前史
昭和35年、安保闘争が高揚する最中、米大統領訪日に当たり暴力団(任侠団体)や右翼を動員し警察の警備力の不足を補完させようと自民党と児玉誉士夫(全日本愛国者団体会議最高顧問)らが画策した事をきっかけとして、全国で任侠右翼(暴力団が配下に右翼を結成させる、または暴力団自体が右翼の看板を掲げる等)が簇出した。
そうした中で大阪の暴力団南道会系白神組(組長・白神英雄。後に八紘会会長)も、豊田一夫(殉国青年隊総隊長)の紹介により、星井真澄(愛国戦線社代表)、畑時夫(民論社?会長)ら関西の右翼重鎮の指導・後見を得て、同年に日本青年党を結成した。その活動に稲本虎翁(当時白神組若頭)も加わっていたとされる。
なお後に白神組が山口組系列となった際、田岡一雄(三代目山口組組長)に暴力団と右翼団体の“二足のわらじ”を禁じられ、日本青年党は解散となった。
結成
その後、組を抜けた稲本虎翁が再び右翼活動を志し、かつて指導を仰いだ畑時夫の元を訪れた。畑は稲本に対し企業回りによる資金集めの禁止等3つの条件を出し、守れるならばと応援する事を約束した。
また畑は「天皇の赤子であるとの自覚で天皇を守護するのが〈皇民〉」 と説き、日本皇民党の名付け親ともなった。
昭和47年に稲本を総裁として創設されてからは、「教育の正常化」と「北方領土返還」を運動の二本柱として、大阪、愛知、福岡、石川、愛媛等7府県に10支部を置き(後には東京、熊本にも置かれ、また国士舎、聖哲義塾等の下部組織も設立された)、全国で活動を繰り広げた他、関西、四国、中国、九州の右翼団体を糾合し西日本獅子の会を創設した。
ほめ殺し
昭和57年、石川県において地元の国誠会が政治団体「森喜朗輝励会」を届け出、同県選出の森喜朗代議士に対し「郷土が生んだ森喜朗を総理にしよう」とほめ殺し街宣を約半月に渡って繰り広げたが、その活動には日本皇民党も加わっていた事が確認されている。なお動機や交渉の有無は不明。
昭和62年、日本皇民党は政治団体「竹下登輝励会」を届け出、竹下登代議士の地元島根県で「竹下登先生の新総理擁立」等とほめ殺し街宣を繰り広げた。(その際先導は当時島根県に本拠を置いた尊皇義塾仁義社が務めたとされる。)
その後「大道一直線政界刷新竹下登新総理擁立」「誠実清廉の人竹下登」等のスローガンを掲げた街宣車14台で上京、新潟、滋賀、島根と回って再び上京し執拗に街宣を展開した。
当時中曽根政権下で次期総理総裁を目指していた竹下は、中曽根から「一国の首相になろうとする者が右翼の街宣くらい止めさせられないのか」と指弾された事で、このままでは後継指名の目が無くなると本人含め周辺は強い危機感を持った。
ほめ殺し活動中、日本皇民党には右翼・暴力団・政治家等あらゆる方面から中止要請があり、億単位の金額を呈示した政治家や「稲本をとる(殺す)」と公言する暴力団幹部もいたとされるが、稲本虎翁が宅見勝(山口組系宅見組組長。元は稲本と同門の南道会系福井組若頭であり、稲本とは五分の兄弟分であったとされる)に相談した所、「大義に生きろ。カネは貰わず運動を続けろ」と励まされた事もあり、一切取り合わず活動を継続した。
その活動の動機は「竹下は親分の田中角栄元首相を裏切り総理総裁を目指す男であり、こんな“明智光秀”が天下を取れば日本の教育は無茶苦茶になる」というものであったとされる。
自民党経世会(竹下派)の最高幹部であった金丸信代議士は懇意にしていた東京佐川急便の渡辺広康社長に相談、渡辺は石井進(稲川会二代目会長)に助力を依頼した。石井は稲本と共通の知人である会津小鉄(後の会津小鉄会)幹部の三神忠(荒虎千本組組長)に説得を依頼、紆余曲折あったものの稲本は竹下が田中角栄邸に行って詫びを入れる事を条件に街宣中止を約束、竹下が実行した事で街宣車は東京を引き上げ、それによって竹下は後継総裁の指名を受けたとされる。
