最終更新:ID:q2tuIG0i7A 2020年04月12日(日) 17:53:51履歴
◆脚本:高橋ナツコ ◆絵コンテ・演出:相澤伽月 ◆作画監督:山中いづみ・遠藤大輔・堤谷典子・近藤律子・井本美穂・塚越修平・高井里沙・渡邉亜彩美
『紅水陣』の酸でボロボロの聞仲。
最後の力を振り絞り、『紅水陣』を破壊して黒麒麟と共に飛び去っていく。
一方、じきに落ちる金鰲島を予期した太公望は、
脱出の準備を楊戩たちに告げる。
そして「後始末をつける」と四不象に乗って、聞仲の後を追う。
普賢、武成王、十二仙たち、多くの仲間の死を胸に、
満身創痍の聞仲と対峙する太公望。
互いの譲れぬ信念をぶつけ合い、最後の戦いに挑む。
悠久の時を経て、いま封神計画が完結する!!
聞仲を倒し、無事に封神計画が完結した。
原作読者及び真面目に話を追っていた視聴者各位からすれば「どういう意味なのだ」と思うかもしれない。どういう意味なのか、説明したいが不可能である。とにかく聞仲を倒したら何故か封神計画が完結したのだ。
封神計画とは人間界に平和をもたらす計画だとか、妲己倒すのがメインだとか、その裏にいる黒幕女媧を睨んでいるのだとか、何かと作中でも色々言われていた気がするが、恐らくこのアニメとしてはそんなこと大した問題では無かったのだろう。
殷周革命が成ったり女媧を倒したりとか全然していないが、正直よく分からないがとにかく終わったのだ。
とりあえず妲己はなぜか自分の体のまま地球と融合してたし、最後太公望はこの先見せるはずの真の姿っぽくなっていた。
紂王は玉座で干からびていたが恐らくまだ倒されていない、殷周革命共々ここはDVD/BDの特典である「黄家の血」でやるのだろうか?
こんなにふわっとした記述ばかりで申し訳ないのだが、何しろまともに説明がなかったのでそうとしか言いようがないのだ。
そしてこれが最終回なのでこの先もう説明されることも無いだろう。本当にただとにかく終わったのだとしか言いようがない。
終わったと言っても俺たちの戦いはこれからだ!といった途中終了ではなく、俺たちの戦いは終わったとでも言うべき完全な終わりである。
何も終わってないはずなのだが……
これまでにもこのアニメの出来を指して『バグありRTA』などと揶揄されることがままあったが、最終回はまさしくそういったものだと説明するのが一番分かりやすい。
聞仲という中ボスを倒すことで封神演義という物語自体のエンディングにワープした。それが全てである。
前回22話のページでも指摘されているように、今回23話でも聞仲の禁鞭を持つ手が安定しない。原作通りの構図では左で持ったり、アニメオリジナルの構図では持ち替える描写もなく折れているはずの右で握ったりしている。
というか、ご存知のようにこの最後の戦いの一部は原作既読の視聴者が呆れ返った例の覇穹第1話冒頭シーンのリプレイなので、原作通りの展開で元始天尊から腕を折られるかまだ不明だったとは言え、この描写ミスは第1話から存在していたが気づかれていなかっただけとも言える。つまり前回のミスも大元は第1話及び今回の絵コンテを担当した監督自らが原因なのだろうか。
第1話の画面から撮影した、力強く右腕で鞭を振りかぶる聞仲

第1話冒頭のシーンの続きとなる、今回23話で初めて流れたこの戦いのその後の風景(左手)

禁鞭が命中しなくなったことで、聞仲がもはや目も見えなくなっていることを察した太公望は、自らも打神鞭を捨て、敢えて素手同士の殴り合いで決着をつけようとする。
この場面自体は原作通りだが諸々の演出がおかしい。
まず間合いを詰めようと雄叫びをあげて聞仲に向かって突撃する太公望が腕を真横に振る動作は女の子走りにしか見えず、男らしい叫び声とのギャップが笑いを誘う。
動画ファイルへのリンク
そして殴り合いが始まると盛り上げるためかスローモーション演出が入るが、その際の効果音はパンチの音というより銃撃戦や爆撃音のよう。一発一発の威力を強調したかったのかもしれないが単純に合ってない。更には例によって無駄に大仰なBGMも流れる。
