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kannrininn 2024年04月01日(月) 08:52:10履歴
斉藤三郎「右翼思想犯罪事件の綜合的研究: 血盟団事件より二・二六事件まで」(司法省刑事局、1936年)、島村一「高等警察概要」(大阪府警察練習所、1944年)、日本警察社編「思想警察通論」(1940年)によると、右翼テロ関係事件は以下の通りである。
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| 1882年 | 板垣退助暗殺未遂 | 国粋主義者の犯行。板垣が国体損壊と主張 →概要 |
| 1889 | 森有礼文相暗殺事件 | 森が伊勢神宮で不敬行為と憤慨 →概要 |
| 1889 | 大隈外相爆撃事件 | 右翼団体「玄洋社」社員の犯行。条約改正案が動機 →概要 |
| 1891 | 大津事件 | 露皇太子が侵略意図を持ちまた天皇に無礼と憤慨 →概要 |
| 1927 | 天剣党事件 | 元陸軍将校で右翼の西田税が国家改造団体趣意書配布 →概要 |
| 1930 | 兵火事件 | 陸軍将校大岸頼好が「東京鎮圧し天皇奉戴」「クーデター」文書配布 →概要 |
| 1930 | 浜口首相狙撃事件 | 右翼団体「愛国社」員の犯行。ロンドン条約を軟弱・統帥権干犯と →概要 |
| 1931 | 井上蔵相邸爆破事件 | 犯人は右翼団体「政教社」に出入。ロンドン条約に憤慨 →概要 |
| 1931 | 三月事件 | 陸軍将校と大川周明によるクーデター未遂 →概要 |
| 1931 | 十月事件 | 陸軍将校と大川周明によるクーデター未遂 →概要 |
| 1932.2〜3 | 血盟団事件 | 天皇信奉者の井上日召が主謀 →概要 |
| 1932.5 | 五・一五事件 | 血盟団事件の第二陣 →概要 |
| 1932.8 | 斉藤首相暗殺予備事件 | 神武会顧問が大川周明検挙に憤慨 →概要 |
| 1932.8 | 若槻男爵暗殺予備事件 | ロンドン条約に憤慨 →概要 |
| 1932.11 | 天行会・独立青年社事件 | 牧野内大臣、一木宮相ら襲撃を計画 →概要 |
| 1933.7 | 神兵隊事件 | 祭政一致の天皇政治確立など主張しクーデター計画 →概要 |
| 1933.7 | 藤原銀次郎暗殺予備事件 | 「愛国青年連盟」に近い人物の犯行 →概要 |
| 1933.11 | 救国埼玉青年挺身隊事件 | 学生右翼団体創設者のクーデター計画 →概要 |
| 1933.11 | 若槻男爵、小山法相暗殺未遂並予備事件 | 「愛国社」社員の犯行 →概要 |
| 1934.5 | 宇垣朝鮮総督暗殺予備事件 | 「救国学生連盟」員による計画 →概要 |
| 1934.6 | 統天塾一派の不穏計画事件 | 右翼団体員による要人暗殺、郵便局強盗未遂 →概要 |
| 1934.7 | 昭和維新血誓隊事件 | 右翼団体員による要人暗殺計画 →概要 |
| 1934.8 | 土佐建青隊事件(満州国紙幣偽造事件) | 血盟団事件、五・一五事件に刺戟された右翼の犯行 →概要 |
| 1934.11 | 十一月事件(士官学校事件) | 陸軍のクーデター未遂。目的「我国体の姿を顕現」→概要 |
| 1934.12 | 西園寺公暗殺未遂事件(興国東京神命党事件) | 血盟団事件、五・一五事件に刺戟された者の犯行 →概要 |
| 1935.2 | 神武会員の読売新聞社々長刺傷事件 | 「神武会」幹部の犯行 →概要 |
| 1935.3 | 一木邸暴行事件 | 「国粋大衆党」員の犯行。天皇機関説に不満 →概要 |
| 1935.5 | 神風隊事件 | 「大日本生産党」党員が宇垣一成朝鮮総督ら暗殺計画 →概要 |
