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- 1876年9月21日付、宮本外務大丞より外務卿代理鮫島大輔宛「修好条規付録取極上取捨を為したる顛末詳報の件」
- 1880年京城公使館設置時の状況
- 1883年12月「万年会報告」所収、松尾三代太「朝鮮事情概略」
- 1892年東邦協会報告
- 1893年6月杉村濬「対韓意見書」
- 1893年7月「国家経済会報告 26」
- イザベラバード「朝鮮奥地紀行」
- 1904-05年日露戦争時の抗日
- 1905年第二次日韓協約時の抗日
- 1907年 伊藤博文韓国統監の報告
- 1909年 伊藤博文への反感を示す各種資料
- 1909年 韓国警察報告資料
- 1913年 朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」
- 1935年 朝鮮農会報
- 1937年 朝鮮軍司令部「朝鮮人志願兵制度に関する意見」
金正明編「日韓外交資料集成 第1巻」巌南堂書店1966年
朝鮮国京城にて修好条規付録貿易規則等締結の始末は既に致上申候然るに兼て御降付之訓状中の条件及本省より嘗て御伺済の付録擬案条款中の旨趣実際に望み斟酌せし件々左に縷述仕候
(中略)
一 各口日本人民遊歩規定之事
右遊歩規定は我十里と題を出したるに是亦彼の尤驚愕嫌悪する所なり蓋し釜山の近傍古来倭寇の侵掠を受け倭人を畏る鬼蜮の如し中葉以降対州人民一手に専住す此州人頗る不良の行為ありし事は兼て聞知する所なり故に彼よりは我全国皆然と視做し今日に至ると雖ども日本人民忌憚する情実尚甚し且彼国風俗男女の別を厳にする徒に表面の形飾に過ぎずと雖ども亦慣習の久き自ら一種の俗を成し男子の来て婦人の面前に臨むを悪む等は未だ嘗て他の外国に視ざるの風俗なり然るに従前対州人民不良の徒或は此羞悪俗に反対したる所業なきにしも非るべし是れ彼国に於て日本人の彼村落街坊に徘徊するを悪むの風俗を成せし所以なり
「京城発達史」京城居留民団 1912年
公使館設置当時の人員は花房公使を初め書記官近藤真鋤、御用掛浅山顕蔵、大庭永成、石幡貞、警部岡兵一、通訳生川上立一郎等の諸官吏及び語学生三名巡査十名併せて四十名なり、陸軍中尉堀本礼造及び陸軍語学生三名は十四年韓政府に傭聘されて下都監即ち今の訓練院に居住せり、当時未だ京城に日本人の来往すること無かりしを以て韓人は其の門前に蟻集し又は路上に群がり出でゝ衣を牽き髪を撩撩し携帯品を玩び其煩名状すべからず、公使偶韓廷に赴き韓官と語る際は僕隷兵卒の輩官衙の庭内に乱入して群を為し之を追へば或は紙障に穴をあけ或は庭樹に攀ち以て指笑し罵評し頗る譁諍を極む、堂々たる官衙に一国の使臣其国の大臣と相語る際既に斯の如し況や其他の場合に於てをや、彼等は唯我日本人を奇異として之を迎ふるのみにあらず、又猜忌の眼を以て我れを監視し、排外思想を以て我れを厭忌し殊に韓の上下は支那の大国在るを知りて眼中日本無く、倭寇の日本在るを知りて朝鮮開導の日本在るを知らざるなり、故に我が邦人門を出づれば倭奴と罵り合ひ、或は石を擲ちて行を妨げ、城内の如きは全く来往出入自由ならず、其公務の上より朝鮮政府に出入するにも途上甚だ危険にして公使国交上の急あるも韓王に謁見することを容易に許されざる状勢なり、故に公使館員は脾肉の嘆と戦々兢々の裡に無為と不安とに悩まされたり、韓の上下は日本人の増加さるゝに従ふて猜忌の度を加ふる有様にして南山の背後より其嶺に達し京城を観望せんとするにも、城壁守衛の兵卒之を誰何して止まずポッケットより銀貨一つを与へて僅に其目的を達すと云ふ状勢なりしかば、水野大尉の一行が無聊の余京城内外の地図を作製せんと志せしも事容易に行はれず、京城内の状勢と朝鮮政府及び軍隊の状況とを詳にせんとするも手段の取るべき無きに苦みたりと云ふ、京城に磅礴たる此の鎖国主義排日思想を統べ且つ皷励するに梟雄大院君の牙を鳴し爪を磨ぎて睥睨するあり、四十人に充たざる日本人団の遂に何事も為す能はず戦々として韓人の気勢をのみ伺ひしは其無能を責むるより寧ろ援無き孤軍の敵地に陥りたる如き当時の日本人団に多大の同情を表せざるを得ざるなり、
日本人が朝鮮事情を知るに不便なること特り此れのみに止らず仝国人に党派の別あるも亦一原因なり此党派は即三あり一は頑固党所謂旧套を株守して外交を拒絶する者一は支那党百事支那に模倣して之を変更せんと欲するもの一は化倭党万緒日本に則りて之を改良せんとする者なり蓋し此の如く党派の分立せし濫觴は得て知るべからずと雖ども我明治十五年七月以来仝国人は各己れが是認信従する所の説を主張して然るに至りしならん其頑固党は閔台鎬を始めとし在廷の人十中六七皆之に荷担するを以て財兵の権は同党の手裡に在りと云ふも不可なるなし且其自から視るや甚だ尊く支那を目してヲランカイと云ひ日本を目して倭奴と呼ぶ即ち蛮夷を以て之を視るものなり支那党は趙寧夏を領袖とし在廷の人十中二三之に加はるのみならず仝党には人才頗ぶる多く且京城の兵権を握るを以て勢威朝野に振へり目下朝に在る者仮へ頑固党若しくは化倭党に心を傾くと雖ども陽には支那党を表するに非れば其地位を保ち難きの勢あり化倭党は朴泳孝(※1861年生)金玉均(※1851年生)を首領とし党員甚だ少なく勢力最も微なり而して同国人の一旦化倭党に入りし者は更に支那党に入らんと欲するも支那党拒んで之を許さず止むを得ず初志を固守して其党を保つ者の如し之を要するに三党中頑固化倭の両党は定見を動さゞるが如く而して支那党は単に利己主義を以て彼の風潮を逐ひ移るが如き者に似たり然れども支那化倭の両党は頑固党より幾分か発達進歩せる者の如し而して余輩熟々将来を推測するに化倭党却て勢力を得て当に進歩の勝を得るなるべし何となれば国王の中心已に化倭に傾き頑固支那両党中時機を知り外国の情を聞知するもの中心已に化倭に向ふの兆候あればなり去れど目下日本人の交際し得るは特り化倭党のみにして其人員少なく勢力微なるが為其国の事情を知るに不便なるを鮮少に非ざるなり
「東邦協会報告 第11」1892年4月
朝鮮の現制並日本との関係 末永純一郎「東邦協会報告 第15」1892年8月15日出版
我国は朝鮮に対して何時でも働き掛けの地位に立ちて居るので朝鮮を苦しめた事はあるが喜ばした例しは尠ない、此の如き歴史上の関係は積り積りて今日に至りたので此点に於ては如何に無膽無気の朝鮮人と雖ども自然先天より不快の感情を持ちて居るのであります、併しながら我国や我人民に対して敵愾の心を持ちて居るとまでゞはありませんが戒心を加へて付合をすると云ふのが国の上にも個人の上にも現はれて居るのです、而して我が国人の朝鮮人に対するものも亦動もすれば軽忽に渉り来ったのである、是れには誠に已むことを得ぬ次第もある可きが併し、我より信義を見せぬ以上は彼が打解けて交際しやう筈がない、(71頁)
我国と朝鮮との関係は右述べました通りでありますが、今日朝鮮に於ける外国の勢力は、どこが一番強ひかと申しますレば、頭数を以て云ふたならば日本人は第二等とは下りますまし、京城、仁川、釜山、元山の四貿易場に於て四千余人は居りませう、而して支那人は大凡そどれ丈け居りますか分りませぬが貿易場に居る丈けを比較すれば無論日本人が第一等の地位を占むるに相違ない、併しながら日本人の勢力と云ふは迚も支那人の三分の一にも当らず、人民同士の比較のみでなく支那国と我国が朝鮮に有する勢力は一層甚しき懸隔があります、是れ亦た歴史上の結果で一朝一夕に得たるものではありませぬので、即ち我国が朝鮮に向て信用を失ふて居る反対にちゃうど其れ丈け支那は恩義を售りて居るのである、彼の豊公の役の如きも支那は全力を傾けて朝鮮を援けて居る、朝鮮の今日あるは全く支那の御蔭であると云ふとは公平なる判断に相違ない、独り豊公の役のみならず、兎に角朝鮮が疆土を維持して今日まで来たのは支那ある為めであると云ふ事も公平なる看察力を有する人は異論なき事と思ひます、果して然れば支那が今日朝鮮に於て一番強大なる勢力を持ちて居るのも是亦た怪むに足らぬ事で、即ち勢力と云ふは恩義の報酬であるのです、支那の朝鮮に有する勢力は独り政治上のみならず兵略上にも、商業上にも、将また社会上にも非常なる勢を持ちて居る、(73-74頁)
…次でに朝鮮居留の我が官民のことに付き聊か御話を致して置き度い、従来我が居留民の韓人に対する状態は、嘉永安政の前後に於て西洋人が我が国人に対したるやうの趣きがあるので、我が国民の資格を落して居ることは尠少ではありませぬ、是れといふも畢竟居留民の七八分までは仮令へば対州や五島辺、但しは馬関広島抔の漁民、或は大工左官と云ふ種類の徒渡航して無知蒙昧なる韓人に対し種々の手段を用ゐて漸く一軒の店を構へ、茲に商人らしくなりたと云ふものが多い、其一例を挙ぐれば、韓人は金銭の蓄へがないのと、借りて返さぬと云ふ横着な根性があるので、非常に金銭を欲しがり、貸しさへすれば幾何でも借ると云ふのです、ソコで意地悪き居留民は不動産や、貴金属抔、確実なる抵当を取りて驚く可き高利の金を貸す、其中には利が十日一割など云ふがありて、利が利に積み三ケ月にて元金丈けの利息を挙ぐると云ひ、期限が来れば抵当を用捨もなく引揚ぐる、ソコで紛議が起る、紛議が起りても約束なれば致方がないので、何時も債主の勝となり、韓人は不平たらだら所持の地面抔を引渡すことになる、此高利貸の弊は領事館の詮議に因り、目今の処では余程薄らぎたと云ふ事ですが、韓人の金銭を借るは矢張り衰へない、而して京城にて地所の質入は、今日では公然たるもので、韓城府の登記を経て契約すると云ふ手続になりて居るので、即ち土地所有権を公許して居る事実があります、右申したる外、「ニッケル」の時計に金「メッキ」をして売付けたり、廃物になりて居る機械を譲渡したり、斯る例しは数ふるに遑ない位で、韓人は漸く欺かれたるを覚るに及びて、一人伝へ、二人伝へ、誰云ふとなく日本人は油断のならぬ奴原であると云ふ感情を懐くやうになりたのである。(82頁)
東来府は、旧来釜山貿易を管掌する処にして明治九年日韓修好条規実施前に於ては釜山浦居留の日本人民たるもの自由に租界外に出づるを得ざりしに、我外務省は朝鮮政府と約を結び、東来府に限り間行の特例を設けたれども、府使は常に市民の騒擾を名とし、日本人民の容易に入場することを許さゞりし、明治十二年、我鳳翔艦は朝鮮近海を巡航し、釜山浦に寄泊したる時艦長以下士官水兵幾名は、約に随て本府に至りしも、城門を閉鎖し、種々口実を設けて入城を拒みしが故に、外務語学学生武田某、大石某は、其国約に反するを責め、吏民と論弁するの際、府民は門楼或は壁上に蝟集し、突然瓦礫を投じて、二名を傷け、勢焔益々加はり、投石愈々甚しきを以て、艦長は諸士の奮闘力撃せんとするを制し、更に相当の手順を践て詰問せんと、負傷者を扶けて一と先づ釜山に退き、当時貿易事務官たる山の城祐長氏と商議の上翌日護衛水兵四十余名を引卒し、至城内巡見を開始せしのみか、府吏をして我居留地につき謝罪せしめしことは、頗る陳腐の古談に属すれども、其当時に於て、頑陋なる朝鮮官民が、我国人を嫌忌し、我衣服の殊なるを恠しみ、負傷者を出だし、激談を開くに至らしめたる、頑たる府民も、今日は、自由に城内を通覧せしめ、僅に一商民の資格を有する者が、王侯に擬したる府伯其人に面会するを得たれば、茲に往時を追懐し、旧談を付記す、(78-79頁)
1893年6月杉村濬「対韓意見書」
※杉村は当時京城公使館勤務
※杉村は当時京城公使館勤務
日、韓交際の歴史は世人の熟知する所なれば之を再演せず、其の歴史に拠て古昔我が文物は多く朝鮮より輸入し、我は後進国たることは彼我共に認めたることなり。之れに縁由して朝鮮は常に我を鄙み甚しきは倭奴と称せり。殊に豊公征韓の役は実に百世の怨を買ひ、今に至るまで之れを書に載せ、之れを心に銘じて忘れず、故に韓人の我に対する感情は決して我が朝鮮を視るが如くならず、外敵と云へば先づ日本に屈指し、日本人を視ること虎狼の如くなりき。近来東学党の激〔ママ〕文に於ても其一端を見るべし。(204-205頁)
清国政府も亦其力を朝鮮に仲し、我と共に護衛兵を京城に駐在せしめ、隠然我を相制せんと試みたる為め、韓廷中に日本、支那の両党を生じ、互相軋轢し、而して其結果は十七年冬の変乱(※甲申事変)と為れり。此の変乱は日本党失敗、支那党勝利の大関鍵にして、此れより已来日本人の勢ひ頓に滅却し、前日まで韓官盛んに出入したる我が公使館門は、今外務当局官吏を除くの外出入せざる様に変じ、実に面目を失ひたりき。去り乍ら十八、九年よりニ十一、二年に掛けて徐々恢復を務められ、乱後に於ける不面目は少しく雪ぐを得たりしも朝鮮人の感情は再び十二、三年前に立戻り、常に我に向て猜疑心を懐けり。殊に金玉均一類は我に向て時々奇妙なる風説を醸したるは益々彼輩をして我国を疑はしめたり。此の前後に当り朝鮮政府に困難を感ぜしめ、我を厭忌する心を生ぜしめたるものは、両国間に興りし数多の交渉事件なり。抑も朝鮮は我と更約して大に海路の貿易を開きたる已来、今日まで凡そ十六年に及び、支那は十二年、米、英諸国は十年程なり。此間朝鮮政府は外交上の困難を感じたるは英、米にあらず、支那にあらず、十中八、九までは日本なり。其の重なるものを挙げれば、第一、明治十一年頃釜山の課税事件、第二、同じく十四年元山の殺傷事件、同十五年及び十七年の変乱(※壬午軍乱と甲申事変)を除き、第三、同十八年電線事件、第四、十九年済州賠償事件、第五、同殺人事件、第六及び七、同十二、三年已来元山及び黄海道の防穀事件にして、其他細件を尋ねば枚挙に暇あらず。故に事理を弁別せざる朝鮮政府より観るときは、列国中日本程交際に困難なる国なしと思ふは無理からぬ事なり。尤も右に列挙したる事件は総て朝鮮政府の不都合より興りし結果に相違なきも、其の国情は前述の通りなれば、彼等自ら不都合と思はず、却て之れを咎むる我を過酷と為し、之れを怨悪するの心をして益々深からしめたり。故に韓廷の官吏は今日口に和親とか、東洋同胞の邦とか唱ふと雖も、其実大局に注目する者少なく、大抵我を侵伐の野心ありと誤認し、即ち昔日の日本は干戈を執りて侵伐したる代りに、今日の日本は条約を攻道具と為し、平和手段にて侵伐の目的を達せんとするものなりと思ふが如し。近日閔応植の上書中にも、日、韓条約は専ら日人奸點の主見に成るものなりと云へり。要之、前述の如く不体裁なる現政府にては、到底不埒なる官吏の挙動を検制し能ふべしと思はざれば、将来我れ若し寸分の容赦なく小過瑣失を数へて尽く之れを責むるときは、朝鮮は其の苦難に耐ふう能はずして益々我を怨悪し、而して其の帰極する所は我も朝鮮政府も共に面白からざる位地に推し移るべし。是れ熟慮せずんばあるべからざることなり。
各国の朝鮮に於ける其の関係の大なるものは支那にして、日本之れに次ぎ、而して露国、而して英国ならんか、支那と朝鮮とは古来の関係甚だ密にして世々之れに服事し、封世を受け、朝貢を修め、正朔を奉ずる等の礼節に於て嘗て欠けたることなく、又朝鮮が外国より侵伐せられ、危急なる場合には支那より出兵して之れを援助したる例もあれば、朝鮮人は事大(支那に服事するを云ふ)を以て保国の要訣となすこと或る韓人の著書に見えたり。殊に韓人は自ら支那人の末流にして、其の文物、工芸、総て支那の賜なりと信ずるより、支那を宗国と仰ぎ、大国と尊び、支那人を視ること恰も譜代諸侯が旧幕人を視るが如し。彼の東学党は外人排斥を唱へながら、支那人に及ばざるもの是れが為めなり。清、韓両国の間柄既に斯くの如しとせば、之れを百世の仇と斥け、倭奴と鄙めたる日本人に比較せば、実に霄壌啻ならざる次第なり。然るに近年に至り朝鮮人が多く日、清両国人に直接し、且つ屡々公務或は漫遊して両国の政事、民情を観るに及んで、始めて中国人の深く尊慕するに足らずして、却て日本人の親むべく、倣ふべきを悟り、稍や其意を傾けたるは僅かに十余年来の事なり。去り乍ら是れも唯々少数の官吏と日本人に親接する限りある商人に止り、其他多数の朝鮮人は依然昔日の儘なり。今朝鮮の日、清両国に対する感情を対照すれば左の如し。
| 支那に対し | 日本に対し |
| 一、世々服事し朝貢を修め大国若くは中国と尊べり。 | 一、後進国と見做し倭奴と鄙めり。 |
| 二、古来征伐を受けたることあるも是れ皆背反若くは反命より興りたる結果として之を怨みず。 | 二、古来征伐を受けたる内にも豊公征伐の役は今猶ほ人民の口碑に伝はり深怨を含めり。 |
| 三、近年に至ても外国と事を生じたるときは必らず支那と謀り、其内援若くは周旋を以て難を免れたること多し。 | 三、朝鮮の事変は多く日本を敵視する場合なれば今日まで斯かる事なし。 |
| 四、近世欧州の文化を慕ふの士は漸く支那を疎じ、其尊ぶべからざるを覚悟せり。 | 四、近世欧州の文化を慕ふの士は漸く日本に親み其倣ふべきを悟れり。 |
朝鮮に於ける日、清両国の比較は前記の如し。左れば我国は多年其徳を積み、其功を重ね、以て韓人の尊信を得るを勉むべきは勿論なるに、実際の事情は之れを許さず、僅かに得たる信用も一事件の興る毎に之を減じ、従前日本方と称せらるゝ人々をして其影を隠さしめ、満廷幾んど斥倭党に変ぜんとするは遺憾の至りなり。露国は近年頻りに親交を朝鮮に求め、宮中は聊か人望を得たりしとの説あれども、本と是異人種にして、韓人が訂約已来露国を恐懼するの念已まざれば決して未だ支那同様の勢力を有つに至らず。唯だ露国は嘗て害を朝鮮に加へたることなく、既往現今の交渉事件は陸路通商と電線通連位に過ぎざれば、韓人は未だ露国を以て交際に困難なる国と認めず。其他英、仏、米、独の各国は其の関係に大小の差あるまでにて、未だ著しき勢力を此国に及ぼさざるが如し。前述の形勢は果して永く持続するや否や知るを得ずと雖も、我が政略を定むるに於ては最も之れに関係せずんばあるべからず。今日我が国力は能く朝鮮の輿望に反し、各国の故障に打勝ちても以て其目的を達するに足らば即ち論なしと雖も、若し然らざるときは一意に朝鮮を藐視する心を抑制し、能く形勢を斟酌して事を処するこそ頗る緊要と思惟せられたり。
「国家経済会報告 26」1893年7月31日発行
佐々友房君朝鮮談筆記
…夫れから東学党の御話を致しませう、東学党のことは大抵新聞で御覧でございませうから詳しく申上げる必要はございませぬ、…其所々に貼出しをしたり、其他色々な檄文様のものは新聞紙に散見しました通り、第一日本は余程恨まれて居る蹟があります、夫れから西洋人であります、先づ純粋の朝鮮の保守主義のものであって元と日本に尊王攘夷党の始めて起った通りの論派の様でござります、…
問 東学党は金玉均の残党などとか又は幾らか政府部内の者と気脈を通じては居らぬですか
答 金玉均派は日本で譬へて見ると早く洋癖家になった連中の如きもので、即ち金玉均は日本化したものであるから東学党の方から見ると穢多の様に見るでせう、…(81-83頁)
イザベラバード「朝鮮奥地紀行1・2巻」(東洋文庫)
原著「朝鮮とその近隣諸国」は1898年ロンドンで刊行(1巻5頁)
・三世紀前からの憎しみを持って日本人を憎んでいる朝鮮人は、主として清国人と取引している(1巻60頁)イザベラ・バードは1894年1月から1897年3月までの間に四度、朝鮮を訪問した。(1巻21頁)
・朝鮮では日本人に対する強い伝統的な憎しみがあるし(1巻80頁)
・人びとは日本人を三世紀に亘る宿怨で憎んでいる(2巻118頁)
・そこでは他所でのように、朝鮮の人びとは強い恨みを抱いて日本人を憎んでいたが(2巻144頁)
・そこの人びとは日本軍を激しく憎んでいたが(2巻158頁)
・慈山で他所のように、人びとは日本人に対する激しい憎しみを述べ、独りも生かしてはおけない、と言いさえもした。(2巻206頁)
原著「朝鮮とその近隣諸国」は1898年ロンドンで刊行(1巻5頁)
松田利彦「韓国駐箚軍参謀長大谷喜久蔵と韓国 : 大谷関係資料を中心に」
朝鮮駐箚軍司令部「朝鮮駐箚軍歴史第一巻」1916(大正5)年6月1日発刊
