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「朝鮮人が毒を云々」についての憲兵隊調査報告

以下、アジア歴史資料センター「憲兵隊報告(1)」の2〜4画像目全文
九月十九日臨中第一四二号
鮮人殺害に関する風評調査の件

横浜に於ける首題の件調査したる処左の如し
一、九月四日午前十一時頃子安町一一七番地××××(※原文実名。以下同じ)方の井戸に年齢十八才位の白のシャツ股引を着したる男及朝鮮服を着したる女二名にして毒薬を投じたる事実ありとの風評に関し調査したるに右三名は米を洗ひ居たるを付近の者見誤りて彼等が劇薬を井戸に投じたるものと吹聴したること判明せり

二、九月四日新子安(景品電車停留場付近)に於て薬瓶に入れたる毒薬を携行せし朝鮮人一名徘徊し居たりとの風説に対し調査したるに該鮮人は自己の服用すべき梅毒の治療薬を携行し居たるものなること判明せり

三、九月二日子安町二八五三番地××××方の店頭に於て子安自警団員が罹災者及避難者等を救護の為め設備し置きたる飲料水中に毒薬投入せられありて当時之に飲用したる者吐血又は身体の自由を失ひて発病せりとの風説に対し調査したる処該水を飲みて吐血したりと言ふ現住所潮田町平市場×××××に就き調査したるに該水を茶碗に一盃程飲み即時出発したるに五、六歩歩行せるに突然身体に強烈なる惰性を覚え且つ五勺程の吐血を為し路傍に倒れたる事実あるが仝町自警団員及び林田なか等に就き当時状況を調査したるに仝時刻前後に該水を飲用したる者他に多数あり何等異状を呈したるものなく他の者の中毒せる噂も聞かず当時付近には鮮人の徘徊及容疑者の通行したる形跡なし尚稲垣は其後身体強健なり而して当時稲垣を診療したる医師につき査するに激働をなしたる直後に於ては毒薬を服用せざるも吐血する場合あり何等不思議にあらずと一笑に付しあり

其他子安方面に於て鮮人が井戸に毒薬を投じたりとの風説二、三あるも証拠として認むべきものなく流言浮説に過ぎざるが如し

目下一般町民は秩序恢復に伴ひ人心冷静に復し鮮人に対する誤念諒解されつゝあり

内報先
陸軍大臣、陸軍次官、軍務局長、歩兵課長、参謀総、次長、戒厳司令官、同参謀長、同警備部、同情報部、同法務部、海軍次官

当時の朝鮮における報道

朝鮮時報1924年1月18日「震災当時の鮮人問題で水野内相糺弾 第一番に個別的不信任 内閣倒壊派の作戦
清浦内閣倒壊運動は政憲革三派で院の内外より特権階級打破憲政擁護の大幟を翻して攻撃の火の手を揚げると同時に現内閣に連らなる各閣僚の政治的罪科に対しても深刻の鉾先を向けて議会再開後の総括的不信任案と共に個別的不信任の表明をも併せ行はんと種々調査中であって現内閣の中心たる水野内相に向って震災当時の責任糺弾をやる目論見が熟しつゝあるそれに依れば彼の当時に朝鮮人襲来を絶叫して方途に迷へる市民を困惑せしめ遂には自警団の不祥なる殺傷問題等を惹起したその火元が何れにあったかは今日改めていふまでもなく警視庁であってその警視庁は多年手飼の犬なる山口正憲一派をして流言蜚語を放たしめたのである而して当時の警視総監は赤池濃で水野内相の下にあって朝鮮問題については少くとも他の官吏よりも造形深く鮮人の心理状態等もよく承知してゐるべき筈なるに自ら善良なる市民を煽動して彼の如き混乱状態となしたのは何としても看過し難き政治的罪科と云はねばならぬ況んや同氏が全国民の要望たる普選案について如何なる持論を有するかは既往加藤内閣当時に於ける氏の行動に徴するも明瞭であるといふのであって先づこの一角から崩壊せしむべく計画されてゐる

