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スマラン事件

 政府は河野談話にあたって1991年12月から93年8月まで関係資料を調査し、関係者からの聞き取りを行い、関係資料は内閣官房外政審議室が文書にまとめています。
 赤嶺氏は、その中に「バタビア臨時軍法会議の記録」が収録されていることを指摘。安倍内閣の答弁書は資料の出典を認め、「ご指摘のような記述がされている」と答えました。
 バタビア臨時軍法会議(スマラン事件)は、日本軍がジャワ島スマランなどでオランダ人女性らを慰安婦として使う計画を立て、その実現に直接・間接に関与したことを明らかにしたものです。「慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした」などと記されています。
 政府は、赤嶺議員の答弁書で初めて、この事実を公式に認めましたが、強制を示す文書を保有していたことを認めた以上、07年の答弁書の虚偽性は明らかです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-24/2013...

 判決文には将校らの証言として「州警察の長に、遊女屋用の女をキャンプで選出するよう依頼した」「婦女は○○(将校の名)の要請により州の役人が連れ出した」「女たちは遊女屋に入るまで、どういう仕事をするのか聞かされていなかった」と記載されている。
 資料に含まれ、(能崎)中将が帰国後の66年、石川県庁で行われた聞き取り調査の記録によると、中将は「連合軍の取り調べとなると、婦人たちもあることないこと並べたて、日本軍部を悪口する」と戦犯法廷に反論する一方、「(慰安婦となる)承諾書を取る際も若干の人々に多少の強制があった」と述べた。
https://web.archive.org/web/20131013080931/http://...

被害者が白人女性だったことから、日本人の間ではこの事件は「白馬事件」という下卑た名で呼ばれていた。戦後、オランダ軍のバタビア(現在のジャカルタ)軍事裁判で、慰安所を開設した南方軍第一六軍幹部候補生隊の隊長、能崎清次中将と慰安所開設の立案にかかわった池田省三大佐、岡田慶治少佐ほか軍医や民間人の慰安所経営者ら十三人が強制売春、強姦などの罪で裁かれた(階級は終戦時)。(『「BC級戦犯」を読む』日経新聞社、152頁)

スマラン郊外の数カ所の民間人抑留所から女性が集められた。その際、オランダ人女性には読めない日本語で書かれた同意書に署名させたり、「仕事の種類が記されていなかったことがわかった」(公判での池田大佐の供述)。計画の中心的役割を果たしたとみられた大久保大佐は、戦犯容疑者となったことを知り、故郷仙台で自殺している。遺書には「能崎に責任がある」とあり、これも裁判では証拠資料となった。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120225/p1

裁判で通訳を務めた元主計中尉は62年の聞き取り調査で・・・「こんな恥ずかしい事件はほかにはなかった。弁護人もさじを投げていた。人道上の罪を犯した事件といえば蘭裁判でこれくらいのものだろう」と厳しく批判する。
http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20090912/125285...

裁判で弁護を担当した萩原竹治郎弁護人へ、1958年に聞き取り調査が行われている。そこでは、この事件を含め日本軍の戦争犯罪を裁いたオランダによるバタビア裁判全般について「起訴状に出ているくらいのことは事実であったと思う。」「実際にやっているのに無罪になったものもいる。戦犯的事実は起訴された5倍も10倍もあったと思う。」と厳しい意見を述べている。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120225/p1

岡田慶治少佐(南方軍幹候隊歩兵隊)
・石田か或は他の中の一名が余に対し自由意志に基く婦女45名の名簿の中にも自由意志に基かざる者が数名ゐると云ふことを報告し来れり。
・35名の婦女の中にも慰安所にて働くことを志望せざるものが数名をると云ふ話も聞きたり。

下田真治(軍属・慰安所「双葉荘」経営主)
・他の「キャンプ」にては婦人達は恐怖の為事務所へ来ず、一騒ぎありたりとのことを聞けり。
・之等7名の婦人が余の慰安所に来りたる後、余は中に自由意志に依らざる者あることを認めたり。…之を福田中尉に報告せり。而るに彼は「どうにもならぬ。構はぬから働かせよ」と云ひたり。

蔦木健次郎(軍属・慰安所「将校クラブ」経営主)
・岡田は全員を集めて通訳を通じて、彼女等に彼女等は慰安所に入れられたのである。故に皆其の心算で行動せねばならぬと告げた。
・彼女等の第一夜は斯くして開始せられた。…1乃至2名の婦人の泣声を聞きたり。…余は又婦人達が泣いてゐるのを何回も見たり。
・貴下は婦女達の泣くのを良く見たりと云ふも、理由如何?…慰安婦の仕事が嫌で泣きたるものと思考す。

山口元吉(第16軍兵站参謀)
・岡田少佐は友人たる憲兵隊村瀬少佐から、当時規定等は遵守の要なし、宜しく強制的にやるべしと云はれたり。

尾西久太郎(憲兵中尉)
・岡田は「スマラン」及「マゲラン」の慰安所開設の許可申請に「バタビヤ」に来たる際、佐藤少佐と村瀬少佐と数回に亘り会見し、斯かる際に村瀬は岡田に対し強制的に抑留婦人を以てする慰安所の開設を勧め、若しも問題が起りたる際は村瀬が責任を負ふと云ひたりとのことなり。
http://blog.goo.ne.jp/aehshinnya3/e/b8877ccf7b8c0d...

池田省一 陸軍大佐 懲役15年
岡田慶冶 陸軍少佐 死刑
河村千代松 陸軍少佐 懲役10年
村上類蔵 軍医少佐 懲役7年
中島四郎 軍医大尉 懲役16年
石田英一 陸軍大尉 懲役2年
古谷巌 軍属 懲役20年(スマラン倶楽部)
森本雪雄 軍属 懲役15年(日の丸倶楽部)
下田真治 軍属 懲役10年(青雲壮)
葛木健次郎 軍属 懲役7年(将校倶楽部)
大久保朝雄陸軍大佐 訴追を知り自殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E4...

その他の強制連行

オランダ政府報告書はスマラン事件のほかにマゲランなどの事例を挙げている。
以下「『慰安婦』強制連行―史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子」(株式会社金曜日)より抜粋。
日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告

序論並びに要約
・・・調査結果によれば、オランダ領東印度各地の娼楼にヨーロッパ人女性を送り込むために日本占領軍が実力行使をした事例が数例あった。娼楼で働いたニ〇〇人〜三〇〇人のヨーロッパ人女性のうち約六五人は売春を強制されたことが絶対に確実である。以下は調査によって明らかになった事実の概要である。(216頁)
●マゲラン
 強制売春のもっとも悪名高い事例はマゲランとスマランにおけるヨーロッパ人女性への軍娼楼への連行である。・・・警察署で日本人たちが、抑留所のリーダーたちの面前で、さらに女性の選考を実行した結果、二人の志願者と最初に連れていった女性の内の二人(そのうちの一人は一四歳の少女だった)がムンティラン抑留所に送り返された。四四年一月二八日、残りの十三人の女性(四人の未婚の少女を含む)はマゲランに連れていかれ、そこで乱暴に検査され、強姦され、売春婦として働くことを強制された。(228・229頁)

●スマラン(※白馬事件)
・・・大規模な女性狩り出し作戦が実行された。・・・残りの四カ所の抑留所では日本人は成功をおさめ、二月の最後の週に、スマランの娼楼の日本人経営者たちの立ち合いのもとで、第二回目、第三回目の女性選びが行なわれた。これらの女性たちを選択した目的は決して明らかにされなかった。四四年二月二六日、女性たちは抑留所から連れ出された。・・・ハルマヘラ抑留所の後、日本人グループがアンバラワ第六とアンバラワ第九の二カ所の抑留所を訪問した。この二カ所の抑留所の女性たち、とくにアンバラワ第九抑留所の女性が強く抗議したにもかかわらず、日本人は自分たちが選んだ女性を連れ出すことに成功した。各々の抑留所で選ばれた九人の女性たちは力づくで連行された。
・・・このようにして少なくとも三六人の女性が集められたが、そのうち少なくとも二四人―すなわちハルマヘラ、アンバワラ第六、ならびにアンバワラ第九から連れて行かれた女性たちが、スマランの軍娼楼で売春婦として強制的に働かされた。彼女たちは乱暴に検査され、強姦され、殴られ、そして強制的に日本人の男の相手をさせられた。二人の若い女性は逃げ出そうとしたが、警官につかまり、娼楼に帰された。そのうちの一人は自殺未遂をした。また一人は気が狂った風を装って、精神病院に監禁された。また、一人はスマランの病院で妊娠中絶の処置を受けた。
 四四年四月の最後の週になってヨーロッパ人女性が働いている娼楼は突然閉鎖された。東京の陸軍省の民間抑留所と捕虜抑留所の監督責任者の大佐がジャワの民間人抑留所の現地調査に来た結果であった。娘をとられたアンバラワ第九抑留所のリーダーの一人がこの大佐との会見をなんとかして取りつけ、彼女たちの身に起こったことを訴えた。大佐はこのことをバタビア、シンガポールと東京に報告し、スマラン娼楼の即時閉鎖を勧告した。バタビアの軍司令部はただちにスマランの将軍にその旨を命令して勧告に応じた。戦後、此の将軍と彼の部下数名とその他の日本軍人、日本人業者、性病検診を担当した医師らはバタビア臨時軍法会議で裁かれた。上記の立案者であった少佐は死刑判決を受け、他の者も禁固刑の判決を受けた。責任者の一人である日本軍人の一人は逮捕される前に日本で自殺した。

●スマラン/フロレス
 ここでは一九四四年四月中旬に起った日本軍娼楼で売春を強制されたヨーロッパ人女性についての事件を特筆すべきであろう。上述の娼楼閉鎖の数日前、警察と憲兵はスマランで手入れを行ないおよそ一〇〇人もの少女や未婚の若い女性を捕まえ、四つの軍の娼楼の一つであるスマラン倶楽部(元スプレンディッド・ホテルとして知られている)に連れて行き、女性の選考を行なった。連れて行かれた女性たちは依然、飲食店で働いていたり、さまざまな理由で警察や憲兵にあまりよく思われていなかった者たちであった。捕まえられた女性たちの中には抑留所の外に住んでいたヨーロッパ人もいれば、インドネシア女性もいた。夕方になると、怒った女性たちの家族や友人たちが大勢スプレンディッド・ホテルを囲んだ。二〇人ほどの女性が選ばれ、乱暴に検査された後、翌日、汽車に乗せられてスラバヤに輸送された。二カ月後、そのうちの一七人(一人は病気、二人はスラバヤで逃走)が船で軍の娼楼に輸送され、売春婦として働くことを強制された。このうち七人はヨーロッパ人女性であった。(228-232頁)
 一九九九年度に法務省から国立公文書館に移管された東京裁判(極東国際軍事裁判)関係文書「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.一六)、(NO.五三)、(NO.五四)」の文書綴りに、軍や官憲が「慰安婦」被害女性を強制的に連行した証拠書類が残されていることが判明している。書証番号三五三の「桂林市民控訴 其ノ一」、書証番号一七二五の「訊問調書」、書証番号一七九四の「日本陸軍中尉ノ陳述書」である。

 書証番号一七二五の文書には、被害女性の証言として「私ヲ他ノ六人ノ婦人ヤ少女等ト一緒ニ連レテ収容所ノ外側ニアッタ警察署ヘ連レテ行ッタ。(中略)私等ヲ日本軍俘虜収容所事務所ヘ連レテ行キマシタ。此処デ私等ハ三人ノ日本人ニ引渡サレテ三台ノ私有自動車デ「マゲラン」ヘ輸送サレ、(中略)私達ハ再ビ日本人医師ニ依ッテ健康診断ヲ受ケマシタ。此囘ハ少女等モ含ンデ居マシタ。其処デ私達ハ日本人向キ娼楼ニ向ケラレルモノデアルト聞カサレマシタ。(中略)私ハ一憲兵将校ガ入ッテ来ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ進ンデ応ジナイナラバ、居所ガ判ッテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。」と記録されている。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syu...

インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック
日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告 一九四六年七月五日

一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。・・・・日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。
https://web.archive.org/web/20070513161707/http://...

「海軍特別警察隊」太平出版社、1975年

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
https://web.archive.org/web/20121125150905/https:/...

海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編『滄溟』

 M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと、強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。
https://fightforjustice.info/?p=9052
https://wam-peace.org/ianjo/resource/a-3746/

この裁判において、山西省平魯縣警察隊指導官■■■■は、「驢馬を」「没収」した容疑や、「中国人婦女を徴集し、強迫して娼婦となした」容疑で起訴され、前者は有罪、後者は無罪と認定され、10年の判決が言い渡された。後者に関しては、1945年3月15日、大同に出張し、そのまま大同警察指導官に転勤となったとの主張に加え、「婦女を徴集して脅迫して娼となしたのは警備隊太■中尉が主管であ」り、「関係がなかった」と主張し、無罪となっている。
・・・つまり、この裁判における「強制的売春のための婦女子の誘拐」事件は、警察隊と警備隊のどちらに責任があるのかが争点となっており、「強制的売春のための婦女子の誘拐」自体を否定したものではない。
https://keiho.repo.nii.ac.jp/records/459

次の資料も強制連行と思われる。 蘭・バタビヤ法廷事件番号第二五号 三警事件資料
供述者 ○○○○(元海軍兵曹長)
調査者 ××××(原文実名)
日時 昭和三七年八月八日(水)一四、〇〇から一五、三〇まで
場所 大阪矯正管区、管区長室

(注)本調査は大阪矯正管区長△△△△(原文実名)氏の調査の際、管区長の好意により、調査対象外なりしも、電話招致されたるにより、併せて聴取したものである。

 ・・・この酋長事件以外は、殴った蹴った程度のもの許りであった。
 私の本当に恐れていたような大事件は遂に出ず幸であった。

○私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。
 これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れて来た件である。
 下士官の妻君五人は、終戦後直ちに送り返したが、スラバヤ着と同時に原住民に殺されたとのことであった。
 この外にも、戦中の前後約四ケ年間に二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。
 私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。
 これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴えが出なかった。
○原住民は一般的に性的には風紀は紊乱しており、一応は慰安婦となることを嫌うが、一度連れて来られ衣料等の支給を受けるとまるで平気な素振りであった。
 なお、バリ島住民は宗教的にヒンズー教徒で、親日的であり、この点ジャバ島のイスラム教徒と対日感情も異るようである。
 バリ島で重大事件が発覚しなかった理由は、こんなところにもあったかも知れない。(3〜4枚目)
https://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/pdf/M-PDF/J_...

誘拐

1937年 長崎慰安婦誘拐事件・大審院判決

資料を参照

1942年1月 米紙「サンノゼニュース」記事

新聞名:San Jose News
掲載日時:Jan 1, 1942
記事タイトル:JAPS OPENING BROTHELS IN PHILIPPINES
記者情報:H.O.THOMPSON United Press Staff Correspondent/WASHINGTON,Dec.8(UP)
該当箇所:「RACKETEERING SECTION」の章まで
URL:http://news.google.com/newspapers?nid=1977&dat=194...
以下記事抜粋
 If the Japanese are following their usual custom they are now opening bath houses and brothels in those parts of the Philippines where they are not kept otherwise engaged by Gen. Douglas Macarthur.
Establishment of brothels and bath houses are the usual accopaniments of Japanese entrance into new territory, whether by colonization or force of arms. Through more than four years of warfare in China and in various smaller-scaled expeditions,the Japanese have regularized their procedure.Indications that they are following the normal pattern came from the war department report that quantities of poorly printed and worthless money were being circulated by Japanese soldiers in Manila.

RACKETEERING SECTION(闇商売の部門)
 Camp-following Japanese women are never far behind the front lines in Japanese campaigns and they are moved along as conditions warrant.They usually are former geishes of faded charm or women sho have been sold by their parent into supposed domestic service outside of Japan but who sooner or later find themselves in houses of prostitution.
 The Japanese army has a special service section which takes care of such arrangement. It might well be termed the racketeering branch of the army, for it specializes in actibities such as the operation of brothels and gambling houses, the peddling of narcotics and the foisting of counterfeit money or worthless  army “scrip” upon subjugated peoples.
〔訳〕もし日本人が通常の習慣に従っているなら、彼らは今浴場と売春宿を開設しつつある。フィリピンのうち、他地域と違ってマッカーサー大将と交戦状態に無いところで。
 売春宿と浴場の開設は、植民地化だろうが武力によるものだろうが、日本人が新しい領地に入った際の付き物として普通のことである。
 中国における4年以上の戦争、またはそれより小規模の遠征を通して、日本は彼らのやり方を整備した。彼らが(いまフィリピンで)いつものやり方に従いつつあるという兆候は、陸軍省の報告によるものだ。報告によると大量の印刷の悪く価値の無い金がマニラの日本兵によって流通させられていた。
 駐屯地に付き従う日本人女性たちは、日本軍の戦闘の前線から決してそう離れてはおらず、また彼女たちは契約が定めるのに従い移動させられた。彼女たちは通常は容色の衰えた元ゲイシャであるか、もしくは日本国外での召使の職務のはずの仕事として親に売られた女性たちであるが、しかし自分たちは売春宿にいると遅かれ早かれ気がつくわけだ。
 日本軍はそれらの手配を受け持つ特殊事業部門を持っていた。それは軍の闇の部門と名づけられてもおかしくはない。というのはそこは売春宿や賭博場の運営、麻薬の密売や偽造紙幣もしくは価値の無い軍票を征服した人々に押しつけることを専門にしていたからだ。

1944年10月 米軍報告書「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」

米軍報告書「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」1944年10月
徴集
1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地シンガポールにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

原文
Japanese Prisoner of War Interrogation Report 49

RECRUITING;
Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

1944年11月 米軍新聞「ラウンドアップ」

戦時中アジア戦域の米軍新聞「ラウンドアップ」1944年11月30日付記事「日本の慰安婦」(原文:"JAP COMFORT GIRLS")
浅野豊美「雲南・ビルマ最前線における慰安婦達−死者は語る」の解説より抜粋
最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である4)。
 「ラウンドアップ」のタイトルは、「日本の慰安婦」(原文:"JAP COMFORT GIRLS")で、ウォルター・ランドルという記者によって執筆された。ビルマと雲南の国境地帯を北から南に流れている怒江(別名:サルウィン河)前線から寄せられたものと但し書きがついている。また、ランドル記者が慰安婦にインタビューをした際に通訳を務めたのは、「満州から脱出してきた日本語を話す中国人学生」で、恐らく写真の左端に笑顔で写っている青年がそれだと考えられる。
 インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は以下のようであった。
 1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC"organizations )の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。道すがら彼女たちは、日本の大勝利と南方で新しく生まれようとしている共栄圏についての話をたくさん聞かされた。しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。
※「第4野戦飛行場設定隊 陣中日誌」9月1日の項に「五、当地にも半島人の慰安所の開設を見、本日より開業さる」(アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp/ レファレンスコードC16120239600(1画像目)
第4野戦飛行場設定隊は当時ミャンマーにあった

元の新聞記事から、下線部の原文。
They said that early in the spring of 1942 Japanese political officers arrived in their home village, Pingyang, Korea. With propaganda posters and speeches the Japs began a recruitment campaign for "WAC" organizations which they said were to be sent to Singapore to do noncombatant work in rear areas - running rest camps for Japanese troops, entertaining and helping in hospitals.

ここで"WAC"organizationsが何なのかが問題になるが、WACとはWomen's Army Corps(陸軍婦人部隊)の略称と考えられる。
Over 150,000 American women served in the Women's Army Corps (WAC) during World War 11〔ママ〕.
〔訳〕第二次大戦の間、15万人を超える米国女性が陸軍婦人部隊(WAC)で勤務した。
http://www.history.army.mil/brochures/wac/wac.htm
一つ目資料の傍線部では"WAC"organizationsを「挺身隊」としているが、慰安婦が聞き取りで実際にどういう表現を用いたかは分からない。WACと訳せるようなものは、当時の日本では挺身隊の他に報国隊、奉仕隊などがあるだろう。慰安婦はそれらの単語を使ったかあるいは類似の表現を行い、それを通訳が英訳し、米軍紙記者が「WAC」と表現したわけである。

1948年11月 東京裁判判決

極東軍事裁判判決速記録
桂林を占領している間、日本軍は強姦と略奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した(186頁2段目)

1982年 小俣行男「現代のドキュメント 侵掠 中国戦線従軍記者の証言」

小俣行男「現代のドキュメント 侵掠 中国戦線従軍記者の証言」徳間書店1982年9月30日初刷
第4章「『仏印』への侵攻準備をみる」の「『とい』の女」の項

  その翌日、私は応山へ連絡に引きかえした。ここには第三師団の留守部隊がいて、軍司令部の警備に当っていた。その留守部隊長は私の中学の同級生の若林四郎少佐だった。
  陸士出の将校で、こんどの戦争では岐阜の六十八連隊の砲兵隊の中隊長だった。徐州会戦が終ったとき、六十八連隊ではたった一人の生き残りの中隊長だった。南京で会ったときは大尉だったが、ここでは少佐になっていた。
  隊長室へ入って行くと、彼は「おー」と奇妙な声を出し、「よく来たなァ」といって喜んでくれた。八字髭を生やし、ここでは堂々たる隊長ぶりをみせていた。日が暮れると若林は「おい、飲みに行こう」といって「とい街」に出かけた。「とい」といわれて、何のことだかとまどったが、「特殊慰安所」の「特慰」を略して「とい」と呼んでいたのだ。
  武漢作戦終了後、第三師団はこの応山に駐屯していたので「特殊慰安所」をつくっていたのだった。家は十数軒、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。珍しく――というのは前線の慰安婦はたいてい朝鮮人が多かったからだ。これらの日本の女たちも、昼間は兵隊たちのために客をとる。夜は将校のために酒の相手をする。夜更けると将校といっしょに寝る。それが特殊慰安婦だった。
 若林隊長はそのなかの顔なじみらしい一軒に入っていった。いつもは賑わう「とい街」だというが、作戦で兵隊が前線へ出てしまったので、ひっそりとしていた。若林と私が入ってゆくと、三、四人女が出てきた。こんな前線には、もったいないような、若くて、器量のよい女たちだった。
  こんな器量の女たちなら、こんな前線へ来なくても、どこでも立派に働けるのにと思って、そのうちの一人、丸顔の可愛い娘にきいてみると――
私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ。皇軍慰問ということが、どういうことかも知らなかったし、話にきいた上海へ行けると言うので誘いに乗っちゃったの。仕度金も貰えたし、上海までは大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわ、と思って来てみたら、『とい街』だったじゃないの、ここまできてしまったら、逃げて帰ることもできないし、あきらめちゃったわ」。
  そういって彼女は私にビールをついだ。
  ここにも“聖戦”のかげに女がいた。“聖戦”といい“皇軍慰問”といって女を連れだすのだが、その慰問の実態がこれだったのだ。私は、その後も、こういう慰安婦たちから話をきく機会があったが、朝鮮人女性の場合など、強制連行同様であった。何も知らない少女たちが、戦場に連れてこられて、性に飢えた兵士たちを相手に、一日、何十人もの“労働”が課されるのだ。何人も相手をしていると、しまいには“死んだ”ようになってしまう。それでも、殺伐な戦場から帰った兵士たちは、慰安所に殺到した。このころのようにまだ日本軍が勝ち戦さをつづけている場合はまだよかったが、敗戦をつづけるようになると、足手まといの彼女らは、戦場に置き去りにされた。太平洋戦争下で、これら慰安婦たちの哀話は多い。
  このときの慰安婦は、日本人で、まだそれほどの思いをしていなかったためか、陽気であった。たもとから小さな資格のセルロイドの札をパラパラと三、四枚出して数えた。
「ちかごろは閑になっちゃってね。今日もこれっぽっち」。兵隊に抱かれるたびに一枚ずつ渡されるセルロイドの札、兵隊が前線に出動する直前などは十五枚も二十枚もあった日がつづいていたといっていた。
  若林はそんな話には飽き飽きしていたらしく、「おい、くだらない話はもうそのくらいにして、もっとお客さんにお酌をしろ、お前も飲めよ」といって、彼女たちにビールを飲ませた。
  私たちは夜更けまで、級友や故郷のことなどを話し合った。(186-7頁)

1982年 小俣行男「現代のドキュメント 続・侵掠 太平洋戦争従軍記者の証言」

小俣行男「現代のドキュメント 続・侵掠 太平洋戦争従軍記者の証言」徳間書店1982年10月31日初刷
はじめに―日中戦争から太平世戦争へ
私は「読売新聞」社特派の従軍記者として上海に着いた。南京が陥落したばかりの一九三八年(昭和十三年)一月のことだった。・・・私は広東から南寧に入り、さらに国境を越えて仏領印度支那(ベトナム)北部への武力進駐に従軍した。この北部進駐が南部仏印進駐となり、ついに太平洋戦争へと発展した。私はマレー、シンガポール、ビルマ戦線に従軍した。(5-6頁)

第4章「ビルマ戦線―歓呼と壊滅」の「慰安所の少女八名を逃がす」の項
  ある日、 「日本から女が来た」という報せがあった。連絡員が波止場へ行ってみると、その朝到着した貨物船から、女が四、五十人上陸して宿舎に入ったことを聞いた。
  しかしこれは「日本の女」ではなく「朝鮮の女」だった。連絡員の話では、まだ開業していないが、新聞記者達には特別にサービスするから、「今夜来てもらいたい」という話だった。
  「善は急げ!」ということになって、私たちは四、五人で波止場近くの彼女たちの宿舎に乗りこんだ。私の相手になったのは、二十三、四の女で、日本語はうまかった。公学校の先生をしていたという。
  「学校の先生が、どうしてこんなところへ来たのか」ときくと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。
  「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。私は東京へ行ってみたかったので応募しました。仁川沖で泊っていた舟に乗りこんだところ、船は東京へは行かずに、南へ、南へと動いて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいが降されて、私たちはビルマに連れられて来たのです。歩いて帰るわけにもいかず、逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ可哀想なのは何も知らない娘たちです。十七、八の娘が八名います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はありませんか」
  彼女たちのいうように、逃亡できる状態ではない。助ける方法といって何があるだろうか。考えた末に、「これは憲兵隊に逃げこんで訴えなさい」といった。
  前線の憲兵は泥棒の首をきる。悪いことをしたものの首に札を下げ、街路樹に縛りつけたりする。しかし、彼女たちがかけこめば、何か対策を講じてくれるかも知れない。あるいはその反対に「脱走者」として処罰されるかも知れない。しかし、いまのビルマでは、ほかにどんな方法があるだろうか。
  私の話を聞いて、若い記者たちも同情して、それこそ、「善は急げ!」だ。早速私たちはこの八人の少女を連れ出して、憲兵隊に逃げこませて、救いを求めた。憲兵隊でも始末に困ったが、慰安所の抱え主と話し合って、八名の少女は将校クラブに勤務することになった。その後この少女たちはどうなったのだろうか。 (181-2頁)
※「第4野戦飛行場設定隊 陣中日誌」9月1日の項に「五、当地にも半島人の慰安所の開設を見、本日より開業さる」(アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp/ レファレンスコードC16120239600(1画像目)
第4野戦飛行場設定隊は当時ミャンマーにあった

2004年 福岡良男「軍医のみた大東亜戦争」

福岡良男「軍医のみた大東亜戦争」暁印書館、2004年5月7日初版発行 
インドネシア・セレベス島の慰安所の話が出てくるが、以下の回想で出てくるP子は誘拐被害者である。
慰安婦の局部検診

慰安所の検診は、一週間に一度、土曜日に定期的に行なわれた。…慰安婦は全員インドネシアの女性であった。…
(慰安所経営者「マダム朝子」が)「ドクター、今日は二人の新規採用者がいますから、まず先に検査をして下さい」といい、二人の現地の女性P子とT子を連れてきた。P子は、ひどい貧血のある貧しい身なりの女性で、一目見て明らかにまだ男を知らなそうな女性のようであった。もう一人のT子は、顔色の浅黒い、かなり豪華な服装をした女性であったが、服装も乱れており、一見して水商売あがりの女性であることが分かった。
坂方軍医大尉は、先ず、P子の検査から始めるように私に指示し、T子を部屋の外で待機させた。
「ベッドの上に寝てください」と言うと、P子はすべてを観念していたかのごとく、静かに、おずおずとして命じられた姿勢をとった。ハンカチーフで顔を覆い全身をかすかに震わせていた。
P子は、やはり娘であった。坂方軍医大尉は、私にこれ以上検査をする必要がないと命じた。
「帰ってよろしい」と言うと、P子は強ばった顔に安堵の色を浮かべ、軽く会釈して出て行こうとした。
検査合格のサインをだせば、彼女の売春婦としての生活がここで始まる。もし、不合格のサインをすれば、彼女は他の慰安所に連れて行かれるにちがいない。「マダム朝子、もう一度P子を読んでくれ〔ママ〕」と言い、P子を呼んでもらった。P子は、何事がおこるのかと心配して、前よりも一層顔をこわばらせて不安げな足取りで部屋に戻ってきた。

「心配しないでよろしい。もう検査はしない。ところで、どこの村から来たのか」
「……………」
「ここは慰安所のことを知っているのかい〔ママ〕」
「はい」
「村はどこか」
「ラ○です」
「年齢は」
「……………」
「どうして慰安所で働く気になったのか」
ニコラスは喫茶店と言いました。一日三度、肉と魚でご飯が食べられ、お金のほかに、洋服がもらえるところと言われました」と怯えるような態度で重い口を開いた。
「ニコラスが恐いのです。ニコラスは、もし逃げたら憲兵につかまって殺されると言いました」

IM部隊長に取り入って、部隊に物品を納入しているインドネシア人の御用商人ニコラス・タンブブンと弟のブレッ・タンブブンは慰安所の女性集めもしていた。この兄弟はまことに狡賢い男たちであった。IM部隊長に取り入り、女性を次々と世話していた。IM部隊長はいつも2〜3人の女性を抱え、寝ていた。そのために部隊内ではIM部隊長への反感が満ちていた。
あとでわかったここ〔ママ〕であるが、結果的に、P子はIM部隊長によって水揚げされてしまった。(135-138頁)

秦郁彦「慰安婦と戦場の性」所収の証言

以下「秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮社、1999年、382-387頁」より誘拐事例の抜粋
次に列挙したのは、これらの諸証言から私(※筆者=秦)が信頼性が高いと判断してえらんだものである。

A 柴岡浩元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)の証言―
 一九四五年七月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者になぐられていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じると申し渡した。
「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代りに関東軍に応募してくれないか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった」(1)

B 榎本正代伍長(済南駐屯の第五十九師団)の証言―
 一九四一年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。(2)

C 井上源吉憲兵曹長(中支憲兵隊)の証言―
 一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働ら(ママ)いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百―五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」(3)

D 鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言―
 一九四〇年夏の南寧占領直後に<陸軍慰安所北江郷>と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は<田舎の小学校の先生を思わせる青年>で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。(4)

F 梁澄子(ヤンチンジャ)が挺対協の日本大使館デモに参加している元慰安婦の金ハルモニから聞いた身の上話―
 一九三七年、十七歳の時に、金儲けができるという朝鮮人募集人の言葉に誘われて故郷の村を出た。どんな仕事をするかは行ってみればわかる、働いて返したあと、たんまり儲かる、そう言うので親の反対も押しきっていった。
 どんなとこでもここよりましだと思って朝鮮人が経営する上海の慰安所へ行った……
日本人のイズミ少尉に助けられ、一九四〇年に帰郷した。日本人を憎いとは思わない。手先になった韓国人が憎いので、デモには来たが、韓国政府に対して怒ってやったつもり(6)

I 河東三郎(海軍軍属設営隊員)の証言
 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。
 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。(8)

注(1)『憲友』八一号(一九九七)の柴岡浩稿と柴岡談
  (2)本田勝一他『天皇の軍隊』二九三―九四ページおよび榎本談。
  (3) 『憲友』八一号の井上源吉稿と井上談
  (4)鈴木卓四郎『憲兵下士官』(新人物往来社、一九七四)九一―九三ページ。
  (6)尹貞玉他著『朝鮮人女性がみた<慰安婦問題>』、二三〇ページ。
  (8)河東三郎『ある軍属の物語』(日本図書センター、一九九二)六九ページ。

〔資料〕長崎慰安婦誘拐事件の判決文(1937年)

事件の概要
一九三二年の上海事変の際には「設置計画中の海軍指定慰安所で働かせるため、長崎地方の女性一五名を事情を隠し、女給・女中を雇うかのように騙して長崎から乗船させ(誘拐)、上海に上陸させた(移送)」事件がおこり、被疑者は起訴されたが、長崎控訴院は刑法旧第二二六条第一項の国外誘拐罪と同条第二項国外移送罪が成立するものとして有罪を宣告し、大審院もこれを支持した(大審院判決が出されたのは一九三七年三月)(戸塚悦郎「確認された日本軍性奴隷募集の犯罪性」、『法学セミナー』一九九七年一〇月号)。
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html

以下、控訴院の判決文だが、ここで大事なのは「被害女性や親だけでなく当の誘拐犯たちも、説明されるまで慰安所の意味を知らなかった」という点である。文中の下線部※1〜6を参照。
昭和十一年(つ)第五五号
判決
本籍○○ 住居長崎市 A
本籍○○ 住居同市 無職 B
本籍並住居 長崎県 C
本籍○○ 住居長崎市 無職 A´
本籍○○ 住居長崎市 〇〇〇事 B´
本籍○○ 住居長崎市 D
本籍○○ 住居長崎市 〇〇〇事 B"
本籍○○ 住居長崎市 E

右国外移送誘拐被告事件に付昭和十一年二月十四日長崎地方裁判所に於て宣告したる有罪判決に対し被告人等より控訴の申立ありたるを以て当院は検事後藤英橘関与審理の上判決すること左の如し

主文
被告人A、B、Cを各懲役二年六月に被告人A´、B´、E、Dを各懲役二年に、被告人B"を懲役一年六月に処す。
被告人C、B´、Eに対しては夫々原審に於ける未決勾留日数中六十日を右本刑に算入す。
被告人B"に対しては本裁判確定の日より三年間右刑の執行を猶予す。

理由
被告人Cは昭和五年十一月頃より中華民国上海に於て其の雇入に係る婦女をして同地駐屯の帝国海軍軍人を顧客とし醜業に従事せしめ居たるところ昭和七年一月所謂上海事変の勃発に因り多数帝国海軍軍人の駐屯を見るに至りたるを以て海軍指定慰安所なる名称の下に従来の営業を拡張せんことを欲し予て知合の亡Gに該意図を告げ同人の紹介に依り同年三月七、八日頃上海文路江星旅館に於て被告人A、Bの両名に面談し右の企図を諮り之が賛同を得●に被告人Cに於て家屋其の他の設備を提供しG及被告人Aの両名に於て該営業所に於て醜業に従事すべき日本婦女を日本内地に於て雇入れ移送することを担当し被告人Bに於て之が雇入資金を提供することを約すると共に婦女雇入に際しては其の専ら醜業に従事するものなることの情を秘し単に女給又は女中として雇ふものの如く欺罔し勧説誘惑して上海に移送せむことを謀議しGに於ても直に之に賛同すると共にB等の旨を受けて其の頃長崎市に於ける被告人Bの妻なる被告人B´に右の協議内容を通知して婦女の雇入方を求め被告人B´や其の旨を被告人Aの妻なる被告人A´及被告人Dの両名に通ずると共に被告人A´との間にはこれが実行を両名に於て分担すべき旨の協議を遂げ次で被告人Dとの間にはB等の協議せる前記方法に基き婦女を雇入るべきことを謀議し居たるがさらに同月十四日被告人Bに於て長崎市に帰来するや直に同市内なる同人方にF及び被告人A´を招致し同人等並に被告人B´に対し前叙上海に於ける協議の結果を告げて婦女移送方を促し同人等も之に賛同の上被告人B´に於ては同年三月下旬頃被告人B"、原審相被告人H及Hを介して原審相被告人Iの三名に、F及被告人A´に於ては同月十四日頃被告人Eに夫々B等の協議せる前記方法に依り婦女を誘拐して上海なる前示慰安所に移送せむことを諮りたるところ被告人B"、E及原審相被告人H、Iは孰れも之に賛同し

第一、
被告人A、B、C、B´及A´の五名はGと共謀の上(以下事実を判示に当りて右被告人五名及Gを単に被告人A等六名と略称す)
(一)
被告人B´に於て同年四月初頃長崎市内なる同人方に於て    に対し行先は兵隊相手の食堂なる旨虚言を構へ且祝儀等に依る収入一ケ月二、三百円位ある旨甘言を弄して上海行を勧め同女をして其の旨誤信せしめて之を誘惑し
(二)
被告人A´に於て前同日頃同市    なる被告人E方に於て    に対し勤口は食堂の女給にして客を取る要なき旨詐言を構へ且百五十円位を前借するも二、三ケ月にて完済し得尚毎月五十円位親許(もと)に送金し得べき旨甘言を以て上海行を勧誘し同女をして其の旨誤信せしめて誘惑し

第二、 
被告人A等六名及Fは共謀の上Fに於て同年五月初頃長崎県北高来郡    方に於て同人に対し一年居れば内地の三年乃至五年分の儲ある故二女    を上海駐屯帝国軍隊の酒保の如き所の売子として奉公せしめては如何との趣旨の詐言並に甘言を構へ同人より之を聞知せる    をして其の旨誤信せしめて同女を誘惑し

第三、
被告人A等六名並に被告人Dは共謀の上Dに於て
(一)
同年三月十一、二日頃長崎県西彼杵郡    方及被告人    の肩書居宅に於て    に対し上海の料理屋に女給又は女中として奉公するに於ては多額の収入あり且客取りを為すの要なきに依り次女    を上海に奉公に遣りては如何との旨の甘言及詐言を弄し    より之を聞知せる    をして其の甘言を真実なりと信ぜしめて同女を誘惑し
(二)
前同日頃前同所に於て        両名に対し前同様申向けて右両名を誤信せしめ之を誘惑し
(三)
同年四月初頃長崎市    方に於て同女に対し一ケ月七十円位の収入あるに依り上海に行き同地の海軍慰安所に於て「カフェー」の女給又は仲居の如き仕事を為しては如何と甘言並に詐言を構へ同女をして其の旨誤信せしめ之を誘惑し

