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以下の通り、それは嘘。

太平洋戦争開戦前のタイ

タイは松岡洋右外相が「泰勢力英米七割、日本三割」*1と述べたように親英米だった。
開戦直前1941年11月にもピブーン首相が英国の駐タイ公使に「タイが侵略を受けたら英米が対日宣戦を布告する、と英米が共同で声明するように要請し、あるいは英国の単独声明でもいいと訴えた」。*2

1941年10月8日 大阪朝日新聞「抜き難し"親英" : ダフ・クーパー氏、ピブン首相とも会談 : 泰国の二股外交続く
【バンコック特電七日発】泰国をめぐる最近の国際情勢はABCD包囲網の強化と泰国抱込謀略の発展ということができる、・・・英、泰間に特殊の秘密諒解が存在するものと信ぜられ、・・・国内的には厳正中立に名をかる全面的な親英色の濃化と英米依存心理の激化となって現れ、度々政府が発した厳正中立声明はあたかも英国と提携する意味の中立表明ともいうべき印象を国民に与えており、南仏印の皇軍を仮想敵として取扱い、南仏印に接する東部国境ならびに東北国境地帯は最近外人立入り禁止区域とし飛行機、機械化部隊を含む泰国軍隊約六万を集中している
一方南泰のマレー国境方面では連日東海岸よりの上陸軍隊に対する防御演習を繰返し、最近一部軍隊が軍歌を高唱してシンゴラの日本領事館前を示威行進したという事実もある、これらの親英米的な国民感情は強いものについておればいいという思想にもとづくものであり、・・・

1941年10月16日 大阪朝日新聞「泰は中立の他なし : 近く帰国の坪上大使語る
問 最近泰人の対日感情は悪化したと伝えられているが大使の考えは如何
大使 一部にはかかる策動宣伝をなすもののあることは事実だが一般泰人が対日悪感情をもっているとか、泰政府部内にかかる空気があるとかいうことは全然誤りと信ずる
問 英国と泰国の軍事密約説が伝えられるが、これはどうか
大使 これも事実でないと思う、これは泰政府の中立政策に違反しかえって泰国の独立を危くすると思う
問 一般に泰人は東亜共栄圏なる言葉を嫌っているように思うが如何
大使 日本が泰国に希望しているものは泰国がますます発展して強力なる国家となることだ、・・・

1941年10月17日 東京朝日新聞「横行する抗日映画 : 根強い華僑と英国の勢力 : 岐路に立つ泰国を観る
この重慶側の宣伝と並行して、英米側の対日宣伝も極めて露骨である。試みに王室財産で建てたといわれるバンコック随一の映画館チヤランスルン劇場に入ってみれば、アメリカ□濠洲版というニュース映画をやっている。『対日戦備に没頭している蘭印』というタイトルで、先ずいきなり我戦艦陸奥、長門などが太平洋を遊□している□容を複写したものがあらわれ、そのつぎに東亜の地図を示し、北からの『日本の脅威』に対し、蘭印は如何なる戦備を整えているか、と冒頭して、説明者は、蘭印の水田の上を縦横に走っている戦車の演習、さては飛行機、軍艦と道具立てよろしく『日本よ、何時にても来れ、ABCD陣営に備えあり』とばかり、あてつけている。黙ってみていると腹が立って来る。シンガポール軍港やジブラルタル要塞の映画も、英国に十分の備えありとの宣伝以外に何もない。こんな宣伝映画を毎日見せつけられている泰国の一般民衆が、日本に対しどんな感情を抱いて来るか、想像するに難くないであろう。わが出先当局が、抗日宣伝の横行に憤慨して、泰国政府にねじこんだら『まことに仰せの通りですが、われわれとしては取締りようがない、その代り貴国の方でもドシドシこれに対抗する映画を持って来ていただきたい、いつでも上映の御便宜を計らいます』という返事だった。