動画ファイルへのリンク
そもそもこの場面は凄まじい達人同士の殴り合いなどではなく、本来徒手空拳での戦いを得意としない二人がボロボロの体で最後の力を振り絞って殴り合いをする場面である。必要以上にSEを派手にするべき箇所ではないどころか、むしろ地味で泥臭い演出をするべきだろう。
Abemaのライブ配信でのコメント欄や5chの実況スレッドでは失笑が起こっていた。
最終話の戦いは、原作通りボロボロになった聞仲がその身を投げて封神され終了する。
ということで、大方の原作読者の想像通り主人公太公望は一人も封神することなく覇穹『封神』演義は終了した。
また、原作では明確に描かれた魂魄を封神台に封神していくことの意義も描かれなかった。今回、大戦後に封神台が無事なことに安堵する楊戩や武吉の様子までわざわざ見せたにもかかわらずである。
繰り返すがこれは覇穹『封神』演義である。
封神という行為には重要な意味があり、またその言葉が含む意味合いも単一ではない。
しかしながらこのアニメの結末は「封神する必要あったの?殺せば良かったんじゃね?」の一言で終わってしまうようなものだった。
「なぜ封神するのか?」という疑問に対し、第1話で述べられた「仙人、道士は殺しは御法度」「なので封神台によって魂を封印できるようにする。」としか明確な回答なくそのまま物語が完結したので、これだけだと封神台は「戦いの最中で仙人、道士が侵すであろう殺しをさせない為だけに作り、そして倒した人物の魂を勝手に閉じ込めておく為だけに存在している」様に見えてしまい、傍から見たら都合のよいただの魂の牢獄である。
これでは、そもそも主人公が封神してないことも相まって作品タイトルにするほどのことではないようにしか思えない。
いまいち必要性が判然としない「封神」システムだったが、Bパート、金鰲島から脱出した妖怪仙人たちを雲霄三姉妹が指導する場面では、妖怪たちの態度の悪さに激怒したビーナスが目からビームを撃つと、それを食らった妖怪たちの魂魄が飛び、封神される。
戦いは終わったのではないのか?なぜ計画が完結した後も未だに封神の現象が起き続けるのか?
謎だらけで終わるなんともミステリアスな封神計画であった。
これは余談だが、『演義』という言葉には本来『筋道立てて物事を分かり易く説明する』といった意味合いがある。(ただし実際のところこの場合の使われ方に関しては必ずしもそうとは言えない。詳しくは各自検索して欲しい)
しかしながらどんなに好意的に見ても、この覇穹封神演義という物語は決して『分かり易く』はない。
つまりこのアニメは『封神』でもなければ『演義』でもない何かである、とも言える。
ここへ来てまたもや登場した、新キャラクター、浅黒い肌の翼を持つ青年。
原作ファンにはお馴染みの西伯候姫昌が百子の雷震子(らいしんし)である。
実はこれまで彼の体の一部だけならば、7話等で楊戩が変化の術で生やした翼という形で登場済み(当たり前のようにこの翼についての説明は無し)という杜撰な扱いであったが、本人も最終話にして初登場である。
そして毎度お馴染みの一切説明なし、それどころか何処とも分からない荒野の空中で一人で叫ぶだけ叫んで出番は終わった。この間、わずか11秒。
既存のキャラクター達との会話も無ければ、そもそも自ら名乗ることすらも無かったので、原作未読勢には彼の名前すら伝わらなかったろう。
一応、原作未読でも熱心に見ていた視聴者ならば、
わざわざこんなところで彼を出した意味が有るのだろうか、明らかにないと思うのだが。またしてもズレたファンサービスなのだろうか。
どうかこのアニメには登場しないで欲しいと願っていたファンが存在することも納得の扱いの酷さであった。
隠す必要もないのでそのまま補足するが、原作での彼は本来物語序盤で仲間になる崑崙の道士である。