第四、
被告人A等六名並に被告人B"は共謀の上B"に於て同年四月初頃同市    方に於て同女に対し行先は海軍慰安所にして水兵或は士官等相手の「カフェー」なるが収入は一ケ月七、八十円に達し一年位居り家を造りたる人もある故上海に行きては如何と詐言及甘言を以て誘ひ同女をして其の旨誤信せしめて之を惑はし

第五、
被告人A等六名並に原審相被告人H、Iは共謀の上H及Iの両名に於て前同日頃
(一)長崎県南高来郡    方に於て同女に対し多額の収入ある食堂の帳場方として世話するに依り上海に行きては如何と詐言並に甘言を構へ且被告人B´に於ても其の頃長崎市内なる同被告人方に於て    に対しH等と同様の事を申向け同女を誤信せしめて之を誘惑し
(二)同    方に於て同女に対し行先は兵隊相手の食堂なるも一日に祝儀一、二円の収入ある故上海に行きては如何と詐言葉並に甘言を構へ同女をして其の旨誤信せしめて之を誘惑し

第六、
被告人A等六名並に原審相被告人Hは共謀の上Hに於て同日頃
(一)
同郡    方に於て同女に対し上海の仕出屋の女中奉公を為さば月、二、三十円の収入ある故上海に行きては如何と詐言並に甘言を以て同女を誘ひ同女をして其の旨誤信せしめて之を惑はし
(二)
    方に於て同人に対し内地に於ける給料の二、三倍の収入ある故四女    を上海の「カフェー」の女中として奉公せしめては如何と詐言並に甘言を構へ同人より之を聞知せる    をして之を真実なりと信ぜしめ同女を誘惑し

第七、
被告人A等六名並に被告人EはFと共謀の上Eに於て
(一)
同年三月末頃長崎市    なる被告人E方に於て    に対し上海に於ける海軍慰安所の女中として同地に行きては如何、給料は月四、五円なるも祝儀に依る収入は五、六十円に達する旨詐言並甘言を構へ同女をして其の旨誤信せしめ之を誘惑し
(二)
其の頃事情を知らざる    をして同市    なる同人方に於て    に対し前同様申向けしめ同女をして其の旨誤信せしめて之を誘惑し
(三)同年四月初頃被告人E方に於て    に対し海軍士官相手の飲食店の女中として上海に行きては如何五十円位の前借を為すも一週間にて直に返済し得べき旨詐言及甘言を以て同女を誘ひ同女をして其の旨誤信せしめて之を惑はし

因て孰れも上海行を承諾せしめたる結果
(イ)同年三月十四日長崎出帆の上海丸に        等三名を
(ロ)同年四月一日同港出帆の長崎丸に    
(ハ)同月八日同港出帆の前記汽船に                        等七名を
(二)同月十二日同港出帆の浅間丸に            等三名を
(ホ)同年五月六日同港出帆の上海丸に    
順次乗船せしめて之を誘拐したる上各其の翌日同女等を孰れも順次上海に上陸せしめ以て同女を帝国外に移送したるものなり。
而して被告人B"を除く其の余の被告人等の所為は犯意継続に係るものとす。

証拠を案ずるに右事実は犯意継続の点を除き
判示冒頭記載の点並に判示第一乃至第七記載の如く各共謀関係の成立したる点は

一、
被告人Cの当公廷に於ける私は昭和五年十一月頃より中華民国上海北四川路志安〇九号に於て海軍指定休憩所なる名称の下に営業所を構へ女中として雇ひたる婦女をして同地滞留の日本海軍軍人を顧客とし醜業を為さしめ居りしが昭和七年一月下旬上海事変の勃発に依り其の営業は一時中絶の姿と為りたり。然るに同年三月停戦協定の成立に依り同地の物情平穏と為り再従前の営業に従事し居たるところ帝国軍隊が多数同地に駐屯する情勢と為りし為雇女に不足を生じ之を増員せねばならぬと考へ右営業所の名称を同年五月頃海軍指定慰安所と改めたり。右の如く営業所の婦女を多数雇入るる必要を生じたる結果同年三月五、六日頃    方に資金二、三千円を借入るる為赴きたるところ同家に於てGに会ひ知合に為りたるが同月七、八日頃Gより同人の伯父Bが江星旅館に居る故来て呉れとの通知を受け江星旅館に行きGよりB、Aを紹介されBより私の営業の内容を訊ねられたるに因り私は営業の内情、経過並に現状、利益の分配方法等を話したる旨の記載

二、
原審第二回公判調書中同被告人の供述として(記録三、二〇六丁裏以下)昭和七年三月七、八日頃上海文路江星旅館に於て私とA、G、B等が会合し私が営業の内情、経過並に現状等を話且多数日本軍隊の駐屯期間が向ふ一ケ年位と思はるる故自分の営業を拡張し共同にて多数の女を雇ひ半年位遣れば儲かると思ふ旨私の希望を申したるところ集り居たる人々も其れに賛成し結局私が営業所を提供して女十五人預り其の女達の玉代を等分して女に半分与へ残り半分より実費を差引きたるものを私とG、Aにて平等に分配すること而して女の雇入はA、G等の方にて受持つと言ふ事に為りたり。BはGの伯父にしてGより同人は数十万円の資産家なることを聞き居たる為同人が金を出すものなりと想像し居りある旨の記載

三、
同調書中被告人Bの供述として(記録三、二〇九丁裏以下)私は甥のGよりCが慰安所を出す様に為る故金を出して呉れと申され其の後昭和七年三月七、八日頃江星旅館に於てGの紹介にてC、A、G等と会見しCより同人の営業の内情、経過並に現状等の説明を聞きGより二、三千円出して呉れと言はれ私はCの申す趣旨に賛成し其の位の金ならば出さうと申したる旨の記載

四、
同調書中被告人Aの供述として(記録三、二一三丁以下)判示の日頃判示旅館に於てCより以前同人が海軍指定休憩所を設け居たるが上海事変の為営業が一時中止と為りたるも停戦協定の成立に依り帝国軍隊の多数上海に駐屯するならんと言ふ事等の話が有り更に同人は海軍指定休憩所の名称を海軍指定慰安所と改め営業を復活し拡張して遣り度き故賛成して呉れとの趣旨の相談があり私は賛成しC、Gと共同して経営することにしBが資金を出す事に話が成立したる旨の記載

五、
被告人Cに対する第二回及第三回予審訊問調書を通し同被告人の供述として(記録七八〇丁以下)海軍指定慰安所を共同経営にすると言ふ契約は私とA、Gの三名間に結ばれたるものなるがBは共同経営者として右契約に依りA、G両名が得べき利益を更に三分して其の一を得ることに為り居ると言ふ事を後に為り聞知したり。(記録八〇九丁以下)私は江星旅館に於てA、G、Bの三名に会ひたるとき海軍指定慰安所は軍人相手に売淫を為す事を主たる目的とする所にて其処に雇はるる女は売淫をせねばならぬ事即ち其れをせ又は女を雇入れぬと言ふ事は充分話をし置きたる(※1)故A、B、Gの三名は充分承知し居たる筈なりし旨の記載

六、
証人    に対する第一回予審訊問調書中其の口述として(記録一、三七一丁裏以下)Cが江星旅館にA、B等を訪れ右三名に於て海軍指定慰安所の共同経営に付ての話を為し居たるが其の話の模様にて私は同慰安所が海軍軍人を相手に婦女をして売淫を為さしむる事を営業とする所なることを知りたる(※2)旨の記載

七、
同証人に対する第二回予審訊問調書中其の供述として(記録一、三九九丁裏以下)C、A、B等が江星旅館に於て海軍指定慰安所の話を為し居たる時Cは同慰安所の女を内地に於て雇ふ時は女には醜業に従事せねばならぬ事は言わずに女給として雇入れやうと言ふ意味の話を為しA、Bが其れに同意して居りたり。私は女給として女を雇入れ内地の女郎同様の事をさせる積りかなと思ひたる旨の記載

八、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録八四三丁以下)私はC、G、A等と上海にて海軍指定慰安所を共同経営する契約を為したるがCより女は幾らでも送り遣るとの話を聞き居たる故其の際Cに女が左様に易々と手に入るかと訊ねたるに同人はBやAがする事であり女は何程でも手に入ると申したり。更に私が女は如何様にして連れて来るかと訊ねたるところ同人は女給とか女中とか言ふ事にして連れて来れば訳はないではないかと申したる旨の記載

九、
被告人Bに対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録一、二三九丁裏以下)私はAと共に昭和七年三月三、四日頃上海に行き同所の江星旅館に於てC、G、A等と海軍指定慰安倶楽部(慰安所とは聞かず)の経営に付ての話があり私がGの依頼に依り女雇入れに必要なる資金として二、三千円出資することに為りたり。其の際Cが女は女中として雇ふが良いと申したる様記憶す、私が出資を承諾したる為    は私の妻B´に又Aは自宅に夫々手紙を出し私が出資を承諾したる旨を通し女雇入の手配を頼みたるが私が上海より帰る際即ち昭和七年三月一三、四日頃A、    の両名が私に内地より女を雇ひ送る様依頼したるに依り私は長崎に帰り私方にF、Aの妻A´を呼び私の妻B´も居る所にて此度G、Aの両名が上海在住のCと共同にて海軍指定慰安倶楽部を経営することに為り右慰安倶楽部は内地の女郎屋と同様の事をするものなる事を話し同所に送る女を世話して呉れと申したり。其の際私は女を雇ふには女中として雇ふ様にと申したるが右は女を雇ふ際淫売として上海に行く事を勧める事は言ひ難き事と考へ且女中として雇ふ方が人を集め易しと考へたる為なる旨の記載

