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kannrininn 2021年12月28日(火) 23:42:36履歴
内務省警保局「国家社会主義団体に関する調」(1932年5月)では「主なる団体のみにても其数五十に近く、小なる団体に至りては此れを列挙するの煩に堪へず、警視庁管内のみにてもその数実に百七十を超ゆるの状況にあり。右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体擁護、国粋保存、赤化防止を唱へ」とある。*1
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「右翼団体は其の数極めて多数に上り満州事変直後の如き一時三千有余を数へたることありし程なるが昭和七八年頃より漸次統一的傾向現はれ其の数亦従て徐々に減少し居れる処」とする。*2
外務省調査部「国家主義団体系統一覧表」(1935年8月)では「国家主義諸団体は現在約六百余(支部を除く)の多数に達し居るのみならず其の離合集散極めて頻繁且つ迅速にして是が実態を究むること甚だ困難」とする。*3
中外商業新報社「右翼思想の展望: 発生・経過・動向」(1935年10月)では「今日右翼思想の主流をなしてゐる日本主義は…当局の調査したところに依ると、昭和九年末で、四十万人弱、約六百団体といふのが、全国における日本主義支持者の概数であるが、毎年人数に於いて二万乃至三万位、団体数に於て廿乃至五十位宛の増加を示してゐる。」「全国で四十万人弱、東京で六万七千といふ日本主義支持者の数」とある。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)では、有名無実のものなど含めれば「其数全国的に見れば一千以上を算するであらう。東京だけで警視庁の調査に依れば約五百と言はれてゐて」とある。*4
「種村氏警察参考資料」の「国家主義団体員数表」では1940年12月末で計2,528団体、633,979人となっている。*5
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「右翼団体は其の数極めて多数に上り満州事変直後の如き一時三千有余を数へたることありし程なるが昭和七八年頃より漸次統一的傾向現はれ其の数亦従て徐々に減少し居れる処」とする。*2
外務省調査部「国家主義団体系統一覧表」(1935年8月)では「国家主義諸団体は現在約六百余(支部を除く)の多数に達し居るのみならず其の離合集散極めて頻繁且つ迅速にして是が実態を究むること甚だ困難」とする。*3
中外商業新報社「右翼思想の展望: 発生・経過・動向」(1935年10月)では「今日右翼思想の主流をなしてゐる日本主義は…当局の調査したところに依ると、昭和九年末で、四十万人弱、約六百団体といふのが、全国における日本主義支持者の概数であるが、毎年人数に於いて二万乃至三万位、団体数に於て廿乃至五十位宛の増加を示してゐる。」「全国で四十万人弱、東京で六万七千といふ日本主義支持者の数」とある。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)では、有名無実のものなど含めれば「其数全国的に見れば一千以上を算するであらう。東京だけで警視庁の調査に依れば約五百と言はれてゐて」とある。*4
「種村氏警察参考資料」の「国家主義団体員数表」では1940年12月末で計2,528団体、633,979人となっている。*5
また構成員の属性については、外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では、左翼に学生等インテリが多い一方で「右翼運動は知識階級の外に多数の浪人、侠客の類を抱擁し」とする。*6
外務省調査部「国家主義団体系統一覧表」(1935年8月)では「純粋国粋乃至浪人系」「左翼転向系」「在郷軍人系」「農民系」「宗教系」の5系統に分けている。*7
「朝日時局読本」(1937)の「右翼団体の動向」では「従来の団体の多くは出資者又は政界巨頭、或は貴族層、産業家等によってその組織的基礎が安定したるものが多く…昭和時代に発生せるものはその種類が区々であって…大別すると資本家、貴族、官僚、軍人等上層部に関係近きものと、中産階級、小市民、インテリ、農民に近きものとの二種に大別し得る」としている。*8
外務省調査部「国家主義団体系統一覧表」(1935年8月)では「純粋国粋乃至浪人系」「左翼転向系」「在郷軍人系」「農民系」「宗教系」の5系統に分けている。*7
「朝日時局読本」(1937)の「右翼団体の動向」では「従来の団体の多くは出資者又は政界巨頭、或は貴族層、産業家等によってその組織的基礎が安定したるものが多く…昭和時代に発生せるものはその種類が区々であって…大別すると資本家、貴族、官僚、軍人等上層部に関係近きものと、中産階級、小市民、インテリ、農民に近きものとの二種に大別し得る」としている。*8
戦前内務省は右翼系新聞に共通する主張として「日本精神に基づき、我国体に則る天皇の絶対主権を認め、天皇中心、皇室中心の政治組織の確立、君民一致、共存共栄の社会組織の実現を期し、以て益々皇威を発揚し、日本民族の世界的発展を期せんとする」ことを挙げた。*9
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)*10では、「右翼運動の目標とする所は単に国内問題のみにとどまらず又一般外交問題にも直接重大なる関連(皇道宣布、大亜細亜結成を主張す)を有するものにして」(54画像目)とある。また右翼運動の歴史的経緯について「明治維新以後の欧米物質文明謳歌時代に之に反抗して起りたる所謂国粋保存主義」と、第一次大戦後流行した民主主義自由主義及び社会主義共産主義に対して「此等外来危険思想を排除して国体の擁護と国粋の保存とを実現せんとする運動」の2つの大きな契機があったと解説する(60画像目)。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)では日本の右翼運動について「国粋主義・愛国主義・国家主義・国家又は国民社会主義・日本主義・農本主義等と種々なる名称と形態を示に至ったが、其の一貫する思想は、我が国体の原理なる皇室中心主義乃至日本主義を指導原理たることに変りはない」と述べている。
「朝日時局読本」(1937)の「右翼団体の動向」では「上層的乃至中間層的団体の両者は資本主義、既成政党、議会主義に対する態度によって区別の標識が認められるのであるが、日本主義並びに民族主義な点では共通性がある」と書いている。*11
「憲兵要務(高等警察)教程」では「右翼運動の主張する主義精神は各種各様であるが其の共通点は日本精神である。従って之に反するもの即ち、我が国体に背き我が国家に背反するものは一切を挙げて之を排撃する点に於て亦一致して居る」「天皇中心政治の徹底 此の主張は右翼団体の中核を為す精神であって其の国粋的たると無産的たるとを問はず一貫して居る」とする。*12
赤尾敏の国家主義団体「建国会」は1926年設立で当初頭山満、平沼騏一郎、永田秀次郎らが顧問格であり1933年神兵隊事件の前田虎雄、鈴木善一も同人だった*13が、永田は1920年12月にほぼひと月にわたり新聞紙上で長文連載し持論を訴え、最後にこう結んだ。
そしてその熱い思いを持って目を周囲に転じた時に、自分ひとりでなく周囲のみんなに国体を理解させたい、皆が理解しなければ国体擁護できない、みなに皇道宣布したいという欲求が生じる。これが右翼運動である。
国体擁護と皇道宣布、この2点が右翼団体の根本であり共通点だと言える。
戦後三島由紀夫が東大全共闘との討論で「『天皇』と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すといってるだけのこと」と語ったという*16が、これも右翼にとって一番大事なものを端的に表現しつつ、それと同時に他人にも同じ思いをもってほしいという強い願望があることを示すエピソードである。
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)*10では、「右翼運動の目標とする所は単に国内問題のみにとどまらず又一般外交問題にも直接重大なる関連(皇道宣布、大亜細亜結成を主張す)を有するものにして」(54画像目)とある。また右翼運動の歴史的経緯について「明治維新以後の欧米物質文明謳歌時代に之に反抗して起りたる所謂国粋保存主義」と、第一次大戦後流行した民主主義自由主義及び社会主義共産主義に対して「此等外来危険思想を排除して国体の擁護と国粋の保存とを実現せんとする運動」の2つの大きな契機があったと解説する(60画像目)。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)では日本の右翼運動について「国粋主義・愛国主義・国家主義・国家又は国民社会主義・日本主義・農本主義等と種々なる名称と形態を示に至ったが、其の一貫する思想は、我が国体の原理なる皇室中心主義乃至日本主義を指導原理たることに変りはない」と述べている。
「朝日時局読本」(1937)の「右翼団体の動向」では「上層的乃至中間層的団体の両者は資本主義、既成政党、議会主義に対する態度によって区別の標識が認められるのであるが、日本主義並びに民族主義な点では共通性がある」と書いている。*11
「憲兵要務(高等警察)教程」では「右翼運動の主張する主義精神は各種各様であるが其の共通点は日本精神である。従って之に反するもの即ち、我が国体に背き我が国家に背反するものは一切を挙げて之を排撃する点に於て亦一致して居る」「天皇中心政治の徹底 此の主張は右翼団体の中核を為す精神であって其の国粋的たると無産的たるとを問はず一貫して居る」とする。*12
赤尾敏の国家主義団体「建国会」は1926年設立で当初頭山満、平沼騏一郎、永田秀次郎らが顧問格であり1933年神兵隊事件の前田虎雄、鈴木善一も同人だった*13が、永田は1920年12月にほぼひと月にわたり新聞紙上で長文連載し持論を訴え、最後にこう結んだ。
最後に及んで予は重ねて言いたい吾人は吾人の皇室を賛美する、絶対に賛美する、無条件に賛美する何となれば是れ三千年来吾人の祀先より先天的に吾人に伝来せる国民的信仰であるからである、吾人の情熱は決して議会の多数決とか憲法の正条と云うが如き冷たき理論と法規とを以て満足する事が出□ない、是非とも情を尽し意を通じたる温かき或物を要求する、実に吾人六千万同胞の脳裏を支配する情緒は天壌無窮の皇室中心主義と云う大傘下にあらずんば之を結合する事が出来ないのである*14天皇を心中仰ぎ見たときの皇室賛美・国体擁護の思いを永田は「信仰と確信」と表現した。*15
そしてその熱い思いを持って目を周囲に転じた時に、自分ひとりでなく周囲のみんなに国体を理解させたい、皆が理解しなければ国体擁護できない、みなに皇道宣布したいという欲求が生じる。これが右翼運動である。
国体擁護と皇道宣布、この2点が右翼団体の根本であり共通点だと言える。
戦後三島由紀夫が東大全共闘との討論で「『天皇』と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すといってるだけのこと」と語ったという*16が、これも右翼にとって一番大事なものを端的に表現しつつ、それと同時に他人にも同じ思いをもってほしいという強い願望があることを示すエピソードである。
内なる感情の国体擁護・外面的行動としての皇道宣布という2つの大元から右翼的主張・行動が派生・展開したが、それらは全て一つの判断基準で共通していた。1919年に侠客を集めて国粋会を作らせた床次竹次郎内務大臣*17や1921年国粋会関東本部総長に就任した陸軍中将佐藤鋼次郎*18、あるいは社会主義・マルクス主義・共産主義に批判的だった*19戦前の経済学者河津暹は分かりやすく語っている。
実際右翼は何かが起きると国体に沿うような対応を主張し、何かの思想が輸入されると国体に沿うかどうかで取捨選択し、あるいは国体に沿うように改変した。幕末の開国問題では尊王攘夷が主張・実行され、明治欧化期には国粋主義が主張され、さらに日本国内での国体擁護・皇道宣布にとどまらず、海外に向けた主張・行動も実行された。そしてそれは右翼団体にとどまらず、それ以外の人々やメディアも同じ主張をすることがあった。
余は少し大胆なるやも測り難きも、デモクラシーもソシャリズムも所謂新思想なるものは尽く之を歓迎包容し、決して之を危険視せざるものなり。唯余の危険視するは、我国体と相容れざるもの、及我国家の存立を危害するの恐あるもののみ。 — 国民新聞 1919.9.8 (大正8) 我陸海軍の深憂大患 陸軍中将 佐藤鋼次郎*20
床次内相は、九日京都に開催された政友会大会に臨み、一場の演説を試みて思想問題に及び…要は「建国の歴史に鑑み国情に照し取捨宜しきを得ば大丈夫なり」と楽観し — 大阪朝日新聞 1921.1.11-1921.1.12 (大正10)*21
欧羅巴のものが総て善いという訳は決して無いから、先進国の文物制度を輸入せんとするには幾度か研究し我国体並に社会に有害なるものは飽迄も排除しなければならぬ — 大阪新報 1921.9.10 (大正10) 思想問題対策 思想鵜呑の傾向を排す 法学博士 河津暹氏談*22
実際右翼は何かが起きると国体に沿うような対応を主張し、何かの思想が輸入されると国体に沿うかどうかで取捨選択し、あるいは国体に沿うように改変した。幕末の開国問題では尊王攘夷が主張・実行され、明治欧化期には国粋主義が主張され、さらに日本国内での国体擁護・皇道宣布にとどまらず、海外に向けた主張・行動も実行された。そしてそれは右翼団体にとどまらず、それ以外の人々やメディアも同じ主張をすることがあった。
- 井上円了「神仏二教は我旧来の宗教なるを以て我歴史上に最も縁故ある宗教なることは歴史を一読する者の皆熟知する所なり。神道の縁故あるは云ふまでもなく仏教も…各州各郡に寺院を創立し住職を任命し以て国家鎮護の一助となしたるが如きは名実共に仏教を以て国教に組織したるものなり。皇室歴朝の葬祭は仏教によりて営みしもの及び皇族にして仏門に帰し仏寺に入りしもの幾人あるを知らず…我邦皇室国体の永続を期せんと欲せば歴史上縁故深き寺院は之を保存し其宗教は之を特待せざる可からず」「共和政体なる米国の宗教は君主国に適せざる宗教にして別して我皇統一系国に適せざる宗教なり。其宗教の組織は全く自由共和平権平等等の主張に基きたるものにして其宗教上の思想は我国政体上の思想と並行両立すること能はざるものなり」(1889年)*23