上述した「文王・姫昌の子」だが「崑崙の道士」でもあるという設定は、人間を国家によって支配する道士・聞仲を糾弾する展開にそぐわない微妙な立場であり、それゆえか原作の仙界大戦編では不自然な不参戦扱いを受けてしまっていたが(というかその前の趙公明編から写ってなかったが)、後述のように覇穹の太公望は「仙道がいない人間界を作る」という目的など別に大事ではなかったようなので、彼をバリバリ活躍させても別に良かったのではないだろうか。
魂魄となって、禁城の玉座に力なく腰掛ける紂王に、『殷の親』として最後の挨拶をしに来る聞仲。
だが玉座の紂王は妲己による改造の影響で(あるいは改造の効果が消えたことにより)老いて衰弱しており、明らかに異常な状態である。
周囲にも彼を助けるものは誰もおらず、殷も崩壊寸前であることが見て取れる。
仙界大戦前の6話Bパートで、聞仲が出撃前の挨拶をしに向かったときの紂王は健康そのもので「予が元気では不満か?」と冗談を言うほどだったのだが、久し振りに再会した今回は見る影も無いほど一気にやつれてしまっているのに、聞仲の表情には驚きも悲しみも見られない。まさか本当に元気なのが不満だったのだろうか?
読者諸君も想像して欲しい。自身の両親とお互い元気なまま別れたが、数週間か数ヶ月間程度を経て次に会ったときに子の自分が髪は真っ白、皮膚も皺だらけに変わり果てた姿になっていたとすれば、もし日頃から仲が良好でなかったとしてもそれなりの心配はしてくれるのが常識的な親の人情であろう。
制作スタッフは、子供がここまで変貌していても親は何の反応も示さないことがあり得る、とでも考えているのだろうか。
想像を絶する鈍感か、或いは冷血なのか。どちらにせよ正気の沙汰とは思えない場面である。

その後亡き朱子と再会するのだが、ここで衝撃の台詞が。
なんと聞仲は自分の行いに満足しているというではないか。
君主たる紂王が、体調が急変したり記憶がなくなっていたりで様子がおかしかったにも関わらず大戦を開始し、進軍する周軍すら放置しておいてである。
最初の台詞とあいまって、飛虎がいないのであれば殷や紂王のことなど最早どうでもいいかのような言い草である。
殷の父親がこのありさま、紂王もこのアニメではただの無能なのだから、殷の崩壊も無理なきことだろう。
聞仲を倒した後、楊戩に「しばらく一人にしてほしい」と告げ、仙界大戦にて払ったあまりに大きすぎる犠牲を思い一人涙を流す太公望。
そのシーンのままAパート終了。
そしてBパート開始早々にスープーが発する台詞が次のようになっている。
あるのだが、これを素直に仙界大戦直後だと捉えると、太公望は仙界大戦後、同じように戦い傷付いた皆に戦後の処理や残った敵等々を全てぶん投げて逃げた無責任主人公にしか見えない流れになっている。
或いは、仙界大戦で受けた余りに大きなストレスによって心を病み失踪したとも取れるだろうか。
ましてや、雲霄三姉妹が金鰲島から脱出した妖怪たちを率いる場面では、
加えて崑崙山も金鰲島も墜落したままの現状では、竜吉公主、楊戩、太乙真人たちの居場所も人間界のどこかとしか推測できない。特に、貴族の館の一室らしき場所で机に木簡を広げ、かつての聞仲のようなデスクワークをしている楊戩は、周国の政治に参加しているようにさえ見える。
しかし太公望の目的は「仙人や道士のいない人間界を作る」ことではなかったのか?これが彼の戦う動機なのだと12話冒頭などで何度も繰り返し主張されてきたような気がするが、どうでも良くなってしまったのだろうか。
一応、およそ2分後のシーンでは申公豹が太公望に「人間界を仙人たちから開放してどうするつもりなのですか?」と既成事実のように語りかけるが、上述のビーナスや楊戩たち仙人すべてが人間界から去ったらしき描写は挟まれない。
一応聞仲は倒したとはいえ、人間界がそれだけで仙道から開放されたと言えるような状況ではなかったことはこのアニメを見ただけでもよくわかるはずだ。殷を退廃させた妲己一味や「人間界の真の支配者」こと聞仲が排除されても、取って代わった周の方にも仙道が巣食っているのでは支配構造が何も変わらない。
このままでは周が殷を滅ぼしても殷の時代と同じようなことが繰り返されかねないような現状である。