十、
被告人B´に対する第二回予審訊問調書中其の供述として(記録一、二八四以下)GがBと共に上海に行きて後Gより手紙にて通信があり自分はA、Cと共同にて海軍指定倶楽部を経営することに為りBが金を出すことを承諾したる故女を雇ふて送られ度く女雇入に付てはDにも依頼の手紙を出し置くに依りDに世話させて呉れと申来りたり。同日Dが私方に来てGより同人にも手紙が来て私に対する手紙と同趣旨に記載あり、海軍指定慰安倶楽部と言ふは女に客を取らせる所なる旨記載ありたりとDが申し居たり。其の後主人Bが上海より帰り私方に於てF、A´に対し慰安所は軍人を相手に専ら売淫を為す所なる旨詳しく話たり(※3)。而してGより私に手紙が来た翌日か翌々日頃Gより電報にて来る十五日迄に女を送り呉れとの趣旨を申し来りたる故直にDを私方に呼び同人と女雇入れの方法に就き協議したる旨の記載

十一、
同被告人に対する第三回予審訊問調書中其の供述として(記録一、六一一丁裏以下)私はGより電報の来りたる後Dと女雇入の相談したるが其の際私とDは客を取る酌婦として雇へば何千円も出さねばならぬ故女給として雇へば安く済むと話合ひ女給として雇入るる事に決めたる旨の記載

十二、
被告人Dに対する第二回予審訊問調書中其の供述として(記録一、三八五丁裏以下)Gが上海より私に寄越したる手紙には女給又は仲居として雇ふて呉れとの趣旨が記載しありたるが私は女には淫売せしむるものと思ひ手紙を見て直にB´方に行きGよりの手紙の趣旨を話したるところ同女は私より詳しく上海の事を知り居りたる故同女にもGより手紙が来て居るものと思ひたり。其の後GよりB´に宛て電報が来たとの事にて同女に招かれ同女方に行きたるに同女は私に対し今度の船に間に合ふ様女を送らねばならぬ故女を早めに雇ふて呉れ女を雇ふには女給又は仲居として雇ふて呉れと命令的に申したり。其の際B´は女には売淫の事は言はずに雇ふて呉れとは申さざりしも私は同人の口吻よりして女には売淫の事は打明けずに女給又は仲居として雇ふて呉れと言ふ意味に解したる旨の記載

十三、
被告人A´に対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録一、四〇九丁裏以下)主人Aが上海へ行く前同地より帰りたるGが私方に来てAと何か話して帰り其の後にてAが上海に於て海軍慰安所を経営すれば儲かるそうなと申し居たるがAが上海に向け出発二、三日後私に宛て手紙を寄越し後に電報が着いたならば直にEに世話をさせ女を雇ふて送る様申来りたるに依り私はその手紙をEに示したるところEは女を世話することを承諾し尚同人は客を取る女ならんと申したる故Eは手紙に在る女が淫売婦なることは承知し居たるものと思ひたり。其の後Bの妻B´に招かれ同人方に行きたるところB´は上海のBより手紙が来て上海に於てCが経営し居たる海軍慰安所と言ふ淫売屋を此度B、G及Aの三名が共同して経営することに為りたる由故女を送らねばならぬに依り自分の方にても女を雇ふ故貴殿の方も出来るだけ世話して呉れ金は自分の方にて立替へ置く尚女を雇ふに客を取らせる事を話せば金が高く掛る故其の事は言はずに女給として雇ふことに仕様と話したるを以て其の様にして女を雇入るる事にし私は直にE方に行き同人に女給として雇入を頼みたり。同人は当時長崎の淫売屋の顧問の如き事を為し居り金を高く掛けずに雇ふて遣ると申し居たる旨の記載

十四、
同被告人に対する第二回予審訊問調書中其の供述として(記録一、四三六丁裏以下)Bが帰国後私とFとが同人方に招かれBより女に売淫の事を打明けて雇へば百円の所は二百円掛る故女給として雇入れ様と言はれたる際私は左様にしませうと答へたるが右の話を聞き其の事は私の主人Aと相談して来りたるものと思ひたり。而して其の日Eに女雇入れ方を頼みたる旨の記載

十五、
証人Fに対する予審訊問調書中其の供述として(記録一、六八八丁裏以下)Bが上海より帰りたる時私とA´とが呼ばれて行きBは私とA´とに対しBの妻B´の居る所に於て自分はAと共同にて帝国軍人を相手とし婦女に売淫せしむる海軍慰安所を経営することに為り同所に女をおくらねばならぬ故世話して呉れ女には慰安所の接待掛の女給として雇ふと言ひ売淫の事は言はぬが良いと申したり。私は売淫を為す酌婦として雇へば金も掛り又希望者も少き故Bが右の様に申したるものと考へ且同人が売淫の事は女には打明けぬが良いと申したるは同人独りの考にては無く上海に於てA等と左様に相談したる事なるべしと察し私は左様にすると返事して同人方を辞しA方に行きたるところEが居合せたるに依り同人にBの申したるに通り伝へたるところEはそんな風で雇はねば上海辺には女が直ぐ行くと言はぬと申し私もEもAの為女を世話して遣ることにしたる旨の記載

十六、
被告人B"に対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録九一〇丁以下)私はBの甥なるが昭和七年三月半頃Aの息子とBの息子とが上海見物に行く際B´の依頼に依り上海の海軍慰安所に行く女三人を一緒の船にて連れて上海に行きたる旨の記載

十七、
被告人B´に対する第六回予審訊問調書中被告人B"の供述として(記録二、一九一丁以下)私はA、Bの息子二人を連れ上海に行き同地に滞在中B´を旅館に訪れたる際同人より海軍慰安所が客を取り売淫を為さしむる所なる事を知りたり(※4)。私が    を世話したるは其の後の事なる旨の記載

十八、
被告人B"に対する第三回予審訊問調書中其の供述として(記録二、七八一裏丁以下)私はA及Bの息子二人を連れ上海に行きたる時同地の海軍慰安所はCが営業主にしてA、G両名は同所に婦女を入れて醜業婦営業を為す所なること及BはA、Gの婦女雇入の資金を出し居るものなることを知りたり。又私は上海にてB´に会ひたる際自分が    を世話しつつある事を話したるところB´は本人が行くと言へば雇ふても良いと申したる旨の記載

十九、
原審相被告人Hに対する第二回及第三回予審訊問調書を通じ其の供述として(記録九五三丁裏以下)私はB´の招電に依り同人方に行きたるところ同人は上海が中々の景気彼女を上海に遣り料理屋か淫売屋をして女を働かせ様と思ふ故女を世話して呉れと申し又Iの妹の縁付先に娘が居ると言ふ話を聞き居る故同人にも話して呉れと申したり(一、六四七丁以下)其の際B´は私に    及同    以外の女を雇ふ際は上海に行き女郎の如き事をせねばならぬと言へば嫌ふ者もある故左様な事は言はずに上海が景気故行きては如何と申向けて勧誘し呉れと申したる旨の記載

二十、
原審相被告人Iに対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録九三五丁以下)昭和七年春頃Hが私に対しB´より上海の料理屋にて客取りする女の雇入方を頼まれたる故世話して呉れと申したるに依り私は之を承諾したり。Hは    を世話する際には客取りをせねばならぬ事は言はぬが良いと申したるに依り其の事は話さざりし旨の記載

を総合して之を認め    
    外十四名の婦女が判示の日長崎港出帆の判示船舶に乗船し各其の翌日上海に上陸したる点は

一、
被告人B´及Dの各当公廷に於ける            に関し被告人A´の当公廷に於ける            、に関し其の旨の記述

二、
原審第一回公判調書中被告人B、C、Aの各供述として(記録三、一四五丁以下)判示同趣旨の記載

に依りて之を認め
判示第一の爾余の点は

一、
証人    に対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録一、一九七丁以下)私は昭和七年四月初頃上海の事に付Dの妻に訊ねたるところBの家へ行けとの事にてB方に行ったるにBの妻は私の雇はれ行く先は上海の大きな食堂にて兵隊の遊びに来る所であり「チップ」も多く外に品物の売上金の歩合も貰へる故月二、三百円儲かるに依り行って見よと申したるを以て私は其れを信じ上海へ行く気に為りたり。其の時上海にて売淫行為をせねばならぬと言ふ話はなく又借金は淫売の稼高にて支払ふ等約束したることなし。従て淫売をせねばならぬ事が判れば上海に行かぬ筈なり。然るに上海に行きたるところ其処は売淫専業の所なりし為私は全く欺されて上海に送られたることを覚知したる旨の記載

二、
証人    に対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録一、一七六丁裏以下)昭和七年四月初頃私の乳が私に対しA方より上海の食堂の女給にお前を遣って呉れとの相談があり月に五、六十円位の金儲があると言ふ事だと申したり。其の後A方及長崎市    のE方に於てAの妻に会ひたるとき同女は上海の勤先は食堂にて女給を為し客取りする必要なく若し嫌なれば直に帰国しても良い上海は好景気にて百五十円の前借金は二、三ケ月にて払へ親には毎月五十円位宛の送金が出来る故行って呉れと申したるが売淫の話は全然無く前述の如く客取る要なしとの話なりし為売淫はせぬ者と信じて承諾し上海に行きたるところ其処は海軍軍人を相手に専ら売淫を為す所なりし故私は初めてAの妻に欺されて上海に送られたることを知りたる旨の記載

に依りて之を認め
判示第二の爾余の点は

一、
証人Fに対する与信訊問調書中其の供述として(記録一、七〇〇丁裏以下)私は    の父    に対し今度A、Bの両名が上海に於て海軍慰安所を経営することに為り其所に女給が必要にて儲かる由故娘を遣りては如何と申して勧めたるに翌日        を同伴し上海行を承諾したり。私は右両名に上海に行けば儲かると話したるも上海に行けば売淫せねばならぬ事は言はざりしを以て    は単に慰安所の女給と考へて雇はれ行きたるものと思ふ旨の記載

