Censoyclopedia:センサイクロペディア - 【STAND BY ME ドラえもん2】
 2020年11月20日公開の3DCGアニメーション映画。ドラえもん50周年記念作品。
「STAND BY ME ドラえもん」はいわゆる「大長編ドラえもん」やその併映作とは異なる映画シリーズで、『ドラえもん』の幾つかの「感動回」を下敷きに長編映画として再構成したもの。本作はその2作目に当たり、「のび太の結婚前夜」「おばあちゃんの思い出」をストーリーの中核に置いている。
 テーマとしては「弱い自分には静香ちゃんを幸せにできないのではないか」とマリッジブルーに悩むのび太を、しずかが「強さより優しさの人」として愛し受け入れるという物語である。

 特にフェミニストに目の敵にされたのがこの広告である。

 とりわけ「野比しずか」という、結婚後の静香ちゃんの苗字についてフェミニストからの不満が噴出した。

togetterまとめより)
 ところでこの数日前に、選択的夫婦別姓の賛否についてのNHK報道があった。この制度は結婚時に夫婦が姓を統一しても、双方が旧姓を名乗り続けてもどちらでもよいとするものである。いっけん選択肢が増えて結構なようにも思えるが、昨今の「左派」「リベラル」系の論者の態度にかんがみて「同姓婚を選んだ人を遅れた・劣った価値観とみなす差別が出現する」「フィクションの主人公の両親が別姓でないことがクレーマーの言い掛かりのネタになる」などの危惧があった。自分の価値観に追従することを「価値観のアップデート」と呼ぶなど、人の価値観を差別的に優劣をつける彼らの習性、【君野イマ・君野ミライ】のような一欠けらも性的でないイメージキャラクターや、【親子正麺】のような夫婦が一緒に家事をしている描写さえ攻撃する狂信性を考えれば、当然の懸念である。
 左派系のアカウントはこのような声に「同姓にしたい人への強制なんてあるわけない、馬鹿げた思い込み」と侮辱・嘲笑をもって答えたのである。

 この反応自体が彼らの狭量さの例証であったが、実際はどうだっただろうか。「野比しずか」への反応はその“答えあわせ”とでも言うべきものであった。彼らは今現在すでに、フィクションの「同姓にしたい夫婦」という多様性を許容する気持ちなどさらさら持ち合わせていないことが明らかになったのである。


 また、本作の根幹にある「のび太と静香ちゃんが結婚すること」自体もまた、以前からフェミニストの攻撃対象になっている。

 ネタバレとして改めて折り畳みにするまでもないことであるが、のび太といえば「ダメ少年」の代名詞的に語られるほどであり、実用的なことや社会で評価されることのほとんどが苦手で、取り柄と言えば実用性に乏しいあやとりや射撃のほかは「心の優しさ」くらいであることが頻繁に描かれている。
 こののび太のキャラクター性は、読者からの共感を得る目的のほかに「日常とSF的非日常の交流・混在を巧みに描く」という『ドラえもん』ひいては藤子・F・不二雄という作家の特性にも由来している。
 のび太はときにその能力の低さから、不遇な日常に嫌気がさして非日常の世界に逃避する。あるいは心の優しさから、偶然出会ったりドラえもんの道具の力で現れた非日常の存在と、最初に気持ちを通わせる人物となる。この2つの特性を持つことで、彼は日常から非日常の扉を開くキーパーソンとして『ドラえもん』という「少し不思議」な世界の間接的な語り部であり続けてきたわけである。
 しかしこの「弱さと優しさ」とは、まさに女性の【負の性欲】の対象となる要素であり、負の性欲を徹底的に甘やかすという現在のフェミニズムの習性からはバッシングの対象となることもまた必然であった。

 一方、ヒロインである静香ちゃんは、第一話「未来の国からはるばると」ではほとんど台詞もなく、一方的にのび太に憧れられる美少女として描かれていたが、『ドラえもん』の物語が積み重なるごとにその個性を掘り下げられ、活発で有能な女性としての魅力を発揮していく。
 小さい頃木登りが好きだったが、母親に「女の子だから」と止められたことがある。小学校時代には童話の「人に助けられるお姫様」ではなく「人を助ける魔法使い」に憧れ、のび太のように弱気になった男友達に対してはときに叱りつける。成長した彼女は一人で雪山登山に挑み、遭難にあっても冷静に対処する。一方、その雪山に彼女を助けるヒーローになろうと追ってきたのび太は、実はタイムふろしきで大人に化けただけの小学生のままののび太なので失敗を繰り返し、逆にさんざんフォローされてしまう。
 このエピソード「雪山のロマンス」を通して彼女はこの「放っておけない危なっかしい幼なじみ」であるのび太との結婚を決意する。
 

 これは「マッチョで有能な男性」と「優しいことが役割の無能な女性」という古い性役割が逆転した描写であり、フェミニストが言葉の上では「容認し、求める」と言い張ってきたものである。しかし実際の嗜好はその逆である。フェミニスト達は「強いオス」を選好し、弱いオスにはむき出しの【負の性欲】を発露するという動物的本能から全く抜け出せてはいない。
 この感覚はもちろん男女平等ではない。世の中には精神疾患や、そうでなくとも性格的に大きな問題を抱えた女性が「理解ある彼くん」のケアに甘んじているような話はノンフィクションを含めて珍しくなく、フェミニストは決してそれらに「男性をケア役にするな」とは言わないからだ。

 これらはみな本作『STAND BY ME ドラえもん2』ののび太よりも数段以上は酷く病んだ状態の女性たちが「理解ある彼・夫」にケアされる作品である。女性作家の、特にフェミニスト自認のエッセイ漫画にはその手の作品が溢れている。
 もちろん実際、負担を引き受けている当事者男性達が、そのような問題を抱えた女性への愛情ないし倫理観からそれで良いというのであれば、外野が文句を言う筋合いのものではない。しかしこれらの作品を叩かず『STAND BY ME ドラえもん2』のみを叩くのは、「フェミニストは女のわがままを擁護しているだけで真の男女平等を目指しているわけではない」という批判が、残念ながら誤った偏見ではなく真実でしかないことを示してしまっている。
 そう、今現在のフェミニストにとって紛れもなく「女が男をケアする」のは『差別』であり、「男が女をケアする」のは問題ないどころか、むしろそうしないことこそが差別なのである。

 そのため彼女らは「有能で快活な静香ちゃんが大人しいのび太をリードしている」*1という素直かつポジティブな見方ではなく、「魅力のない男のび太に静香ちゃんが『あてがわれて』いる」という原始的本能的なメスの不満しか『ドラえもん』から見出すことはできないのだ。

参考リンク・資料:
人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができるのに有害な男らしさを持つのび太🤵💒👰
「選択的」夫婦別姓なのに「野比」しずかに疑問