日露戦争中、日本軍が朝鮮半島で行った軍用地や鉄道敷設地のための土地収容や労働力の徴用に対し、各地で住民の騒擾が起こった。これに対し、韓国駐箚軍司令官は、1904年7月、「軍律」を主要鉄道・電信線沿線に公布、11月には韓国全土に施行範囲を広げた。軍用電線・鉄道の保護を各村落の責任で担わせ、加害者・隠匿者は死刑とする一方で、密告者には報償金をだすというのがその内容だった。1904年7月から翌年10月までに軍律により処刑された朝鮮人は計257名に達した(死刑35名を含む)(183頁)
朝鮮駐箚軍司令部「朝鮮駐箚軍歴史第一巻」1916(大正5)年6月1日発刊
第二篇 韓国駐箚軍創立より日韓併合期間
第六章 韓国内の綏撫(暴徒討伐を含まず)
第一節 官民の動揺
駐箚軍司令部京城着の当時木浦付近に於ける頑迷の韓民騒擾して不穏の兆あり是に於て明治三十七年(※1904年)四月十一日木浦領事館及居留民保護の為在京城後備歩兵第二十四連隊より歩兵一小隊を派遣し鎮撫せしむ其の後該地方静穏に帰し小隊は十二月京城に帰還せり又平安道に二三の草賊出没せしも首魁捕縛の為に鎮静し爾余の地方は一般に平穏なり(271頁)
(※1904年)五月十二日京釜鉄道敷設工事に対する沿道土民の暴挙あり依りて沃川、大田、深川、新灘津、弥勒、秋風嶺、新洞及扶桑に各歩兵一小隊を配置し以て工事の保護に任ぜしむ
平壌以北に於ける各兵站地は第一軍通過の後を承け加之安州以北にありては一度敵の占領に帰せし為土民離散し田圃荒廃し宣川以北に於ては不逞の徒敵の使嗾に応じ我軍用電線を切断する等後方勤務に妨害を加ふる事尠からざるを以て駐箚軍司令官は六月三日兵站監に左の要旨を訓令せり(272頁)
※京釜鉄道は日本が敷設権を得ていた。日露戦争は同年2月開戦
従来我軍用電線は屡韓国人民の為切断若は窃取せられ五月以降軍用鉄道も亦害を蒙るに至りしを以て七月一日軍司令官は加害者処断の為区域を限り軍律を発布し帝国公使を経て之を韓国政府に通告せり然るに電線の被害は各地に亘りて底止する所なきを以て七月九日軍律施行区域を拡張して之を韓国一円に及ぼし尚電信鉄道以外の軍用営造物及其の他の軍需品に就ても電線鉄道に準じ違犯者を処罰することとせり(第三章第五節韓国駐箚軍軍律軍事警察及軍政施行顛末参照)
韓国前判尹従二品吉永洙及前大隊長李在華は負褓商の巨魁にして韓国の治安を害し且つ間接に我軍事行動を障碍する尠からざりしを以て八月四日憲兵をして之を逮捕せしむ
曩に本邦人長森藤吉郎は韓国宮内府御供院卿との間に勅旨を奉じ荒蕪地開墾に関する件の契約を締結したり其要項に曰く韓国政府は全国に散在する総ての荒蕪地の開墾、整理、改良、拓殖等一切の経営を長森藤吉郎に委任すること開墾整理後と雖所有権は依然韓国政府にあること、開墾に要する資金は総て長森に於て之を支出すること、開墾五箇年間は何等上納金を課せず其の後は一般の土地と同様地税を課賦すること、契約有効期限は五十年とするも満期後再び之を継続することを得、若し継続せざる場合には韓国政府は投下したる資金及其の利息を補償すること、長森藤吉郎の権利義務は其の継承者に対して有効たること等なり然るに韓国官民は此契約を以て国土を侵略するものと誤解し遂に疏庁を設けて上奏の決議を為し或は輔安会と名くる政社を興して排日主義を鼓吹し演説或は檄文により地方の人心を煽動せし為平安、忠清、全羅の諸道漸次動揺の兆あり若し之を放任せむか遂に京城の治安を害し作戦軍背後の連絡に対し障害なきを保すべからざるに至らむことを慮り同三十七年七月二十日軍司令官は京城内外に軍事警察施行の必要を認め帝国公使を介し韓国政府に通告し同時に駐箚憲兵隊長及京城舎営司令官に訓令を与へ軍事警察の施行に任ぜしむ当時京城の憲兵不足の為京釜間電信線路上奄峴―長川間の憲兵を撤して京城に招致し後備歩兵第四十五連隊第一大隊より将校の率ゐる一小隊を派遣して之に代らしめたり