| 1935.5 | 岡田首相暗殺予備事件 | 血盟団事件、五・一五事件に刺戟された者の犯行 →概要 |
| 1935.8 | 相沢事件(永田軍務局長刺殺事件) | 民間右翼と同志だった陸軍中佐が十一月事件等に憤慨 →概要 |
| 1935.10 | 美濃部博士暗殺予備事件 | 天皇機関説に憤激 →概要 |
| 1936.2 | 美濃部博士狙撃事件 | 天皇機関説に憤激 →概要 |
| 1936.2 | 二・二六事件 | 蹶起趣意書「国体破潰の不義不臣を誅戮」 |
| 1938 | 防共護国団事件 | 政党本部占拠 →概要 |
| 1940 | 七・五事件 | 神兵隊事件(1933)関係者が米内首相等暗殺を計画 →概要 |
| 1941.8 | 平沼国務相狙撃事件 | →概要 |
| 1941.9 | 近衛首相暗殺予備事件 | →概要 |
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- 赤化防止団の会長米村嘉一郎は1922年、「左翼との立会演説会」で「日本刀を振って岩佐作太郎に日本刀で切り斬りつけた」*1
- 1920年普選運動集会で大正赤心団員が短刀で島田三郎を刺そうとした。また会場に向かう土工総同盟理事長が国粋会員に頭部を切られた*2
- 1922年メーデーで国粋会員が棍棒で襲撃*3
- 1923年水国事件
- 1923年大化会による大杉栄遺骨奪取事件
- 1924年大行社の帝国ホテル舞踏会剣舞事件。「大人数で乱入し詩吟に合わせて剣舞を舞う」「君が代を歌い、万歳三唱をして現場を立ち去った」*4
- 1924年東京の「鉄血社」は「本郷区会議員の学校敷地買収にかかる不正派の膺懲と称して区会議員数名に暴行をなし本富士署に検挙せらる」また同年12月「尾崎行雄が軍事教育反対論を唱へたる際其言論封鎖の目的にて同氏に暴行を加ふ」1925年2月には「軍事教育反対を唱へたる大山郁夫に対し暴行を加ふ」同年7月「根津嘉一郎が…として同氏に暴行を加ふ」*5
- 1925年大化会の三名は「牛込区柳町支那料理店にて飲酒中代金の件に端を発し主人結集劉を殴打死に至らしめ送局せらる」*6
- 赤尾敏が理事長の建国会は1926年4月「後藤新平子爵の政界革新大演説会は民衆を欺瞞するものとし赤尾敏、津久井龍雄・鈴木善一等子爵の自動車に棺桶を入れ迯走す」1927年11月「ロシヤ革命記念日に当り労農党首大山郁夫宅、労農党及評議会本部を襲撃す」1928年1月「全日本無産青年同盟の兵役短縮デーに反対し同同盟を襲撃刑事々件を惹起す」1928年3月「ロシヤ大使館労農党本部並に大山郁夫宅に煙火玉を投入爆発せしむ」1930年9月「山梨大将の疑獄事件に憤慨し赤尾敏東京地方裁判所構内にて山梨大将を殴打す」*7*8*9「建国会が白襷を掛けて、自動車に分乗して闖入を企てた」*10
- 1929年労農党衆院議員山本宣治は七生義団の黒田保久二に刺殺された。
- 1931年5月28日笹川良一の国粋大衆党は「中央公会堂に開催中の公娼廃止期成会の講演会場に党員六、七名侵入し暴行をなし所轄署に拘留さる」*11
- 1932年東京の「大亜義盟」団員は赤坂の菓子店「とらや」新築建物から秩父宮邸が見えて不敬だと詰問し同店舗裏煙突に上り検挙。さらに「とらや店舗内にビール壜七本へ糞尿を詰込み投入せり直ちに所轄表町署に検挙せられたり」*12
- 1934年東京の「護国党」は代表井上磯次ほか4名が大日本養正会理事二木謙三博士恐迫事件に関し「検挙取調べを受けたり」会員の安藤は同年5月「恐喝、住居侵入暴行行為等処罰に関する件違反として東京区裁判所に於て罰金五十円」同年9月代表者井上は「ピストル発射事件を惹起す」*13
- 1934年5月1日東京の「日東義会青年部」は「メーデー行列に対し暴行をなしたる為め小田切正治外十六名検束せらる」同年6月には7名が「内閣打倒の目的にて中央気象台無電柱其他に登り不穏の行動に出でんとせるを以て検挙せらる」*14
