昭和14年結成。
昭和20年、終戦に際して影山庄平塾長代行ら14人が自決。
大東塾十四烈士
清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ
昭和二十年八月十五日終戦の大詔を拝し、全日本は悲歎の涙にくれた。この時塾に於いては次に掲げる 〈自刃の概要〉にあるごとく、公的責任のつゆいささかもないのにもかかはらず、ただ「天皇陛下に申し訳なし」として、この上に死して護国の鬼となり、祖国を御護りしようと誓願して一行十四名莞爾として自刃殉難せり。
(参考:烈士の面影 大東塾発行)
- 御芳名と享年
影山 庄平(60)
野村 辰夫(30)
牧野 晴雄(31)
藤原 正志(33)
鬼山 保(28)
芦田 林宏(30)
東山 利一(26)
棚谷 寛(24)
野村 辰嗣(18)
福本美代治(40)
吉野 康夫(23)
津村 満好(22)
村岡 朝夫(29)
野崎 欽一(22)
昭和21年、GHQにより解散を命じられる。
昭和29年再建。
昭和54年、影山正治塾長が大東農場において元号法制定を願い自決。
自刃の詳細
右翼の大物 散弾銃自殺 戦前からの指導者 影山大東塾長 元号法制化求め 東京
戦前の右翼クーデター・神兵隊事件(昭和八年)などにも関連したことのある正統派右翼の大物「大東塾」の影山正治塾長(六八)が二十五日朝、同塾のある東京都青梅市の大東農場で散弾銃自殺した。
死体のそばには元号法案の成立を望む遺書が見つかった。二十五日は建武二年、楠木正成が湊川(現兵庫県)決戦で敗死した日に当たり、警視庁公安部などでは元号法案の成立を期してこの日を選んで自殺したのではないかとみている。
同日午前十時半ごろ、青梅市今井五ノ二四二〇ノ七〇ノ大東塾から「影山塾長が自殺した」と一一〇番があった。
警視庁公安部、青梅署の調べによると、影山塾長は同農場北側の大東神社(今年四月落成)付近の杉林の中で短刀で割腹した後、二連発散弾銃の銃口を胸に当て、弾丸を一発撃ってあお向けになって死んでいた。
同塾長は白装束、黒紋付と紺のハカマの正装で、左足元に白ザヤの短刀が手ぬぐいの上に置いてあった。
また右足元には色紙三枚に毛筆で書いた遺書三通が見つかった。一通は「一死をもって元号法制化の実現を熱祷しまつる」と元号法案の成立を願う内容だった。
他の二通は
「民族の本(もと)つ 命のふるさとへ はやはやかへれ戦後日本よ」
「身一つをみず玉串をささげまつり 御代を礼らん みたまらとともに」
(いずれも原文のまま)
と戦前の民族主義や天皇制への回帰願望がうたってあった。
影山塾長は二十四日夜、大東神社の社務所に一人で泊まった。大東塾では五月二十五日に楠木正成を祭る楠公祭を毎年開いており、この日塾長が見つからないため塾生らが捜していた。
影山塾長は昭和十四年四月、大東塾を創設した。戦後、同塾が解散させられたため「不二歌道会」を主催したが、二十九年同塾を再建、両方の責任者として古事記の神代の巻を原点にした「日本再建三十年案」を基に、戦前右翼の系統を引く正統右翼として活動を続けてきた。
昭和54年5月26日(土曜日)付 山陰中央新報より
平成13年、鈴木正男代表が大東農場において自決。
戦前・戦後と一貫して建国の精神に基づく維新断行を掲げ、生命奉還を信条とする皇道主義団体。
なお
不二歌道会は同一団体。
- 綱領
一、大東とは即ち大統世界の謂ひなり。吾人は皇道に依る大統世界の実現を期す。
一、大東とは即ち大東洋維新の謂ひなり。吾人は全世界大統の根基たる大東洋維新の実現を期す。
一、大東とは即ち大東国日本の謂ひなり。吾人は神命に基く道の国、光の国大東国日本の実現を期す。
- 塾誓
一、骨肉を刻みて以て自己維新の透徹に勇猛し、赤心を傾けて以て一族勤皇の顕現に尽瘁せむ。
一、念々の勤皇を積みて以て無窮の勤皇に生死し、一族勤皇の根基として以て勤皇村の成就に邁進せむ。
一、厚く剣魂を琢磨して以て奉還の一道に徹し、深く歌心を清澄して以て帰一の一念に住せむ。
一、随神の大道に則して以て攘夷の大事に奮励し、尊皇の大義に基いて以て討幕の大典に従事せむ。
一、神勅を奉じて神明維新の事に挺身し、聖勅を拝して以て聖業貫徹の道に殉難せむ。