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|>|&align(center){&size(25){''フランス国''}~~&size(15){''État français''}}|
|&align(center){&ref(https://image02.seesaawiki.jp/i/o/instanto/1fe5f300455518f4.png)}|&align(center){&ref(https://image02.seesaawiki.jp/i/o/instanto/effab38312e352d8.png)}|
|&align(center){''(国旗)''}|&align(center){''(国章)''}|
|首都|ヴィシー|
|公用語|フランス語|
|国歌|''La Marseillaise''(フランス語)(公式)~~'''ラ・マルセイエーズ'''~~&audio(https://image01.seesaawiki.jp/i/o/instanto/21214e415a151b65.mp3)~~''Maréchal, nous voilà!''(フランス語)(非公式)~~'''元帥よ、我らここにあり!'''~~&audio(https://image02.seesaawiki.jp/i/o/instanto/05f60c58fd6c582a.)|
|標語|''Travail, famille, patrie''(フランス語)~~'''勤労、家族、祖国'''|
|通貨|フランス・フラン|
|>|&align(center){&ref(https://image02.seesaawiki.jp/i/o/instanto/cabb41b473a8ac50.png)}|
|>|&align(center){''変遷''}|
|1939年|第二次世界大戦|
|1940年|フランス降伏|
|^|講和、北仏失陥|

フランス国は、ヨーロッパに位置する独裁制国家。首都はヴィシー。
*概要
フランス国(フランス語:État français)は、フランス降伏で成立した独裁制国家。
**隣接している国家
ドイツ国、スペイン国、イタリア社会共和国、リベリア、イギリス、ポルトガル共和国。
*歴史
**成立まで
1939年、フランスはイギリスと共に[[ドイツ>ドイツ国]]に対して宣戦布告した。
だが、ドイツはアルデンヌの森を突破してフランス北部から電撃戦で突破した。英仏連合軍はこれに対応できずに敗走、ダンケルクで撤退を行おうとするもドイツ空軍の猛爆撃により脱出に失敗、英仏連合軍は殲滅された。
パリは無防備都市を宣言し、ドイツ国防軍はパリを占領しフランス共和国は降伏した。これにより独仏休戦協定が結ばれ、フランス北部は臨時的に国防軍占領下に入ることになった。
また、地中海においてもドイツの降下猟兵がジブラルタル、マルタを占領した上、[[ソビエト連邦]]がドイツ側として参戦したため、英国は本土陥落前に講和を打診した。
結果として、パリ条約によって、フランス北部はドイツに割譲されることになった上、フランスは南部ヴィシーへの遷都と軍備制限、莫大な賠償金((1000億ライヒスマルク))を迫られた。
フランス国の建国は臨時政府設置の独仏休戦協定からとする説と、パリ条約の発行からとする説がある。フランス国政府は独仏休戦協定を建国記念日、パリ条約を終戦記念日と定めている。
***パリ条約への抵抗運動
パリ条約では軍備制限が15万人、賠償金1000億マルク、またフランスのドイツ国境の非武装、そしてフランス北部のドイツへの'''併合'''が決定された。賠償金と軍備制限に関してはヴェルサイユ条約よりも軽いのだが、北部フランスを失陥した場合、フランスは支払い能力を喪失((元より、フランスに1000億マルクも払う支払い能力はない))するため、南仏では激しい抗議運動が巻き起こった。
北仏ではドイツ国防軍が監視しているため抗議運動は不可能だったが、南仏は'''「Zone libre」'''としてドイツ国防軍はフランス国政府による要請を受けない限り侵入できなくなっていた。
リヨンやヴィシーでは激しい抵抗運動が巻き起こった。ヴィシーにおける警官隊と民衆の衝突は次第に過激化し、民衆は政府首班のいるホテルに火炎瓶を投げ込む始末であった。
政府は最初は流血を阻止するよう警官隊に命じていたが、火炎瓶が自分たちのいるホテルに投げ込まれるようになると態度を変え、警官隊に発砲してでも暴徒を鎮圧するよう命令した。
警官隊が発砲するとヴィシーの大通りは赤く染まった。流血の末にパリ条約の抵抗運動は鎮圧されたが、警官隊側も甚大な被害を受けていた。
**強まるドイツの支配
ドイツは1948年になると、ドイツ軍の南仏駐留をフランス政府に要求した。フランスはその要求を断ることはできず、北仏だけでなく南仏も実質的にドイツに支配されることになった。
ドイツ軍の南仏駐留決定の後、ヴィシー・リヨン・ボルドーの3都市ではドイツ軍の駐留に対する激しい抵抗運動が起こった。ヴィシー市内に入ったドイツ軍は民衆による投石に晒され負傷者を出したため、ドイツ軍が市民に対し発砲し、合計で死者8名、負傷者23名を出す惨事となった。リヨン・ボルドーでも同様の事件が発生した。
**ドイツ支配と傀儡政権への抵抗運動
その後も駐留ドイツ軍に対する抵抗運動が続き、ドイツ軍に負傷者が出たことから、ドイツ軍は3都市への進駐を計画する様になった。進駐はフランス政府の制止により実行されなかったが、ドイツによる本格介入の理由を与えないため、フランス警官隊をヴィシー市に突入させ、投石を行う民衆に銃撃を浴びせ、死者26名負傷者122名の大惨事となった。このことがフランス中に伝わるとフランス政府への抗議運動が激化し、1949年2月16日、ドイツ軍軍政下のパリでは学生らが'''"Vive de Gaulle et la France libre!"'''と叫びながらパリ市内を行進した。現地ドイツ軍が到着するまでに学生主導のデモ隊は1200人までに人数を増加させていた。
パリ市内のドイツ軍は300人強ほどしかいなかったため、ドイツ軍は武力鎮圧を諦め、その日はシャンゼリゼのデモ行進は黙認された。
***血に染まるシャンゼリゼ
翌日2月17日、学生らは再びパリ市内をデモ行進した。12時ごろ、デモ隊がシャンゼリゼ通りに差し掛かった頃、1000人近いドイツ軍兵士がデモ隊を待ち受けていた。ドイツ軍はデモ隊に発砲し、死者106名を出した。デモ隊はこれに火炎瓶で応戦し、ドイツ軍は
ドイツは1948年になると、国防軍の南仏駐留をフランス政府に要求した。フランスはその要求を断ることはできず、北仏だけでなく南仏も実質的にドイツに支配されることになった。
*産業
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