう。
 国際ニュースではしばしば非人権的な独裁国家のことが問題になる。
「人権」が憲法次第であるなら、独裁国家は国内憲法だけ自分のやりたいようにすれば、国際社会も一切それを「人権侵害」として非難することはできないことになる。しかし実際はそうなっていないことは、人権は国内憲法が好きにしていいものではないという考えが国際的に広く認められているからに他ならない。
 したがって「憲法は公権力を縛るものだ」という憲法の内容に、人権そのものが縛られることはないのである。

 現代日本でも「民間同士であれば人権侵害を放置してよい」などと裁判所は決して考えていない。
 ただ「人権の」ではなく「憲法の」制約として国家の行為を制限するものであるため、民間同士の人権侵害行為は「民法90条の公序良俗に反する」などの形で、民間に適用できる法律に当てはめて判断を下すということをしている。

用例:



対処例: