寺子屋数の資料

全国寺子屋及私塾調(日本教育史資料)*1
地方別寺子屋数私塾数合計百分比
東京府4881236113.58
京都府566346003.51
大阪府788207984.67
神奈川県507115183.04
兵庫県819528715.11
長崎県188512391.64
函館県48480.28
新潟県6327900.53
群馬県5539940.55
千葉県107531600.92
栃木県86191050.62
三重県11541190.70
愛知県9774310205.98
静岡県254290.17
山梨県254222761.62
滋賀県45084582.69
岐阜県754287824.57
長野県134112514668.60
宮城県567526193.63
福島県281193001.76
青森県45684642.72
山形県636690.40
秋田県249663151.84
福井県3123540.33
石川県191222131.25
富山県174210.11
鳥取県21242161.21
島根県685737584.44
岡山県103114411756.94
広島県257653221.89
山口県130710614138.25
和歌山県29432971.74
徳島県432374692.75
高知県251102611.53
福岡県150502001.12
大分県482915733.34
佐賀県277340.19
熊本県910459555.59
宮崎県96150.09
鹿児島県191200.11
合計15542150517047

石川謙「日本庶民教育史」(刀江書院、1929年)では、江戸の寺子屋数について次のように資料を並べている。
兼山麗沢秘策享保7年(※1722年) 800校 江戸府内
筆道師家人名録文政4年(※1821年)496校江戸府内
筆道師家高名競天保初年(※1830年)230校江戸府内
東京府教育沿革明治4年(※1871年)521校東京府下
文部省第一年報明治6年(※1873年)1128校東京府下
日本教育史資料明治16年調査(※1883年)295校江戸府内
同上同上880校武蔵一円
維新前東京市私立小学校
教育法及維持法取調書
明治25年調査(※1892年)
維新後迄の継続数
114校江戸府内

石川はこのように資料を並べた上で、続けてこう述べている。
かくの如く、調査地域に広狭の差があり、その上寺子屋概念が一定してゐないのであるから、この数字を辿って寺子屋発達の状態を帰納することは出来ない。唯おほまかな推定を下して、江戸府内に規模の稍々大きい寺子屋が三四百位あり、規模の小さいのまで加へると殆ど八九百の師家があったであらうと語り得るに過ぎない。「松本平手習師匠」(大正十三年版)には六百十三の師家が挙げられてゐるが、夫れについて見ると武術の師も囲碁、俳諧、経書の師も国史国学の師も一緒に記されてゐる。私塾と寺子屋とが混在してゐる。「山口県教育史」にも「碧海郡史」にも寺子屋一覧表があるが、これらは「日本教育史資料」の一覧表と殆ど異るところがない。かくて全国的に寺子屋の普及を考究すべき究竟の史料は殆ど見付らない。今のところ、「日本教育史資料」に拠るより外には、全く途がなからうと思ふ
(略)
然し、「日本教育史資料」を材料として、寺子屋の普及を考察するにあたって、予じめ考慮に入れて置かねばならぬ一二の事柄がある。その第一は調査が全国洩れなく行はれたのではないといふことゝ、調査の精粗が地方々々によって異ってゐるといふことゝである。…即ち埼玉、茨城、岩手、奈良、香川、愛媛、沖縄の諸県の報告が載ってゐない。…更にこの「資料」に記載されてゐる寺子屋数を見ると、長野、山口、岡山の如きは何れも千校以上に達してゐて、可なり精密に調査されたものゝ如くに思はれる。然るに栃木、山形以下の十一県は何れも百校未満で、粗雑な調査であったことが分る
(略)
「日本教育史資料」を材料として寺子屋史を研究するに際して、今一つ注意すべきことがある。「資料」は明治十六七年頃に行はれた調査に基づいた記載であるが、その中には四百年も遡って部文明元年(一四六九年)からの寺子屋が記録されてゐる。これ等の古い寺子屋についての記録が、どこ迄正しいものであるかは他の根本史料で証明し得ない限り、何人も判断に苦しむであらう