当然ながら、原作ではそのようなことは一切ない。
この太公望失踪のくだりは原作では最終決戦が終わった後のことであり、それまでに太公望はほとんど文字通りその身を粉にして働き続けていたのである。
また金鰲島の妖怪仙人たちが人間界で生活するのも仙界大戦直後の一時的なもので、物語の終わりにはきちんと人間界の外に彼らの居場所を与えている(詳細は下記)。
上の聞仲の台詞ではないが、本来は自分が出来るだけのことは全てやって、その後を然るべき者たちに託しての失踪であったのだ。
毎度のごとくいつの間にか話が進み、申公豹の回想として、地球と融合しようとする妲己の様子が描かれる。
どうやらこの地球との融合が彼女の真の目的だったことと、女媧の手下となって活動していた理由が本人の口から併せて語られるのだが、
一応「乗っ取った」とは言うが、その姿は従来の妲己の姿のままなので具体的に何をどうしてこうなったのかは不明瞭である。原作では「女媧の肉体を乗っ取った」なので、もしかしたら女媧本体はどこかで生きているのかもしれないが、それはそれで問題だろう。
ネットの一部には、「前回22話ラストでの女媧の描写が、妲己が女媧を乗っ取ろうとしている最中のものだった」と強引に解釈する意見もあるようだが、それが正解だとしても結局この最終話後半の支離滅裂ぶりを説明出来るわけではない。
妲己に付き従っていた王貴人と胡喜媚の妹二名も最終話では出番無し。姉に置き去りにされた後でどうなったかは語られなかった。上記の雷震子よりこちらを映した方が、これまでの話を畳むためという点で意味が大きかったはずだ。
しかし仮に妲己ひとりで女媧に勝ってしまったというなら、王奕や元始天尊らが数千年前から周到に準備し、王天君が魂を割られて苦しみ、太公望が故郷を喪う悲しみや理想と現実の狭間で葛藤しながら進めてきた封神計画には一体何の意味があったのか?ついでに燃燈道人は何をするために登場したのか。
更に、前回22話で王奕が語った「7つのスーパー宝貝と、その使い手7名が集まったとき女媧は滅びる。」という予言も全く意味の無い展開になってしまった。
そもそも妲己の真の力が一人で女媧を打倒できるほどの凄まじさであったなら、王奕も元始天尊も封神計画などという回りくどい計画を立てるより、はじめから、あるいは途中からでも妲己と直接組んで女媧を倒す計画を別に始めた方が効率的であっただろう。
両者の主義や内面に関して譲れないものがあったとしても、明確な利害の一致があることや、女媧という存在の大きさを考慮すればそちらの方が遥かにスマートだ。
『紅水陣』の酸でボロボロの聞仲。
最後の力を振り絞り、『紅水陣』を破壊して黒麒麟と共に飛び去っていく。
一方、じきに落ちる金鰲島を予期した太公望は、
脱出の準備を楊戩たちに告げる。
そして「後始末をつける」と四不象に乗って、聞仲の後を追う。
普賢、武成王、十二仙たち、多くの仲間の死を胸に、
満身創痍の聞仲と対峙する太公望。
互いの譲れぬ信念をぶつけ合い、最後の戦いに挑む。
悠久の時を経て、いま封神計画が完結する!!
聞仲を倒し、無事に封神計画が完結した。
原作読者及び真面目に話を追っていた視聴者各位からすれば「どういう意味なのだ」と思うかもしれない。どういう意味なのか、説明したいが不可能である。とにかく聞仲を倒したら何故か封神計画が完結したのだ。
封神計画とは人間界に平和をもたらす計画だとか、妲己倒すのがメインだとか、その裏にいる黒幕女媧を睨んでいるのだとか、何かと作中でも色々言われていた気がするが、恐らくこのアニメとしてはそんなこと大した問題では無かったのだろう。
殷周革命が成ったり女媧を倒したりとか全然していないが、正直よく分からないがとにかく終わったのだ。
とりあえず妲己はなぜか自分の体のまま地球と融合してたし、最後太公望はこの先見せるはずの真の姿っぽくなっていた。
紂王は玉座で干からびていたが恐らくまだ倒されていない、殷周革命共々ここはDVD/BDの特典である「黄家の血」でやるのだろうか?