- 東京の「七生義団」は「団員沖仲士藤谷九万里外六名は日蓮宗々務員の役員改選に介入し暴行を為し所轄高輪警察署に検束せらる」*15
- 維新青年隊が決議文を牧野伸顕内大臣に渡そうとして警官隊と衝突*16
- 大和民労会は「社会運動の巨頭堺利彦を襲撃したりなどして、勇名を馳せた」*17
法制時報社編「警察読本」(1930年)では「幾多の保守的団体が生じ、その唱ふる所の主義は、国家主義と云ひ、皇室中心主義と云ひ、建国の精神に帰れと叫びて…中にはその美名にかくれ、私利私欲を充さんとして、国体の威力を利用し、或は仮装して強談威迫をなし、進んでは暴行を敢行し、あらゆる問題に介在して悪事を働くものも少くない。」「世人は名づけて『暴力団』と云ふ。例へば労働争議、借地借家問題等に彼等が介在して、一方に味方して相手方を威嚇するのである。立退料の強要、不法なる立退要求、労働者に対する暴行威嚇等々は彼等の常習手段である。…『暴力行為等処罰に関する法律』は、これ等の暴力行為を一掃せんとして制定されたものである。」としている。*18
内務省警保局が作成した臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)では「国粋会、黒龍会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、「右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…労働争議等ある場合に資本家の用心棒となりて之が擁護に努め」と述べている。*19
労働経済調査所編「愛国運動現勢」(1935年)では「従来日本主義団体が、ストライキそのものを亡国的扱にし排撃して来た」とする。*20
「憲兵要務(高等警察)教程」では労働争議の「資本家側の戦術」の一つに「暴力団の使用」を挙げている。*21
内務省警保局が作成した臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)では「国粋会、黒龍会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、「右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…労働争議等ある場合に資本家の用心棒となりて之が擁護に努め」と述べている。*19
労働経済調査所編「愛国運動現勢」(1935年)では「従来日本主義団体が、ストライキそのものを亡国的扱にし排撃して来た」とする。*20
「憲兵要務(高等警察)教程」では労働争議の「資本家側の戦術」の一つに「暴力団の使用」を挙げている。*21
- 1920年八幡製鉄所争議 「侠客団の抜刀隊」が労働団体幹部狙う。「職工側交渉委員二名に対し短銃を発射」「国粋会の壮士連中約百人」が市内入り。*22
- 1927年野田醤油労働争議などで国粋会や赤尾敏の建国会は会社側について労働者と対峙。*23*24*25
- 「大和民労会の干与した大罷業は、有名なる野田醤油会社の労働争議と、東京朝日新聞の岩月新聞舗の争議などであった」*26
- 東京の「明徳会」は会員が1927年11月4日「実用自動車争議団主催演説会の妨害を為し弁士白石某を殴打し検挙」同月12日「実用自動車争議団本部に抜刀侵入暴行し負傷せしめたるを以て送局せられたり」*27
- 1930年鐘紡争議でスト指導者著書によると国粋会が会社側に協力。警察も「遠慮すること一通りでない」*28
- 「神戸中央店のミシン争議は会社側が飽くまで高圧的逃避手段に出て正式に一回の交渉も受付けず今回突如中央店を閉鎖した上、更に大日本正義団神奈川支部長佐々木信一氏に依頼して店舗を横浜に移す取片付けに着手」(神戸新聞1932年)*29