京城日報1924年3月6日「大震災当時に朝鮮人を救護した人々を内務省が表彰
昨年九月大震災当時流言飛語の為に世人の大なる誤解を招き凡ゆる迫害を受けた関東方面在住の朝鮮人を当時種々なる危険を侵して保護と救済に努めた人達に対して警視庁では秘密裡に調査中であったが此ほど漸く終了したので赤池総監から愈々主務省へ表彰の申達をする運びとなったその人員は百五十名でその内から更に内務省で詮衡した上夫れ夫れ表彰されることになると(東京電報)

京城日報1924年8月26日「美しい人類愛 震災美談(3)身を挺して鮮人を救ふ 寝食をも忘れて小美野君の働き
 東京から青梅街道を西へ三里ほど行ったところに関といふ一部落がある。府下北豊島郡石神井村の一部で、甲武線吉祥寺駅から遠く隔ってゐない。時は九月一日の午後六時頃であった。東京の方から疲れきった足を引きずりながら此の関村まで辿り着いた一むれの学生があった。人数は七名で内、一名は女子であった。見るからに疲労に堪へない様子で、一同は村の下田長作といふ飲食店の軒先きまで来て腰を下ろした。彼等は皆朝鮮人で、神田辺に下宿して居た学生であった。
 其日の大地震で、神田方面一円に火災が起ったので、命からがら逃げ出して、山の手から中野町へ出で、何処を当てどともなく青梅街道を一筋に、西へ西へと伝って行った。其日の昼から食事も摂れず、空腹を抱へながら、やっと此処まで来たものであったがもう一同が歩く元気もなくなって居た。
 村では在郷軍人や青年団員が罹災者の救護、避難民の世話などに忙しく立ち廻って居た。ちゃうど七名の鮮人学生が、やって来て休んで居た時、そのことを伝へ聞いて駆け付けたのは、此村の在郷軍人であり青年団員である小美野亀之助といふ人であった。此人は村の或る小さな社の神主で、傍ら筮竹を用ふる易者であった。三十六歳の壮年で思慮分別の堅い人である。
 小美野君は今眼の前に、七人の朝鮮人が故郷遠く離れ来た東京で、世にも怖ろしい大地震に遭ひ避難するに寄辺もなく、魂も空にふらふらと武蔵野を彷徨ひ来った惨めな様子を見て、深い同情を寄せずには居られなかった。早速食物の心配などをして劬はったが日も暮れかゝるのに行く先のあてもないといふので、飲食店の主人に交渉して其夜は同家に泊てやることにした。
 併し余震が引っきりなしに来る際ではあるし、まだ昼の天地も覆へるやうな大地震に極度の恐怖を抱いて居る七人の連中は、とても家の中にじっとして居られないと訴へるので、小美野君は、それでは兎に角戸外で休んだがよからう、と一同を付近の桑畑に連れ行き、寝具などを持って来て貸与へ其夜は露店で明かすことにさせ、翌二日には村の消防器具置場なら雨露も凌げるし地震にも安全だからと、其処に落ちつかせ、何くれとなく世話して居た。
 ところが、二日の午後になると、青梅街道一帯に不逞鮮人横行の噂が、村から村へ飛んだ。土に親しむお百姓達は総じて素朴であると同時に心が単純であるから、さういふ流言を真っ正直に信じやすい。今まで小美野君と共に七名の鮮人達に同情を寄せて居た村の人々も、これは大変だ、朝鮮人を世話するどころではないぞ、此奴等今に何をするかわからないと、何にも知らない気の毒な鮮人学生の周囲には俄に恐ろしい空気が漲って来た。
 其処へ隣村の青年団員等が聞き伝へて押し寄せ、此の村で朝鮮人を世話して居るとは怪しからんお前達の方で愚図々々するなら俺達の方で処置をつけるから引渡せと懸け合って来た。関の方では、いゝやお前達の世話にはならぬ、俺達の方で片をつけると頑張る。どっちにしても七名の身は危ない訳だ。
 その談判を群集の中で一人手を拱いて見て居た小美野君は、これは困った事になった。どう見ても此の鮮人等に大それた企てなどあらう筈がない、それを迫害するは正義人道を無視した罪悪だと思った。まことに一介の野人小美野君は此の咄嗟の場合によく大義を忘れなかった「たとひ一大天災の◉合、一部の鮮人に不逞行為があったにせよ、理非を正さず一律にあらゆる鮮人を迫害したといふ事が外国にでも伝はったら、日本の文明が否定されるであらう、よし此処は一番俺が命を投げ出しても此の七名の鮮人を立派に救って、日本人には人道を擁護し、正義を守るの念があるといふ立派な生き証拠を残してやらう」これが小美野君の決心であった。
 そこで彼は群がる民衆に対して、堂々と事故の意見を述べ、大義を説いて、非常な圧迫と脅威に屈せず、遂に七人を警察官憲の保護に浴せしむることを得た、―九月二日から五日までの間小美野君は寝食も忘れて此の鮮人保護に苦心し尽力したのであった。救護された鮮人の氏名は、(以下略)

京城日報1924年9月17日「諸君の死が必ず徒死に終らざるを信ず 震災遭難鮮人追悼会に於ける副島本社々長の弔辞
在東京鮮人団体相愛会主催本社及毎日申報等後援の震災遭難朝鮮人一周忌追悼会は既報の如く十四日日鮮会館で行はれたが副島本社々長追悼文左の如し
   弔辞
維時大正十三年九月十四日京城日報社長伯爵副島道正謹みて朝鮮生れの我同胞横死者の霊に告ぐ
十有余万の生霊と数十億の財産とを一朝にして空しく灰燼に帰せしめたる関東の大震火災も矢の如き光陰と共に既に一周年を過ぎたり今茲に其当時を追想すれば感慨悲痛の念に禁へざるなり
惟ふに彼の大震火災は未だ嘗て見ざる所の大天災地変にして吾等内地生れの者は一方に其特徴たる美点を発揮すると同時に又一方には人類の大欠陥たる資質を暴露したるが其結果不幸にして多数の朝鮮生れの我同胞は怨を呑んで遂に確たる根拠なき流言蜚語の犠牲となるに至れり寔寔に痛恨に堪へざるなり吾人は内地生れの者の一人として茲に謹んで厄難に遭遇せる我同胞冤枉の霊に謝し併せて赤誠を以て之を弔はんと欲す
関東大震火災の際に於ける此不祥事件は寔に哀痛悲悼の念禁ずる能はざるものなれども諸君の横死は必ずしも徒死に非ざるなり何んとなれば則ち其結果内地生れの吾人等は朝鮮生れの我同胞に対して漸次真実の同情を有するに至りたるを以て爾今其安寧幸福の為め尽瘁せんことを冀ふもの益々多きを加ふるに至るべきは吾人の信じて疑を容れざる所なり若し吾人等にして此精神を有するに至らざるに於ては追悼会の如き一の虚礼たるを免るゝ能はざるべし左れど吾人は信ず内鮮生れの同胞は相互に既往は問はずして爾今力を戮せ心を一にし以て彼岸に見ゆる共存共栄の光明に達せんことを
精魂髣髴冀くば来りて吾人の誠を●けよ

