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kannrininn 2021年12月16日(木) 12:14:37履歴
アジア歴史資料センター、レファレンスコードC16120613200、「田中大尉よりの通信」(航空兵団関係資料2陸軍中将寺本熊市史料)より抜粋する。
田中大尉が「十二月三日に…」と述べているのは、その日に南京空襲を実施した際、高射砲の反撃を受けたためである。
「極秘」印 田中大尉よりの通信
一、独立中隊の飛行場移転といふものは却々大仕事ですね、地上勤務員より先に飛行場に到着し新飛行場には全然宿営設備なく苦労しました、爆撃砲撃掠奪で町には家といふ家はなく偶にあるのは警備隊が占領し村落露営をやりました それでも三、四日経つと警備小隊で寝台や机、腰掛を徴発し写真班で風呂を造り整備班で便所を急造し、その他各班協力して家らしいものをこしらへて落着きました、昨日は自ら徴発隊長となり南京へ(ストーブ)を徴発に行きお蔭で今夜は楽です
二、南京で小生の爆撃命中した中華門を見て来ました、相当破壊してはいましたが何しろ城門は高さ十米幅二十米の「コンクリート」です。五十瓩や百瓩ぢゃ大したこともありません
捕虜や敗残兵を処分してゐる所を見て来ました、下関の揚子江に突出してゐる桟橋の端で斬殺及び銃殺してゐましたが物凄いものです、あたり一面血だらけで「大きな俎板」にびっくりします、下の河には又あるある首のない奴、首ばかりの奴何百と浮きつ沈みつしてゐます、斬られる奴は泣き喚くもの、あきらめてゐるもの、見てゐるとかなり昂奪〔ママ〕します。
三、南京の大校場飛行場には陸海混合して飛行機が居るわ居るわ一寸数へても百以上です。敵が本気になって爆撃しに来たら大混乱を生ずる事でせう。 昨日も一昨日も爆撃したんですが被害なし。十二月三日に散々我々をなやました南京を地上から眺めて実に感慨無量でした(1・2画像目)
田中大尉が「十二月三日に…」と述べているのは、その日に南京空襲を実施した際、高射砲の反撃を受けたためである。
一、南京の高射砲の射撃はとても上手です。十二月三日初陣に南京空襲を命ぜられ勇躍五機編隊の長として出動高度三〇〇〇米に於て完全に高射砲の射弾に包囲せられました。小さい黒い煙がパンパンと見る見る編隊を包んでしまいました、損害双一不時着、無線手重傷、其他の飛行機も大小五六個所破片にやられました。
二、爆撃高度一五〇〇米以下は殆ど採用されずそれ以下は高射機関砲小銃弾による損害甚大なり。退却部隊に於ても同様なり、地上火器の損害は決して七〇〇米以下じゃないんです。(4画像目)
