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太平洋戦争後に樺太でソ連軍の捕虜になり抑留された男性は、次のような体験を語る。
(カンスク市から)百キロを越える所にノモンハンの生き残りの方が住んでいると聞き…会うことができました。その方はすでに結婚し子供もおり、『祖国では戦死扱いになっているので帰ることは出来ない」と涙ながらに話し、遠くはシベリア出兵当時の捕虜や脱走兵の人々もいらっしゃるとのことでした。彼は最後まで名前は明かしませんでした。*1
満州で従軍し1942年9月に満期除隊した男性はこう述べる。
三年兵の時、ノモンハンの捕虜となった元日本兵が三人ぐらい潜入して来ました。牧草の中にもぐり込んで、こちらの情報を取っていました。その人たちは、ノモンハンの時火炎放射器でやられて捕虜になったということで、本人は戦死したことになっていました。…*2
1944年宮崎・都城で入隊しシベリヤ抑留でクラスノヤルスクの収容所に入れられた男性はこう回想する。
クラスノヤルスク地区にノモンハン事件の生存者がいた。その中の二人に会って話をしたが、妻子もおり、東北弁で話す人だったが、出身県は教えてくれなかった。多分、戦死扱いになっていたからだろう。*3
1944年岐阜・土岐市を出て広島で入営しシベリア抑留された男性はこう述べる。
抑留中の出来事 …その当時のことですが、トラックの運転手にノモンハンの捕虜だったという日本人と出会ったことがあります。もう帰化して子供もいるとのことですが*4
1942年入営し千島列島の得撫島で終戦を迎え「モスコーの近くのマルシャンスク市」で抑留された男性はこう回想する。
このラーゲル(※収容所のこと)でノモンハン事件のとき捕虜となった数人の日本人と樺太から連行された数十人の朝鮮人と会ったことがあったが*5

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