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  • 第2師団参謀陸軍少佐須山宗吾が記した「ノモンハン方面出動間第二師団機密作戦日誌」には「八月三十日師団の海拉爾到着と共に逐次得たる戦況は一として楽観を許すものなく一部流言蜚語的言辞も加りて一種悲壮の感を与へられたり」*1とあり、戦闘中の現地でも悲観的な見方だったことが分る。
  • 資料整理部「ノモンハン事件記録」(1950年2月)は「本記録は事件当時関東軍作戦主任参謀たりし元大佐服部卓四郎の当時の日誌及資料と元資料整理部々員元中佐石割平造が当時の関係者に就き調査せし資料とを以て編纂せるものなり」*2という性格の文書だが、「ノモンハンの悲劇はかくしてその幕を閉じたり」*3とある。
  • 復員局資料整理課が編集した「満洲に関する用兵的観察 第10巻 第4篇 満洲に於ける各種作戦の史的観察 第6章 満洲に於ける情報勤務」(1952年9月)は南方軍参謀・第二総軍参謀を務めた山口二三元少佐が編集担任で、ノモンハン事件当時参謀本部部員(ロシヤ班)でその後関東軍参謀(情報)、大本営大15課長を務めた甲谷悦雄元大佐が資料提供者である*4が、「ノモンハン事件は…(1939年)八月末、最高潮に達して、日本軍側の失敗に終ったものであるが…」*5と記している。また甲谷の手書き原稿と思われる*6資料では「日本軍側の惨憺たる失敗に終ったものであるが」*7とあり「惨憺たる」に二重線を引いて消してあるが、これは編集の跡であり「惨憺たる失敗」が本音であろう。
  • 復員局資料整理課が編集した「満洲に関する用兵的観察 第4巻 第4篇 満洲に於ける各種作戦の史的観察 第1章 航空」(1952年6月)*8の「第二款 航空作戦の実況と運用」は「一九三九年九月三十日付関東軍参謀陸軍少佐島貫武治の記述書類に依る」*9ものであるが、ノモンハン事件で航空部隊の損耗が増えた要因の一つとして「我が地上部隊の不利なる戦況の影響」*10を挙げている。

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