- 渡辺法瑞「我神国の国体を蹂躙し天神天祖を毀廃し神民をして神皇に背かしめ臣民たるの義務を滅亡する大なる邪毒を胚胎せり」「尊皇愛国の切忠より伏して寄言す、日本三千九百万人の吾同胞の諸兄弟真眼晴を開て耶蘇基督教に昏迷することなかれ。」(1890年)*24
- 高山樗牛「日本主義は国体の維持と民性の満足とを以て国家の独立、国民の幸福を保全し得べき二大制約となし、是二大制約を中心とし、核子とし、以て内外諸他の文物に対して公平なる研究を試み、是研究の結果によりて取捨選択を行ひたり。」「是を以て日本主義は、内に向ては基督教と共に非国家的非現世的なる仏教を排斥し、保守的進歩的なる儒教の一部を排斥し…」「嗚呼彼等(キリスト教)は我特殊なる国体を認めざるか…君民同祖、忠孝一致の国体を認めざらむか、是れ已に我国民に非ざるなり」(1898年)*25
- 木村鷹太郎「若し耶蘇教にして真に我国利民福を助けんと欲せば、宜しく国家国体に衝突せる所、学術心理に背く所、我道徳に異る所の諸説を棄て去り、全々日本的となり日本主義に同化し『耶蘇』の名を虚にし『耶蘇的』『ユダヤ的』『欧米的』の臭味を存せざらしむべきなり。…吾人は耶蘇教を悪む者に非ず、只其有害なる者あるを悪むなり」(1899年)*26
19世紀末の不平等条約改正の際に外国人の内地雑居を認めるかが問題になった。
- 井上哲次郎「一たび内地雑居を許すに至らば必ず国体を一変し去るべきは前章にも論述せる如く毫も疑ふべからざる事実なり…嗚呼一とたび内地雑居を許さば今日の如き万国無比なる神聖の大日本帝国は再び今日の如き状態を挽回すること能はざるべし。」「現に未だ内地雑居を許さゞ今日已に其の現象を呈したるに非ずや、即ち第一高等中学校の教員中にも内村鑑三、木村某の如きは勅語奉読式の時に我が至尊なる天子の御影を排せず、且つ衆人に告げて曰く、是れは真正なる神に非ず、故に拝せざるなりと、即ち我が天子を侮辱せり…此の如きものは最早や日本人民に非ざるなり」「今日若し内地雑居を許さば彼の無法なる外人は我が神明に対し、或は皇室に向ふて、侮辱をなすは敢て少なきことに非ざるべし」(1891年)*27
- 新井章吾「西洋人が来て雑居をすると云ふ風になれば勢ひ彼の風俗も我国に行はれる様になります…遂に□日本固有の美風たる日本魂をも失ふと云ふ有様になり身体は日本人だけれども魂は西洋だと云ふ様な相の子が出来日本の国を忘れ日本の国家を忘れて仕舞ふ様に倣うと思ひます」(1893年)*28
- 国友重章「我日本帝国は堂る(?)万世一系の帝室を首に戴く国柄で御坐ります。文字言語独立の国である。然るに此の言語文字独立を失って居る証拠を挙げますれば裁判所構成法に何んと書てある。ある場合に於ては英語を以て裁判の事を弁ずるを得と書てある…一朝内地雑居となれバ此弊が那辺に達するか測り知るべからざる者で御坐ります」(1893年)*29
19世紀末の民法施行に際して旧来の慣習が変わることへの大きな抵抗が生じ議論が百出した。(→民法典論争#民法典論争の争点)そして日本古来の家族制度を破壊するとして個人主義が批判された。また教育勅語(1890)「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」のような滅私奉公的見地からも、個人主義が批判された。
- 穂積八束「民法出でて忠孝亡ぶ」(1891年)「史家は一躍三千年来の家制を看ること弊覆の如く双手極端個人本位の法制を迎へんとする我立法家の大胆なるに駭駭くなるべし、万世一系の主権は天地と共に久し其由る所或は祖先の教法家制の精神に渉るなきか」*30
- 高楠順次郎「労働問題、社会問題は欧米にては皆個人主義の余弊として起ってゐる、一のストライキも個人主義を以てすると之を防ぐに中々の困難を感ずるが…今日日本の国体を維持して世界と競争して行くには是非二千年来の家族主義を土台としこれに西洋個人主義の長所を加へて行かねばならぬ…要するに我国の工芸教育に於ては個人主義を取り、精神教育に於ては家族主義を取るのが正当である、家族主義とは単に家族同住主義ではない家族主義に基いた国家主義のことである…この万国無比の国体を生じ、空前の発展をしたのもツマリ家族主義の賜である」(1909年)*31
- 内務書記官中川「個人主義に就ては曾て文部当局者の言に現今の中学生又は卒業生は個人主義に陥り易いとのことであったが農村等は古来我邦の美風たる家庭主義を鼓吹するが必要である」(1912年)*32
- 井上哲次郎「家族制度は結合一致させるといふ長所がある…日本民族といふものは、能く結合一致さへして居れば、如何なる外敵も恐るゝ所は無い」(240,242頁)「西洋文明の近世の特徴は個人主義の発展にあると言へる…併しながら、日本は家族制度といふ団体主義で来て居るのであって」(252頁)(1912年)*33
- 国民新聞「個人主義、利益主義、非君主主権説は、我が国体を破毀せざれば、貫徹すべからず。我国民の忠君愛国の信念を絶滅せざれば、其の存在を保つ能わずして、我国憲の大旨、教育の大本は、遂にこれに依りて破滅せんとす。是れ豈、今日に於いて許すべきの事ならんや……我大和民族は、忠君奉公を以て其心と為し、君国の為めには、其身命を惜むことなし」(1912年)*34
- 若尾幾造 (2代)「元来相続税と云ふものは我々の考へて居りまするところに依れば、最も悪税である…欧米諸国は兎に角個人主義であるが、日本の国体は兎に角古来より天皇あって国あり、国あって家あり、而して人がある…此家督相続に付ては此税を全廃したいと思ひます」(1914年3月2日衆議院)*35
- 中等教育研究会「個人主義の思潮に伴う弊害と少しとせず就中 一、個人を本位とするがため利己に傾き国家社会を重んぜず献身義勇奉公等の美徳を害するに至る」(1916年)*36
- 子爵清浦奎吾「国家社会の組織は、国体とも考え合わさねばならぬ。家族制度が宜しくないとは、個人主義説の方から聞くことだが、家族制度が我が国体民族に適合すればこそ、幾百千年も能く行われて居るにあらずや。若し其の短所あらば、之を補えばそれで可なり。何にも西洋の個人主義にかぶれて、無理に家族制度を打破するに及ばんや」(1919年)*37
- 陸軍中将山梨半造「或る程度までは個人主義を伸ばさざるべからず。されど一旦緩急あらば義勇公に奉ずるの精神を失うべからず。極端の個人主義、増長すれば、この精神と衝突すべし。この精神なくならば国家は一日も存在すべくもあらず」「社会を離れて個人は存在せんのである。社会は一の有機体で個人は其の細胞の如き関係であるから細胞が在ってこそ有機体は存在するのであるが細胞は又有機体を脱離すれば死滅の外はない。随って個人を主とし社会や国家を従とすると云うことは間違って居る…是に於て私は断言する。所謂個人主義には大なる欠陥があるから一部の真理はあるにしても全体として受入れることは絶対にできないのであると」(1921年)*38
- 勤王会(1932年設立)の主義「対立思想個人主義の誤謬を正し全国民一致して国体に帰依し忠義臣道を実現せんとす」*39
- 内田良平(黒龍会主幹・大日本生産党総裁)「皇道為本の改革は、家族主義を基礎とするものにして、欧米の個人主義と反対なるものなり。…富の偏重を生じ、随て権力の偏重を生じ、常に其の公平を得んとして闘争に次ぐ闘争を以てし、一面に於てマルクス主義の如き理論を生じ…之れ皆な個人主義より出でたる弊害にして」「家族制度を破壊すれば、国体の細胞を破壊することゝなり、皇室を孤立せしめ、国体の危険を生ずるは当然」(1934年)*40
- 神兵隊事件被告「被告人天野辰夫等はかねてより現下の我が国は明治維新以後欧米の物質文明と共に輸入せられた自由主義、個人主義、唯物主義の思想により政治、経済、法律その他社会諸般の組織制度蠧毒せられ日本精神は忘却せられ、日本民族の将来は危殆に瀕し一大改革を要するものと思考していた」(1935年)*41
- 金光庸夫厚生大臣「東亜共栄圏の確立を期する為には、我が国の人的資源の確保増強を図らねばならないことは誠に御説の通りでございまして…要するに何よりも日本民族は悠久に発展すべき民族であるとの自覚と矜持とを持って、個人主義思想や産児制限を是認する享楽的の風潮を一掃致しまして、家と民族とを基調とする思想を確立することが急務でありまして(貴族院本会議1941年1月27日)*42
- 佐田白茅編「政体評論」(1875年)「夫れ今日文運開明の時に当り学者或は共和政治を唱ふるの弊より其言甚だ国害を為せり。…天皇陛下は則ち封土の君主門葉の帝たり。其下も亦門葉の帰属ありて門葉の君主を維持せざるべからず。…我大日本は一系の天皇と門葉の華士族とを以て国家始て成れり。之を不適意なる者は父母の国を去る乎将た海を蹈て死すべし。」*43
- 1898年、尾崎行雄文相が共和演説事件で批判を浴び辞任。批判例「帝国は万々歳帝国たり。文相尾崎が未来に共和政体必無を期す可らずと放言せしは、不臣極れり…尾崎の妄言は、国体と教育を賊ふ甚し」(東京日日新聞)*44。また木村鷹太郎「民主共和の思想の有害にして、我国民たるものゝ夢にだに想ふ可からざる所のものたるや言はずして明かなり。之を以て前内閣の文相(尾崎行雄)の共和的理想の演説を為すや、茲に其内閣の瓦解を来すの大罰天より降れり。」「国体政体は神聖にして犯す可からず。全日本の国民は衷心国体を擁護し皇室を敬愛し、日本社会は、之を以て道徳の最大なるものとなし、日本の道義皆之れを中心となす。然るに近来無学の百姓的智性の輩は、民主を唱へて帝権の絶対なることを拒む、素より不義の徒なり。文相にして国体を弁へずして共和を夢想す、素より愚狂者なり」(1899年)*45
- 行地社の山田武吉「我国体は議会政治を以て易へてはならぬ、政体としては居らぬ。元首を大統領として之れを国民の公選によって定むる共和政治は、我が国体の許さゞる所るや勿論とし、議会政治殊に今日の如き堕落し切った不合理な我が議会政治は、場合により之れを変へても差支へないのである。」(1931年9月「月刊日本」78号)*46
社会主義や労働運動は1900年治安警察法で規制されたが、幸徳秋水の次の言葉は、社会主義が国体に反すると批判されたことを物語っている。「『アレは国体に害がある』と一たび断定せられたならば…全く息の根を止められたと同様である。」「社会主義の目的とする所は…是が何で我国体と矛盾するであらう歟」(1902年)*47
- 1879年、東京曙新聞がヨーロッパの社会主義を解説し、それに対して朝野新聞が国体変革の主張だと非難した。*48
- 民友社「日本と云ふは、万国に比類のない国体で、皇室が民人の中心と為て在せられ、其の民人は忠孝を本としてゐて…その国体に照し、其の歴史に基いてゆかなくてはならない。社会主義などは、西洋で…報復の運動が、とうとう現在の国家を始め、すべての制度を破壊さうと云ふ運動となったのである。」「日本人は西洋とは性質も異日…天皇陛下の御仁徳を被むることも深くて、常に皇恩に感泣して居るから、階級的嫉恨憎恨と云ふ様なことに立ち到ることは、何もないのみならず、国家に対して怨恨つらみのあらう筈がない。…西洋人が西洋人に対する報復の手段をば、日本人が日本の国家、民人に対して加へようとする訳に当り、是れ程間違たことは無い。」(1911年)*49
- 陸軍少将河野恒吉「社会主義主張も国々によりて異って居る、併しながら其共通点であり又社会主義信条の第一条であるものは、世襲君主の排斥である。…我皇室が万世一系たる所以、又世界無比なる所以、実に茲に存すと曰わねばならぬ。社会主義信条第一の我国に当て箝らざる所以が何人にか尚釈然たらざるものあるか。…吾人は寧ろ我国民の福祉増進上益必要なりとして我国体擁護を絶叫せねばならぬ。」(1925年)*50
大正時代に入り吉野作造がデモクラシーを日本に紹介し*51広まったが、それは共和制・国民主権であり天皇主権に反するとして批判された。あるいは日本には元々万機公論的デモクラシーがあったとか、日本古来の仁政がデモクラシーだという主張もなされた。
- 建部遯吾「百年未曾有の戦乱を乗越えて…五大強国の一たる我日本が今し頃デモクラシーの世界へ進まんとするとは何のことか、而も之れを以て我政治的生活の進歩であるとか或は改造であると言って騒ぎ廻る連中が坊間甚だ少くないこれ実に時代倒錯の狂態にあらずして何ぞ…我現下の混沌たる思想問題を解決せんとせば第一に国体の特質を研究し」(1919年)*52
- 井上哲次郎「広い意味のデモクラシーならば日本には古来行われて居る…最近に於て明治天皇の如きは最も能く人道的精神を発揮された方である、五箇条の御誓文を初め総ての政治は人民の為であった…狭義のデモクラシーとは人民に拠っての政治である、日本の民本主義は人民の為の政治である、人民に拠っての政治は之を実行すれば民主団体となる、即ち共和政体となる、それは日本の歴史並に国体及現今の憲法と両立しない事である、日本に於て狭い意味のデモクラシーを唱道する事は憲法に反した言論であり、又国体を無視した行いである」(1919年)*53
- 赤尾敏の国家主義団体「建国会」の顧問格だった永田秀次郎「若しデモクラシーの真理なるものがリンカーンのいう如く、人民の為めに人民の行う人民の政治なりと解するならば、共和主義を意味することとなりて、之を其儘に我国に輸入することは出来ない…我々は既に之と同じ幸福を昔から享有して居るのである、何となれば民意を暢達せしむる政治ならば、建国以来我邦政治の大精神である、万機公論に決する政治ならば、既に叡明なる明治天皇が維新の始めに当り、宣らせ給いたる五条の御誓勅によりて、早くも我国に行われて居るのである」(1920年)*54
- 山脇玄「皇室の政治は歴史あって以来万世不変のもので現代の所謂デモクラシー(民衆を基とする仁政)であること皇室と臣民と親子の関係にあることを津々浦々に至るまで民衆の胸裏に栽付さえすれば共産主義であれ無政府主義であれ社会主義の何たるを問わず決して懼れる理由はない」(1923年)*55