1941年10月30日 神戸新聞「泰の動向を語る (一〜三) : 現地座談会」
出席者
新開八州太郎氏(三井物産)福田順吉氏(正金銀行)瀬戸屋熊治郎氏(大阪商船出張所長)加藤義之氏(大同貿易支店長)大谷長三氏(大谷洋行支配人)植松秀雄氏(カオパープ新聞社社長)本社特派員
(中略)
泰国人の対日感情
A 所で最近に於ける泰の国民感情は日本に対しどうだろうか、日本では泰は親日だということに決めているが、実際はどうか
C 確かに泰人の個人の感情は日本に近いと思うが、最近の如く国際情勢が複雑化し、その他色々事情が錯総して来るとどうなるか分らぬ~^ E 最近チェンマイの在留邦人が泰人の日本人に対する感情が急激に悪くなって来たといっている以前親しくしていた泰人が最近は敵意を持つように変って来たそうだ
C それはそうだ、昔は泰にとって日本は遠い国であり、しかも有色人種のために戦いロシヤに勝ったことが日本に対し好感を持つ原因となっていた、しかし日本軍の仏印増派以来、日本はもはや遠い国でなくなり泰国人は日本に対し非常に神経過敏になって来た、しかも特に最近では泰国も日本と実際的利害を生じ又対仏印戦で勝ったため非常に民族的プライドを得た結果次第に日本人に対する感情が悪くなった、泰人の間では泰仏印戦争に日本が調停に立たなかったら仏印を全部占領しただろうという迄に国民感情を高揚していた、尤もこれは軍人、一般民衆の愛国心を鼓舞する意味も含まれていたと思うが、とにかく日本の調停をむしろ不服とする空気が一部中堅軍人層にも相当あった
G 最近日本人の地方旅行者が激増しているが、地方ではこれらの日本人旅行者を全部軍人だと思って居る、其ため随分泰政府は神経を尖らせている、地方に旅行すると日本人には必ずスパイがつく、これが泰のスパイじゃなくて英国のスパイだ、英国はこのため随分金を使っている、又バンコックでも日本人を見たら軍人だと思えと宣伝している
 英のデマ宣伝
D 最近英国側のペナン放送が相当悪辣な反日宣伝をやっている、バンコックに居て日本人を正当に認識しているものはこれがデマだと判るが田舎の者は相当この宣伝に乗せられている、これなども地方に於ける対日空気の悪い原因だ、大体この際某は親日、某は親英とレッテルを貼るのはよくあるまい、日本人は泰人に対し被征服国民に対する如き考えを持たずもっと大きなゆとりのある態度を持ち、泰人をして真に日本に親しませ、心から日本を敬愛させるようにしなければならない
C 日本人はこの際特に言動に注意しなければならない、日本人の中には不用意に泰人を刺激しているものがあるようだ、村上氏傷害事件なども今だから起ったので昔だったら起らなかったと思う

1941年12月7-8日 大阪毎日新聞「泰国の近情 (上・下)
今春来、日本の泰仏印調停による日泰親善が高潮に達した際、多くの邦人が泰国を訪れた、官吏あり、軍人あり、代議士、実業家その他大勢であったが、その多くは帰国してのち種々な印象を述べた、中に「親善々々と口にはいうが泰国では一向それらしいものを感じなかった」というような意見がかなり多く述べられている、この印象は必ずしも間違ってはいない、・・・ 本年七月下旬以来泰国の対日感情は次第に変化して行った、日軍の南仏印進駐以来一線を尽した如く判然と泰国人は日本人から遠ざかって行った、英米の悪宣伝もこれに拍車をかけ遂に当局者の中にも警戒の眼を光らして来た、泰のかかる豹変には日本の朝野も若干衝撃をうけたようであった・・・頃来日本人の行動は逐一英米両国に伝達されるに至った大公使、武官らの要人はもちろん一会社の支配人、一新聞記者まで大官連と会談すると即日英米側は知悉していた、驚くべき情報網である
盗まれる電信
情報戦は電報局にまでおよんで来た、平文で打つ新聞電報はもちろんマークされた差出人の電報はいつの間にかコピーを取られていた、イギリス公使館がこれを入手しているのである、電報局の技師が給料に数倍する手当を受けてぬくぬくと生活する態が見えるようではないか、これらのことはタイ国政府にも全然責任なしとはいえないのである、最近有力新聞の論調が日本に不利に傾いて来たこともここニ、三週間の現象であり、在住邦人の監視、警戒、住宅不貸勧告などで日本人の生活も以前の如く安逸なものではなくなったといった按配である

開戦当日・直後のタイ

開戦当日12月8日、日本の浅田駐タイ領事がピブーン首相に対して「提示する協定文の写しを床に投げ付け、日本軍はぐずぐずしておれぬ、と威嚇し、どちらかにサインせよと迫った。」日本軍はすでに8日未明タイ侵攻作戦を開始し、タイ側と戦闘を開始していた。タイ側は閣議を開き「このように話している1分1秒の問にも,人が死んでいってるのです。停戦するのか戦うのか」と話し合った末、7時30分全員一致で停戦することを決めた。*3

タイ軍と日本軍の交戦

日本軍とタイの戦闘を示す資料を挙げる。
第25軍司令部「馬来攻略作戦経過概要 除新嘉坡攻略作戦」(1942年6月30日)*4

泊地に進入せる師団は直ちに投錨泛水を開始し、折柄の荒天波高二米の波濤を克服し、敵不意に乗じ主力方面は〇三・三〇、安藤支隊方面(歩兵第四十二連隊基幹部隊バタニ方面)は〇三・〇五、夫々上陸を開始し、何れも敵の抵抗を受くることなく、前者は〇四・一〇、後者は〇四・三〇夫々南泰シンゴラ及バタニ付近に歴史的上陸に成功せり。上陸直後、各方面共一部泰国軍及警察隊の抵抗を受けたるを以て之を攻撃し、一四・三〇泰国側の要求を容れて停戦せり。
(略)
宮本鉄道突進隊は八日〇四・一五シンゴラに上陸するや直ちに停車場を占領し〇五・四〇押収せる車輌によりて突進を開始し、一部泰国軍の抵抗及鉄道の爆破を克服し十一日早朝国境を突破せり。
(参考)開戦後に於ける泰国の情勢
開戦当日に於ては泰軍は各所に於て若干抵抗を試みたるも、九日に至り泰国政府は全面的に我が要求を容れ、更に十一日坪上大使と「ビブン」首相間に日泰攻守同盟締結に就き意見の一致を見るに至り…