デマを拡散した内田良平

今回の震災は安政以来の大激震にして、其の災害の大なると死傷者の夥しきとは遠く之に過ぐると謂ふも敢て過言ではあるまい。
我が黒龍会は平昔皇室中心を本位とし政党政派の外に超越して、夙に対外問題を研究し国家に貢献し社会に奉仕するを本領とする団体である。是を以て一朝、震災の起るや、吾人は即刻会員を招集し、之に諭すに罹災民救済の寸時も緩うす可からざるを以てし、夫々会員を市外地方並に近県に派遣し、直に食糧買集めの準備に着手した。是れ実に大正十二年九月一日、即ち震災当日の午後より二日に亘っての事であった。
本会がニ百万市民の罹災者に対し、深甚なる同情を表し、一致協同死力を竭竭して、食糧の配給に従事したるものは、咄嗟の間、官署其の他公共団体の食料配給が到底焦眉の急に応ずるに足らざるべきを慮かり、其の準備方法緒に就くまでの間、微力ながら其の応急措置に出でたものであった。而して二日より九日に至り、政府其の他公官署の食料配給が漸く其の緒に就くを認めたので、本会は、十日を以て一先づ救済運動を終結することとした。此の間、其の食糧は主として馬鈴薯を煮て、之を一般の罹災者に配給した。その総高約九十噸一日平均十噸の割合であった。而かも此の九十噸即ち一日平均十噸の配給を以て、彼の最も悲惨なる状態の下に呻吟しつつある罹災者の生命を救ふことが出来たのである。而して是れ実に本会が社会に奉仕した最善の努力であった。
吾人は会員一同と共に食糧配給の一段落を告ぐると同時に、第弐着の社会改造事業、即ち震災善後の救済、政治、社会、経済、教育の改造策を講じ、之れが調査に着手せねばならぬ。因て此際本会は政府当局者に対して、平生より吾人の憂慮しつゝある鄙見を述べて、献芹の微衷を表して置きたいと思ふのである。
抑も本会が罹災者救済運動を開始するや、吾人は会員一同に対して「予が聞き得たる事は、此の震災の起るや、無政府主義を宗旨とする不逞鮮人の徒が、其の隙に譲じて猖狂を逞うし、一層其の災害を激甚ならしむる行動に出で来たと云ふ事だ。此事や十年来、吾人が同志と共に憂慮しつゝあった所にして、又た平生政府当局者に注意し、且つ勧説して居った所である。是れ他にあらず。政府が朝鮮に対する統治政策が其の根本方針を誤って居るからである。苟も朝鮮統治の根本方針を一変するにあらざれば、禍が蕭牆の裡に起ると云ふことを痛感したので之を当局者に苦言した。然るに吾人の忠告は所謂良薬は口に苦しと云ふが如く啻に其の省する所と為らざるのみならず、却て吾人が当局者より何か為めにする所ありてかの如く疑はるゝと云ふ有様と為った。
即ち今回の出来事は云ふ迠も無く従来の失政累積の結果が此に暴露して来たものであるから、茲に改めて之を言ふの必要が無い。
(中略)
吾人は罹災者救済の外、言ふことを欲しない。今日は唯だ目前の救済に急だからである。併し国家の前途に関し、一片耿々の志、禁ぜんと欲して禁ずるおと能はざるものがある。是れ他にあらず、此の震災に対する当局者の政策が其の方針を誤まり、百般の施設が其の宜きを得ざることである。因て此際二三の要点を摘んで其の反省を求めたいと思ふ。今試に其の箇条を掲ぐれば、即ち左の如しである。
(一)赤化主義の鮮人が、内地に於ける社会主義者の一派と其の声息気脈を通じて、日本に於て破壊運動を逞うせんとする計画は、決して今日に始まったもので無い。其の兆候は社会主義者の行動に徴するも其の一端を知るべく、且つ識者の夙くから予知しつゝあった事柄である。之に対して政府当局者は、何等予防の策を講ぜざりしことは吾人の遺憾とする所であること。
(二)鮮人と社会主義者とが互いに相策応して、破壊運動を逞うし、或は重油庫、火薬庫を襲い、或は爆弾を投じて火災を起さしめ或は毒薬を井水に投じて、老若男女の区別無く之を毒殺せんとし或は自警団を襲撃した暴挙は掩ふ可からざる事実であること。
(三)以上の事実と同時に鮮人の暴挙に対し激昂しつゝある国民が其の現行犯を目撃して、之を殴殺したと云ふことは事実であること。
(四)鮮人の暴挙及び残虐の行為に対し、責任ある政府当局者が、事実無根の旨を内外に声明して居ることも亦た事実であること。
(五)警察官は、鮮人が暴行を逞うしつゝある最中、即ち二日の夕刻、自己の能力が不足なる為め、直に国民に勧めて、自警団を組織せしめ、此等の団体に対して、鮮人の現行犯を捕へたならば、之を惨殺するも已むを得ぬ旨を宣言した。是に於て、刀剣を取〔ママ〕持して居るものは申すに及ばず、其の他、鳶口、棍棒等を取り出して自警に従事した事も亦た事実であること。