岡山県教育会編「岡山県教育史. 上巻」(1938年)[9]には次のようにある。
「日本教育史資料」所載の全国寺子屋数一万五千五百四十二の中、元和(※1615‐1624)以前の開設に係るもの十八。即ち長野県の文明(※1469‐1487)、大永(※1521‐1528)、石川県の文明、福島県の天文(※1532‐1555)三年に次ぐものは、元亀(※1570‐1573)元年の開設に係る都宇軍(現都窪郡)妹尾村(現町制)平民矢吹一路右衛門の学舎である。而も明治十年に至る前後三百八年間継続したのは、実に本県庶民教育界の異彩であって、全国的に罕な類例である。(217頁)

各地の寺子屋

愛媛県

久万町誌」(愛媛県)では、次のように記している。
幕末から明治初期にかけて開設されていた寺子屋は上浮穴で三九か所あり、久万町には父二峰に三、久万に六、川瀬に四、明神に四の計一七か所あったようである。この寺子屋では中流以上の男子が、読み、書きを中心に儒学などを習っていたが、この寺子屋に通えない人たちは、通っている人たちから夜間、又習いをしていたようである。老人の思い出話によると「私らは、紙を買ってもらえないので、おぜんに灰を入れて書いては消し書いては消しして習った」ということである。

愛媛県教育会編「愛媛県教育史. 前編」(1938年)では次のように述べる。
遠く文禄、慶長に始まり、享保以降僅かに発達の緒に着き、文化文政以後漸次盛となり、天保以後明治初年に最盛期となり、夫より順次廃止の道途を辿って、各地に新教育令に依る小学校が設けらるおなじに到って、全廃せられたものである。(438ー439頁)
罰の種類は種々あったけれ共最も多く用ひられたのは留置であった。留置にせられた場合は、近所の者が貰下げに行くか、或は師匠の妻女が詫を入れて赦された。罰の軽いのは「しっぺい」や掃除をさせられるくらいであったが、重くなるに従って、無言静坐或は線香を持って立たされたり、水を持った茶碗を持って、水を零さぬ様に直立不動を命ぜられたり、炙〔ママ〕点、縄縛、食止、机馬等を加へた。(465‐466頁)
一言付加して置くべきことは、寺子屋教育時代に於ける不具者の就学状況の事であり。…寧ろ之等の者は労働条件には欠ける所があるけれども、其の頃の学問をするには格別の支障を感ぜぬ所から、読み書きなどを以て身を立てんとする者もあって、就学する者も可成あった。盲聾唖の不具者が通学してゐた寺子屋も、県下を通じて約五十箇所はあったようであるから…維新前の教育現象としては頗る注目に値すると思ふのである。(469頁)
然し今日とは違って欠席が非常に多く、中には寺子屋に行くと言って、弁当だけ途中で喰ひ散らし、道草をくって野山で遊び暮し、退散の頃を見計ひ、家に帰って来る徒者等も少くは無かった。(470頁)
寺子屋師匠の身分を数によって分類して見ると、最も多いのが僧侶の二百五十八で、之に次ぐのが武士の百五十一、庶民の百三十八、神官百十九、庄屋八十一、医師六十六、修験者十六、村役人十四、浪士十、庵主七、儒者七(藩臣中の儒者を除く)郷士一其他不明の順序である。庶民中の師匠には農の外、雑業七、商業七、大工二、鍛冶一、表具師一が加はってゐる。又之等師匠中に女師匠が四人あることは特筆すべきであらう。而して其の内二ヶ所は寺子も全部女である。(473−474頁)
謝儀は金銭を納めた所が百五十、物品主として米を納めた所が弐百十五、米と酒とが七、無謝儀のもの六、其の他は不明である。(477頁)