- 「三重県義勇会」は「背後の人物 衆議院議員加藤久米四郎」。1932年同県桑名村の鋳物工場労働争議で会社側で介入、「職工側の北勢一般労働組合に対抗し闘争を続けつつありたり」*30
- 立憲民政党本部編「民政党内閣の功績」(1930年)「皇室中心主義とか政党員外談又は社会事業の美名に隠れて金銭強要、面会強請、強談威迫するものである、此の種の暴力団は智識階級が多く又同情的手段を用ひる為め当局が検挙に最も困難を感じておる。」「(安達謙蔵内務大臣が)第一回の地方長官会議の席上、『暴力行為の取締に関しては…辞を尊皇愛国その他各種の美名に藉り、その実金銭の収受不能の目的のために暴行協約を敢てする者の如きに至っては…』」*31
- 大浜孤舟「暗黒面の社会: 百鬼横行」(1926年)「大きな会社や大商店などには、毎日のやうにゆすりといふ奴が出入りする…ゆすりや寄附強要も初歩の奴であると誠に可愛らしいもので、薄っぺらなつまらない雑誌や、名もない小さい新聞をかつぎ込んで、どうぞ御後援の意味で広告をお願ひしたいとか、国体擁護の為めにこんな団体を作ってかういふ仕事をしたいから応分の寄付を恃むとか、型にはまった様な事をいふて名刺を出す…承知しそうもない奴には一円か二円の電車賃をやって帰らす事になる…中には物凄いのがあって、下手をまごつけば用捨はせないぞと文句を並べた上、懐中で短刀をチラッと見せる様な豪傑も居る、だがこんな奴はまだまだ素人の範囲を脱して居ない連中である。」*32
- 大阪中河内郡の「極東亜細亜連盟」は「常に大阪市内及郊外地の右傾団体と交り、会社、銀行及富豪を歴訪し亜細亜連盟の趣意書を見せ事業の援助方を乞ひ金員の供与を受くるものなり」*33
- 大阪の「愛国青年党」は「資金の出所 党員より月額五十銭を徴し、各種知名人士を訪問寄付を受く」「背後の人物 今北治作*34*35*36「(党主の)月本松吉は本年(1932年)二月の総選挙に際し政友会より出馬せし鈴木八郎候補事務所を訪問し金銭を強要したるにより検束処分に付す、尚同志時田栄治は昭和三年八月四日大阪地方裁判所に於て暴力行為等処罰に関する件により懲役四月に処せられたるものなり」*37
- 小樽の「一貫同志会」は副団長が「貸座敷業」で「本会の前身愛国勤労組合は昭和六年十月二十五日小樽市在住国粋主義者満田信太郎、相馬美代吉、今与三郎等に依り組織せられ国粋主義を標榜し資本家を歴訪して金品の供与を受け居りたるも幹部内に軋轢を生じ…」*38
- 東京の「愛国労兵隊関東本部」は「(1934年)五月二十一日花岡佐原中谷の三名は運動資金名目の下に王子製紙株式会社より数回に亘り金員を受取りたる外同社長藤原銀次郎に金銭を強要せんとせしこと発覚して検挙せられ、花岡佐原の両名は東京区裁判所に於て各懲役四月に処せらる」*39
- 「先般来愛国各団体では、ワシントン及びロンドン条約印〔ママ〕時廃棄通告を為すべし、と頻りに猛運動を続けているか〔ママ〕」*40
- 「国粋会」「赤化防止団」らが、排日の米国で大同電力が社債を発行したことを憤り、帰国した社長を詰問すべく船に押掛けた。*41
- 国粋会は「選挙の時などには、大いに政友会を援助した」*42
- 1924年、大行社が百貨店訪問し米貨排斥訴え、女性の米国流髪形を「見つけ次第こはす」と批判、映画会社に米画不買提案。*43
- 東京渋谷の「立正愛国社」は「資金の出所 維持員を会社銀行等に名目上嘱託として就職せしめ之が俸給を維持費とす」「(1930年)六月下谷区松坂屋呉服店に対し同店の東京朝日新聞掲載にかかる銘仙売出広告を不敬なりとして糾弾したるも日本電報通信社長の仲裁により解決す」*44
- 東京の「建国会」は1927年9月「モガモボ抹殺運動」を起こした。*45
- 東京の「洗心荘」は1934年「中村伝は明徳会発行『明徳論壇』三月号及四月号に徳川義親侯爵の不徳行為云々の記事あるを種に侯爵邸を再三訪問面会を求めたるも拒絶せらる」*46