(六)二箇師団の兵力で、広漠なる大東京の防備を全ふすることは出来ない為めに、各地方の師団より援兵を得て、纔に其の防備の完整するや、警察官は直に自警団に対し、一切の武器を所持することは不相成と令して之を没収し始めた。之れが為に職業用の器具を所持して居るものも、取り上げられ、其の太甚しきに至りては、避難者が、足を痛めて之を杖にして居る其杖迠も取り上げて之を山の如く積み上げて居ったことも事実であること
(七)以上の如き結果に対し将来社会警衛の任に当るべき巡査が、人民と衝突して或は警察官を殴打し、或は之を殴殺した事例は到処に尠なからず。此の勢いは滔々として底止する処を知らず、益々警察官と人民との間に乖離を生ずるの虞あること。~^ 以上の箇条は吾人が国家の前途に対して深憂自ら禁ずること能はざる所である。其の中に就て、政府当局者が鮮人の暴挙若くば〔ママ〕残虐行為に対し、故らに事実無根の旨を声明した事は朝鮮統治の政策上に取りても、将た又た国際政策の関係に取りても、重大なる事件であると思はれる。鮮人の暴挙若くは残虐行為にして、果して当局者の声明したるが如く事実で無いとすれば吾人は敢て言ふ所が無いけれども、鮮人の暴挙と残虐行為とは、掩ふ可からざる事実にして、而かも公憤を発した市民が、自衛の為に此の不逞鮮人を殴打し、又は之を殴殺したのは寔に止むを得ないことで必らずしも左むべきではない。然かも当局者は鮮人の暴行を否認し掩蔽して居るのであるから、彼の宣伝運動に巧妙なる鮮人の徒が、鮮人虐殺と云ふを辞柄として、之を世界に宣伝し之を訴ふるに於ては日本国民は此に拭ふべからざる汚名を被るべく又た万一国際問題の起るに際し、我が当局者は何等の口実を以て其の責任を免れんとするであらうか。是れ実に国際政策上に取りて容易ならざる事実問題であると謂はねばならぬ。吾人は重ねて公言する。今回の如き未曾有の震災に際し、国家警察権の及ばざる時に我が国民が公憤の余自衛の為不●鮮人を殴殺すると云ふが如き事は、実に已むを得ざるに出でたも(判読不能)ある。故に国政変理の任に当る当局者が、宜しく国家の対極に着眼し、秘密外交の陋を廃し、光明正大を主として事実を事実●し、之を以て、国家政策の要語とし、之を以て朝鮮統治の方針と(判読不能)、之を以て一切内外の疑惑を一掃するのが当然である。然るに政府当局者が区々たる小刀細工の政策を事とし、事実を以て事実とせず鮮人の暴挙を掩蔽し、又た之を否認し、併せて我が国民が鮮人殴殺の事実をも掩蔽し以て一時を糊塗せんとするは、所謂る耳を掩ふて鈴を盗むの類にして自縄自縛の太甚しきものであって、其●果は近く国際的国難の襲来を予期せねばならぬ。万一此の難題にして到来するあらんか今回の災害により国力の特に減殺せられたる我国は何を以て之れに当るであらうか。是れ実に我が国の一大困難と言はねばなるまい。吾人は政府当局者の真意の在る所を知るに苦まざるを得ぬ。又た現在震災後の状況は決して楽観を許さざるのみではなく経済的に混乱不穏を呈せんとするの状顕然たるものがある。此際社会保衛、公共保安の任に当るべき警察官が当然その尽すべき任務を竭すこと能はず、人民は警察官を蔑視し、警察官と人民との乖離、益々其の太甚しきこと前述の如きものがある。唯だ頼むべきは軍隊であるが、是れとて軍縮の結果一旦緩急の際其保安を全ふすること疑問なき能はざるに於て、一層寒心せざるを得ない。吾人は、此点に於て、併せて当局者の反省を乞はざるを得ざるのである。
今や我が帝国が此の時局多難に対する方針政策と其の施設如何は、世界列国の斉しく環視し、斉しく嘱目する処である其の一挙手其の一投足は、国際政局に影響すること、少小ならざるものがある。是れ吾人が本会の救済運動に関する顛末を報告すると同時に茲に一言して切に政府当局者の省慮を乞はざるを得ざる所以である。
若し夫れ我が帝国の政治、経済、教育、社会等百般の制度改造事業、即ち国家善後の救済策に就ては、吾人別に研究する所あり。更に端を改めて教を当局諸公に乞ふ所があるであらう。
大正十二年九月十一日 黒龍会主幹 内田良平
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