ロボテック・クロニクル - ジョン・ヌーデセン・ノースロップ

世界の名機【B-2 スピリット】


辞世の一句

"Now I know why God has kept me alive for the last 25 years."

今こそ、神が25年の余生を与えたもうた理由が分かった。

追悼の弔辞

友人ドナルド・ウィルズ・ダグラス【Donald Wills Douglas, Sr.】*1はその死に寄せて、こう追悼の意を表しました。

"Every major airplane in the skies today has some of Jack Northrop in it."

『今日、空にある主な航空機のそれぞれに、何らかのジャック・ノースロップ(の魂)が宿る。』

ロボテックシリーズとの関連性

ノースロップ・アルファ【Alpha】ベータ【Beta】ガンマ【Gumma】シリーズ名称は、それぞれ以下の通り使用される。

目次【Index】

タイトル【主題】

引用元明記表示 全翼機の世界(J.K.ノースロップ)

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本文

出生から駆出期まで


ジョン・ヌーデセン・ノースロップ【John Knudsen Northrop】(愛称:ジャック)は、1895年11月10日、アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアークに生まれました。


9才の時にカリフォルニア州に一家が引越し、以後カリフォルニアで生涯を暮らします。
彼は米国における全翼機の先駆者(パイオニアであると同時に、応力外皮構造(モノコック)の開発者としても知られています。
設計室にて

航空機開発設計業界に於ける、彼のデビューは、1916年のラフヘッド【Loughead】社(ロッキード【Lockeed】社の前身。)でしたが、第一次大戦終結により、軍用機が大量に、しかも安価に放出(払い下げ)され始めると、同社は対抗出来なくなり倒産しました。

しばらくして、ダグラス・エアクラフト社【Douglas Aircraft Company】社に入社(1923年)し『ダグラス・ワールド・クルーザー【DWC】』関連の仕事をした後、1927年に改名後のロッキード【Lockeed】社に復帰し、有名な『ロッキード・ベガ【Lockeed Vega】』を設計しました。

会社設立

その後同社を退社し、1928年に『アヴィオン・コーポレーション』【Avion Corporation】社を設立、全翼機の開発に取り組み始めると同時に、『ノースロップ式・全金属製多桁式・応力外皮(モノコック)構造』を発表、1929年それを認めたボーイング社の提案で『ユナイテッド・グループ【The United Aircraft and Transport Corporation】』傘下に入り、『アヴィオン・コーポレーション』【Avion Corporation】社を、『ノースロップ航空機社』【Northrop Aircraft】』と改名、アルファ【Northrop Alpha】ベータ【Northrop Beta】の各シリーズを世に出しました。

その後1929年に始まる世界大恐慌の影響からくるユナイテッド・グループの緊縮体制とカンザス州への移転を嫌い、1932年に再び友人であるドナルド・ウィルズ・ダグラス【Donald Wills Douglas, Sr.】の系列に入り、ノースロップ・ガンマ【Northrop Gumma】シリーズを発表、その進んだ設計を世界中に問いました。

ノースロップ・ガンマ【Northrop Gumma】系列は、日本にも2機輸入され、日本機、特に中島飛行機の海軍機系列に大きな影響を与えたと言われています。【『航空技術の全貌』昭和28年『岡村 純』他】

他にも、当時の日本海軍関係者が衝撃を受けた旨の記載があります。

引用編集者注記

ノースロップ・ガンマは1933年に2Eが、1937年に2Fが各々1機ずつ日本海軍によって輸入され、研究の対象とされている(いずれも固定脚型)。
海軍が付与した記号は、2E(Gamma 5A)がBXN1、2F(Gamma 5D)がBXN2である。
中島 十一試艦上爆撃機は、ノースロップ社ガンマ攻撃機引込脚型 2F型に似ている。


引込脚型2Fは、輸入されなかったものの九七式艦上攻撃機【B5N/KATE】に大きな影響を与えた。

A-17や、BT-1艦上急降下爆撃機(後のダグラスSBD『ドーントレス』の原型)といった各機種を発表し、商業的にも成功していたのですが、ダグラス社の体制拡張に反発して1938年に、同社系列を脱退、新しく『ノースロップ航空機社』【Northrop Aircraft】』を、カリフォルニア州ホーソーンに設立し、全翼機開発への道を歩み始めます。


そして1940年6月、全翼機第1作目であるN-1Mが完成、ジャックが最も輝いた12年間が始まるのです。

本人写真解説

上写真は N-1M 開発の頃の写真で、エドワーズ空軍基地のミュロック乾湖【Edwards Air Force Base / Muroc Dry Lake】でのジャック(右側)です。
左はパイロットの『モーイ・ウィックス・ステファン』【Moye Wicks Stephens】、後方に単発低翼単葉・固定脚のロッキード・モデル9・高速旅客機『オリオン』【Lockheed Model 9 Orion】が写っています。

1929年型 X-216H 全翼機


下2つはノースロップXB-35の1/3モデルN-9MBに乗り込んでご満悦のジャック(後席)。
実に嬉しそうです。笑顔がいいですね。


XB-35XB-35の前に立つジャック。鳥打帽(ハンチング帽)が妙に似合っています。
1939年に再び設立された第二次『ノースロップ・コーポレーション社』の企業意匠識別標識(ロゴマーク)。

夢費えた後の長い余生

1949年1月の「 YRB-49 *2計画」(偵察型 YB-49 ) 中止により、遂に全翼機の夢敗れたジャックは1952年に航空工業界を引退、以後ノースロップ・コーポレーション社と関係することなく、カリフォルニア州サンタバーバラでその余生を過ごしました。

彼は晩年パーキンソン病に犯され余命幾ばくもないという状態だったのですが、1980年4月ノースロップ・コーポレーション社に久々に招かれ、ある箱を手渡されました。


その中には、軍の特別許可を得て同社の首脳陣がジャックにプレセントした、当時極秘裏に開発が進められていたB-2 スピリットの模型が入っていたのです。

それを見た彼は、こう呟きました。

"Now I know why God has kept me alivefor the last 25 years."

何故に“神”が私に対して、残り25年間”を生かしてくれたのか、その理由が今こそ分かったよ・・・


それにはXB/YB-35のようなプロペラ・基部収納整形突起(ハウジング)も無く、YB-49のように垂直フィンもない、ジャックが長年夢見ていた純粋(ピュア)な全翼機だったのです。

1981年2月18日、ジャックはその85年の生涯を、カリフォルニア州サンタバーバラの病院で閉じました。

友人ドナルド・ウィルズ・ダグラス【Donald Wills Douglas, Sr.】(元ダグラス社社長)は、その死に寄せて、こう追悼の意を表しました。

"Every major airplane in the skies today has some of Jack Northrop in it."

『今日、空にある主な航空機のそれぞれに、何らかのジャック・ノースロップ(の魂)が宿る。』

下はサンディエゴサンディエゴ航空宇宙博物館【San Diego Aerospace Museum】にある『航空宇宙名誉殿堂』【"Aerospace Hall of Fame"】に飾られているジャックの肖像です。
背景に初期の開発機体であるノースロップ・アルファ【Northrop Alfa】等と共にYB-49 フライング・ウィング【FLYING WING】が描かれています。