実は、日本人の中には、この最後の1デナリを持っている方達が大勢居らっしゃいますが、西欧人の殆どは、ナスレッディンの様に、最後の1デナリを手に入れる事ができないのです。日本人からその方法を教えて貰おうと、ユダヤ人のモイシェが宿無し興道禅師に質問したのです。
ユダヤ人の様に抑圧されて来た民族は特にそうですが、西欧人は長い動乱(殺し合い)の中で生き残った人間ですから、固くしっかりした自己を確立していないと攻撃を防ぐ事ができない体質です。現代になって殺し合いこそ少なくなっていますが、西欧社会は今でも厳しい階級社会で、庶民は常に支配者階級から搾取され苛められて参りましたから、少しでも強い自己を持っておりませんと社会を無事に渡れずに直ぐに溺れて(脱落して)しまいます。(弱い人間はこの緊張感から逃れる為に麻薬に手を出す人間が多いのです。)カニが甲羅を作る様なモノなんですね。甲羅が作れない人間は、他の人間の餌食なんです。さて、立派な甲羅を作れれば、生存への第一歩です。
でも、この甲羅は、人間を中に閉じ込めて成長させない呪いでもあります。甲羅無しで他人の餌食になるか、硬い甲羅を得て内部に閉じ込められてしまうか?どちらかを選ばざるを得ません。でも今生き延びている西欧人は甲羅人種の末裔なのです。
ここに例外的人種がおります。日本人なんです。島国の巨大壁に守られて、甲羅が無くても生きられる特異体質になってしまいました。イカやタコみたいな感じですかね?自分を閉じ込める硬い甲羅自己がありませんから、如何様にも手足を伸ばして成長する事ができます。でも、敵が侵入したら、あっとゆう間に食べられてしまいますがね。それなのに、宿無し興道禅師はユダヤ人のモイシェに向かって、『甲羅を破りなさい(死になさい)、でないと最後の1デナリを受け取れないよ!人生が完成しないよ!』と無理難題を仰っているのですね。
如何して?
西欧人の子供達は学校教育で自分達を守る為の甲羅を作る事を習います。しっかりと個性を確立する為の教育なんですね。反対に、日本の子供達が偶々自分の甲羅を作ろうとしますと、学校では大概禁止される事になります。『他の皆と同じ様にしないと駄目じゃない!』
その様な教育で育った日本人が大人になると、西欧人から見ますと驚異的な(有り得ない〜!)人種になるのですね。
レストランにて、会社員のグループを観察:
『今日の昼食は何にする?』
『オレは、ラーメン!』
『それじゃ、オレも!』
『ボクも右に同じ。』等、等、、、、。
私は、こんな光景は日本以外では見た事がありません。
次の光景も日本以外では有り得ないでしょう?違いまっか?
私が、この講座で最初からシツコクお話して来ました様に、人間は脳コンピュータを持った動物です。
個々の脳コンピュータの性能には色々格差があります。性能の良い脳コンピュータを持った個人がこの世の中では有利なのは言うまでもありません。
ところが、宿無し興道禅師は、コンピュータも無い昔の時代に、『個々ののコンピュータの性能など関係ない。コンピュータはクラウドに繋いでこそ、真の性能が出るのだよ。』と仰っているのです。本当に凄い方ですね。
コンピュータはクラウドに繋ぐ為には、甲羅を破りなさい(死になさい)、そしてクラウドに繋ぎなさい。
そうすると、脳コンピュータは恐ろしい力を持ちます。
その為には、己のちっぽけな脳コンピュータを隔離保護するのではなく、隣のコンピュータと自分のコンピュータを繋ぐ事から訓練をしなさい。そして最後は自分の小さなコンピュータが大きなクラウドと一体化できる様にがんばりなさい。分かるかな?
こんな事を日本人社会は昔からやって来たのです。恐ろしい人種ですね。
日本人の宿無し興道禅師は
『人間は実はクラウドとゆう全能にも見える宇宙コンピュータの世界から分離された独立コンピュータなのだ。
この世界で自我とゆう小さなコンピュータで機械の使い方を学んだらなば、
スーパーコンピュータに戻る為にクラウドに繋ぐ事を覚えなさい。』
と仰っております。
しかし、ここで厚かましさ満載のモイシェはまさに大変厚かましく口答えして、自らの師匠に問う。
『でも、師匠!それじゃ何故クラウドは、個々のコンピュータを分離する様な事をしたのですか?
クラウドのままで良かったじゃないですか?何故、人間達に分離したコンピュータを与えたのですか?