こんなにふわっとした記述ばかりで申し訳ないのだが、何しろまともに説明がなかったのでそうとしか言いようがないのだ。
そしてこれが最終回なのでこの先もう説明されることも無いだろう。本当にただとにかく終わったのだとしか言いようがない。
終わったと言っても俺たちの戦いはこれからだ!といった途中終了ではなく、俺たちの戦いは終わったとでも言うべき完全な終わりである。
何も終わってないはずなのだが……
これまでにもこのアニメの出来を指して『バグありRTA』などと揶揄されることがままあったが、最終回はまさしくそういったものだと説明するのが一番分かりやすい。
聞仲という中ボスを倒すことで封神演義という物語自体のエンディングにワープした。それが全てである。
前回22話のページでも指摘されているように、今回23話でも聞仲の禁鞭を持つ手が安定しない。原作通りの構図では左で持ったり、アニメオリジナルの構図では持ち替える描写もなく折れているはずの右で握ったりしている。
というか、ご存知のようにこの最後の戦いの一部は原作既読の視聴者が呆れ返った例の覇穹第1話冒頭シーンのリプレイなので、原作通りの展開で元始天尊から腕を折られるかまだ不明だったとは言え、この描写ミスは第1話から存在していたが気づかれていなかっただけとも言える。つまり前回のミスも大元は第1話及び今回の絵コンテを担当した監督自らが原因なのだろうか。
第1話の画面から撮影した、力強く右腕で鞭を振りかぶる聞仲
第1話冒頭のシーンの続きとなる、今回23話で初めて流れたこの戦いのその後の風景(左手)
禁鞭が命中しなくなったことで、聞仲がもはや目も見えなくなっていることを察した太公望は、自らも打神鞭を捨て、敢えて素手同士の殴り合いで決着をつけようとする。
この場面自体は原作通りだが諸々の演出がおかしい。
まず間合いを詰めようと雄叫びをあげて聞仲に向かって突撃する太公望が腕を真横に振る動作は女の子走りにしか見えず、男らしい叫び声とのギャップが笑いを誘う。
動画ファイルへのリンク
そして殴り合いが始まると盛り上げるためかスローモーション演出が入るが、その際の効果音はパンチの音というより銃撃戦や爆撃音のよう。一発一発の威力を強調したかったのかもしれないが単純に合ってない。更には例によって無駄に大仰なBGMも流れる。
動画ファイルへのリンク
そもそもこの場面は凄まじい達人同士の殴り合いなどではなく、本来徒手空拳での戦いを得意としない二人がボロボロの体で最後の力を振り絞って殴り合いをする場面である。必要以上にSEを派手にするべき箇所ではないどころか、むしろ地味で泥臭い演出をするべきだろう。
Abemaのライブ配信でのコメント欄や5chの実況スレッドでは失笑が起こっていた。
最終話の戦いは、原作通りボロボロになった聞仲がその身を投げて封神され終了する。
ということで、大方の原作読者の想像通り主人公太公望は一人も封神することなく覇穹『封神』演義は終了した。
また、原作では明確に描かれた魂魄を封神台に封神していくことの意義も描かれなかった。今回、大戦後に封神台が無事なことに安堵する楊戩や武吉の様子までわざわざ見せたにもかかわらずである。
繰り返すがこれは覇穹『封神』演義である。
封神という行為には重要な意味があり、またその言葉が含む意味合いも単一ではない。
しかしながらこのアニメの結末は「封神する必要あったの?殺せば良かったんじゃね?」の一言で終わってしまうようなものだった。
「なぜ封神するのか?」という疑問に対し、第1話で述べられた「仙人、道士は殺しは御法度」「なので封神台によって魂を封印できるようにする。」としか明確な回答なくそのまま物語が完結したので、これだけだと封神台は「戦いの最中で仙人、道士が侵すであろう殺しをさせない為だけに作り、そして倒した人物の魂を勝手に閉じ込めておく為だけに存在している」様に見えてしまい、傍から見たら都合のよいただの魂の牢獄である。
これでは、そもそも主人公が封神してないことも相まって作品タイトルにするほどのことではないようにしか思えない。
いまいち必要性が判然としない「封神」システムだったが、Bパート、金鰲島から脱出した妖怪仙人たちを雲霄三姉妹が指導する場面では、妖怪たちの態度の悪さに激怒したビーナスが目からビームを撃つと、それを食らった妖怪たちの魂魄が飛び、封神される。
戦いは終わったのではないのか?なぜ計画が完結した後も未だに封神の現象が起き続けるのか?