奈良県

奈良県については、梅村佳代によると「(吉野郡で)最も早いものは寛永16年(1639)に既に開業が確認されていて」「高市郡では明和4年(1768)と寛政元年(1789)に開業されている」「19世紀の初期の文化・文政期に葛下・添下・式下・宇陀各郡の開業が散見できるのであり、本格的には、天保期から明治期に寺子屋開業熱の高揚があったと言えよう」*2

兵庫県

明石郡(今の神戸市・明石市の一部)教育会「明石郡教育誌」(1926年)は次のように記している
〇垂水村
本村の寺子屋は、西垂水に二ヶ所、東垂水、塩屋、下畑、奥畑、中山、東名、西名、山田に各一ヶ所、合計十ヶ所あった。最も早やかったのは、文化年間(1804〜1818)に開始したものである。…
1.設備
教室として別に建設したものは、山田の薬師町邸内に三十余坪の一棟あったのみで、其の他は寺院の一部又は師匠の家を仮用したものである。高い所に在って眺望のよい所もあり、又底い所に在って衛生上如何はしい所もあった。備品としては何一つもなく、只弟子が寺入する際に、机、文庫、学明〔ママ〕品を持って行き、何れも座って勉強したものであった。
2.師匠
師匠の身分は、僧侶、医師、大庄屋、庄屋、其の他篤志家であった。其の一例を本村記事の終りに一覧表として示す。
師匠に対する束修は、盆、正月、五節句等にそれぞれ謝礼を呈したものである。
3.弟子
弟子は普通農家の中産以上の子弟で、八、九歳の頃から父兄に連れられて、寺入したものである。其の時師匠に対しては勿論、弟子達に対しても何か相当の手土産を持参したものであった。…

岡山県

岡山県教育会編「岡山県教育史. 上巻」(1938年)には次のようにある。
矢吹氏の学舎(※元亀元年=1570年開設)に次ぎ、明和二年(※1765年)邑久郡濱村(現豊邑)神官祝部満信経営の学舎を見、天明八年(※1788年)には窪屋郡倉敷村(現倉敷市)平民真鍋鶴右衛門経営の学舎を見、次いで寛政年間(※1789ー1801)には五ヶ所を算し、以来以上の勢を以て増加した。即ち寛政初年より天保(※1831‐1844)季年に至る五十五ヶ年間に百八十九ヶ所。弘化(※1844‐1848)元年より明治初年に至る二十五ヶ年間に七百二十ヶ所となり、明治五年現在にては実に一千三十一ヶ所を算し、長野、山口二県に次ぐ多数を示してゐる。

徳島県

徳島県教育会編「徳島県教育沿革史」には次のようにある。
罰条は…其の条目は概ね過怠草紙、過怠、留め置、黙坐、放逐等なり
過怠草紙とは平日課し習はしむる草紙の外予て師家に備へ置ける草紙に罰の軽重に応じ若干の草紙を習ひ了らしめ以て他生徒より遅く帰宅せしむるものなり
過怠は寺子屋に於ては予て十枚二十枚若くは五十枚百枚等と小紙片に記せる褒美札と云ふものあり此札は清書の善悪に因り定め与へらるゝものにして漸く積みて千枚或は千五百枚等予定の額に達すれば師匠に之を還納せしめて筆墨等の賞品を与ふるなり生徒各自は常に之を貨幣の如く重んじ貯ふるものにして罰あるときは軽重に従ひ科料の如くに没収せらるゝなり
留め置は放課後一二時間留め置くを云ふ
黙坐は発言せしめず静に坐せしむるを云ふ
放逐は一時若くは永く放逐するを云ふ
右の外種々の体罰を加へ若くは火を選考に点じ之を捧げしめて苦悶懲戒したる等の酷罰あり今を以て之を見るときは実に論ずるに足らざるが如きも蓋し又当時の国法に準拠して勢然るを致したりすものならん

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