そんな事をしたのが神様だったとしたら、神様は酷い奴じゃないですか?』
その時、彼の禅の師匠、宿無し興道禅師が、大笑いして答えて言うには、
『ハハハッ!モイシェ、君の神様もその宇宙の道具であるクラウドもマダマダ完全ではないのだよ。
完全とゆう事はもうこれ以上成長がありませんとゆう意味。絶え間ない成長が宇宙の本質なんだね。
神様も今のクラウドの性能をもっともっと高めたいんだよ。そこで、クラウドから時々、個々の
コンピュータを分離して人間達に配っているのさ。だから人間の目的は、その脳コンピュータの性能を
磨く事なんだ。そして十分に磨いたらそれをクラウドに戻してあげると、クラウドの性能が高まるし、
クラウドに接続された、その人間の脳コンピュータの性能も飛躍的に高まるんだね。
日本人の脳コンピュータは、もうクラウドに繋いでも良い程、ある意味、熟成されているとも言えるんだ。
勿論、残念ながら全ての日本人ではないのだが。でも、未だ訓練中の西欧人の脳コンピュータと比較すると
レベルは高いと言って良い。君はユダヤ人の中でも例外的に日本人に近付いているけれどもね。(:−P 』
私も、私の遠い親戚であるモイシェのお陰で、宿無し興道禅師から有難いお話を聞く事ができました。
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今度は、伊藤氏に翻訳されない様に新たなお話を一つ。Ido for All では17課の最後にありますが、
そちらは、また別の話に差し替えましょう。
La Evangelio da Tomas
Sri Idisti: Dao helpas des'metar da vi' via multa ma falsa maskili.
Olim Sro Petro TOTTEN skribis a me quale ...
Me trovis interesiva verso en Evangelio
qua esis bruligita dal Romana Imperiestro Konstantino en la yaro 367,
ma trovita en Egiptiana dezerto pos la dua mondo-milito.
La Evangelio da Tomas, verso 37:
Lua dicipuli (dicipulULo, dicipulINo, dicipulI :=: gedicipuli) dicis:
"Kande tu aparos a ni, e kande ni vidos tu?"
Iesu dicis:
"Kande vi desvestizesos e ma ne embarasesos,
E vi prenos via vesti e pozos oli sub via pedi quale mikra kindi*,
E vi surpazos oli,
Lore vi vidos la Filio dil Vivanto e ne timos."
Segun mea lontana parento, Moyshe Yehuda HOCHFELD:
La Evangelio da Tomas havas multa komuna idei kun Zen e pluse Daoismo.
Kande kindo, onu facile des'metas sua vesti e per oli mem vishas la pedi,
nam l'adulti cirkume sempre regardas e protektas lu quankam nuda..
Kande adulto, lu ne facile des'metas la vesti kom protektilo ne'kareebla,
nam lu devas ipse protektar su kontre irga danjero quala bestii.
Sen vesto/armo/maskilo la mondo esus tro kolda por la mento di l'adulti..
Do li volunte lernas metar kom sua maskilo: rango, pekunio, titulo edc.
la homo ne savas qua lu fakte esas, e saveskas lo nur che sua morto.
"Nun me morteskas, me savabas ke mea vesti ne esas me. Qua vere esas me?"
Kungfuisti savas ke li devas luktar sen pistolo ma nur per sua nuda manui
por renkontrar su ipsa en la mezo di batalio tra vera danjero, nur quo
montras lia esenco: "Qua o Quo esas me, pos ke mea vesto esas fore?"
Tra vera danjero onu renkontras sua esenco. Sen danjero onu lernas nulo.
Iesu forsan dicabus en la evangelio da Tomas, verso 37.....
"Kande vi hazarde des'vestizesos e tamen sentas sekureso,
do vi prenos via vesti e pozos oli sub via pedi kom via ludilo,
nam vi mis'komprenabas ke la vesti/maskili esas vi ipsa,......
Lore vi vidos via esenco en l'Universo e ne pluse timos irga maskili."
Dume Bebson dicas kom Idiotisto....
"Kande me esas nuda, me deziras balnesar en kuraciva minerala fonto,
e me povez bone sentar la varmeso di la tota mondo, dicante ...
'Ups! Co (hike) esas mondala cielo!'."
A multa Ideologiisti, religiozi e pluse forsan a Sro David MANN:
Kande onu sucesas des'metar sua maskilo kom Yudismo, Kristanismo, Islamo,
Budhismo edc., lu do lore povas senteskar la varmeso di la tota universo.
Ka vi en via vera esenco esas Cionisto, Katoliko, Mohamedisto, Bonzo edc?