二、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、〇三六丁裏以下)    は私の次女なるが昭和七年五月頃Fが私方に来てAが上海に於て軍隊の娯楽場の如きものを始め其処は酒やビールを売る軍隊の酒保の如き所にて内地の女が居らぬ故其処の売子の如き仕事を為す者として娘    を遣りては如何、酒やビールが高く売れ其の儲の割合を呉れ内地の三年分や五年分は一年で儲かると申したる故娘    に其の話の趣旨を伝へたるところ娘は上海行を承諾したり。Fは上海に於て娘が醜業に従事せねばならぬ事を一言も言はざりしため私も    も左様な事は知らず。若し醜業せしめらるる事を知らば僅か二十円位を貰ひ娘を上海迄遣る様な事は為さず又娘も行かざりし筈なり。然るに昭和八年二、三月頃娘    は帰国し上海に於ては内地にての話と異り客取りをせしめられ辛かりし旨申したる旨の記載

を総合して之を認め
判示第三の爾余の点は

一、
被告人Dに対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録八八八丁以下)私は昭和七年三月十一、二日頃長崎市外        の誤記と認む以下同じ)方に行き同人に対し今度上海に海軍慰安所と称する大きな料理屋が出来る故娘を上海に遣らぬかと申したるところ同人は    をも招致したる故同人にも前どうこう話したるに両名共娘に相談すると申したり。其の後        の両名が娘の        の両名を同伴し来りたる故私は娘両名に対し前同様の話を為したるところ両名共上海行を承諾し又    の●    も同様上海に遣る事に話が決まりたり。私は        の両名には上海に行き淫売すると言ふ事は言わず女給又は仲居の如き仕事をせねばならぬと申して勧誘したるものなる旨の記載

二、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録一、八二七丁裏以下)    は私の長女にして同    は私の次女なるが昭和七年三月頃Dが私方に来て上海に良き働き口があるが貴殿の娘及    の娘は行かぬかと申したるにより    を私方に招き孰れも娘に訊ねたる上返事を為すことにしたるにDは佐世保に居る娘    をも一緒に遣りては如何と申したり。其の後私と助八とは私の娘    と助八の娘    とをD方に同伴したるところ同人は娘等にも前同様の趣旨の話を為し上海行を勧めたるところ両名共上海行を承諾したり。最初Dは上海に於ける良き働き口とはBの経営せる海軍の倶楽部の如き所にて酒や肴を運ぶ仕事にて同所は客を取らする所に非ず月二、三百円の収入ありと申したり。其の後Bの妻に会ひたるが同女よりも客取りの話は聞かず    に対しては私がDより聞きたる通り話したるところ同女は客取りをせず左様に金儲の有る所ならば行くと申し上海行を承諾したり。私も娘両名もDが客取りする所にては無く心配せぬでも良いと申して勧めたる故其れを信じ娘二人を上海に遣る気に為り娘等も其れを信じて上海行を承諾したるものにして若し客取り商売をせねばならぬ事が判明し居らば僅か四百円余を娘二人分の前借金として借受け上海迄遣る筈なかりしものなり。然るに其の後娘    が帰国し内地の話とは相違し上海にて客取り商売をさせられたりと申したる旨の記載

三、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録一、八一三丁裏以下)    は私の次女なるが昭和七年三月頃    方に於てDに面会したる時同人はBが上海に於て飲食店の如きものを経営し女が必要なるが上海は景気好く金儲が出来る故娘を遣らぬかと言ふ趣旨の事を申したり。私は水商売をする所ならば遣らぬと答へたるところ同人は水商売をする所ではなく女中の如き仕事を為すものなる旨申したるに依り娘の意見を聞きたるに上海行を承諾したり。私も娘    も客を取る水商売をさせぬ所と信じて上海行を承諾したるものにして若し売淫をせねばならぬ事が判明すれば私も    も上海行を承諾する筈なし。然るに    が上海に行きたる後私に寄越した手紙には内地に於ける話とは違ひ客取りを為さねばならぬと書きありたる旨の記載

四、
被告人Dに対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録九〇三丁裏以下)私は    方に於て同人の娘    に対し上海行を勧め売淫をせねばならぬ事は言はず勤め先は海軍の慰安所にして「カフェー」の女給又は仲居の如き仕事を為す所にて収入は月七、八十円位と申したる旨の記載

五、
証人    に対する嘱託に依る領事の訊問調書中其の供述として(記録一、三一六丁裏以下)私は    と婚姻前    と称したるが昭和七年四月初頃Dが私方に来て上海は戦争後景気良く月収七十円位ある。同地の料理屋の女中に為らぬかと申し上海行を勧めたる故私は其れを信じ上海行を承諾したり。同地に於て醜業に従事せねばあらぬ事は全然聞かず若し之を知り居れば上海行を承諾せざる筈なりし旨の記載

を総合して之を認め
判示第四の爾余の点は

一、
被告人B"に対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録二、七八四丁裏以下)私は    の兄に妹を上海の慰安所に遣らぬか月何十円かと収入があると申し勧め更に上海に行き海軍慰安所の内情を知り(※5)帰国後    及同人の父に会ひ上海行を勧めたるところ承諾を得たり。    等に上海行を勧めたる時慰安所に行けば醜業をせねばならぬ事は言はざりし旨の記載

二、証人    に対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録一、二一七丁以下)昭和七年四月初頃B"が私方に来て私や私の父に対し上海に行けば月七、八十円の収入ある故行きては如何若し行きたる上都合悪ければ何時帰国しても差支なしと申し尚行先は上海の海軍慰安所なるが其処は「カフェー」にして水兵や上官等の飲食する所なり。而して仕事は客の相手を為し品物を運ぶ等なり。一年位居り家を造りたる者もあると申したる故私も父も之を信用し上海行を承諾したるがB"よりも亦Bの妻よりも売淫を為さねばならぬ事は聞かず。若し醜業せねばならぬ事が判明し居れば上海には行かざりし筈なり。然るに上海に行き売淫に従事せしめられたる旨の記載

を総合して之を認め
判示第五の爾余の点は

一、
原審相被告人Hに対する第六回予審訊問調書中其の供述として(記録二、七六七丁裏以下)私はIと共に        方に行き上海行を勧めたるが其の際上海に行き醜業に従事するものなることは告げず    には帳場にて世話すると申し    には女中に世話すると申したる旨の記載

二、
原審相被告人Iに対する第一回予審訊問調書中其の供述として(記録九三三丁裏以下)私はHと共に    方に於て同人及其の母に対し上海に行けば金儲がある故行かぬか行先は    が経営せる料理屋にして女中又は女給なりと申して上海行を勧めたるが淫売をせねばならぬ事は告げず次で同日    方に行き同女に対し前同様申して上海行を勧誘したるに同女は売淫することは欲せぬと申したる故私とHは帳場に世話すると申したる処同女は上海行を承諾したる旨の記載

三、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、四六〇丁裏以下)昭和七年三月二十四、五日頃I、H外一名が数回    の私方に来て上海に行けば金儲があり行先は上海の兵隊相手の食堂にて収入は一日に「チップ」が一、二円ある旨申し上海行を勧めたる故私は単に兵隊相手の給仕か酒の酌位すれば良き事と思ひ承諾したるが売淫する事は想像だにせず。若し其の事が判明し居れば上海行は絶対に承諾せざりし筈なりしところ上海に行きたるに売淫をせねばならぬ事を知り驚き騙されたりと思ひたるも逃げ帰るには旅費も無く仕方なく醜業に従事したる旨の記載

四、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録一、七八一丁以下)I及姓不祥Hと言ふ人が私方に参り私の妹    は家政女学校を卒業し居る故上海の食堂とか「カフェー」とかの帳場に世話するが行かぬか非常に金儲に為ると申したるも    は女学校を出た許(ばか)りの事故断りたるに同女は私の不在中無断にて上海へ行きたる旨の記載

五、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録一、七五五丁裏以下)私は    と結婚する前は    姓を称し居たるが昭和七年四月初頃I外一名が私方に三回参り長崎のBが上海に於て食堂の如きものを経営し居り帳場が入用なるが内地よりも収入多き故行かぬかと申し上海行を勧めたるに依り兄や母の同意を得ず承諾したり。其の後B´方に行きたる際同人も帳場が不足し居る故上海に行き呉れと申したるも売淫するとの話は全然聞かず。然るに上海に行きたるところ同地にては専ら醜業に従事する事を知り又Aより醜業に従事することを勧められたるも拒絶したる旨の記載

を総合して認め
判示第六の爾余の点は
一、原審相被告人Hに対する第六回予審訊問調書中其の供述として(記録二、七六八丁裏以下)私は            等を世話したる際同女等に対し上海に行き客取をせねばならぬ事は告げず女中に世話すると申向けたる旨の記載

二、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、二三〇丁裏以下)    は私の長女なるがHが自分の姪が上海に於て「カフェー」をして居り戦後にて忙しき故娘を女中に遣って呉れぬかと申したる故女中の仕事を為さしむるものと信じ娘も承諾の上上海に遣りたるところ其の後娘より手紙にて上海に行き淫売を為さしめられ居ると知らせて来りたるに依り私は直に手を尽して娘を内地に呼戻したる旨の記載

三、
証人    に対する嘱託に依る領事の訊問調書中其の供述として(記録二、六四一丁裏以下)私は戸籍上    なるも    とも称し居たり。昭和七年四月初頃Hが私方に来て上海の仕出屋の女中奉公を為さば月二、三十円お収入ありと申し上海行を勧めたる故私は之を承諾し上海に参りたるがHもB´も上海にて売淫を為すとの事は言はず若し其の事が判明し居らば上海に来る筈にあらざりし旨の記載