- 「我が国体と世界新秩序」「神国日本の使命」など著書がある藤沢親雄「共産主義のソ連や民主主義の英米などは皇国は勿論、精神全体主義の独伊よりも道義的標準に照らして国格が劣るものである。もとより皇国は…個人主義に立つデモクラシー国より遥かに精神的に深味のある国であることを銘記すべきである。」(1936年)*56
- 日本思想研究会(1931年設立)会長*57を務めた松岡洋右「新体制の如きも…皇道精神を宣揚するとともに、吾国体に合せざる共産主義とか民主主義とか云うが如き思想を根絶することがその主たる目的の一つである」(1940年)*58
- 日本思想研究会が出した本では白鳥敏夫が語った内容が記されている。「(新体制の)趣旨は従来の自由主義政治を清算して、天皇に帰一し奉るところの、万民輔翼政治を樹立しやうといふことにある。これが日本本来の姿であって…然るにこれが英米デモクラシー思想の影響によって、歪曲されて来たことは否めない事実である。もともと日本の政治といふものは、天皇御親政が本来の建前で、それでなければならない。」(1940年)*59
- 憲兵要務(高等警察)教程「政治的自由主義とは…本来デモクラシーと自由と平等とを骨子として民主政治を要求する政治思想であるから、我が国の如く三千年来、炳易としてでなく、国家統治の大権が、天皇に存する国家に於ては、断じて許すことの出来ない思想である」*60
1917年ロシア革命1922年ソ連成立以降、「国体」に反するとして共産主義を警戒する動きが高まり1925年治安維持法が成立した。治安維持法案提出前の若槻礼次郎内務大臣説明「露国に行わるる思想中に我国体並に社会組織と根本的に牴触するものがあり」*61
日本は第一次大戦で連合国側で参戦しドイツと戦い、またロシア革命後のシベリア出兵でソビエトと戦ったが、その頃からユダヤ人が関心の対象となり始めた。
1921年3月外務省情報部員森権吉「猶太人に関する研究」では「我国に於ては従来猶太人種との交渉深からざりし為め、同人種に就ての興味は至って尠く、従て之に対する研究も等閑視せられたる様なるが、近代の経済問題より社会問題乃至国際問題を研究するには、猶太人問題を不問に付する能はざるに至れり」*62とする。北満洲特務機関「猶太研究」(1921年11月)では「対過激派政策上猶太問題研究の必要を認め、北満憲兵隊と協力して」*63調査を始めたと述べ、外務省欧米局第二課編「猶太人問題」(1922年6月)*64は在独日本大使館の依頼でベルリン大学講師が起稿したものを要訳したものである。
森の「猶太人に関する研究」には「猶太人が露国の革命を醸成し、之に参与したことは周知の事実なるが、フランス革命の原動力となりしも亦猶太人なりき」と述べさらに「イルミナティ」「フリーメーソン」「ザイオン長老の記録」に言及している。*65
北満州特務機関の資料も「マッソン結社(フリーメーソン)」に言及しフランス・ロシア革命とユダヤ人の関連を指摘し、さらに次のように主張している。
外務省欧米局第二課編「猶太人問題」は「猶太人は一の毒薬なり」(77頁)とする。
こうしたユダヤの陰謀・ユダヤの世界征服野望的主張が日本で広まり、右翼界でも同様であった。
〇右翼による反ユダヤ・ユダヤ陰謀論
1921年3月外務省情報部員森権吉「猶太人に関する研究」では「我国に於ては従来猶太人種との交渉深からざりし為め、同人種に就ての興味は至って尠く、従て之に対する研究も等閑視せられたる様なるが、近代の経済問題より社会問題乃至国際問題を研究するには、猶太人問題を不問に付する能はざるに至れり」*62とする。北満洲特務機関「猶太研究」(1921年11月)では「対過激派政策上猶太問題研究の必要を認め、北満憲兵隊と協力して」*63調査を始めたと述べ、外務省欧米局第二課編「猶太人問題」(1922年6月)*64は在独日本大使館の依頼でベルリン大学講師が起稿したものを要訳したものである。
森の「猶太人に関する研究」には「猶太人が露国の革命を醸成し、之に参与したことは周知の事実なるが、フランス革命の原動力となりしも亦猶太人なりき」と述べさらに「イルミナティ」「フリーメーソン」「ザイオン長老の記録」に言及している。*65
北満州特務機関の資料も「マッソン結社(フリーメーソン)」に言及しフランス・ロシア革命とユダヤ人の関連を指摘し、さらに次のように主張している。
故に吾人が猶太人を排する理由は左の三点にあらざる可らず。
一 猶太人は四海同胞の大義を滅却す。
ニ 猶太人は己れの文化を人に強ゆ。
三 猶太人は秘密諜報に長じ刻下の機密を暴露す。
— 北満洲特務機関編「猶太研究」175-176頁
外務省欧米局第二課編「猶太人問題」は「猶太人は一の毒薬なり」(77頁)とする。
こうしたユダヤの陰謀・ユダヤの世界征服野望的主張が日本で広まり、右翼界でも同様であった。
- 北海タイムス1919年10月の無名氏寄稿「猶太人は国家もなく、軍隊もなく只人民だけが世界中到る所に散在し極秘密に強固に結束して居ります、其団体を『マッソン』結社と申します…ユダヤ人が世界を掌握しようという大陰謀の計画は先ず君主独裁国を立憲君主国とする憲法制度に依ると主権者が政治の一部を臣民に与えることになる、即ち主権を弱めるのであります、更に進んで共和政体にし、民本政体にし、尚進んで無政府状態に導こうと云うのです」[89]
- 「猶太研究叢書第2巻 フリーメーソンと世界革命」(ドクトル・ウィヒテル著、1924年)[90]
- 「猶太民族の大陰謀」(酒井勝軍著、1924年)[91]
- 「赤露の理想と現実: 猶太の大陰謀」(松井構間太郎著、1924年)[92]
- 「猶太人の陰謀と排日問題」(勝井辰純著、1924年) [93]
- 大阪時事新報1932年記事「彼等がかく全世界を掌握(?)するに至った経路こそ常に姿を現はしては消えたるところのユダヤ禍、即ち彼等独特の陰謀が潜んでゐたのである。」*66
- 神戸又新日報1933年記事「フリー・メーソンは一つの秘密結社であって自由な正義の帯を連らねる一つの帯である、この帯は職業、党派、国籍、宗教を超越したものである、等これらを遵奉し全世界をユダヤ人によって支配せんとする」*67
〇右翼による反ユダヤ・ユダヤ陰謀論
- 天皇機関説騒動で「国体無視の美濃部博士」と非難した*68若宮卯之助「猶太人の陰謀は、今や世界的の事実で、此の点に問題はない。…猶太人の侵撃は、金と宣伝とからだ。…猶太人の問題を疎略に付する者は、固より自ら知らざる乱臣賊子の一種であるが…」(1924年)*69
- 「猶太民族も正義を六合に普及せんとするならば必ずしも悪む可きでない、寧ろ前述の神武大宣言の御主旨と結局同一点に帰着するやも知れない、然れども帝国は古来終始一貫王道坦々として進み彼は常に蛇の如く迂余曲折現世を混乱擾乱せしめ来った、其罪決して軽しとせない。…本の道は王道であり猶太のは覇道である我は正道の護持をして行きつゝあるが彼は先へ行ったら正道の護持をやろうとして今甚だしい邪を行って居るのである。」(1924年)*70
- 「我が国民思想の悪化については、種々の原因があるけれどもその主なるものは猶太人の陰謀より来るものである」「彼等の最も恐ろしき敵となるものは、君民同治の生態、神意によって定められたる国体であって、理屈や何故にを超越した精神的極地によって建設されたる国家である。即ち我大日本帝国のそれである。今日猶太人が全力を傾注して破壊に導くべく努力しつゝあるのは西にあっては英国、東にあっては我が日本である」(1928年)*71
- 大日本愛国社(1929年設立)の主義綱領「一、凡ての国策は皇道に基本す 六、ユダヤ民族世界的赤化悪化の思想的大宣伝を排斥撲滅す」*72
- 日本愛国勤労組合「世界革命の何れもが猶太人が陰に陽に関係し計画せる事が知れる。…彼等の戦法である解放、改造、現状打破、革命と言ふ経路に対しては深甚な注意を払らはねばならぬ。同時に万邦無比の光機ある帝冠を奉戴する我等大和民族は絶対の確信と非常な容易を備へて予め之を警戒し防御せねばならぬ。」(1930年)*73
- 黒正厳「忠君愛国の根本精神は政党政治の存続すればするほど頽廃せざるを得ぬ。…資本主義的組織によって生活する以上、日本資本家と雖もユダヤ人ではないが、ユダヤ的ならざるを得ぬ。資本家的組織中に生存するものを保護するにはユダヤ的売国的ならざるを得ぬ、故にこの区域の有害なる組織を打破して、新なる愛国的日本国民社会主義を国民の間にインスピレートしやうと努力するのである。」(「経済往来」1932年3月号)*74
- 226事件で反乱幇助として事件送致(不起訴釈放)*75された瑞穂倶楽部(三六倶楽部)四王天陸軍中将「ユダヤ人といへば陰謀には付きものだが…ユダヤ人はこの戦術を具体的に実行に移すため、全世界に誇る非常に大規模な秘密結社を作ってゐる。これが有名なフリー・メーソンなるものである」(1933年)*76
- 軍令部海軍大佐犬塚惟重「猶太対策の基調 第一に警戒監視に当る恒久的機関が必要であります。たとへ事変が終りましても、極東日本の勢力範囲内にはユダヤ民族存在し、特に支那対策上不離の関係に置かれ其の背後に英米仏国並に多数の猶太民族を有するソ連の存在する以上此の問題は永久に重視すべきものであります。尚ほ思想戦的に見れば、 人民戦線的思想と国民主義全体主義的思想とは現在では永久に闘争する運命に置かれ前者の背後には猶太民族あり後者の最も思想中心的存在である皇国とは、根本的に相容れざる存在であり従って之れが思想戦的克服を完成するは皇国国体の尊厳宣布の上にも緊要なるのみならず、又皇国の存在理由であると考へられるからであります。」(1938年)*77
- 仏教学者上円了「太古我が邦未だ開けざるに当たり…天祖天照大神皇孫瓊々杵尊に命じて此の国の主となさしめ以て万世無窮の宝祚を定め給ひしより…爾来歴代の天皇一系相承け以て今日に至る。我が億兆の人民大抵皆神孫皇族の末裔若しくは皇室より分かれたる功臣の末孫にして祖先以来皇室を輔翼し…斯々に皇室ありて後、人民あり。人民ありて後、皇室あるにあらざる所以を知るべし。他邦は則ち然らず。先づ人民ありて後人民中の強者立ちて酋長となり進みて君主となり以て一国をなす。其の国体の相殊なること本より同日の論にあらず。是れ我が国に一種特殊の国体を現じたる所以なり。」(1896年)*80
- 東京帝大教授穂積八束「我が民族は此の天賦神聖なる団結の要素を兼具し之を保守したるの久しきに因りて愈其の鞏固を加へたり。是れ万国の欽慕する所にして世界に対して誇称するに足る。今若一時の風潮に襲はれ千古の特性を廃頽するが如きあらば日本民族の社会的組織を紊乱するの悔あらん。」(1897年)*81
- 海軍中将上泉徳弥「独逸には汎独逸主義あり、英国には大英帝国主義あり…而して此等欧米列強の主義は表面有らゆる美名を装うて居るけれども、各々侵略的野心を含み…独り我が大日本主義のみは然らず、天照大御神の大御心にして全く全世界の親類をいつくしみ給ふ有難き尊き主義であって、決して侵略主義では無い。」(1918年)*82
- 神戸連隊区司令部「我が大日本帝国の国体は、金甌無欠であって未だ曽て世界何れの国にも見ることの出来ない国体である。其の特徴の重なるものを挙ぐれば、一、皇統連綿として万世一系の天皇を奉し、国体永久不変なること。ニ、国家の創造宏遠なること。世界の旧国と称せらるる埃及、印度、支那の如きは其の建国古しといふに誤なきも興亡、革命相亜いて古の国家の継承でない。然るに我が国は、神武天皇ご即位の紀元元年以後に於てすら実に二千五百九十年を経て居る。若し夫れ其の太古、神代をたづぬれば、天地創造の時に初まり、その幾年なるかを知り得ない古い歴史を存して居る。三、開闢以来未だ曽て他国の侮を受けぬ。…四、君国一体なること。五、君民一家なること…」(1930年)*83
- 外交官石井菊次郎「言ふまでもなく、我が国体は世界独特である。万世一系の皇帝を頂く国は我国を措いて世界何れに在るか。皇帝先づ広く会議を起し万機公論に決するの国是を建てられて民智の啓発を促がされ、皇帝親ら憲法を欽定せられ人民に参政せしめたる国は日本以外何れに在るか。日本臣民は此の世界独特の国体を以て金甌無欠と為し、身命を掛けて之を擁護するものである。」(1930年)*84
- 文部省「国体の本義」(1937年)「かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。…天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力、徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。天皇は天照大神の御子孫であり、皇祖皇宗の神裔であらせられる。」*85
- 文部省編著「八紘一宇の精神: 日本精神の発揚」(1937年)「抑々我が国は他の外国とその根基・成立・精神・歴史等を本質的に異にして居る。それは、強者が多数の弱者を征服して自ら禁酒となって打建てた権力国家でもなく、或は又多数の民衆が自己の利益の為に相互に契約し、一人の代表者にその統治権を委任して成立せる約制国家でもない。我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、彼の北畠親房が『大日本は神国なり」と述べし如く神の国である。」*86
- 西沢之介「第四章 露国膺懲は帝国の任務 昔は、祖宗肇国の初、皇道を天下に宣布して六合を兼ね八紘を掩ふの詔あり。是実に我が大日本の天職にして、幾萬斯年に亘りて易ふべからざる国是なり。世界の平和は、我国が此の天職を行ふによりて維持せられ、東洋諸国亦我国の威力によりて治安を保つことを得べし。…露国の行ふ所は独列国の均勢を破り、又東洋の平和を乱すのみならず、直に我国の存立を危うし…是我国が慨然として干戈を執りて起たざる能はざる所以なり。」(1905年)*87
- 井上哲次郎「抑も我国は、皇祖建国の当初より、万世一系の天皇億兆に君臨して…此の万邦無比の国体と、終始一貫せる国史の成績とは、我が国民性の中郵義烈なることを証し、優美敦厚なることを明らかにす。」「我が国は東亜第一の強国として群小を率ゐて遠く欧米の列強と対峙し東亜民族の為に自由と幸福とを確保せざるべからず。是れ帝国使命の第二なり。…我等は更に進んでは、東西両岸の融合統一者たる使命を自覚せざる可からず。…我が現代の文明は既に東西両洋の粋を融合調和して成れるものにして、今後は益々此の形勢を促進して、世界的文明の建設者たるは、実に我が国民の光栄なる使命と謂はざるべからず。」(1917年)*88
- 海軍中将上泉徳弥「我が建国の大理想、即ち天照大御神の御精神より考察したならば、我々大和民族は自ら進んでい人種間の融和親交を図り、相互に蟠れる誤解と偏見とを撤去して、世界をして真の楽園たり理想郷たらしめねばならぬ大使命を有して居る。是れ予が幾度か道義的世界統一を論ずる所以である。」我が人口処分問題は頗る痛切に促迫して居るのであるが…我が過剰人口を先づ西比利亜若くは中央亜細亜の未開の地に移すを以て最も賢明なる方法と思惟せざるを得ない。何となれば此等の地域は亜細亜未開の土人の居住する所であって、亜細亜に国する我が国人が亜細亜を指導開発し、古代に燦爛たる光輝を放ちし其の文明を回復することは当先の使命であらねばならぬ。」(1918年)*89
- 宗教家田中巴之助「『日本国体』の政治能力は、単に大八洲の範囲に止まるべきものでない、天統の『王道』は全世界に光被すべきこと、天の日の六合を照らすが如きものである、而してその政治は武力の謂でない、外交政略の謂でない、忠孝の活躍であらねばならぬ。」「世界一同の倶に崇敬渇仰する的がなくてはならぬ」「片々たる政略や武力で、世界を統一するなどいふことは、『日本国体』の統一観から見て、夢の如く児戯の如きものである、神武天皇の世界統一の宣言は、その素を『養正』の大義から発し、その基調を『八紘一宇』の大人類平等感に置いて、然る上に性然たる政治的統一を行ひ、祭政一致忠孝実施の強大勢力を地上に建設しようといふのである。」(1922年)*90
- 文部省編著「八紘一宇の精神: 日本精神の発揚」(1937年)「流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造する使命と実力を有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。茲に我が国体の尊厳と我が国家の不滅との深き根拠がある。されば我が国体と国家とに対する自覚と体認とは、我々国民が現在直面せる支那事変の時艱を克服し、天壌無窮の宏謨を翼賛し奉り、以て世界救済の歴史的使命を果す最深最大の原動力である。」*91
文部省学生部「日本改造運動(上)」(1934年)では、右翼運動の転機は「昭和五年(※1930年)のロンドン軍縮会議の頃」*92であり、現状維持型の国粋運動から「一君万民、君民一家の理想による国家改造」に変化したとする。
例えば国粋会や赤尾敏の建国会は1927年野田醤油労働争議などで会社側について労働者と対峙した*93*94*95が、昭和に入ると右翼が態度を変え、資本主義・財閥を問題視・敵視するようになった。日本警察社編「思想警察通論」(1940年)ではこれが従来型右翼との大きな違いだと述べている。*96
内務省警保局保安課「国家社会主義運動の理論」(1932年)*97でも、津久井龍雄「日本的社会主義の提唱」を引用して「所謂従来の右傾反動派は決して資本主義に対する態度を明確にせず―明確にしてゐれば資本主義擁護的にだ―意識的無意識的に資本の前衛たる役目を果してゐる(中略)此に対して国家社会主義は明白に資本主義打倒の立場に立つ」とする。
奈良県警察部「非常時と思想対策」(1934年)でも「彼等(右翼)はマルクスの剰余価値説を信じてゐると思はれる程資本主義を罪悪視し資本家は労働者を搾取するといふが…」と述べる。*98
右翼界におけるこうした変化の早い例が北一輝「日本改造法案大綱」(1923年)で、北は「私人生産業限度を超過せる生産業の国有」を主張し」現時の大資本を批判した。右翼側から資本主義・財閥を排撃する動きは1930年昭和恐慌後に急増し、その改善策として統制経済(反自由主義経済)や私有財産制限が主張された。
内務省警保局保安課「国家社会主義運動の理論」(1932年)*97でも、津久井龍雄「日本的社会主義の提唱」を引用して「所謂従来の右傾反動派は決して資本主義に対する態度を明確にせず―明確にしてゐれば資本主義擁護的にだ―意識的無意識的に資本の前衛たる役目を果してゐる(中略)此に対して国家社会主義は明白に資本主義打倒の立場に立つ」とする。
奈良県警察部「非常時と思想対策」(1934年)でも「彼等(右翼)はマルクスの剰余価値説を信じてゐると思はれる程資本主義を罪悪視し資本家は労働者を搾取するといふが…」と述べる。*98
右翼界におけるこうした変化の早い例が北一輝「日本改造法案大綱」(1923年)で、北は「私人生産業限度を超過せる生産業の国有」を主張し」現時の大資本を批判した。右翼側から資本主義・財閥を排撃する動きは1930年昭和恐慌後に急増し、その改善策として統制経済(反自由主義経済)や私有財産制限が主張された。
- 神武会(1932年2月設立*99)主義綱領「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義の搾取を排除し全民の生活を定安せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」*100
- 国民中堅同盟(1932年5月設立)主義綱領「ニ、本同盟は国民運動に依り一君万民政治の徹底を期す。三、本同盟は生産消費の無統制なる現状を改め計画経済の実現を期す」*101
- 5・15事件(1932年5月)有罪の橘孝三郎「日本愛国革新本義」(事件と同月出版)「第二章 国内の実情…大都市の異状なる膨張と、それに逆比せる農村の最も惨憺たる荒廃と同時に『大都市に巣食ふ特権者及び財閥の連合支配力』の強大化確立の下に見出さるる一般大衆就中農民大衆の瀕死的貧困化とによって…」*102
- 新日本国民同盟(1932年5月設立)綱領「金権支配の廃絶と天皇政治の徹底、資本主義機構の打破と国家統制経済、私有財産限度の制定と国家収納、私営企業の規模限定、土地の国有…」*103
- 錦旗会会長遠藤友四郎「皇国軍人に愬ふ」(1932年12月)「私は先づ第一に、私有財産限度を制定して、この限度を超過する超過財産をば国家に提供せしむべしとする。…個人の無制限私有は、我が国体原理そのものが断じて之を許さない。否、一切は皆これ陛下の御もの、故に絶対の無私有、これ我が国体原理である」*104
- 東方会の中野正剛「国家改造計画綱領」(1933年)「第三、統制経済機構の確立 一、国民的生産力の組織的発展をもたらし、一般国民の福利を増進する見地に立ちて、資本主義を矯正し、強力なる統制経済機構を確立するを急務とする。説明 従来の自由放任制度の下にありては、経済活動は過大資本の私的営利に支配され、国民的福祉の如きは全く蹂躙されてしまった。乃ち現に見るが如き深大恐慌は召来され、且つその打開は絶望視されつゝある。」*105
- 神兵隊事件に関与した鈴木善一「日本主義建設案」(1933年5月)「国民生活を悪化せしむるものに財閥あり官僚あり政党あり更に特権階級あり」「一部の少数財閥が大多数国民の生殺与奪の実権を握るに至ってゐる」「世襲財産の限度を定め、限度額以上に対しては累進的相続税を課すべし」「土地の私的所有の限度を定め、農家以外の農耕地所有を禁じ、処分土地は自治体の管理に移し共同耕作せしむべし」「金融の国家管理を断行し、金融資本主義の積弊を一掃すべし」*106
- 石原莞爾「此の自由競争の結果は極く少数の極大富豪と無限に多い極貧階級との二つになって、国家は危機に瀕する。自由主義経済の滅亡もこゝに至って必然であります」(1935年)[136]
- 外務省外交顧問白鳥敏夫「肇国の精神に還り、国体の本義を明徴にし、万民翼賛の体形を整えるということは今日何人も異論のないところであるが…世界の一大転換を余儀なくせしめたる動因は自由主義経済の行詰りであると思う…アングロサクソン流の資本主義的搾取経済が横行する限り、そうして少数の個人の手中に無限の富の蓄積を許す限り、この地球はこれを五倍にしても十倍にしてもまだ小さ過ぎるのである」(1940年)*107
- 三輪寿壮大日本産報企画局長「自由主義的経済思想の労働観は物質的欲望を追求する人間の労働であり、即ち自己の欲望を満すため必要な貨幣価値を得んがための、即ち賃金を得んがための労働であるとされた。…こうした労働観は外来的なものであるばかりでなく、我が国体に照らし、我が国民性に徴して、絶対にうけ容れられないものであることはいうをまたないところである。産業報国運動は…この古き労働観を一擲し皇国民の天皇にささげまつるはたらきとしての勤労即ち皇国に対する皇国民の奉仕活動としての勤労精神を打ちたつることを第一の使命として巻起された国民運動である」(1943年)*108
財閥批判・資本主義批判は、既成政党が財閥と癒着しているという批判にもつながった。
当時満鉄疑獄事件(1921年)陸軍機密費事件(1926年)松島遊廓疑獄(1926年)京成電車疑獄(1928年)売勲事件(1929年)朝鮮総督府疑獄(1929年)五私鉄疑獄(1929年)越後鉄道疑獄(1929年)と疑獄事件が続いたことも政党不信を招いたし、さらに1930年ロンドン海軍軍縮会議とそれに付随して起きた統帥権干犯問題以降、軍事・外交面での反既成政党言動も急増した。
また同時に、議会制そのものを否定しないまでも議会中心主義を否定する主張、また翼賛・統制・独裁志向も見られた。
極端な例
当時満鉄疑獄事件(1921年)陸軍機密費事件(1926年)松島遊廓疑獄(1926年)京成電車疑獄(1928年)売勲事件(1929年)朝鮮総督府疑獄(1929年)五私鉄疑獄(1929年)越後鉄道疑獄(1929年)と疑獄事件が続いたことも政党不信を招いたし、さらに1930年ロンドン海軍軍縮会議とそれに付随して起きた統帥権干犯問題以降、軍事・外交面での反既成政党言動も急増した。
- 大日本生産党の総選挙に対する声明及政策(1932年1月)「曩に民政党内閣滔天の積悪によって潰え新たに犬養内閣の出現を見たがその本質の言然たる金融大財閥の走狗たる点に於て前者と何等の相違あるなく『政変』はただ三菱内閣に代る三井内閣の出現を物語ったに過ぎない。」「政策 政治 一、国体観念の欠如せる政治家の根絶 ニ、金融過当専制政治打破 三、金融財閥の寄生虫、政民両党排撃 四、国賊共産党、全協、亜流共産主義…撃滅」*109
- 血盟団事件(1932年2-3月)の動機「支配階級たる政党財閥並に特権階級は相結託し、私利私慾に没頭し国政を紊りために事毎に国家を誤り、外に於ては外交に失敗し内に於ては国家存立の本をなす農村の疲弊をすてて省りみず…非合法手段の直接行動により一挙革新の烽火を挙げるの外なしと思惟し」*110
- 林癸未夫(皇道会顧問・日本国家社会主義学盟幹事長など)「軍部で、参謀本部、陸軍省、関東軍などで、満州新国家の経営を、どうしたらよいかと云ふことは、よほど熱心に研究になって居る様に聞いて居るのですが、それにつきまして、根本方針は、どうしても内閣の閣議で決定されるのですから、陸軍大臣が、いかに頑張っても、今日の政治組織のもとに、果して軍部の主張が貫徹するかどうか、疑問です。何しろ、今の政党政治と云ふものは、××××の利益以外にはあり得ない様になって居り、××する様なことを政府が決定するのです。…金融財閥をバックにして成立し、総選挙と云ったって、××××から金をウンと寄付させて」(雑誌「ファッシズム」1932年4月号座談会)*111
- 5・15事件(1932年5月)実行犯三上卓海軍中尉の主張を報じた記事「六十四議会における労働組合法案の運命を引例し資本家の圧迫により法案が骨抜にされたこと…など暴露し、更に政友会の三井民政党の三菱等の腐敗政党の地方自治破壊内閣更迭毎に繰返される地方長官更迭等幾多の事例を挙げて政党の罪悪を数え疑獄事件の続発をなげき『西園寺は維新の元勳であるが政民両党の二大政党の間にあってキャスチングボートを握り政党財閥の原因をなしている…ロンドン条約に対する不都合はもとより、彼は国賊以外の何物でもない』」*112
- 明倫会声明書(1932年7月)「既成政党は眼中政党あって国家なく徒らに政権争奪に没頭して…閣員にして私利私慾を充さんがため政商と結託し収賄行為を為して恥じざる者あり」「歴代内閣の因襲たる軟弱退嬰外交は、大勢順応国際協調主義の外何等の主義主張もなく…倫敦会議に於て屈辱的海軍協定甘受の結果拭うべからざる国防上の一大欠陥となり、延いては統帥権の干犯問題を惹起し、将又今回の満洲事変に際しては政府当局の錯誤に依り、図らずも国際連盟及米国の不当干渉を招来し」*113
また同時に、議会制そのものを否定しないまでも議会中心主義を否定する主張、また翼賛・統制・独裁志向も見られた。
- 鈴木喜三郎内務大臣の1928年第1回普通選挙直前に声明。民政党綱領「国民の総意を帝国議会に反映し、天皇統治の下議会中心政治を徹底せしむべし」を「皇室中心主義」の立場から批判*114し、議会中心主義は英米流で日本の国体と合わない[145]、神聖な帝国憲法蹂躙だなどと主張。*115
- 内務省警保局作成の臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)では「国粋会、黒竜会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、「右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…然るに昨春軍縮に関する倫敦条約締結にあたり所謂統帥権干犯問題に就き国論沸騰し…国家社会主義団体中には所謂議会中心主義に反対するの意見台頭せり。」*116
- 行地社の山田武吉「今日の我が議会政治には種々の欠陥、病弊、患害等があって…政党の腐敗、議員の劣化、選挙の不公平等…衆議院議員選挙は金力競争であり、立候補宣言や演説はいゝ加減なもので真摯ならず、選挙運動者や選挙ブローカーの為めに選挙界は歳毎に悪化し…今の如き議会政治を是認することは能きない。」(1931年9月「月刊日本」78号)*117
- 神武会(1931年12月設立*118)綱領「天皇親政の本義に則り党利を主とし国策を従とする政党政治の陋習を打破し、億兆心を一にして天業を四海に恢弘すべき皇国的政治組織の実現を期す」*119
- 黒正厳「ディクタトゥール(※独裁官)こそは資本主義経済の行詰りを打開し、之に伴ふ議会政治の弊害を除去する上にて唯一の有力なる政治形態である。…忠君愛国の根本精神は政党政治の存続すればするほど頽廃せざるを得ぬ。」(「経済往来」1932年3月号)*120
- 神兵隊事件の鈴木善一「政党的分裂を排し政治機関の簡易化を断行し…議会は大政に対する協賛の任務を尽すを以て本分とす、議会中心主義の如く数を以て争ふ政事機関たるを許さず」(1933年5月)*121
- 東方会の中野正剛「国民内閣の要求は必ずしも議会政治の否定ではない。併し議会は時局の重大なるに鑑み、政府に対し必要なる一定の独裁的権限を委任することが必要である。かゝる権限の委譲に就てはイタリー及びドイツ等の極端な先例は言はずとするも、現に民主国米国に於てさへ…」(1933年10月)*122
- 赤尾敏が理事長の建国会の主義綱領「ニ、天皇政治を確立して議会中心主義を打倒す 三、日本国体に背反する一切の既成政党及赤色無産政党を撲滅す」*123
- 明倫会副会長奥平俊蔵中将「我々は敢て議会政治そのものを否定するものではない、只我々が否定するのは政党が内閣を作ることである、何故ならば政党内閣の下では決して日本本来の憲法は活用されるものではない。天皇政治だけが真実の日本憲法の擁護者なのである、只我々が極力排撃するのは政党の代弁者たる大学教授連が唱へる外国流の憲法論である。」(1932年)*124
極端な例
- 錦旗会会長遠藤友四郎「新たに燃ゆる尊皇心」(1928年)「今の帝国憲法そのもの、議会制度そのものが既に、その根本精神に於いて我が神ながら日本の国体原理に背くものである」*125
- イタリア
「(1921年)ファシストは全国各地に機関紙を有するに至り伊太利国民主義の協調、此の目的のためにする国際諸条約の再検討…を主張し」(外務省調査部「各国に於ける右翼運動」1935年、38頁。)
- ドイツ
ナチス党主義・綱領「簡単に要約すれば左の如し
独乙民族は優越なりとの独断的主張の下に民族の血の純潔を保持する要ありとしユダヤ人を排斥す
独乙民族に属する国民を包含する大独乙帝国の建設及其の目的の為の富国強兵策惹て軍備の拡張を主張す
マルクシズムの階級国家観及自由主義的個人主義に対し民族至上主義をとり民族の非階級的、非利己的大同団結を主張す。例へば資本家も労働者も各々其の分野に於て非利己的に民族の為に奉任すべきを要求す」(外務省調査部「各国に於ける右翼運動」1935年、389頁)
- イギリス
- フランス
日本警察社「思想警察通論」(1940年)では、日本の国家主義運動をイタリア・ドイツのファシズムと比較して「『ファッシズム』と同一視する向もあるが、同一ではないが大体に於ては酷似し居るも我国の此種の運動には我国の特殊事情(肇国の精神)を指導精神とする所に相違がある。所謂、日本的ファッシズムとでも称すべきか」(308 頁)「わが国に於ける右翼団体も、以上の如き(イタリア・ドイツのファシズムが持つ)諸種の主張を同様に持ってゐるが、しかし他と異なった光彩陸離たる中心思想は、国体中心主義の点にある。建国精神を究極の大理想とし、これに反する一切の組織行動を強く排除し、日本民族の強盛なる理想国家を建設せんとしつゝある。」とする。
当時の世間の認識
当時の日本でどういう思想・運動がファッショ(ファシズム)と呼ばれていたかを見ると、おおよそ次の特徴を備えている。
資料例
当時の右翼団体はこれらの特徴を満たしていた(と見られていた)ので、一般にファッショ(ファシズム・ファッシズム)と呼ばれていた。*134*135*136*137*138
右翼自身の認識
「日本ファッシズム連盟」*139は機関誌「ファッシズム」を刊行したが、これは右翼自身がファッショを自認していた例である。
また勤王連盟本部が出版した「フアツシヨと皇国の将来」(1933年)では自らの団体「勤王連盟」をファシズム団体に含めており*140、これもファシズムを自認していた例である。
また大日本正義団*141の創設者酒井栄蔵は「イタリーのムッソリーニに猛烈に私淑し、正義団員に黒シャツを着用せしめ」*142ていた。
愛国青年同盟は緑色シャツだった*143が、緑シャツ隊はフランス*144やアイルランド、エジプト、ブラジルのファシスト運動と共通する(→ファシズム)。
一方で明倫会副会長奥平俊蔵陸軍中将は、自分たちはファシズムではないと否定している。*145
国本社の荒木貞夫陸軍大臣も「荒木はファッショをやるのではないかというが自分はファッショではない」*146と否定しており、(おそらく独裁制のイメージが強いため)ファシズムと呼ばれたくないという思いを持つ右翼もいたようである。
ただし明倫会も国本社も世間ではファッショと見られていたのは上で示した通りである。
当時の日本でどういう思想・運動がファッショ(ファシズム)と呼ばれていたかを見ると、おおよそ次の特徴を備えている。
- 特徴1.国粋主義(国民主義・国家主義・民族主義)
- 特徴2.反共産主義
- 特徴3.行過ぎた資本主義への反感、統制経済志向
- 特徴4.反既存政党・反政党内閣・脱議会
資料例
- 京都帝大助教授黒田覚「先きに私はファッショの根本性格をその反民主主義、反議会主義と、その反マルクス主義的社会主義共産主義との二方向に求めた。」(特徴4・2)(大阪時事新報1933年)*127
- 「ファッショ的傾向は…資本主義を世界の経済恐慌の前に維持して行くためには今までのような組織では駄目だからもっと引き締った統制経済で行かなければならぬと云う論が盛になって来た」「何も出来ない議会政治や政党政治では駄目だ。もっとビシビシやってのける強力な独裁政治でなければならぬと云う考えが盛になり世界各国ともこの傾向の運動が起り、また団体が出来てきた」(特徴3・4)(国民新聞1932年8月8日)*128
- 「ファッショという語は…議会を骨抜きにしてしまって、議会から超然と立つ内閣を組織しようというにあるらしい。これをもっと実際的にいえば、政友民政両党を尻目にかけて、中間内閣を組織しようという位のことであるらしい。少くとも、それがいまファッショ運動の上層をなす人達の狙い所ではないかと、世間は思っているようである。」(特徴4)(大阪毎日新聞1932年5月15日)*129
- 衆議院議員小池四郎「強権の力によって金融資本を打ち倒し、議会制度の代りに独裁制を樹立しようと云うのが、ファッショであると断定することは冷静な正しい客観的解釈であると云っていいと思う。」「ムッソリニもヒットラーも今では少くとも社会主義的の香気をさえ失って了っているそして残ったものは唯徹底的なる国民主義乃至国家主義以上の何ものでもない。」(特徴3・4・1)(時事新報1932年4月)*130
- 「久しく我国の社会思想運動を独占していたマルクス主義、社会民主主義の人気を一度にさらって、日本主義、国家主義、所謂ファッショ全盛時代を招来した訳である。」(特徴1)(大阪時事新報1932年12月)*131
- 「我国のファシズムは、邪道に陥れる資本主義を排撃するが、本質的資本主義を否定するものではないようだ」(特徴3)(京城日報1932年3月20日)*132
当時の右翼団体はこれらの特徴を満たしていた(と見られていた)ので、一般にファッショ(ファシズム・ファッシズム)と呼ばれていた。*134*135*136*137*138
国民新聞 1932.5.16 (昭和7)
浮出た平沼男の顔
国本社を柱幹に軍部の支持でファッショ全派を率ゆ
議会浄化の戦き(2)
大阪時事新報 1932.7.17 (昭和7)
雄々しくも生る!其名も日本ファッショ明倫会
国家的義憤に燃え自ら国難打開に当る 一切の政党と不正財閥排撃
祖国愛の善政を宣誓
右翼自身の認識
「日本ファッシズム連盟」*139は機関誌「ファッシズム」を刊行したが、これは右翼自身がファッショを自認していた例である。
また勤王連盟本部が出版した「フアツシヨと皇国の将来」(1933年)では自らの団体「勤王連盟」をファシズム団体に含めており*140、これもファシズムを自認していた例である。
また大日本正義団*141の創設者酒井栄蔵は「イタリーのムッソリーニに猛烈に私淑し、正義団員に黒シャツを着用せしめ」*142ていた。
愛国青年同盟は緑色シャツだった*143が、緑シャツ隊はフランス*144やアイルランド、エジプト、ブラジルのファシスト運動と共通する(→ファシズム)。
一方で明倫会副会長奥平俊蔵陸軍中将は、自分たちはファシズムではないと否定している。*145
国本社の荒木貞夫陸軍大臣も「荒木はファッショをやるのではないかというが自分はファッショではない」*146と否定しており、(おそらく独裁制のイメージが強いため)ファシズムと呼ばれたくないという思いを持つ右翼もいたようである。
ただし明倫会も国本社も世間ではファッショと見られていたのは上で示した通りである。
斉藤三郎「右翼思想犯罪事件の綜合的研究: 血盟団事件より二・二六事件まで」(司法省刑事局、1936年)、島村一「高等警察概要」(大阪府警察練習所、1944年)、日本警察社編「思想警察通論」(1940年)によると、右翼テロ関係事件は以下の通りである。
この他
- 板垣退助暗殺未遂事件(1882)
- 大隈外相爆撃事件(1889)玄洋社員の犯行。犯行理由は条約改正案
- 森有礼文相暗殺事件(1889)犯行理由「伊勢神宮で不敬行為と憤慨」
- 大津事件(1891)
- 天剣党事件(1927)元陸軍将校西田税が国家改造団体趣意書配布し憲兵隊摘発
- 兵火事件(1930)陸軍将校大岸頼好が「東京を鎮圧し宮城を護り天皇を奉戴」「結局はクーデター」などと書かれた文書を配布し憲兵隊摘発
- 浜口首相狙撃事件(1930)ロンドン条約を軟弱外交・統帥権干犯と憤った愛国者党員の犯行
- 井上蔵相邸爆破事件(1931)犯人は政教社に出入していた
- 三月事件(1931)陸軍のクーデター未遂事件
- 十月事件(1931)陸軍のクーデター未遂事件
- 血盟団事件(1932)
- 五・一五事件(1932)
- 齋藤首相暗殺予備事件(1932)
- 若槻男爵暗殺予備事件(1932)
- 天行会独立青年社事件(1932)
- 神兵隊事件(1933)
- 藤原銀次郎暗殺予備事件(1933)
- 救国埼玉青年挺身隊事件(1933)
- 若槻男爵、小山法相暗殺未遂並予備事件(1933)
- 宇垣朝鮮総督暗殺予備事件(1934)
- 統天塾一派の不穏計画事件(1934)
- 土佐建青隊事件(満州国紙幣偽造事件)(1934)
- 皇国義勇隊員の不穏計画事件(昭和維新血誓隊事件)(1934)
- 西園寺公暗殺未遂事件(興国東京神命党事件)1934)
- 武神会員の読売新聞社々長刺傷事件(1935)
- 十一月事件(1934)陸軍のクーデター未遂事件
- 永田軍務局長刺殺事件(1935)
- 国粋挺身隊員の一木邸暴行事件(1935)
- 岡田首相暗殺予備事件(1935)
- 美濃部博士暗殺予備事件(1935)
- 美濃部博士狙撃事件(1936)
- 二・二六事件(1936)
- 防共護国団事件(1938)
この他
- 赤化防止団の会長米村嘉一郎は1922年、「左翼との立会演説会」で「日本刀を振って岩佐作太郎に日本刀で切り斬りつけた」*147
- 1920年普選運動集会で大正赤心団員が短刀で島田三郎を刺そうとした。また会場に向かう土工総同盟理事長が国粋会員に頭部を切られた*148
- 1922年メーデーで国粋会員が棍棒で襲撃*149
- 1923年水国事件
- 1923年大化会による大杉栄遺骨奪取事件
- 1924年大行社の帝国ホテル舞踏会剣舞事件。「大人数で乱入し詩吟に合わせて剣舞を舞う」「君が代を歌い、万歳三唱をして現場を立ち去った」*150
- 1924年東京の「鉄血社」は「本郷区会議員の学校敷地買収にかかる不正派の膺懲と称して区会議員数名に暴行をなし本富士署に検挙せらる」また同年12月「尾崎行雄が軍事教育反対論を唱へたる際其言論封鎖の目的にて同氏に暴行を加ふ」1925年2月には「軍事教育反対を唱へたる大山郁夫に対し暴行を加ふ」同年7月「根津嘉一郎が…として同氏に暴行を加ふ」*151
- 1925年大化会の三名は「牛込区柳町支那料理店にて飲酒中代金の件に端を発し主人結集劉を殴打死に至らしめ送局せらる」*152
- 赤尾敏が理事長の建国会は1926年4月「後藤新平子爵の政界革新大演説会は民衆を欺瞞するものとし赤尾敏、津久井龍雄・鈴木善一等子爵の自動車に棺桶を入れ迯走す」1927年11月「ロシヤ革命記念日に当り労農党首大山郁夫宅、労農党及評議会本部を襲撃す」1928年1月「全日本無産青年同盟の兵役短縮デーに反対し同同盟を襲撃刑事々件を惹起す」1928年3月「ロシヤ大使館労農党本部並に大山郁夫宅に煙火玉を投入爆発せしむ」1930年9月「山梨大将の疑獄事件に憤慨し赤尾敏東京地方裁判所構内にて山梨大将を殴打す」*153*154*155「建国会が白襷を掛けて、自動車に分乗して闖入を企てた」*156
- 1929年労農党衆院議員山本宣治は七生義団の黒田保久二に刺殺された。
- 1931年5月28日笹川良一の国粋大衆党は「中央公会堂に開催中の公娼廃止期成会の講演会場に党員六、七名侵入し暴行をなし所轄署に拘留さる」*157
- 1932年東京の「大亜義盟」団員は赤坂の菓子店「とらや」新築建物から秩父宮邸が見えて不敬だと詰問し同店舗裏煙突に上り検挙。さらに「とらや店舗内にビール壜七本へ糞尿を詰込み投入せり直ちに所轄表町署に検挙せられたり」*158
- 1934年東京の「護国党」は代表井上磯次ほか4名が大日本養正会理事二木謙三博士恐迫事件に関し「検挙取調べを受けたり」会員の安藤は同年5月「恐喝、住居侵入暴行行為等処罰に関する件違反として東京区裁判所に於て罰金五十円」同年9月代表者井上は「ピストル発射事件を惹起す」*159
- 1934年5月1日東京の「日東義会青年部」は「メーデー行列に対し暴行をなしたる為め小田切正治外十六名検束せらる」同年6月には7名が「内閣打倒の目的にて中央気象台無電柱其他に登り不穏の行動に出でんとせるを以て検挙せらる」*160
- 東京の「七生義団」は「団員沖仲士藤谷九万里外六名は日蓮宗々務員の役員改選に介入し暴行を為し所轄高輪警察署に検束せらる」*161
- 維新青年隊が決議文を牧野伸顕内大臣に渡そうとして警官隊と衝突*162
- 大和民労会は「社会運動の巨頭堺利彦を襲撃したりなどして、勇名を馳せた」*163
- 影山正治らによる米内光政首相暗殺計画事件(七・五事件 1940)