謎だらけで終わるなんともミステリアスな封神計画であった。
これは余談だが、『演義』という言葉には本来『筋道立てて物事を分かり易く説明する』といった意味合いがある。(ただし実際のところこの場合の使われ方に関しては必ずしもそうとは言えない。詳しくは各自検索して欲しい)
しかしながらどんなに好意的に見ても、この覇穹封神演義という物語は決して『分かり易く』はない。
つまりこのアニメは『封神』でもなければ『演義』でもない何かである、とも言える。
ここへ来てまたもや登場した、新キャラクター、浅黒い肌の翼を持つ青年。
原作ファンにはお馴染みの西伯候姫昌が百子の雷震子(らいしんし)である。
実はこれまで彼の体の一部だけならば、7話等で楊戩が変化の術で生やした翼という形で登場済み(当たり前のようにこの翼についての説明は無し)という杜撰な扱いであったが、本人も最終話にして初登場である。
そして毎度お馴染みの一切説明なし、それどころか何処とも分からない荒野の空中で一人で叫ぶだけ叫んで出番は終わった。この間、わずか11秒。
既存のキャラクター達との会話も無ければ、そもそも自ら名乗ることすらも無かったので、原作未読勢には彼の名前すら伝わらなかったろう。
一応、原作未読でも熱心に見ていた視聴者ならば、
金鰲島との決着がついたあー?! なんで俺様を待てなかったんだよぉ!?という二言目のセリフから「金鰲島を敵視しているなら彼は崑崙山側のキャラクターなのだろう」と推測できるかもしれないが、以上でこのアニメにおける彼の出番は完全終了なので、覚えた先から忘れても鑑賞するのに何ら問題は無い。
わざわざこんなところで彼を出した意味が有るのだろうか、明らかにないと思うのだが。またしてもズレたファンサービスなのだろうか。
どうかこのアニメには登場しないで欲しいと願っていたファンが存在することも納得の扱いの酷さであった。
隠す必要もないのでそのまま補足するが、原作での彼は本来物語序盤で仲間になる崑崙の道士である。
上述した「文王・姫昌の子」だが「崑崙の道士」でもあるという設定は、人間を国家によって支配する道士・聞仲を糾弾する展開にそぐわない微妙な立場であり、それゆえか原作の仙界大戦編では不自然な不参戦扱いを受けてしまっていたが(というかその前の趙公明編から写ってなかったが)、後述のように覇穹の太公望は「仙道がいない人間界を作る」という目的など別に大事ではなかったようなので、彼をバリバリ活躍させても別に良かったのではないだろうか。
─私が取り戻したかったのは飛虎がいた殷なのだ
魂魄となって、禁城の玉座に力なく腰掛ける紂王に、『殷の親』として最後の挨拶をしに来る聞仲。
だが玉座の紂王は妲己による改造の影響で(あるいは改造の効果が消えたことにより)老いて衰弱しており、明らかに異常な状態である。
周囲にも彼を助けるものは誰もおらず、殷も崩壊寸前であることが見て取れる。
仙界大戦前の6話Bパートで、聞仲が出撃前の挨拶をしに向かったときの紂王は健康そのもので「予が元気では不満か?」と冗談を言うほどだったのだが、久し振りに再会した今回は見る影も無いほど一気にやつれてしまっているのに、聞仲の表情には驚きも悲しみも見られない。まさか本当に元気なのが不満だったのだろうか?
