最終更新:
gurugurian 2014年01月16日(木) 05:32:08履歴
慰安婦の多くは行動の自由がなく、厳しく監視されていた
「日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」という、ビルマで米軍が捕虜にした慰安婦や慰安所を経営する業者への尋問をまとめた文書には「彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒に スポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会にも出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、 街では買い物に出かけることが許されていた」と記されています。この記述をもって「慰安婦の暮らしは悲惨ではなかった」というのは早計でしょう。
別の項で見たように、一口に慰安婦、慰安所と言っても境遇や形態は様々でした。占領地でかつ都市部であった「尋問報告」の例のように、比較的「まし」な状況もあったでしょう。しかし多くの慰安所では慰安婦の外出は厳しく制限されていました。たとえばフィリピンのイロイロ市にあった慰安所の規定では慰安婦の外出を「厳重取締」すべきとされ、時間も範囲も決められていました。また、占領地で連行されて慰安婦にさせられた女性の場合、全くの監禁状態で外出すら許されないケースが普通です。
そもそも、「尋問報告」にある「楽しく」という記述がどれだけ実態を反映しているか、という点も疑問です。彼女たちは主体的にそうした行事に参加したわけではなく、将兵の「お供」として参加していた(させられていた)に過ぎません。これがどれくらい「楽しい」かは、たとえば現代、上司のゴルフや接待に「お供」させられる部下のサラリーマンが、どれだけ「楽しい」かを考えてみればある程度は想像できるのではないかと思います。
「日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」という、ビルマで米軍が捕虜にした慰安婦や慰安所を経営する業者への尋問をまとめた文書には「彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒に スポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会にも出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、 街では買い物に出かけることが許されていた」と記されています。この記述をもって「慰安婦の暮らしは悲惨ではなかった」というのは早計でしょう。
別の項で見たように、一口に慰安婦、慰安所と言っても境遇や形態は様々でした。占領地でかつ都市部であった「尋問報告」の例のように、比較的「まし」な状況もあったでしょう。しかし多くの慰安所では慰安婦の外出は厳しく制限されていました。たとえばフィリピンのイロイロ市にあった慰安所の規定では慰安婦の外出を「厳重取締」すべきとされ、時間も範囲も決められていました。また、占領地で連行されて慰安婦にさせられた女性の場合、全くの監禁状態で外出すら許されないケースが普通です。
そもそも、「尋問報告」にある「楽しく」という記述がどれだけ実態を反映しているか、という点も疑問です。彼女たちは主体的にそうした行事に参加したわけではなく、将兵の「お供」として参加していた(させられていた)に過ぎません。これがどれくらい「楽しい」かは、たとえば現代、上司のゴルフや接待に「お供」させられる部下のサラリーマンが、どれだけ「楽しい」かを考えてみればある程度は想像できるのではないかと思います。
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