法制時報社編「警察読本」(1930年)では「幾多の保守的団体が生じ、その唱ふる所の主義は、国家主義と云ひ、皇室中心主義と云ひ、建国の精神に帰れと叫びて…中にはその美名にかくれ、私利私欲を充さんとして、国体の威力を利用し、或は仮装して強談威迫をなし、進んでは暴行を敢行し、あらゆる問題に介在して悪事を働くものも少くない。」「世人は名づけて『暴力団』と云ふ。例へば労働争議、借地借家問題等に彼等が介在して、一方に味方して相手方を威嚇するのである。立退料の強要、不法なる立退要求、労働者に対する暴行威嚇等々は彼等の常習手段である。…『暴力行為等処罰に関する法律』は、これ等の暴力行為を一掃せんとして制定されたものである。」としている。*164
内務省警保局が作成した臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)では「国粋会、黒龍会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、「右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…労働争議等ある場合に資本家の用心棒となりて之が擁護に努め」と述べている。*165
労働経済調査所編「愛国運動現勢」(1935年)では「従来日本主義団体が、ストライキそのものを亡国的扱にし排撃して来た」とする。*166
「憲兵要務(高等警察)教程」では労働争議の「資本家側の戦術」の一つに「暴力団の使用」を挙げている。*167
内務省警保局が作成した臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)では「国粋会、黒龍会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、「右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…労働争議等ある場合に資本家の用心棒となりて之が擁護に努め」と述べている。*165
労働経済調査所編「愛国運動現勢」(1935年)では「従来日本主義団体が、ストライキそのものを亡国的扱にし排撃して来た」とする。*166
「憲兵要務(高等警察)教程」では労働争議の「資本家側の戦術」の一つに「暴力団の使用」を挙げている。*167
- 1920年八幡製鉄所争議 「侠客団の抜刀隊」が労働団体幹部狙う。「職工側交渉委員二名に対し短銃を発射」「国粋会の壮士連中約百人」が市内入り。*168
- 1927年野田醤油労働争議などで国粋会や赤尾敏の建国会は会社側について労働者と対峙。*169*170*171
- 「大和民労会の干与した大罷業は、有名なる野田醤油会社の労働争議と、東京朝日新聞の岩月新聞舗の争議などであった」*172
- 東京の「明徳会」は会員が1927年11月4日「実用自動車争議団主催演説会の妨害を為し弁士白石某を殴打し検挙」同月12日「実用自動車争議団本部に抜刀侵入暴行し負傷せしめたるを以て送局せられたり」*173
- 1930年鐘紡争議でスト指導者著書によると国粋会が会社側に協力。警察も「遠慮すること一通りでない」*174
- 「神戸中央店のミシン争議は会社側が飽くまで高圧的逃避手段に出て正式に一回の交渉も受付けず今回突如中央店を閉鎖した上、更に大日本正義団神奈川支部長佐々木信一氏に依頼して店舗を横浜に移す取片付けに着手」(神戸新聞1932年)*175
- 「三重県義勇会」は「背後の人物 衆議院議員加藤久米四郎」。1932年同県桑名村の鋳物工場労働争議で会社側で介入、「職工側の北勢一般労働組合に対抗し闘争を続けつつありたり」*176
- 立憲民政党本部編「民政党内閣の功績」(1930年)「皇室中心主義とか政党員外談又は社会事業の美名に隠れて金銭強要、面会強請、強談威迫するものである、此の種の暴力団は智識階級が多く又同情的手段を用ひる為め当局が検挙に最も困難を感じておる。」「(安達謙蔵内務大臣が)第一回の地方長官会議の席上、『暴力行為の取締に関しては…辞を尊皇愛国その他各種の美名に藉り、その実金銭の収受不能の目的のために暴行協約を敢てする者の如きに至っては…』」*177
- 大浜孤舟「暗黒面の社会: 百鬼横行」(1926年)「大きな会社や大商店などには、毎日のやうにゆすりといふ奴が出入りする…ゆすりや寄附強要も初歩の奴であると誠に可愛らしいもので、薄っぺらなつまらない雑誌や、名もない小さい新聞をかつぎ込んで、どうぞ御後援の意味で広告をお願ひしたいとか、国体擁護の為めにこんな団体を作ってかういふ仕事をしたいから応分の寄付を恃むとか、型にはまった様な事をいふて名刺を出す…承知しそうもない奴には一円か二円の電車賃をやって帰らす事になる…中には物凄いのがあって、下手をまごつけば用捨はせないぞと文句を並べた上、懐中で短刀をチラッと見せる様な豪傑も居る、だがこんな奴はまだまだ素人の範囲を脱して居ない連中である。」*178
- 大阪中河内郡の「極東亜細亜連盟」は「常に大阪市内及郊外地の右傾団体と交り、会社、銀行及富豪を歴訪し亜細亜連盟の趣意書を見せ事業の援助方を乞ひ金員の供与を受くるものなり」*179
- 大阪の「愛国青年党」は「資金の出所 党員より月額五十銭を徴し、各種知名人士を訪問寄付を受く」「背後の人物 今北治作*180*181*182「(党主の)月本松吉は本年(1932年)二月の総選挙に際し政友会より出馬せし鈴木八郎候補事務所を訪問し金銭を強要したるにより検束処分に付す、尚同志時田栄治は昭和三年八月四日大阪地方裁判所に於て暴力行為等処罰に関する件により懲役四月に処せられたるものなり」*183
- 小樽の「一貫同志会」は副団長が「貸座敷業」で「本会の前身愛国勤労組合は昭和六年十月二十五日小樽市在住国粋主義者満田信太郎、相馬美代吉、今与三郎等に依り組織せられ国粋主義を標榜し資本家を歴訪して金品の供与を受け居りたるも幹部内に軋轢を生じ…」*184
- 東京の「愛国労兵隊関東本部」は「(1934年)五月二十一日花岡佐原中谷の三名は運動資金名目の下に王子製紙株式会社より数回に亘り金員を受取りたる外同社長藤原銀次郎に金銭を強要せんとせしこと発覚して検挙せられ、花岡佐原の両名は東京区裁判所に於て各懲役四月に処せらる」*185
- 「先般来愛国各団体では、ワシントン及びロンドン条約印〔ママ〕時廃棄通告を為すべし、と頻りに猛運動を続けているか〔ママ〕」*186
- 「国粋会」「赤化防止団」らが、排日の米国で大同電力が社債を発行したことを憤り、帰国した社長を詰問すべく船に押掛けた。*187
- 国粋会は「選挙の時などには、大いに政友会を援助した」*188
- 1924年、大行社が百貨店訪問し米貨排斥訴え、女性の米国流髪形を「見つけ次第こはす」と批判、映画会社に米画不買提案。*189
- 東京渋谷の「立正愛国社」は「資金の出所 維持員を会社銀行等に名目上嘱託として就職せしめ之が俸給を維持費とす」「(1930年)六月下谷区松坂屋呉服店に対し同店の東京朝日新聞掲載にかかる銘仙売出広告を不敬なりとして糾弾したるも日本電報通信社長の仲裁により解決す」*190
- 東京の「建国会」は1927年9月「モガモボ抹殺運動」を起こした。*191
- 東京の「洗心荘」は1934年「中村伝は明徳会発行『明徳論壇』三月号及四月号に徳川義親侯爵の不徳行為云々の記事あるを種に侯爵邸を再三訪問面会を求めたるも拒絶せらる」*192
戦前の記述*193*194*195は、当時から暴力団と右翼が同一視されていた、あるいは同一視されやすかったことを示している。また1926年新聞記事*196では国会提出資料が紹介されているが、各府県ごとに見ても暴力団に「反動団体」つまり右翼が多いことがわかる。内務省警保局が作成した臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)*197では「国粋会、黒竜会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、こう述べている。
また種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」*198では次のように述べる。
種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」と外務省「本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件」*199で重複する団体名は「黒龍会、玄洋社、大化会、大和民労会、赤化防止団、白狼会、大正赤心団、関東国粋会、一心会、大行社」である。
1935年には「いはゆる暴力団狩りが行はれ、千七百名の検挙を見た。」同年5月4日の地方長官会議での内務省指示「近年社会風潮の変遷に伴ひ何事によらず不当の威力を用ひんとする傾向漸く著しく動もすれば不良の徒にして団体その他の背景を誇示し或は愛国等の美名を僭用して暴力脅迫詐欺恐喝その他強談等の所為に出で悖徳非国民等の名の下に濫りに他を讒謗威迫し以て正業によらずして私利を営み又は徒らに売名を図らんとする者多からんとす。此の如き徒輩の跳梁跋扈は公安上断じて看過すべからざる所なるのみならず純正なる愛国運動の発展を毒し…」*200
右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…団員中に粗暴にして安価なる感激性に富む者多く、些細なる事端にも直ちに暴行殺傷沙汰に及ぶ者あり。甚しきは、常に恐喝によりて金品を収受し、団体の美名を藉りてその実自己の糊口を凌ぐの手段となす徒輩すら尠からず。国家主義団体は一般世人よりは所謂暴力団の別名なるが如く顰蹙せられ、無産運動者よりは所謂反動団体として嫌悪されつゝありたり。
また種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」*198では次のように述べる。
近時社会の各階級より蛇蝎の如くに嫌忌され恐怖せられつゝある謂ゆる暴力団…或は皇室中心主義を奉持すと云ひ或は任侠を念とし国粋を維持する為と称し…美名を利用して政治問題、時事問題、社会問題より延いて一般私権に関与容喙し団体を背景として強談、威迫、暴行、脅迫、恐喝を常業とし斯くして相手方より多額の金円を領得し…過去に於て或種の政客官憲にして此種団体の或るものを政権の争奪の裏面に策動せしめたる形跡…彼等は概ね思想浅薄徳操低級其の二、三を除いては教育に乏しく識見の見るべきなし。単に獰猛なる顔貌風采を持し虚勢を張り恫喝を試み兵全として無恥の動作を敢行し得るに過ぎず。加ふるに彼等は大抵詐欺、恐喝、横領、傷害、乃至賭博、窃盗等の前科を有するに拘はらず自ら国士と称して市井を闊歩するの図々しさを有し若し言を構ふる者あるときは忽ち多数を恃んで暴挙に出で触れば必ず禍あることを知らしむるの奸智を有するものなり。
種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」と外務省「本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件」*199で重複する団体名は「黒龍会、玄洋社、大化会、大和民労会、赤化防止団、白狼会、大正赤心団、関東国粋会、一心会、大行社」である。
1935年には「いはゆる暴力団狩りが行はれ、千七百名の検挙を見た。」同年5月4日の地方長官会議での内務省指示「近年社会風潮の変遷に伴ひ何事によらず不当の威力を用ひんとする傾向漸く著しく動もすれば不良の徒にして団体その他の背景を誇示し或は愛国等の美名を僭用して暴力脅迫詐欺恐喝その他強談等の所為に出で悖徳非国民等の名の下に濫りに他を讒謗威迫し以て正業によらずして私利を営み又は徒らに売名を図らんとする者多からんとす。此の如き徒輩の跳梁跋扈は公安上断じて看過すべからざる所なるのみならず純正なる愛国運動の発展を毒し…」*200
- 内田良平は黒龍会会長、大日本生産党総裁だった*201が、種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」*202では「暴力団の代表的のものに黒龍会あり…内田良平を頭目とし」とある。また続けて暴力団跋扈の原因を説明する中で「威嚇宜しきを得るに於ては最も容易に最も現実に多額の金円を得べく例へば先年内田良平が三井家の相続問題に干渉して十万円を、安田善弥の債権整理に□口して数十万円を更に日本郵船会社の紛擾問題に干与して十万円を報酬名義に於て収受せるが如き同人間の風評に徴して其の一班を知るべく斯の如き有利なる業務の他にあらざること」と述べている。また同資料では大和民労会総務を恐喝横領被疑者として同行を求めたら逃走した事例、大行社顧問を恐喝被疑者として同行を求めたら拒否して揉めた事例を挙げている。
- 大日本神農会は「香具師の集団」「会頭山田春雄」とある。*203
- 大日本正義団(1925年設立)は主義綱領に「慈悲任侠を旨とし仁義の道を忘るるな」「親分は親の如く乾分は子の如く乾分同志は一家兄弟たり親分の命ずる処は水火も辞せず…」とある。また「主盟酒井栄蔵」とある*204が、新聞記事では酒井を「侠客」と表現*205している。「憲兵要務(高等警察)教程」の「右翼団体の概要」でも同様の記述がある*206。別資料では「関西の大親分として一世に鳴らした小林佐兵衛翁の二代目たる酒井栄蔵」とある。*207
- 国粋会は「憲兵要務(高等警察)教程」の「右翼団体の概要」で「侠客西村伊三郎が…京都に創立したものである」*208と述べている。当時の新聞記事でも「侠客団」*209「如何わしき」*210とする。国粋会指導部長は口演で「或は賭博或は喧嘩口論寄附強要等の行為に出づる者ありて…不良団或は暴力団視せらるゝに至るものありしは頗る遺憾」とする。*211
- 関東国粋会*212は「博徒の信仰(親交?)団体であって、この会員であって博徒でない者はないのである」*213「山梨、栃木を除く関八州の所謂大親分とその子分」*214また「主なる行動 一、昭和二年十二月野田労働争議に際し会員多数を動員せんとし形勢不穏の点ありたるため警戒し日本刀其の他の武器を押収し阻止したり」*215