同日荒蕪地問題に関し無頼の韓人京城市街の各処に集会して不穏の状あり駐箚軍は憲兵及歩兵を派遣して之が解散を命ぜしも夜に入り再び鐘路に団集し其の数三千に達せり韓皇之を憂ひ勅使を差遣し別に韓兵及巡検をして之が解散を強制せしめしも暴民肯て命を奉ぜず形勢次第に険悪を極む我憲兵及歩兵は威力を以て解散せしめ首謀者を引致し深更に至り始て平穏に帰せり
八月十三日韓字大東新聞は無稽の記事を掲げて我第一軍の人夫募集に妨害を与へしを以て軍司令官は憲兵隊長をして其の発刊を停止せしめたり
英国人ベッセルの日韓両文の大韓毎日新聞を刊行するや主として我軍の行動及び政策を評論し且つ妨害の記事を掲ぐ蓋し該新聞は韓室に買収せられ我対韓政策を阻害せむと欲してなり
十月下旬新任甲山郡守金承均は元北青鎮衛隊副官にして露探の嫌疑あり新補鐘城屯在隊中隊長正尉金道鉉は咸鏡道の露軍に投ぜし参領金仁洙及正尉朴有豊と気脈を通じて露軍の利益を図るものなれば十月三十日元山に於て同じく其の赴任を阻止す
十一月四日軍機の漏泄を顧慮し北青鎮衛隊に赴任の途にある正尉金宏洙以下二名の将校を元山に抑留し北関鎮衛隊解散後之を釈放せり
十二月二十二日前侍従元世性、前議官李範錫及申衝均は嘗て輔安会を組織し京城の治安を害せしを以て我軍事警察に於て之を捕へ安州に拘禁せしが其の後悔悟謹慎の実あるに至りて解放せり
同三十八年一月四日軍司令官は韓国現時の状態は韓国官憲をして警察権の全部を執行せしむるを治安上危険なりと見おT目京城及其の付近の治安を確実に維持する為駐箚憲兵隊をして警察事務を執行せしめ同時に軍律の条規を増加し之を韓国政府に通告し且つ一般人民に告示せり
(※1905年)三月上旬京釜鉄道及電線の被害日々増加するを以て軍司令官は該区間に軍令を適用すべく帝国公使と協議し三月七日を以て之を韓国政府に通告し且つ一般に告示せり
三月中旬京城に於ける韓国罷役大官趙秉世、趙秉鎬、崔益鉉等皇帝信任の宮内官姜錫鎬と結託して法部大臣趙秉弐を弾劾免官し内部大臣李址鎔をも陥擠し排日派を以て内閣を組織せむと謀り許蔿、李逸植及金鶴鎮等は地方に所謂義兵を糾合して我対韓政策に反対行動をなす等治安を妨害するを以て我憲兵は崔以下を逮捕処罰し京城の政界は表面上一字静穏となれり
三月下旬奉天戦捷の結果韓国大官は日本に信頼する傾向を生ぜしも他を排擠して自己の利益を図らむとする雑輩は一意韓皇の歓心を得むことに努め絶えず小策を弄して政界に波瀾を起さしめ此等雑輩に眩惑せられたる韓皇は一面には戦捷祝賀大使を日本に差遣して信頼の誠意を表し一面に於ては款を外国に通じ且つ地方官及罷役大官等の内帑金を密付して各地に倡義兵なるものを蜂起せしめ国土を挙げて騒乱の巷と化し以て諸外国の干渉を僥倖せむことを希図せり
曾て我憲兵隊に拘留せられたる頑固党の領袖崔益鉉等の情状を酌量し之を釈放して抱川に退去せしめたるも再び入京して陰謀を企て我憲兵の探知する所となりて更に定山に追放せられたり(273-277頁)
朝鮮駐箚軍司令部「朝鮮駐箚軍歴史第一巻」1916(大正5)年6月1日発刊
締結後については韓国の嘆き・抗議・自決・排日を参照
第二篇 韓国駐箚軍創立より日韓併合期間この他、条約締結前については韓国側の反対・排日の動きを参照
第六章 韓国内の綏撫(暴徒討伐を含まず)
第一節 官民の動揺
(※以下277〜283頁)
九月日露講和条約成立の報韓国に伝はるや上下官民は将来日本の執るべき対韓政策を悲観し十月初旬日英同盟、新条約の発表に及びてや更に彼等に多大の感動を与へ日露撤兵の際我新鋭なる第十三、第十五師団の駐箚は彼等の神経を過敏ならしめ外部は英国公使に迫りて日英新条約は英韓条約に矛盾すると称して其の反省を促し暗に撤回希望の意を示し又在野の所謂志士なる者は書を政府及駐箚軍司令部に寄せ悲憤慷慨の辞を列ねて日英両国が擅に独立帝国の処分を議すと抗議し児戯的小策を弄して一意皇帝の意を邀へ権勢を得むことを努めたり
十月下旬前礼式官李起鉉外四名韓皇に説き巨額の賜金を得遊学を名とし英国に航して同政府民間有力者に遊説し以て日英新条約を撤回せしめむと放言し将に其の途に就かんとせしが仁川に於て憲兵の為に逮捕せらる
