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飛行隊将校の証言

「第二次ノモンハン事件に直協飛行隊の偵察将校として」*1参加した大尉*2が事件の起きた1939年中に述べたと思われる証言では、次のように述べている。
八月以降は一日の大半は戦場上空に敵戦闘機跳梁するの止むなき現象を呈せり…
八月中旬以降…戦場上空は殆ど常時敵戦闘機の軽編隊出没すると共に更に其の上空に七、八十機以上の大編隊遊弋しあり
敵の兵力の優勢を以て交代在空しあるに反し我は戦闘飛行団交代兵力無く一日数回出動して上空を制するに過ぎず而も此の出動時に於ても敵戦闘機主力に対し優位なる態勢を以て空中決戦を求めんが為中空以上の高度を行動せり
敵は中空以上の空中決戦に充つる主力以外に過剰兵力の軽編隊を以て空中決戦時期に於ても尚且我が地上部隊の頭上低空を行動制空せり…
彼我航空兵力の懸隔は遂に如上の結果となり地上部隊をして「我が頭上に在るは常に敵機のみ」の感を抱かしむるの已むを得ざるに至れり*3

航空関係参謀・隊長らの戦後の証言

復員局資料整理課が編集した「満洲に関する用兵的観察 第4巻 第4篇 満洲に於ける各種作戦の史的観察 第1章 航空」(1952年6月)*4は、航空関係の参謀、飛行隊長、飛行団長らが資料提供・編集担任したものだが、ノモンハン事件についてこう述べている。
修理作業の中で重要なものは弾痕の修理であった。
戦斗機の出動回数は日に七ー八回、一出動に数発乃至数十発の敵弾を受けることも珍しくなく其の修理には多大の時間を要した。…

(三)人員の補充
事件当初は各飛行戦隊は精鋭無比の空中勤務者を揃へて居たのであったが敵が清新な部隊を逐次交代し矢継早に之を戦場に繰り出すようになると我が方は交代なしにそれに応戦しなければならないので甚だしく疲労するようになった。戦斗隊、司偵隊に於て特に然りであった。其の結果逐次優秀な空中勤務者の損耗を来し…関東軍は遂に最も重視して居た東部正面の部隊をも戦斗に参加せしめ又朝鮮駐屯部隊をも招致しなければならなかった。更に内地の官衙、学校から無理を重ねて数名宛の空中勤務者を抽出して補充するの已むなき事態となった。ノモンハン事件が更に二、三月続いたならば人員特に空中勤務者の補充問題は超へ難き障碍に遭遇したことであろう*5

飛行第24戦隊長の証言

(ソ連の)イー十六は此の事件当初には何等防御装備を施していなかった為か我が方が必中の一連射を浴せれば直ちに発火墜落していったが…僅々二箇月を経たばかりの七月中旬には防弾タンクと防楯を施した敵機が戦場に出現してきた。…敵機に致命的な打撃を与へる為には止むなく多数弾を発射命中させなければならずこれが為には自然長追いをやる結果となり遂には優勢な敵機の重囲下に陥る破目となった。…我々日本軍人はともすると自分の体を護るのを宛も卑怯な所為でもあるかのように思う傾向があったが…我々が防弾タンクや防楯を排斥して専ら格斗性能の向上を図っていても敵は戦訓を活して機を失せず防御装備を採用していた。

戦闘操縦者の補充は必ずしも順調ではなかった。未帰還者や負傷者の補充を要請しても少くとも一週間以上を終らなければその補充要員は戦場に到着しなかった。また補充要員の技倆も当初は明野陸軍飛行学校の教官や助教という熟練者であって何の不安もなく戦場へ出すことが出来たが七月中旬以降に内地から到著したものの技倆は十分でなくまた熟練者であっても当時は操縦教育に従事していて志気が低下し一機か二機を撃墜して人並の戦歴をもてば進んで困難な任務に就こうとしないものが少くはなかった。
(略)
各部隊は終始前線基地にあって常に寡兵をもって衆敵に対抗し殆ど寧日ない状態を継続して次第に戦力を涸渇させていったのである。…私が負傷した当日に於ける飛行第二十四戦隊の出動全兵力は僅に戦隊長以下十機という悲惨な状態であり…当時第十二飛行団長の指揮下にあった全出動兵力は五十機にも充たない日が少くはなかったのである。…実に我が戦斗飛行隊に於ける有能なる中隊長の約八割を喪った*6

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