- 大日本奉公団本部は主義綱領が「本団は意気を以て立ち任侠を本領とする者を以て組織す」で会員は「土木請負業関係、国粋会関係者等の外東電従業員等」であった。*216
- 皇国義団は「幹部は府下淀橋町角筈十二社(花街)二業(芸者屋と料理屋のこと)組合*217御用団体の観あり。…団員松田栄治、鳴島栄次郎、榎本福太郎等は面会を強要し又は傷害事件等により拘留又は懲役に処せられ居たるが」「団員松田栄治は昭和五年八月二十日…芸妓屋小平藤吉当三十八年を拳銃を以て射殺し」*218
- 「弘前国粋団」は「政友会系」で「最初立憲政友院外団所属の人物を以て思想善導を目的とし広く同志を糾合し創立したるも、爾来何等政治及思想的活動なく漸次暴力化するに至りたるものなり」観桜会、縁日等に於て他府県より潜入する香具師等と抗争することな〔ママ〕り」*219
- 「鹿児島国粋会」は関東国粋会の関係団体で最高顧問が床次竹二郎。「会員にして検挙処罰を受けたるもの一再ならず。」「幹事長以下会員は概ね管下在住の博徒(自称侠客と称する連中)なり」*220
- 「岡山県厳正団」は大日本国粋会岡山県本部の関係団体で、「団員の大部分は土方、仲士等を業とする自由労働者多く、岡山市内に於ける土木請負業川口組、光岡組等の仲間と親分、乾児(こぶん)の関係を結び、無智にして本団の主義を誤認し動もすれば暴力的行為に出づること多く一般市民より指弾せらる」*222
- 兵庫の「大日本拳闘会」は「会長嘉納健治は皇室中心主義を標榜し相当の勢力を有し、命令一下反動的行動に出る虞あり」*223
- 大阪の「桜花会」は「系統 故野口栄次郎の配下」で主義綱領「皇室中心主義に依り任侠を本領とし…」*224
- 新潟の「北信侠粋団」は「資金の出所 寄付金」「特記すべき活動なく本団は暴力団の類なり」*225
- 新潟市の「北溟社」は「背後の人物 頭山満」「主義綱領 一、我等は社会正義顕揚の為め任侠的行動に殉ず」「本会の北村伝吉、結城作松は無頼の徒にして所謂暴力団に類するものなり」*226
- 静岡の「聖剱社」は主義綱領「ニ、正義任侠」*227
- 千葉の「関東国士団千葉県支部」は「関東国士団と記せる法被を着し祭典其の他群衆の間に出入りし、各種紛議の調停、選種挙動〔ママ〕等に介在し一般世間よりは其の行動稍暴力団と見られ居るものなり。」*228
島村一「高等警察概要」(大阪府警察練習所、1944年)は、右翼と警察官は精神は同じであり同志的側面があるが、ただ手段が問題なので警察は右翼を「合法の圏内に指導する役割」と解説している[263]。
1942年9月の「近畿府県特高警察思想係(右翼)座談会」でも右翼対策を語る中で「同志」という表現が出てくる。*229
またそこでは右翼テロ事件取調べの際、右翼が親しい仲であるかのように警視総監の名前を出したエピソードが語られている。また大阪府特高課警部補も、国家主義者が非合法手段に出ないなら取締まる必要は無いと述べている。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)[265]でも、血盟団事件や5・15事件などテロのために「右翼団体の存在が保安警察上重要なる対象となるに至った」のであり、「これ等の『テロ』を放棄して熱鉄の如き日本伝統精神の団塊として合法的憂国運動に精進するならば、日本国民は挙げて望む所であらう」と逆にエールを送っている。
1933年新聞記事によると、内務省警保局の左右両翼取締案*230に「治安維持法は左翼に対してのみ適用され右翼に対してその適用を見ない」とある。1934年8月記事*231によると、司法省が右翼も治安維持法対象に含めようとしたら内務省警保局が「極力反対して右翼取締のための単独立法を主張し」「右翼にしてもよきものは育てて行かなければならないとし取締の趣旨には賛成しているが非常に慎重な態度をとっている」とある。1934年12月記事では内務省警保局保安課の方針として「右翼運動の非合法部面は徹底的に弾圧する、同時に合法部面に対しては極力助成方針をとる」*232とある。また続いて「右翼運動の取締は日本の思想警察上画期的なことなので諸外国の取締査察方針を参考にする必要があり」とあり、それまでは(思想警察としては)取締っていなかったことが分かる。
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)でも「当局(警察当局を指すか)の説明」と但し書きをつけつつ同様の解説をしている。*233
松華堂編輯部編「治安警察教本」(1936年)でも「右翼運動の指導精神は大体に於て国家発展の線に沿ふてゐる。従って右翼運動の通常の携帯は取締の圏外に在るのである。然し目的と手段とは別物であって…仮令右翼運動と雖も其の手段にして誤るものがあれば断乎取締を加へなければならないことは当然である」とする。
立憲民政党本部編「民政党内閣の功績」(1930年)では「政友会内閣治下暴力団の巣窟と迄云はれた警視庁は丸山総監を迎へると面目一新、暴力団撲滅の徹底を期した刑事部は…」とある[271]。
島村一「高等警察概要」大阪府警察練習所,1944年
二、右翼運動に対してなぜ取締りを行はねばならぬのか
真の右翼運動者に就ては其の精神に於て元より吾人警察官と何等異る点はないのである、即ち至尊の御為に、皇国の為にと云ったその尽忠の至誠に於ては寧ろ同志といった感なしとしないが、併し如何に其の目的は正しく又貴く是認さるるものであってもその手段に於て国法に違背し治安を紊るに於ては之が放置さるべきものではないのである…愛国運動の益々昂揚せらるることを庶幾すると共に之が合法の圏内に指導する役割を持つものであることを信じて疑はない(48頁)
1942年9月の「近畿府県特高警察思想係(右翼)座談会」でも右翼対策を語る中で「同志」という表現が出てくる。*229
またそこでは右翼テロ事件取調べの際、右翼が親しい仲であるかのように警視総監の名前を出したエピソードが語られている。また大阪府特高課警部補も、国家主義者が非合法手段に出ないなら取締まる必要は無いと述べている。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)[265]でも、血盟団事件や5・15事件などテロのために「右翼団体の存在が保安警察上重要なる対象となるに至った」のであり、「これ等の『テロ』を放棄して熱鉄の如き日本伝統精神の団塊として合法的憂国運動に精進するならば、日本国民は挙げて望む所であらう」と逆にエールを送っている。
1933年新聞記事によると、内務省警保局の左右両翼取締案*230に「治安維持法は左翼に対してのみ適用され右翼に対してその適用を見ない」とある。1934年8月記事*231によると、司法省が右翼も治安維持法対象に含めようとしたら内務省警保局が「極力反対して右翼取締のための単独立法を主張し」「右翼にしてもよきものは育てて行かなければならないとし取締の趣旨には賛成しているが非常に慎重な態度をとっている」とある。1934年12月記事では内務省警保局保安課の方針として「右翼運動の非合法部面は徹底的に弾圧する、同時に合法部面に対しては極力助成方針をとる」*232とある。また続いて「右翼運動の取締は日本の思想警察上画期的なことなので諸外国の取締査察方針を参考にする必要があり」とあり、それまでは(思想警察としては)取締っていなかったことが分かる。
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)でも「当局(警察当局を指すか)の説明」と但し書きをつけつつ同様の解説をしている。*233
松華堂編輯部編「治安警察教本」(1936年)でも「右翼運動の指導精神は大体に於て国家発展の線に沿ふてゐる。従って右翼運動の通常の携帯は取締の圏外に在るのである。然し目的と手段とは別物であって…仮令右翼運動と雖も其の手段にして誤るものがあれば断乎取締を加へなければならないことは当然である」とする。
立憲民政党本部編「民政党内閣の功績」(1930年)では「政友会内閣治下暴力団の巣窟と迄云はれた警視庁は丸山総監を迎へると面目一新、暴力団撲滅の徹底を期した刑事部は…」とある[271]。
旧日本軍と右翼は親しい関係にあった。右翼団体を兵営に宿泊させ*237、陸軍大臣の手紙を右翼に託し*238、敗戦間際でも軍と右翼はホテルで会食した*239。当時の新聞記事も右翼と軍の結びつきを、そして軍人自身が右翼であったことを報じている。*240*241*242
1936年12月陸軍省兵務局通牒*243では、「憲兵の取締方針」として、在郷軍人が組織する右翼団体について「有力にして堅実穏健なるものを選定し要すれば積極的にこれを善導支援し以て軍の企画に協力せしむ」とある。
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「当局の説明」と但し書きをつけつつ、「倫敦条約問題紛糾及び満州事件の勃発以来右翼運動は軍部の直接間接の庇護を受くるに至りたるが警察当局に対し一種の治外法権的存在たる軍部の支援は右翼取締をして甚だしく困難ならしめたり」と書いている。*244
1936年12月陸軍省兵務局通牒*243では、「憲兵の取締方針」として、在郷軍人が組織する右翼団体について「有力にして堅実穏健なるものを選定し要すれば積極的にこれを善導支援し以て軍の企画に協力せしむ」とある。
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「当局の説明」と但し書きをつけつつ、「倫敦条約問題紛糾及び満州事件の勃発以来右翼運動は軍部の直接間接の庇護を受くるに至りたるが警察当局に対し一種の治外法権的存在たる軍部の支援は右翼取締をして甚だしく困難ならしめたり」と書いている。*244
「憲兵要務(高等警察)教程」では「在郷軍人を主体とする右翼団体は総て満州事変後発生」としており、皇道会と瑞穂倶楽部の2つを取り上げている。*245
外務省調査部「主要国家主義団体便覧」(1935年5月)で「軍人中心団体」に分類されているのは恢弘会・皇道会・明倫会・有終会・洋々会の5団体である。*246
1.有終会(1913年設立*247 本部所在地:東京市芝区栄町一三東京水交社内)
「海軍予備将校より成る財団法人海軍有終会は南郷次郎少将の名をもって『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』と題する小冊子を、五月初旬全国に配布することになった」*248
2.洋々会(1923年設立*249)
「若槻民政党総裁が十日名古屋において発表したロンドン条約に関する声明は軍備に対する国民の認識を誤らしむるもの多く等閑に附すべきにあらずとして海軍予後備将官より成る洋々会では十二日午後十時半から芝公園水交社に黒井、竹下各大将森山、宇佐川、飯田、棚町各中将、桜井、大谷、遠藤各少将等出席、これが対策につき慎重凝議した結果午後七時大要左の如き声明書を発した」*250
3.恢弘会(1924年設立 事務所:東京九段偕行社)
木田伊之助陸軍少将が提案して設立*251。長:陸軍大将大井成元、副会長:海軍中将石橋甫、陸軍中将筑紫熊七、常務理事:海軍少将大山鷹之介、陸軍中将高田豊樹、海軍少将南郷次郎、陸軍計監八木籬、海軍中将佐藤阜蔵、陸軍中将両角三郎 会員数二千五百名(予後備役将校)*252(※1932年12月時点*253)
4.明倫会(1933年設立*254とあるが活動は1932年から*255)
「明倫会は国家主義を標榜して昭和七年田中国重大将を会長、奥平俊蔵中将を副会長として成立したるものにして同会の成立に当りては石原産業主石原広一郎の活動に負ふ所大にして…同会は予備将軍就中少将級の軍人多数を会員に有し」*256「今春三月田中国重大将を会長に推戴、急激に勢力を伸暢した明倫会では…同会では二十九日午後六時より九段偕行社本館楼上大ホールに最初の研究例会を開催した、出席者は会長田中国重大将をはじめ徳川義親侯、堀口元駐伯大使、杉山茂丸氏、大山法学博士、高山公通中将その他百数十名に達し」*257
5.皇道会(1933年設立)
副総裁:陸軍中将等々力盛蔵、幹事長:陸軍少将黒沢主一郎、副幹事長:陸軍少将富家政市、顧問陸軍中将高山公通、陸軍中将奥野英太郎、陸軍中将貴志弥次郎、陸軍中将高田豊樹、海軍中将兼坂隆、海軍中将山下巍八郎、陸軍中将春木源三郎、陸軍中将出口永吉、陸軍主計監鶴田義紹、経済学博士林癸未夫…(1933年時点)*258
6.瑞穂倶楽部(1933年設立の三六倶楽部から38年改称*259)
在郷軍人関係団体「瑞穂倶楽部」は予備役砲兵大佐小林順一郎、予備役砲兵大佐湯原惣介、同中佐吉見隆治らが関与*260。226事件で「本倶楽部主要人物四王天中将、松本少将、小林大佐野田大佐、伊藤大尉の反乱幇助として事件送致(九月十九日全部不起訴釈放)」。1935年天皇機関説騒動では会報で「恐懼引責を知らない政府があれば御親率の下に終に武力を用ひて迄も必ず引責せしめん云々」。
外務省調査部「主要国家主義団体便覧」(1935年5月)で「軍人中心団体」に分類されているのは恢弘会・皇道会・明倫会・有終会・洋々会の5団体である。*246
1.有終会(1913年設立*247 本部所在地:東京市芝区栄町一三東京水交社内)
「海軍予備将校より成る財団法人海軍有終会は南郷次郎少将の名をもって『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』と題する小冊子を、五月初旬全国に配布することになった」*248
2.洋々会(1923年設立*249)
「若槻民政党総裁が十日名古屋において発表したロンドン条約に関する声明は軍備に対する国民の認識を誤らしむるもの多く等閑に附すべきにあらずとして海軍予後備将官より成る洋々会では十二日午後十時半から芝公園水交社に黒井、竹下各大将森山、宇佐川、飯田、棚町各中将、桜井、大谷、遠藤各少将等出席、これが対策につき慎重凝議した結果午後七時大要左の如き声明書を発した」*250
3.恢弘会(1924年設立 事務所:東京九段偕行社)
木田伊之助陸軍少将が提案して設立*251。長:陸軍大将大井成元、副会長:海軍中将石橋甫、陸軍中将筑紫熊七、常務理事:海軍少将大山鷹之介、陸軍中将高田豊樹、海軍少将南郷次郎、陸軍計監八木籬、海軍中将佐藤阜蔵、陸軍中将両角三郎 会員数二千五百名(予後備役将校)*252(※1932年12月時点*253)