しかし後にこの事実が露見すると、時の総理総裁誕生に暴力団が深く関与していたとして国民の間に大きな政治不信が起こり、後の政界再編・55年体制崩壊の一因ともなった。
*1 参照・引用
平成3年、総裁であった稲本虎翁が病没。大島竜珉(前行動隊長)が党を継承した。
教職員組合や社会悪に対する抗議・糾弾活動に加え、毎年8月9日には北方領土問題の国民運動を喚起するべく、友好団体を糾合し北海道納沙布岬において北方慰霊祈願祭(シベリア抑留者始め北方領土及び近海においてソ連・ロシアの軍乃至官憲により虐殺された人々や、北方領土の墓地に埋葬されている御霊を慰める神式祭祀)を執り行っている。
なおこの慰霊祭は右翼民族派に限らず誰でも参加する事が可能であり、多くの人々の参加を呼び掛けている。
かつては
全日本愛国者団体会議に加盟していた。
「日本皇民党の正体」デマ
なおネット上では日本皇民党に対するデマが以前より蔓延っており、その最たるものが《日本皇民党の正体》を《韓国・朝鮮右翼》または《親韓右翼》と規定するものである。
その根拠とされているのが「同党の在日韓国人の幹部が街宣車で中国総領事館に突入した。」、「同党東京支部の街宣車がフジ抗議デモを妨害しに来た。」の2点と見られる。
平成16年の「中領突入」に関してはそもそも同年に発生した中国による尖閣諸島への不法上陸や、サッカー大会に端を発した反日騒動に対しての義憤から敢行したものであり、幹部の国籍から邪推した《韓国や北鮮の為に行った売国行為》という説では具体的に両国がこの事件で受けた利益がない事への説明が付かず、また《愛国者のイメージダウンの為にやった》との説に立てば、元来愛国者が憂国の情からやむにやまれず法を破る例が洋の東西を問わず歴史上に散見される事実に反駁出来ないばかりか、それら全てを工作や自作自演で理解するならば元より世界史は成り立たない。
行為の是非を問うならばまだしも、在日の幹部を引き合いに団体や運動を貶すのは無意味であり、加えて中領に実際に突入したのは日本人の構成員である。
平成23年の「フジ抗議デモ(フジテレビの番組内容が韓国を偏重したものであるとして《保守系市民》らが是正を求めて同社周辺をデモしたもの)妨害」については当時の模様を収めた動画が拡散されているが、件の動画を見ればそもそも妨害を目的に来た訳ではなくたまたまデモの場に街宣車で通りかかり、その上でデモの主旨や参加者の属性を理解出来ず人目を引こうと直近で大音量を流し迷惑をかけたというのが実態であろう事は明らかであり、この事についての批判なりデモへの理解や反省を求めるならばともかく、伝聞や憶測で《テレビ局や広告代理店、スポンサー企業から金を貰って韓国右翼がデモ妨害を企図した》等と喧伝するのは彼我にとっても社会にとっても得るものがない様に思える。
なおこれが意図的な妨害ではない事は、これ以降同党及び同党以外の団体が一切デモの場に現れていない事からも瞭然である。
蛇足ながら同党が竹島を韓国領土であると主張し韓国への批判を封印したり、在日韓国・朝鮮人の参政権に賛成した等の事実は皆無である。
党歌「日皇旗」 |
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四国高松屋島の裾で 天に羽ばたく 日皇旗 俺達 生まれは違っちゃいるが 男同士が 男に惚れて 今じゃ一つの 釜の飯 虎(こう)の教えは大事な形見 守り貫く 日皇旗 俺達 男が人生賭けた 日の本一の 男の神輿 あれが屋島の 暴れ龍 瀬戸の荒波 朝陽を浴びりゃ 光る稲穂の 日皇旗 俺達 アジアの平和を目指し 維新改革 男のロマン 我等夢追う 皇民党
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