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kannrininn 2021年12月29日(水) 07:48:54履歴
- 1868年(明治元年)9月付の飛騨国高山県知事から弁事宛の文書には「当国の儀は・・・且国民は皆々頑愚文字少も不開、名主組頭と雖ども名義を弁ぜざるは勿論、先触廻状も読み得ざる程の事にて所謂猪猿同様の者に御坐候」とある。*1
- 1871年(明治4)7月付の江刺県から弁官宛の文書には「当県の儀は…海岸並山中の郷村に至ては貧困を極候は十中八九に候。総体民風懶惰諸働き関東西の一人に対し三分一位と相見、且一丁字も之無く平常の道理を弁じ兼る底の者多分之有り、尤僻邑に至候ては間に蝦夷の風を存し或は只旧領主を知るのみ恐多くも王政御一新(※明治維新)の何事たると驚惑仕候者も之有る程に御坐候」とある。*2
- 1876年(明治9)の太政官布告第97号には「読書算術の出来得る者は検査格例に照し抜擢して教導団に入れ卒業の上下士に任ず」とあり、「読書」能力を持つ者は貴重な存在だったことが分かる。*3
- 1883年(明治16)「甲部地方巡察使復命書」の「愛知県ノ部政社」の項には「当県下の政党は愛国交親社三陽自由党尾張立憲改進党愛知改進党の四種あり。愛国交親者は社長愛知県名古屋士族庄林一正雖も其他重立たる者は自由主義を取ると社員は賎民車夫等にして一丁字を解せざるもの多し」とある。*4
- 1884年(明治17)11月19日付青森県令から陸軍卿宛の文書には「抽籤総代人之義は籤丁中より之を撰挙すべきは勿論に候処、従来の経験に依れば一郡内の籤丁無学文盲にして兵種番号等も読み得ざること之あり」とある。*5
- 1886年(明治19)4月26日付の福岡県から大蔵省宛の文書には「仕払切符を振出すには順序第五条に拠り正当受取人に対し各自に交付して其領収証を徴すべきは勿論に候処、窮氏恤救の如きは廃疾疾病老幼者等自活は勿論他に依るべきの救護者も之無く、遂に凍餒に迫るの窮極に際し救助を哀願するものにして、其境遇を問へば真に乞食に類似し、眼中曽て一丁字を弁ずる者之無く、且数十百人の多き一々各自に対し切符を交付し其領収証を徴するは実際困難にして、他人へ代書を依頼し多少の筆紙墨料を出費せしめざれば之を徴すること能はず」とあり、字が書けず代筆してもらう者が多かったことが分かる。*6
- 1889年(明治22)7月5日付の海軍大臣から内閣総理大臣宛て文書には「明治十九年七月裁可公布相成候海軍武官官等表の艦内教授なるものは軍艦又は屯営内にて卒に読書算術を教授するものなり。之を要せしは文盲なる卒あるに依れり。今は辺陬と雖も教育普及せるを以て卒に徴せらるゝ年齢の者にて目に一丁字なき者あらず下士を教育する練習艦に於て数学の教師を要することあるも海軍部内にて七八名に過ぎず一時の雇教員をして教授せしめて足れり」とある。*7
- 1891年(明治24)1月14日付の北海道庁から逓信省宛ての文書には「一丁字を解せざるの徒は若干の金員を以て請求書及領収証書等を代書し貰ひ」とある。*8
- 1892年(明治25)の福井県福井市の市会議員投票条例には「第四条 選挙人にして文字を書すること能はざるときは掛長は吏員をして代書せしめ之を本人に読み聞かせ選挙掛は其由を選挙録中に記載す可し」とある。*9
- 1892年(明治25)の富山県高岡市の市会議員選挙投票条例には「第二条 選挙人にして投票の文字を書すること能はざるものは選挙掛の代書を求むることを得。選挙人相互に代書するを許さず」とある。*10
- 1899年(明治32)10月18日付の内閣閣議決定文書には「雇傭したる人夫の賃銀を仕払ふには一名毎に領収書を徴収するを要すと雖眼中一丁字なき輩には至難の事に属し往々は総代を選び之に委任状を付して受取らしむるも之が為めに騙取せられて賃銀の不渡りを生ずる場合少からざる」とある。*11
- 1901年(明治34)5月14日付の佐世保海兵団長名の文書「五等機関兵練習に就ての意見」には「本期卒業の五等機関兵は明治三十三年十二月一日入団の徴募兵にして大阪和歌山兵庫の一府二県のもの其多数を占め居れり。…而して本期兵中和歌山兵庫の徴募に係るものゝ多数は眼中一丁字なき漁夫にして教育の困難を感ぜしより…別科時間に於ては片仮名より漸次小学読本及簡易の算法往復文の書方等を教え種々奨励法を設けたるに」とある。*12
