エスペラント語の修正版として開発された人工言語、国際補助語です。

ベブソンの後振り:

この項の前の動詞の所に書き切れなかった後振りの部分を、ここに勝手に突っ込んで少し記述して行きたいと思います。これは、ボーフロン氏の文法ではありませんので、可能であれば無視して下さい。

実は私も常々感じていたのですが、....
講談社選書メチエ 『日本語に主語はいらない』百年の誤謬を正す 金谷武洋 著 なんです。
文の一番最後に来る動詞が一番大事であって、あとのモノは全て補語なんです。主語だって補語なんです。ですから、日本人は主語が無い事に関して違和感がありません。指摘されれば、『あっ、そうそう!』と言って補うだけの事なんですね。
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参考:また、日本語には、「迷惑の受動態」 というものがあります。例えば:
  1.親父に死なれた。
  2.雨に降られた。
を挙げることができます。「死ぬ」 も 「降る」 も自動詞ですから、英語であれば、これらは受動態にはなりません。しかし、日本語では受動態になるのです。さらに、日本語にはもともと 「主語なるもの」 が存在しませんから、能動態の目的語を主語とし、主語を副詞句 (by + 主語) とすることにより成立する英語の受動態は、日本語話者にとって本来的に極めて捉えにくい事象と云えるでしょう。
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欧米人にはこの感覚は全くありません。主語があって、その次にその主語にお仕えする動詞が来るのですね。舞台での主役と動詞の次に来る脇役で芝居が成り立っております。ですから、主語無し文なんて考えられません。例えばスペイン人やイタリア人が『私が話す』と言う時に、
(西) Yo hablo (伊) Io parlo とゆうんですけれども、時に主語を省いて、(西) Hablo (伊) Parlo と言う事もあります。でも、これは主語が省かれているのではなくて、主語が動詞の中にめり込んでいるだけなんです。主語の意識から逃れられないんです。

前の課の例文を解説すると

A. Nececas lernar da ni la Portugala multe. ベブソン
B. La Portugala nececas lernESsar multe da ni. 伊藤氏

Aは『我々、日系ブラジル人は葡語を沢山学ばないとダメだよ!』
Bは『葡語は非常に大切だから、うんと勉強しなくちゃダメだよ。例えば我々も!』と言っているんです。日系ブラジル人だろうが何人だろうが、葡語の偉大さを協調しているのです。
伊藤氏の数学脳では、上の二つの分は論理的に同じじゃないかと考えるのですが、欧米人にとっては、主語が『我々』かまたは『葡語』かでは意識として全然別なモノなのですね。英語でも能動態と受動態を習って、互いに変換せよなんて問題がでるのですが、数学的論理的には変換可能でも、欧米人の意識としては全然別なモノになります。受動態の時には元の目的語が主語になるのですから、こちらが元の主役を倒して新しい主役になるのです。舞台のライトは今度は、新しい主役に当たるのです。元の主役は脇役に回るのですね。一方、日本語では舞台はそこに何らかの状況があれば、成り立つので、誰が主役だろうと脇役だろうと、見方を変えればシーンも変わるので、それも一興だろうとゆう所です。

伊藤氏の疑問 da de di :

「ベブソンのチャチャ:時制不定詞」の例文で、「Nececas lernar da ni la Portugala multe.」の前置詞「da」の使い方がいまいち、わかりません。「da」は行為者や作者を表しますが、受動態動詞の補語として使われるのが一般的ですね。ですから、「Nececas lernesar da ni la Portugala multe.」となるのでは?

練達のエスペランティストである伊藤氏から、この疑問がでるのは当然です。だって da de di は同じ一族、三兄弟なんですが、エスペラント家では一人っ子の de しかいません。兄弟の微妙な性格の違いに想像が及びません。この三兄弟の本質は全て後ろに来る語が発生源であり、エスペラントでも de の後に来る語が発生源であるのは同じです。前に来る語 <−(da, de, di) 後ろに来る語

da: 後ろに来る語が本当の主語、主体者、動作の行い手、主役である事を表しております。

lernar da ni 私達が学ぶ (舞台上で、ライトは私達に当てられている。)
lernESsar da ni 私達によって主語(主役)が学ばれる (ライトは主役の何かに当てられている)

伊藤氏の Nececas lernesar da ni la Portugala multe. 文法的完全な受け身文(受動態)主役は? 勿論、葡語です。
ベブソンの Nececas lernar da ni la Portugala multe. 無主語文に見える、実質は ni が主語の文。
敢えて訳せば、我々に依る勉強を必要としている。何の勉強? 沢山の葡語勉強。 Ni devas lernar と変わりない。 

de: 後ろに来る語は材料、原因、出発地等、英語の from とほぼ同じです。エスペラント語では受身の後にも、仮主語を表すのにこれを使う。
di: 後ろに来る語は、前の語の持ち主です。例外的に前の語の動作結果を後ろの語で表す事もあります。
つまり di だけは、前に来る語 (di)ー> 後ろに来る語となる事があります。

さらにシツコク続きます。....

ベブソンの解説

daも deも diも 後ろに来る名詞が主体であり、前に来る名詞は、その客体です。 例えば.....

amo da la matro = la matro amas ..... 母が愛している (行為者を表す)
amo de la matro = la matro donas amo a ..... 母から愛が流れている (流れの源を表す)
amo di la matro = la matro havas amo a ..... 母がその愛を所有している (所有者を表す)
pekunio di la matro = la matro havas pekunio 母が所有しているお金 (所有者を表す)

ですから、daも deも diも 後ろから前に流れる矢印です。<−−−
所が、最後の diだけは矢印を前から後ろに流す事が可能なのです。−−−>

lernado di matematiko 数学の学習 :(不明な主体)+動作(名詞)+di+客体 となっておりますね。
元に戻って....

pleado da Petrus ピーターによる演奏 <−−−
pleado de radiofono ラジオから聞こえて来る演奏 <−−−
pleado di Petrus ピーターが持っている(CD)の演奏 <−−− 
pleado di violino バイオリンの演奏 −−−> バイオリンが所有している演奏ではありません。

最後の pleado di violino バイオリンの演奏 −−−> で矢印が反転した時に、私は
pleado din violino とゆう表現をして矢印の反転を明確にしています。
din が現れたら次は主体ではなく、客体である訳です。
ベブソンの発明ですが、支持者が増えるかどうかですね。(:−P

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