歩兵第11連隊第3中隊陣中日誌1941年12月8日の項*5*6

十二月八日 月曜日 晴 於泰国 シンゴラ沖「那古丸」
(略)
四時五分シンゴラ海岸に敵の抵抗なく達着夫々兵力を集結し直に作命第三号に基き出発す。
三、中隊長を先頭とし指揮班第二小隊の順序を以て所定の目的地英国領事館に向ひ突進す。
四、六時二十分英国領事館を襲撃し之を占領領事を捕縛す。館内を捜索するも無線器なし。
五、第二小隊第二分隊は海岸達着後泰国警察の動静偵察並に辻参謀を護衛し赴きたる処不意に泰国警察官一部の抵抗を受け五時三十分不幸にも敵の初弾は久保伍長の頭部を貫通し中隊は茲に大東亜戦争最初の負傷者を出すに至れり。
(略)
十、要旨命令 一二、八、一〇〇〇 於「シンゴラ」日本領事館
一、敵の飛行機は熾んに上空を飛翔し爆撃しあり。各隊は充分に遮蔽し対空射撃対空監視に遺憾なかるべし。
(略)
大作命第六号
第一大隊命令 一二・八、一二・三〇 シンゴラ停車場
一、砲二、三門を有する約三〇〇の泰国軍は新飛行場南方約二粁高地陵〔ママ〕線を占領し其の砲兵は同地東南側に配置しあり。歩四一の第三大隊 歩一一の第九中隊及鉄道突進隊は北の敵を攻撃中にして歩四一の第三大隊は新飛行場東南一四〇〇米高地に歩一一の第九中隊は新飛行場南方約一二〇〇道路及鉄道の中間地区に鉄道突進隊は其の西南方一二〇〇米付近に進出し共に交戦中なり
(略)
大作命第七号
第一大隊命令 一二・八、一五・〇〇 シンゴラ飛行場北端
一、タイ国軍は軍使を以て戦闘中止を要請し来り河村部隊は大乗的見地より之に応諾を与へたり。

その後のタイ

1942年9月19日の第111回大本営政府連絡会議では、タイにおいて日本人とタイ人の関係があまりよくないことが以下の通り指摘されている。*7
一、海軍大臣より
泰に在る邦人商社等の間に日泰若くは各機関離間の言動多し、之等を十分取締るの要あり
二、佐藤軍務局長より
在泰邦人を取締ることもさることながら泰人の帝国軍人に対する侮辱的行為等頻発しある現状に於ては泰側を取締ること更に急務なり、本案は此の趣旨を泰側に徹底せしむる為起案せられたるものと思考す
(之にて一同諒承す)

1943年11月の大東亜会議に際しては、タイのピブーン首相は欠席しワンワイ親王を代理出席させた。
吉川利治によれば「(ピブーンは)日本にはもはや義理も未練もなかった」。そしてワンワイ親王も「日本は『大東亜共栄圏』なる政策を推進しているが、一体何を意味するか誰にもわからぬ。まして日本語で『八紘一宇』といって、同じ屋根の下にいるのだといわれても、ますます何のことやらわからなくなる」と日本に批判的だった。*8

1943年12月以降ピブーンは中国国民政府軍(蒋介石側)との接触を始め、1944年に入ると日本大使と会うことも避けるようになった。*9
またピブーンの政敵であるプリーディ元財務大臣も「一九四四年秋に英国及び米国の諜報機関と接触し、連合国の協力を得て自由タイ地下組織を作り始めた。」*10

こうしたタイ側の離反の動きを日本側も感知し、義部隊(※第18方面軍のこと)参謀長名の1944年5月26日付電報「最近に於ける泰国の情勢判断」では「泰国は最近の情勢に刺戟せられ日泰同盟を基調とせざる独自の国防計画を樹立し逐次其の実行を促進しあるものの如し」「親英米派の巨頭アドン警察大将は落下傘諜者訊問に名を藉り英米との秘密連絡あるものの如く…」と報告している。*11
また大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」1944年5月16日の項では第18方面軍司令官中村明人中将の発言として「泰は過度に圧迫せば重慶に趨る虞あるを以て適当に手心を加へあり」*12とあり、さらに6月1日の項では「泰国駐屯兵力は目下二ケ大隊なり、泰の政情にも鑑み有事の際即応する為仏印マレーに対し準備を命じあり」*13と記し、タイ情勢の万一の事態に備え大本営として隣接する仏印・マレーに指示を出したことがわかる。

1942年12月5日 東京新聞「決戦第二年に備えよ : 泰国の趨勢と印度問題 : 日泰経済の重要性 帰趨に迷う印度諸民族 : 当時の在外武官座談会
本社 重慶に対しての感情はどう云う風に行っているでしょうか
田村少将 大体泰人は支那人と関係の深い国です、泰人は斯う言っている、我々は支那とは兄弟国だ、日本は善隣国だ善隣の友邦だと言うのです、

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