4.明倫会(1933年設立*254とあるが活動は1932年から*255)
「明倫会は国家主義を標榜して昭和七年田中国重大将を会長、奥平俊蔵中将を副会長として成立したるものにして同会の成立に当りては石原産業主石原広一郎の活動に負ふ所大にして…同会は予備将軍就中少将級の軍人多数を会員に有し」*256「今春三月田中国重大将を会長に推戴、急激に勢力を伸暢した明倫会では…同会では二十九日午後六時より九段偕行社本館楼上大ホールに最初の研究例会を開催した、出席者は会長田中国重大将をはじめ徳川義親侯、堀口元駐伯大使、杉山茂丸氏、大山法学博士、高山公通中将その他百数十名に達し」*257
5.皇道会(1933年設立)
副総裁:陸軍中将等々力盛蔵、幹事長:陸軍少将黒沢主一郎、副幹事長:陸軍少将富家政市、顧問陸軍中将高山公通、陸軍中将奥野英太郎、陸軍中将貴志弥次郎、陸軍中将高田豊樹、海軍中将兼坂隆、海軍中将山下巍八郎、陸軍中将春木源三郎、陸軍中将出口永吉、陸軍主計監鶴田義紹、経済学博士林癸未夫…(1933年時点)*258
6.瑞穂倶楽部(1933年設立の三六倶楽部から38年改称*259)
在郷軍人関係団体「瑞穂倶楽部」は予備役砲兵大佐小林順一郎、予備役砲兵大佐湯原惣介、同中佐吉見隆治らが関与*260。226事件で「本倶楽部主要人物四王天中将、松本少将、小林大佐野田大佐、伊藤大尉の反乱幇助として事件送致(九月十九日全部不起訴釈放)」。1935年天皇機関説騒動では会報で「恐懼引責を知らない政府があれば御親率の下に終に武力を用ひて迄も必ず引責せしめん云々」。
「主要国家主義団体便覧」で本部所在地が軍関連である団体は
また外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では大本教が中心の昭和神聖会についても「大本教信者中には現役軍人極めて多数にして同会亦延て多数の将官を会員に有し居り」としている。*263
この他軍人が関与している団体は
この他軍人が関与している団体は
- 一心会 総裁:陸軍中将楠瀬幸彦。「目下有名無実の状態にあり」*264
- 勤王連盟 会長:陸軍中将男爵菊池武夫、副会長:陸軍中将佐藤清勝、顧問:子爵小笠原長生、陸軍中将堀内文次郎 会員数約五千名で主として地方在郷軍人青年団等。現役軍人及び政友会とも関係あり。*265
- 勤王中堅会 創立準備中。顧問:陸軍中将貴志彌次郎、同篠田次助、同高田豊樹、少将磯村直明、同山田軍木郎、同伊藤重夫、歩兵大佐石浦謙次郎、少佐佐々木天山。会長:少将久世為次郎*266
- 国本社 「国本社は、学生思想団体から国粋思想団体にまで生成発展するとともに、当時一佐官にすぎなかった荒木は陸軍中将となり、陸軍大臣となった。平沼は枢府副議長になり、鈴木喜三郎は政友会総裁となった。この外、会員に現海相大角岑生もいるし、海軍中将小笠原長生、同大将加藤寛治、参謀次長真崎甚三郎、陸軍次官小磯国照らの外、強硬外交の本家本多熊太郎、関東長官山岡万之助、前法相原嘉道、それに金融資本閥を代表し三井の池田成彬も一枚加わっている」*267
- 神道連盟 主幹事:佐藤清勝、貴志彌次郎、高山公通、澤田五郎、岸川武治*268
- 青年皇道会 1931年12月5日発会式に竹下大将、建川少将出席。「現役軍人の出入多し(佐官級以下)」*269
- 大日本国粋会総本部 1936年11月会長死去に伴う善後策委員会で「荒木陸相と相談し陸相の推薦する陸軍大将級の人物を以て会長となすことを申合せたる外具体的決定を見ず」*270「憲兵要務(高等警察)教程」の「右翼団体の概要」では大日本国粋会の項で、関東関西で分かれていたものが「昭和九年予備役海軍中将森山慶三郎と同陸軍中将古谷清等の尽力に依り合同するに至った」とする*271。昭和11年時点で会長は海軍中将森山慶三郎*272木田伊之助陸軍少将は関東国粋会総長を務めた。*273
- 天行会 昭和五年九月より準備中。賛助員に公爵一条実孝、海軍大将有馬良橘、内務大臣など務めた床次竹二郎、岡崎邦輔。相談役に現海軍大佐寺本武治*274
- 大日本赤誠会 予備役砲兵大佐橋本欣五郎が結成。*275
- 仙台の日本青年大陸研究会 「大日本生産党幹部現役陸軍将校、代議士等の後援あり」*277
- 山形の中郡村国防研究会 「中郡小学校」に事務所を置き、中郡村報が機関紙を兼ね、会長は中郡村長、副会長は在郷軍人分会長、中郡小学校長で、小学校校庭に石碑を建設し、発会式には山形連隊区司令官、副官を招き軍事後援会を開いた。*278
- 岐阜の「愛国大道団」は副団長が予備歩兵中佐で、在郷軍人岐阜連合分会幹部等が在郷軍人、青年団員など集め結成。*279
- 名古屋の「大日本会」は幹事が砲兵大佐四宮信治。*280
- 名古屋の「昭和維新会」は会員に後備陸軍歩兵大佐箕形初太郎。*281
- 神戸の「日本殉国青年連盟」は「背後の人物」に「陸軍少将奥村拓治」*282
- 大阪の「大日本報国会」は「東京に本部を置き、会長には芝増上寺貫主道重信教を顧問として本郷房太郎大将、其の他」*283
- 大阪の「大日本国光宣揚会」は「背後の人物 陸海軍将官並に宗教家」「会長 陸軍中将権藤伝次」*284
- 辛羊会は事務所が「京都帝国大学配属将校室」「背後の人物 京都衛戍病院長山本順一、第十六師団軍医部長星野健太郎」「名誉会員 配属将校柳下重治、配属将校西村良三」*285
- 京都の「里見日本文科学研究所(里見岸雄所長)」は「幹部及主なる会員」に「陸軍中将小磯国昭、陸軍大佐藤井十郎、陸軍大佐板垣征四郎、三菱重役梶武雄」*286
- 京都の「敬天愛人運動本部」は「幹部及主なる会員 後備陸軍歩兵大尉山田主一郎、予備海軍少佐斉藤直幹、予備陸軍主計監宮里熊五郎」「会員数 約ニ〇名(主として軍籍関係あるもの)」*287
- 京都の「愛国青年会」は「背後の人物 中安信三郎」「会員数 約五〇名(主として在郷軍人)」*288
- 新潟の「興国会」は「事務所 高田市連隊区司令部」「背後の人物 現役陸軍中将中川軍蔵」*289
- 長野松本市の「信州郷軍同志会」は「幹事長 帝国在郷軍人会松本市連合分会長予備陸軍三等軍医正関重忠。専任幹事 帝国在郷軍人会松本市第七分会長予備陸軍歩兵少将中田三雄、予備陸軍砲兵少尉森山精一」*290
- 水戸の「春秋会」は「本会は退役陸軍歩兵大佐関東の主催するものなるが」*291
- 宮城の「涌谷国防研究会」は「背後の人物(仙台歩兵第四連隊長)石原莞爾」*292
- 宮城の「愛郷青年会」は「会員は一ケ月二回集合し歩兵第四連隊より将校の派遣を乞ひ日本精神の教養並国防に関する講演を受くる予定なるも未だ実現せず。」「昭和十年一月十七日仙台第四連隊長石原莞爾の来村を乞ひ講演会を開催す。」*293
政界と右翼も親しい関係にあった。外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「当局の説明」と但し書きをつけつつ「政界方面に幾多複雑なる関連を有し居り」と述べている。*294
- 昭和期の官僚・政治家平沼騏一郎と右翼の関係は有名だった*295し、平沼自身が国本社会長として右翼であった。また国本社は「金融資本閥を代表し三井の池田成彬も一枚加わっている」*296
- 1909年12月の一進会日韓合邦声明を主謀した黒龍会内田良平は、その際事前に山県有朋、桂太郎首相、寺内正毅陸相の了解を得ていたという(→韓日合邦を要求する声明書の「日本人が首謀して声明作成」参照)。また内田は1905年12月伊藤博文の招きで韓国統監府嘱託に就いている。*297
- 1919年、床次竹二郎内相は「侠客」を集めて国粋会を作らせた*298。当時の首相原敬も関与*299。発会式には「知事、警察部長、市長、師団長等」が参加*300。分裂後は「大日本の方は、鈴木喜三郎が首領、関東国粋会は伊藤〔ママ〕祐弘、青木信光、牧野忠篤などといふ殿様連を担いでゐる」。また国粋会は「選挙の時などには、大いに政友会を援助した」*301。木下半治「日本国家主義運動史」(1939年)でも「床次竹次郎が産婆役となってゐるといふこと、創立当時の幹部として、総裁に大木遠吉伯、会長に村野常右衛門、理事長に中安新三郎等々の顔振れを並べ、その後、総裁に鈴木喜三郎、会長に高橋光成を経て中安信三郎等々を迎へたという点をみれば、同会が政友会系の団体であることが推測せられるのである」*302とする。
- 大和民労会(1921年設立)は「この頃、国粋会といへば、必ずその対立物として民労会を挙げるのが例であった。…大日本国粋会及び関東国粋会が前述の如く政友会系の団体であったのに対して、-大和民労会は、民政党系の団体とみられてゐたが故である。大和民労会の創立者は、土木業者の大親分にして、大都キネマの社長であった河合徳三郎である」*303
- 大正赤心団(1918年設立)は「野田卯太郎、武藤金吉等政友会の一部幹部の後援を得て赤心団を組織した」*304
- 皇道義会(1918年設立)は「茨城県政友会代議士石井三郎が…野田卯太郎、小川平吉等の政友会の後援を得て創立」*305
- 国維会は華族や内務官僚が顔をそろえていた。
- 辛未同志会は、幹部及主なる会員が公爵一条実孝、井上清純、井上雅二、井上一二、伊江朝助、伊丹松雄、岩崎清一であった。*306
- 侯爵徳川義親は明倫会研究会に出席*307 同会は「有力実業家もまた多数参加し積極的に協力してゐる」*308
- 勤王連盟は活動費について「多く会員中の実業家達の無名寄附によるさうである」*309
- 東方会は衆議院議員中野正剛らが結成
- 大日本護国会は顧問が公爵一条実孝*310
- 大日本神農会の総裁は男爵中川良長*311
- 大民倶楽部の顧問に内田康哉や水野錬太郎*312
- 日本思想研究会の会長は松岡洋右*313
- 国粋大衆党総裁笹川良一の国粋義勇飛行団事業に対して、「住友総本家が十万円の寄附をポンと投げ出した」。*314
- 弘前国粋団は「政友会系」で「最初立憲政友院外団所属の人物を以て思想善導を目的とし広く同志を糾合し創立したるも、爾来何等政治及思想的活動なく漸次暴力化するに至りたるものなり」観桜会、縁日等に於て他府県より潜入する香具師等と抗争することな〔ママ〕り」*315
- 仙台の「日本青年大陸研究会」は「大日本生産党幹部現役陸軍将校、代議士等の後援あり」*316
- 山形の「郡村国防研究会」は「中郡小学校」に事務所を置き、中郡村報が機関紙を兼ね、会長は中郡村長、副会長は在郷軍人分会長、中郡小学校長で、小学校校庭に石碑を建設し、発会式には山県連隊区司令官、副官を招き軍事後援会を開いた。*317
- 「宮城愛国同志会」主幹は「浪花節興行者」「県会議員沢口一郎其他の有力者の共鳴の下に結成」(アジア歴史資料センター、レファレンスコードB04012995500、本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割4、5画像目))
- 宮城生出村の「生出村忠誠会」 事務所が生出村役場で会長は村長*318
- 福岡小倉の「愛国青年同盟」は会長が市会議員*319
- 福岡八幡の「立憲愛国雄進同盟」は顧問が市会議員*320
- 「三重県義勇会」は「背後の人物 衆議院議員加藤久米四郎」。1932年同県桑名村の鋳物工場労働争議で会社側で介入、「職工側の北勢一般労働組合に対抗し闘争を続けつつありたり」*321
- 奈良の「大日本白龍会」は「背後の人物 男爵中川良長」*322
- 神戸の「中興会」は「資金の出所 会員応分の出資に依るの外県市会議員、代議士等より物質的援助を受く」「政友系院外団に属す」*323
- 神戸の「愛国天浪会」は「背後の人物 神戸市会議員前田ニ一六、大越兵蔵、都筑得太郎等後援を為す」*324
- 大阪の「大日本建国党」は「政友会院外団」「資金の出所 機関紙代、広告料」「本党主幹者は無為徒食の輩にして特に注意を要す」*325
- 大阪の「政研倶楽部」は「政友会院外団」で「資金の出所 機関紙の広告料及柔拳興行の利益金を充当す」*326
- 大阪の「国柱会」は「政友会院外団」*327
- 大阪の「国士団」は「民政系国粋主義」*328
- 大阪の「建国倶楽部」は「政友会院外団」*329
- 大阪岸和田の「泉州報国団」は「背後の人物 代議士山口義一」*330
- 京都の「里見日本文科学研究所(里見岸雄所長)」は「幹部及主なる会員」に「陸軍中将小磯国昭、陸軍大佐藤井十郎、陸軍大佐板垣征四郎、三菱重役梶武雄」*331
- 京都の「愛国青年会」は「背後の人物 中安信三郎」「会員数 約五〇名(主として在郷軍人)」*332
- 新潟の「北越青年連盟」は「関係団体 民政党」*333
- 宇都宮の「国華会」は「政友会系」*334
- 茨城の「常陽明治記念会」は「顧問徳川圀順 会長田中光顕。副会長室田義文…」*335
- 茨城の「葵会」は「背後の人物徳川圀順、菊池謙二郎」*336
- 茨城の「皇風会」は「真壁郡関本町、黒子、河内、其の他付近各町に支部を組織し、支部長には町村長又は小学校長を推し」*337
- 東京の「護国義勇団」は「事務所 芝公園増上寺内」で創立準備中。創立常任委員が「委員長小笠原長生 委員柴田徳次郎、樹下信雄、坂入福三郎、日置清夫、木村政長、今井和佐久、東久世通忠・・・」*338
- 福島の「赤誠会」は「背後の人物 (不動澤炭鉱主)五十嵐栄次郎 (杉山炭鉱主)杉山今朝吉」「会長薄葉富弥(杉山炭鉱長)」『思想研究資料 特輯第二十六号「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧 増訂改版 昭和十年十二月調」』司法省刑事局、1936年、1278-79頁。
- 福島の「赤心会」は「関係団体 政友会福島支部若松部会」「委員長(市会議員、弁護士、政友会部会長)日野晴日子」『思想研究資料 特輯第二十六号「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧 増訂改版 昭和十年十二月調」』司法省刑事局、1936年、1276-77頁。
- 「大日本国粋会愛媛本部」は「会員の種類は市会議員、貸座敷業者、芸妓置屋、土方稼等を主たるものとす」『思想研究資料 特輯第二十六号「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧 増訂改版 昭和十年十二月調」』司法省刑事局、1936年、1174-75頁。
