九試計画で「艦上戦闘機」、「陸上中型攻撃機」の単葉化(
三菱 九六式艦上戦闘機【A5M/Claude】、
三菱 九六式陸上攻撃機【G3M/Nell】)に成功した旧日本海軍航空本部では、1935年【昭和10年】から第一線機の近代化計画を進めていたが、1936年【昭和11年】には
愛知航空機*1開発製造
九六式艦上爆撃機【D1A2/Susie-Matured】*2の後継機を十一試特殊爆撃機として、中島、愛知の両社に対して競争試作を指示した。
この競作に後になって三菱も加わり、三菱は1935年【昭和12年】夏にモックアップ完成までこぎつけたが、納期に間に合わないことが判明、三菱が試作を断念したことで、結果的には中島と愛知の競作となった。
中島では、設計主務者を「山本 昌三」技師として、先に輸入していた米国の『
ノースロップ・ガンマ2E』(A-17)軽爆撃機を参考にしながら「十試艦偵」、「十試艦攻」の資料を加えて設計を進め、愛知機【D3A/VAL】よりも早くモックアップを完成させた。
機体はノースロップ2Eと十試艦攻との中間的形態でスマートな低翼単葉機で、中島独自の新機軸としては、「引込み式主脚を下ろし ⇒ 車輪を横に90°回転させる」ことで、これを急降下抵抗板(エアーブレーキ)の代わりにしようとする、いかにも中島的な考案を採用していた。
しかし、試作機製作の段階で、当局より“急降下速度の更なる引き下げ”を要求され、“この方式では急降下時の減速が抵抗面積不足により不十分”であることが判明した為に、設計の根本的な変更を余儀なくされた。
こうして、細かい孔の開いた抵抗板を、ダイブ・ブレーキとして主翼の下面に追加することになった。
(ポーランド語の資料によれば、『翼の上に穿孔スポイラーを使用して 速度を444Km/h から 370Km/h に制限するとあるが、機首上げモーメントが発生し現実的でない研究結果。この数値を達成するには、抵抗痛みを上下双方に装備しない限り、不可能な値である。)
試作1号機は1938年【昭和13年】3月に完成したが、“既に海軍の指定した納期を過ぎて”おり、既に3ヶ月半ほど前の1937年【昭和12年】12月に試作1号機を完成させ試飛行を進めていた愛知機【D3A/VAL】に大きく差をつけられる結果となった。
しかし中島の機体も一応海軍に受領され、愛知の機体との比較審査が行われた。
その後、1939年【昭和14年】には試作第2号機も完成、14年秋には試作第3号機も完成し、愛知航空機の【D3A/VAL】と共に審査に加わった。
中島の機体は当時としては進歩的な設計で性能的にも悪くはなかった。
愛知機と並んで実験と改修が続けられてきたが、愛知機と比べると装備発動機の馬力不足により速度が、その他にも運用性などが劣っていた為に、結局1939年【昭和14年】12月に不採用が決定した。
その後試作機は、旧日本海軍より中島に払い戻されたが、中島では本機を実験機として利用した。
特に、自社製のエンジンのテストベットとして、栄や誉などの発動機の熟成に大きな役割を果たすことになった。
その他、各種実験に使用され、1機は終戦時まで健在であった。