- 1903年(明治36)愛知県幡豆郡農会編「愛知県幡豆郡西野町村々是」の「村民の教育程度其概況」には「本村民の教育は往昔甚だ等閑に付せられ只寺小屋的の習字学と稀には読書算術等を教授するものありと雖ども其の子弟は概ね僧侶豪農なるより其数多からず 故に老年者にありては算筆に自由を欠き況んや下級のものにありては自己の住所氏名だも書すること能はざるもの往々あり」とある。
- 1906年(明治39)海軍次官が第1〜12師団の参謀長に出した通牒「海軍兵選兵の件」には「明治三十八年十二月佐世保海兵団に入団したる看護中尋常小学校一学年修業にして纔(わずか)に片仮名を解し得るに止まる者ありし趣を以て」とある。*13
- 1907年(明治40)6月22日付の福岡県知事から陸軍次官宛て文書には「陸軍下士兵卒にして現役より予備役若は後備役に入る者は…指定の期日内に連隊区司令官に届出べき儀に候得共右届出方に就ては市町村長より本人へ注意の上漸く届出るもの尠からず、就中目に一丁字なき者に対しては市町村長より届書作成の上手続相立候事有之候処」とある。*14
- 1913年大阪朝日新聞記事「紡績女 (一〜八)」には「会社から折角工女の音信の不便を思うて代書人を寄宿舎に雇って置いてあるも、今では手紙の代筆を頼むというような工女は新入者の外には殆ど無いようになったと」とあり、以前の工女は字が書けなかったことが分かる。
- 1917年大阪毎日新聞記事「職工の寄宿舎生活 (一〜五)」には「彼等は多く農家に生れ(農業六割強、漁業一割五分強、商業五分強、其他一割強)放縦に育てられ殊に教育程度頗る低く(最近某工場に於て調査したる処に依れば、全然無学一割八分、尋常四年修了以下六割、尋常卒業以下二割、其他二分なりし)」とある。
- 1918年大阪朝日新聞記事「島根県水産の将来 (一〜三)西村県知事談」には「漁業者の子弟にして義務教育程度の修養を受けたる者は百分の七十二、無教育者は百分の二十八なり約三十パーセントは無教育にして所謂無学文盲の漁業者なり」とある。
- 1919年横浜貿易新報記事「職工教育程度 女工の保護救済最も急」には「(神奈川県内の)工場職工数五万八千百五十三人にして…女工にありては義務教育さえ修得せざる者大部分を占むる有様なるが不就学者に至っては二千九百五十三人の内自己の姓名出生をさえ記し得ざる無筆者千八百二十五人に達し殊に其の多くが女工なる」と[72]ある。
- 1919年大阪時事新報記事「幼少年労働問題 (一〜十二)ドクトル 三田谷啓」には「宇野氏は某工場の社宅に於ける戸主の教育程度の調査を行いしに男戸主二百三人の中無教育者二十八人(一三、七パーセント)女戸主十七人中無教育者十三人(七六、五パーセント)で是等は己が姓名さえ書き得ざる不幸の人々である。稍文字を知るものは男子の百十五人、女子の三人で、普通教育を終えたるものは男五十九人、女一人である。」「大正五年五月に倉敷紡績工場にて調査せられたる結果によると男工では無教育のもの一〇、五五パーセント女工では二〇、七四パーセントとなって居るこれは前の成績より大に進歩して居るが、而も尚お女工の如きは百人中の二十人余は無教育者である。」とある。
- 1920年大阪時事新報記事「新時代と教育的覚醒 (上・下)文学博士 小西重直」には「我が労働界に於ても工場職工百三十五万余の中、約十二万人に近きものは不就学の人にして而も此中に自己の姓名を記し得ざるものが四万八千人もあるという当局の調査を見るに至りては教育普及の未だ甚だ不十分なりしに驚かざるを得ないのである。」とある。
- 1920年林茂淳「国勢調査について: 国民必読」には「六月八日の国民新聞に拠りますと、東京市内の職工で「いろは」の「い」の字も知らぬ者が二万三千人もあると云ふことであります。」とある。
- 1928年愛知県社会課編「調査資料 第11編 農村社会事業調査 第2輯」は「海部郡永和村」を調査対象としているが、「年齢十五歳以上にして教育上の履歴が判明して居るもの一、六〇七人…大体に於て無学者は一、六〇七人中一割八分七厘に当って居る」(54,57頁)とある。
- 1928年愛知県社会課編「調査資料 第12編 乳児死亡調査」には「母の教育程度に就いて 義務教育を全く受ない婦人が、千人の中に一三〇人もあるのは、この調査に表れた母が明治二十年代の末、三十年代に就学期にあった為でもあらふが、この義務教育の全然受けてゐない、人々の中には相当の貧困者があることゝ思ふ。」とある。
- 1935年大阪毎日新聞記事「選挙うら表 赤心一票 岡田啓介書」には「某候補者になると選挙間際に町内村内の文盲の有権者を集めて毎日毎日『候補者名』の書き方を練習させて日当をあたえる。」とある。