読者諸君も想像して欲しい。自身の両親とお互い元気なまま別れたが、数週間か数ヶ月間程度を経て次に会ったときに子の自分が髪は真っ白、皮膚も皺だらけに変わり果てた姿になっていたとすれば、もし日頃から仲が良好でなかったとしてもそれなりの心配はしてくれるのが常識的な親の人情であろう。
制作スタッフは、子供がここまで変貌していても親は何の反応も示さないことがあり得る、とでも考えているのだろうか。
想像を絶する鈍感か、或いは冷血なのか。どちらにせよ正気の沙汰とは思えない場面である。

その後亡き朱子と再会するのだが、ここで衝撃の台詞が。
─出来るだけのことはしたよ
なんと聞仲は自分の行いに満足しているというではないか。
君主たる紂王が、体調が急変したり記憶がなくなっていたりで様子がおかしかったにも関わらず大戦を開始し、進軍する周軍すら放置しておいてである。
最初の台詞とあいまって、飛虎がいないのであれば殷や紂王のことなど最早どうでもいいかのような言い草である。
殷の父親がこのありさま、紂王もこのアニメではただの無能なのだから、殷の崩壊も無理なきことだろう。
聞仲を倒した後、楊戩に「しばらく一人にしてほしい」と告げ、仙界大戦にて払ったあまりに大きすぎる犠牲を思い一人涙を流す太公望。
そのシーンのままAパート終了。
そしてBパート開始早々にスープーが発する台詞が次のようになっている。
あれ以来、ご主人はいなくなったっスこのページの最初の項の通り今回はあまりに酷い時系列飛ばしがあった為、このアニメにおける「あれ以来」というのは一体いつのことなのかは制作スタッフにしか分からないところではある。
あるのだが、これを素直に仙界大戦直後だと捉えると、太公望は仙界大戦後、同じように戦い傷付いた皆に戦後の処理や残った敵等々を全てぶん投げて逃げた無責任主人公にしか見えない流れになっている。
或いは、仙界大戦で受けた余りに大きなストレスによって心を病み失踪したとも取れるだろうか。
ましてや、雲霄三姉妹が金鰲島から脱出した妖怪たちを率いる場面では、
ビーナス「ようがすかあなた達! 人間界で生活するためには人間の掟に従うべきです。先ず第一に、人間を食べてはいけません。」という訓示を述べている。つまり明らかに妖怪仙人たちは人間界で生活しようとしているのだ。そのことについて、その場に紛れ込んでいる太公望を含め誰かが異を唱える様子も見受けられない。
加えて崑崙山も金鰲島も墜落したままの現状では、竜吉公主、楊戩、太乙真人たちの居場所も人間界のどこかとしか推測できない。特に、貴族の館の一室らしき場所で机に木簡を広げ、かつての聞仲のようなデスクワークをしている楊戩は、周国の政治に参加しているようにさえ見える。
しかし太公望の目的は「仙人や道士のいない人間界を作る」ことではなかったのか?これが彼の戦う動機なのだと12話冒頭などで何度も繰り返し主張されてきたような気がするが、どうでも良くなってしまったのだろうか。
一応、およそ2分後のシーンでは申公豹が太公望に「人間界を仙人たちから開放してどうするつもりなのですか?」と既成事実のように語りかけるが、上述のビーナスや楊戩たち仙人すべてが人間界から去ったらしき描写は挟まれない。
一応聞仲は倒したとはいえ、人間界がそれだけで仙道から開放されたと言えるような状況ではなかったことはこのアニメを見ただけでもよくわかるはずだ。殷を退廃させた妲己一味や「人間界の真の支配者」こと聞仲が排除されても、取って代わった周の方にも仙道が巣食っているのでは支配構造が何も変わらない。
このままでは周が殷を滅ぼしても殷の時代と同じようなことが繰り返されかねないような現状である。
当然ながら、原作ではそのようなことは一切ない。
この太公望失踪のくだりは原作では最終決戦が終わった後のことであり、それまでに太公望はほとんど文字通りその身を粉にして働き続けていたのである。
また金鰲島の妖怪仙人たちが人間界で生活するのも仙界大戦直後の一時的なもので、物語の終わりにはきちんと人間界の外に彼らの居場所を与えている(詳細は下記)。
上の聞仲の台詞ではないが、本来は自分が出来るだけのことは全てやって、その後を然るべき者たちに託しての失踪であったのだ。
毎度のごとくいつの間にか話が進み、申公豹の回想として、地球と融合しようとする妲己の様子が描かれる。
どうやらこの地球との融合が彼女の真の目的だったことと、女媧の手下となって活動していた理由が本人の口から併せて語られるのだが、
もともと女媧もこの星と融合するはずだったわぁん♡ だったらわらわが女媧を乗っ取って、代わりにそうしても不都合は無いでしょぉん?どうやら本作の真のラスボスと思われていた女媧は、いつの間にか妲己ひとりの手によって倒されて(乗っ取られて)しまったらしい。……えっ、マジで?
