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日本軍の実態#上下関係と敬礼への過度のこだわり」も参照


敬礼の乱れ

  • 1936年の陸軍文書(同年8月15日東京警備司令部の警備会報の資料か)では「敬礼は将校以下厳正を欠くもの尠からず本年一月以降衛戍及戒厳会報に於ても数々述べたる如く隷属の有無を問はず之が是正に留意せられ度」とある。*1
  • 1941年11月陸軍文書「庶務課事項」では「御承知の如く従来憲兵の敬礼不確実に流れ易きは寧ろ其の欠陥精神上に基くもの多きを看取せらるるのでありますが…」と述べている。 *2
  • 1945年4月9日付陸軍次官通牒では「近時軍人軍属の敬礼紊れ一部に於ては戒飭を加ふべきもの少しとせず」と指摘している。*3

初年兵は手が上がりっぱなし

  • 1943年1月に赤紙で召集され松本の歩兵第50連隊に入営した元兵士は「初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです」と回想する。*4
  • 1943年4月に熊本の西部第21部隊野砲隊に現役入隊した元兵士は「…やっと馬の手入れが終わるのです。それから野砲・小銃・帯剣・軍靴の手入れをします。手入れ中にもし古参兵の一等兵が通ると、手入れを止めて起立、拳手の敬礼をします。何度会ってもしなければなりません。わざと初年兵の手入れ中に、通る古参兵もいました」と回想する。*5
  • 1943年に役場勤めから召集され5月1日鳥取中部第47部隊に入営した元兵士は「日曜の外出には…鳥取市内にて喫茶店、映画、市内ぶらぶら。何時でも上官に出会えば敬礼、欠礼すれば大変、初年兵は外出しても敬礼演習のようなり」と述べている。*6

欠礼あるいは敬礼が遅れるとどうなるか

会報で名前が出る

  • 沖縄の石兵団1944年10月19日会報「巡察報告に依れば左の如き事項あり…4、石第四ニ八三部隊小野隊○○上等兵は巡察を認めたるも敬礼を行はず」*7
  • 仏印や南支で従軍した元兵士の回想「軍旗歩哨に立哨中一歩遅かった捧げ銃、無念や要注意の一声が連隊中の回報に載り、中隊の名誉を汚したと苦汁の難に落涙した」*8

殴られる

  • 「歩兵第七四連隊機関銃打中隊「予」伍長(乙幹)某は補充兵係として服務中四月二十六日より五月一日迄の間補充兵の敬礼並に動作不良なりと常習的に十数名を殴打し…」*9
  • 「○○見習士官は敬礼の動作悪しとて特別志願兵助教某軍曹並に特別志願兵七名等を便所下に集合せしめ『対向ビンタ』の私的制裁を行はしめたるが…」*10

誰が誰に敬礼するかという問題

  • 1942年7月4日付陸軍省副官通牒では「見習士官及少尉候補者」と「准士官」の間の敬礼について「疑義の向あるも」という認識を示し、「准士官は見習士官及少尉候補者に対し敬礼すべき」とした。*11

陸軍と海軍の間の敬礼問題

  • フィリピンの第16師団から歩兵第33連隊への1943年1月8日付通牒に「海軍将校に対する陸軍下士官兵の敬礼は不確実なり」とある。*12
  • 沖縄の第62師団の1944年10月18日付「軍司令部連絡並要望事項」に「陸海軍相互の敬礼に就いては再三注意されあるも今だ充分ならず兵にして海軍側の階級章の判別を知らざる者ありと思考せらるゝに付き左記図解を参考とせられ教育指導を要望す」とある。*13

外国人に対する敬礼強要

  • フィリピンの第16師団の1942年7月「参謀長の巡視の際に於ける口演要旨」では、外国人との敬礼トラブルに言及している。*14
以下二三、師団長の御心配になって居られる事項を伝達する。 一、比島人の習慣を克く知ることが大切である。又言葉使も考へてやらねばならん。或る比島人の街で警備に任じてゐる日本軍が比島人の敬礼が悪いと云って殴打した兵がある。敬礼が悪い事ですぐ殴打する様な事は止めて「こうやって敬礼をするのだと教へて呉れ」教へて呉れれば敬礼をすると答へた比島要人がある。こんな事で意思の疎通を欠かない様にせられたい。
  • インドネシアの元南方特別留学生も「民政部の前を通るときには、そこに立っている兵隊さんにお辞儀をしなければならないのです。・・・お辞儀をしないとビンタです」と回想している。*15

「天皇」と口にする時の敬礼

  • 「全然ユーモアのないのがこの精神訓話である。『オソレオオクモ』という言葉が出た瞬間、両足かかとがカチッと合わされる。椅子に座っているときは上半身を正す。これは天皇に対する儀礼であった。」*16
  • 「上級者は都合が悪くなると『天皇陛下……』と言って直立不動の姿勢をとらせて威圧する。」*17

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