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「韓国」の用例

平田篤胤「玉襷 2之巻」1813年頃
偖(さて)また秀吉公も、大かた信長公の意を継て、厚く朝廷を尊奉し、…其のほか此の公は、皇国内のみに非ず、西戎国(振り仮名:からくに)までも稜威を輝し給ひて、我が皇朝の尊きを知らしめむとぞ、思されける。然るは、彼の韓国(「韓」のみ振り仮名:から)を征給へるは、甚じき大皇国の御光なるを、世には彼此に論へる者も有よしなるは、上代の大御手風をし、得知らぬ癡心になも有ける。

村田文夫「西洋聞見録 前編 巻之中-下」1869年(明治2年)
戊辰の年仏国と朝鮮と釁端を開きしも仏国の教師深く清国より韓国え入りしが

アジア歴史資料センター「厳原藩朝鮮国交際ニ付建言」(公文別録・朝鮮事件・明治元年〜明治四年・第一巻・明治元年〜明治四年)
朝鮮者…韓人頑固の国習従前の情態を以て察する時は必然種々猜疑に渉り国家保全の策を以て初より皇朝に依頼致す間敷尤将来の形勢愈韓国力尽き術窮り結局皇朝に就て款を納れ和を講ずるに至るは自然の勢不待多論候乍(1画像目)
※厳原(いずはら)藩は、対馬藩が1869年版籍奉還後に改称。

星野良吉編「日韓紛議政略纂論」1882年(明治15)^~
李最応は総理大臣領議政正一品にして本邦の所謂る太政大臣也其他金輔鉉、閔謙鎬、閔台鎬、尹雄烈の如きも皆な韓国の大臣にして我左右大臣若くは参議に相当する者也(55-56頁)

付録:「中国」の用例

平田篤胤「西籍概論
近き頃は、物の心を知らぬ生々しき輩さへに、から諸越とは云はず、中国だの、中華だの云は、必ずしも彼国を尊ぶ心で云でも无れども、(119頁)

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