一応「乗っ取った」とは言うが、その姿は従来の妲己の姿のままなので具体的に何をどうしてこうなったのかは不明瞭である。原作では「女媧の肉体を乗っ取った」なので、もしかしたら女媧本体はどこかで生きているのかもしれないが、それはそれで問題だろう。
ネットの一部には、「前回22話ラストでの女媧の描写が、妲己が女媧を乗っ取ろうとしている最中のものだった」と強引に解釈する意見もあるようだが、それが正解だとしても結局この最終話後半の支離滅裂ぶりを説明出来るわけではない。
妲己に付き従っていた王貴人と胡喜媚の妹二名も最終話では出番無し。姉に置き去りにされた後でどうなったかは語られなかった。上記の雷震子よりこちらを映した方が、これまでの話を畳むためという点で意味が大きかったはずだ。
しかし仮に妲己ひとりで女媧に勝ってしまったというなら、王奕や元始天尊らが数千年前から周到に準備し、王天君が魂を割られて苦しみ、太公望が故郷を喪う悲しみや理想と現実の狭間で葛藤しながら進めてきた封神計画には一体何の意味があったのか?ついでに燃燈道人は何をするために登場したのか。
更に、前回22話で王奕が語った「7つのスーパー宝貝と、その使い手7名が集まったとき女媧は滅びる。」という予言も全く意味の無い展開になってしまった。
そもそも妲己の真の力が一人で女媧を打倒できるほどの凄まじさであったなら、王奕も元始天尊も封神計画などという回りくどい計画を立てるより、はじめから、あるいは途中からでも妲己と直接組んで女媧を倒す計画を別に始めた方が効率的であっただろう。
両者の主義や内面に関して譲れないものがあったとしても、明確な利害の一致があることや、女媧という存在の大きさを考慮すればそちらの方が遥かにスマートだ。

このページへのコメント
仙界伝は割と良かったけど覇弓はロゴマークの時点で見ないわ……と思っていたら想像以上に酷かったらしい。
(明朝体の意味が分からない)
こんなwiki作る程の時間無駄にした視聴者の皆様方ご愁傷様です。
覇穹じゃなくて破綻 封神演義だったってことね(はしかあってない)
一応アニメも全話視聴済だがこのwikiはSAN値こそガリガリ削られたものの少なくとも本編よりは面白かった。これもまた作品のひとつの楽しみ方とも言えるかも。本当に悲惨なのは誰の記憶にも残らない空気系だろうし
なにはともあれ記事作成者さんたち乙でありました
遅リプすまんね
外国からのお気持ち案件で頭下げて臭い物に蓋で削除するような出版社に作品を守る気概を期待したらあかん
度重なるカットにより太公望の自力封神0で終わってて笑っちゃった。
うわぁ・・・「観なくて良かった」と心の底から思えるようなアニメだったんだな
30分×23話=690分=11時間半もの時間を無駄にした視聴者がかわいそう
そして2度目のアニメ化でこんなゴミを作られた作者が不憫でならん