四、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、二四四丁裏以下)    は私の四女にして昭和十年三月死去したるが昭和七年四月頃Hが私方に参り娘を上海に於て同人の経営する「カフェー」の女給に遣らぬか内地に於て女中奉公するより二、三倍の給料が貰へると申したる故私は娘    と相談したる上私も    も女中奉公なりと信じて上海行を承諾したるところ    が上海に行きて後手紙には内地に於ける話とは相違し淫売をせしめられ斯様な事なれば来る筈にはあらざりし旨申来りたり。私も淫売させらるる事が判明し居れば娘を上海には遣らざりし筈なる旨の記載

を総合して之を認め
判示第七の爾余の点は

一、
予審第二回公判調書中被告人Eの供述として(記録一、三八八丁以下)私は    の世話にて上海の海軍指定慰安所に送る為        等を抱へることに為したる旨の記載

二、
証人    に対する予審訊問調書中其の共住として(記録一、八六〇丁以下)昭和七年三月頃Eが私方に来て上海の海軍慰安所の給仕女を世話して呉れ給料は五、六円なるも「チップ」の収入が多く五、六十円に為ると申したる故私は之を信じ(※6)    等に対しEの申したると同様の事を話し同女等を    に同伴したるところEは同人等に私に話したると同様の事を話し且客を取らずとも良き旨申し同人等は上海行を承諾したり。次で同月末頃私は    も同様の事を話上海行を勧めたるがEよりは上海に於て売淫を為さしむるものなりとの話は全然聞き居らざりし旨の記載

三、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、一〇六丁裏以下)私は昭和七年三月半頃女中を志望し予て知合の    に対し其の旨告げて仕事口の周旋を依頼し置きたるところ其の後    が上海の海軍慰安所に働く女をEより頼まれ居るが同所にては食事の給仕や酒の酌をする仕事なる由にて月給は十円位なるも客よりの貰物もあり月五、六十円に為ると申したるに依りE方に行きたるにEも    と同様の話を為し女中に雇ふと申したる故私は上海行を承諾したり。Eは上海に於て醜業を為さしむるとは言はざりしを以て上海に行きたるところ海軍慰安所は内地に於ける話とは全然異り客取りをせねば僅か三十五円の前借金が支払へぬ為遂に止むなく客取りをするに至りたる旨の記載

四、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、一二七丁以下)昭和七年四月初頃    方に於て同人が私に対し上海のAの家へ女中として炊事や洗濯する仕事がある故行かぬか月給は十円位なるが酌婦等の選択もすれば十五円位には為り又客よりの貰ひもあり月五、六十円位に為ると申したる故私は之を信じ上海行を承諾したるが売淫をせねばならぬと言ふ話はなく斯る話があれば上海には行かざりし筈なりし旨の記載

五、
証人    に対する嘱託に依る領事の訊問調書中其の供述として(記録二、六五八丁裏以下)昭和七年四月初頃E方に於て同人が私に対し上海に於ける飲食店の女中に為れば同地は景気が良き故五十円位前借して行くも一週間経過せぬ間に返済し得べき旨申したるに依り承諾して上海に参りたるが上海に行き醜業せねばならぬとの話は全然無かりし旨の記載

六、
証人    に対する予審訊問調書中其の供述として(記録二、二七四丁以下)私は昭和七年四月一日A´に頼まれ    外四名を連れ長崎港出帆の船にて上海に渡りたるが(二、二九八丁以下)其の際Eが私に此の女等は慰安所の女給として送るもの故其の積りにて連行かれ度く若し女等が訊ねたるときは「女給じゃ」と申して呉れと耳打したる旨の記載

を総合して之を認め
犯意継続の点は判示被告人等が短期間内に同種の行為を反覆累行したる事項に徴し明なり。
左れば如上説明に依り判示犯罪事実は全部其の証明ありたるものとす。
法律に照すに被告人等の所為中誘拐の点は刑法第二百二十六条第一項第五十五条(但し被告人B"に対しては第五十五条を適用せず)に被拐者帝国外移送の点は同胞第二百二十六条第二項第一項第五十五条(但し被告人B"に対しては第五十五条を適用せず)に各該当するところ右は手段結果の関係あるを以て同法第五十四条第一項後段第十条に則り犯情重き被拐者帝国外移送罪の刑に従ひ尚被告人等の所為は共犯なるを以て同法第六十条を適用し被告人B"に対しては犯情憫諒すべきものあるを以て同法第六十六条第七十一条第六十八条第三号に従ひ酌量減軽を為し各其の所定刑期範囲内に於て被告人等を主文第一項記載の刑を量定処断し同法第二十一条に従ひ原審に於ける未決勾留日数の一部を主文第二項記載の如く各其の本刑に算入し被告人B"に対しては犯情刑の執行を猶予するを相当と認め同法第二十五条に従ひ本裁判確定の日より三年間刑の執行を猶予し訴訟費用の負担に付刑事訴訟法第二百三十七条第二百三十八条に則り被告人等をして主文掲記の如く負担せしむべきものとす。
仍て主文の如く判決す。

昭和十一年九月二十八日
長崎控訴院第一刑事部
裁判長 判事岩村流芳
    判事高田喜雄
    判事島村廣治
右謄本なり
昭和十一十月五日
長崎控訴院第一刑事部
裁判所書記 半田親
https://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/pdf/M-PDF/J_...



国外移送誘拐被告事件 長崎地裁判決

昭和十一年二月十四日宣告

判決
本籍○○ 住居長崎市 A
本籍○○ 住居同市 B
本籍○○ 住居中華民国 C
本籍○○ 住居長崎市 A´
本籍○○ 住居同市 B´
本籍○○ 住居長崎市 D
本籍○○ 住居長崎市 E
本籍並住居○○ H
本籍並住居○○ I
本籍○○ 住居長崎市 E

右の者等に対する国外移送誘拐被告事件に付当裁判所は検事川上悍関与の上審理を遂げ判決すること左の如し

主文
被告人A、B、Cを各懲役三年六月に被告人A´B´を各懲役二年六月に被告人E、Dを各懲役二年に被告人B"、H、Iを各懲役一年六月に処す。被告人C、B´、Eに対しては未決勾留日数中孰れも六十日を右本刑に算入す。
被告人B"、H、Iに対しては三年間右刑の執行を猶予す。

理由
被告人Cは昭和五年十一月頃より中華民国上海に於て其の雇入に係る婦女をして同地駐屯の帝国海軍軍人を顧客として醜業に従事せしめ居たるところ昭和七年一月所謂上海事変の勃発に因り多数の帝国海軍軍人の駐屯を見るに至りたるを以てかい軍指定慰安所なる名称の下に従来の営業を拡張せんことを欲し予て知合の亡Gに該意図を告げ同人の紹介に依り同年三月七日頃上海文路江星旅館に於て被告人A、Bの両名に面談して右の企図を諮り之が賛同を得茲に被告人Cに於て家屋其の他の設備を提供しG及被告人Aの両名に於て該営業所に於て醜業に従事する日本婦女を日本内地に於て雇入れ移送することを担当し被告人Bに於て之が雇入資金を供給することを約すると共に婦女雇入に際しては其の専ら醜業に従事するものなることの情を秘し単に女給又は女中と欺罔して勧誘誘惑して上海に移送せんことを協議しGに於ても直ちに之に賛同すると共にB等の旨を受けて長崎市なる被告人Bの妻なる被告人B´に右の協議内容を通知して雇入方を求めB´は其の旨を被告人Aの妻なる被告人A´及被告人Dの両名に通ずると共に被告人A´との間には之が実行を両名に於て分担すべき旨の協議を遂げ次で被告人Dとの間には前記B等の協議せる方法にて雇入るべきことを謀議し居たるが更に同月十四日被告人Bに於て長崎市に帰来するや直ちに同市内なる同人方に  F及被告人A´を招致し同人等並被告人B´の三名に対し前記上海に於ける協議の結果を告げて婦女移送方を促し同人等も之に賛同の上被告人B´に於ては同年三月下旬頃被告人B"、H、及同人を介して被告人Iの四名にF及被告人A´においては同月十四日頃被告人Eに夫々前記B等の協議せる方法に依り婦女を誘拐して上海なる前記慰安所に移送せんことを諮り同人等も之に賛同し

第一、被告人A、B、C、B´、A´の五名はGと共謀の上(以下事実を例示するに当りては右被告人五名及Gを単に被告人A等六名と略称す)
(一)被告人B´に於て同年四月初頃長崎市内なる同人方に於て    に対し行先は兵隊相手の食堂なる旨虚言を構へ且祝儀等に依る収入一ケ月二、三百円位ありと甘言を弄して上海行きを勧めて同女をして其旨信ぜしめて之を誘惑し
(二)被告人A´に於て前同日頃同市    被告人E方に於て    に対し行先は食堂の女給にして客を取る要なしと詐言を構へ且百五十円位を前借するも二、三ケ月にて完済し得て尚毎月五十円位親許に送金し得る旨甘言を以て上海行を勧説して同女をして其旨信ぜしめて之を誘惑し

第二、被告人A等六名Fは共謀の上Fに於て同年五月初頃長崎県北高来郡    方に於て同人に対し一年居れば内地の三年乃至五年分の儲ある故二女    を上海駐屯の帝国軍隊の酒保の如き所の売子として奉公せしめては如何と詐言並甘言を構へ同人より之を聞知せる    をしてFの言通りの事実なりと信ぜしめて之を誘惑し

第三、
被告人A等六名並被告人Dは共謀の上Dに於て
(一)同年三月十日ごろ長崎県西彼杵郡
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