十一月初旬侯爵伊藤博文遣韓大使として渡韓の報伝はるや韓国の朝野大に震駭し保守頑迷の一派は大使の入京に先ち日本党と目する韓国大官及我公使等を暗殺せむとの風説を生ずるに至りしも大使の遣韓は単に国際儀礼に過ぎざることを知るに及び始て朝野人士の愁眉を開く
同月九日伊藤大使入京す翌十日伊藤大使韓皇に謁見して親書を捧呈す当日大使の言動は大に宮中府中を安堵せしめしも日韓保護条約は或は其の実現せむことを恐れ之に関する諸説は依然紛紛たり
十五日伊藤大使再び参内し日韓新協約の前提として進言四時間の長きに亘る長谷川軍司令官亦時局に関し韓国軍部大臣を官邸に招き警告す
十七日林公使参内して協約案を提出す閣臣御前会議を開き其の可否を論争す伊藤大使、長谷川軍司令官も亦列席して切に協約の調印を促す深更に及びて決する所なし会々学部大臣李完用邸宅火災に罹るの報到る李完用俄然態度を更めて曰く今日の国情は日本国に信頼するの外別に良策なし宜しく之に調印すべしと各大臣(八大臣中韓圭窩、李夏栄、閔泳倚の三名は終始協約に反対せり)亦之に賛同し韓国の主権に一大変動を来すべき大問題は十八日午前一時を以て正式に調印を了し爰に日韓新協約成立し韓国の外交権を日本に収め以て我国の保護国となすに至れり
新協約反対者たる参政大臣韓圭窩は調印前天顔に咫尺し挙措常を失ふの故を以て直に免官流三千里に処せらる是に於て内閣一変し閔泳擔靴貌りて議政大臣となれり
是より先き長谷川軍司令官は万一の変を慮り騎兵連隊及砲兵大体を京城城内に招致し特に其の軍容を正して全都を威圧し韓国大臣には護衛兵を付して其の警戒を厳にす十一月十四日夜憲兵は大臣暗殺の嫌疑者金東弼、玄鶴表を逮捕し続て各道の儒生を代表して上奏文を捧呈せし元秘書官李奭鐘を宮城門前にて縛し厳に其の匪行を予防せし為協約調印当夜は僅に無頼の徒数名凶器を携へて宮城付近を徘徊せしと学部大臣李完用邸に放火したる者あるに過ぎざるのみ
曩に韓廷は保護条約の問題となるべきを自覚し機に先ちて之を防遏せむと欲し百方手段を講じたるも国論の帰向一ならず列国の意嚮亦希望に副はず而して伊藤大使来韓の報に接す是に於て在野の元勲を起して急遽其の入京を促し以て諮詢画策する所あらむとせしも協約問題迅雷的経過は彼等をして横議献策の余地なからしめ京城の政界は一時茫然自失し諸官庁は全く廃務の状態を見るに至れり十一月下旬に至り稍覚醒せる政客及猟官の徒は先づ声を閣臣の問責に揚げ或は之に辞職を勧告し或は法を正して其の極刑を要求し尋て国力を睹して協約に反対せむことを呼号し集会、上疏頻頻として起り官人亦時事を諭して骸骨を乞ふものあるに至る而して嚮に召命を奉じて上京せし元勲大臣輔国趙秉世、沈舜沢、李根命の徒は衆庶の推す所となり十一月二十六日七十余名の官吏及有位者の疏首として新協約の破棄及五大臣(李址容〔ママ〕、李根沢、李完用、朴斉純、権重顕)の極刑に関する上書を為せり皇帝は大勢の既に如何ともすべからざるを諭示せしも秉世等固執して動かず遂に門黜の処分を受けたるも向連奏して止まず閔泳徽、閔泳煥趙秉式、朴定陽等も箇箇上疏して左衽の辱を免れむことを希望せり就中閔泳煥は侍従武官長の要職にありて宮中一派の疏首となり数次上奏する所ありしも遂に納れられざるや三十日朝自刃せり皇帝其の志を愍み諡号を忠文公と賜ひ其の忠誠を表す是に於て漢城内復一低気圧を醸成し同夜表勲院及鐘路に各千余の民衆集合し大道演説を為して熾に頑民を激励し時事を痛論せり我憲兵及警察官之を制止せむとせしに却て頑民の暴行に逢ひ負傷者を見るに至りたれば止むを得ず威力に憑りて之を圧服し煽動者百二十六名を捕縛し余衆を解散せしむ表勲院の称首者趙秉世は十二月一日朝勅命を奉じて其の衆を解散し門を出でむとして轎中鴉片を服して自殺せり震悼廃朝三日に及び国葬の詔を下して忠正公と諡し同時に閔泳煥の諡忠文公を亦忠正公と改めしむ
両忠正公の外前賛政洪万植亦十一月二十七日驪州に於て毒を仰て自殺し平壌徴上隊上等兵金奉学の縊死学部主事李相哲の変死等苟も当時死状の異様なる者に対しては一一破格の恩典を賜ふ其の衷情寧ろ憐れむべきなり今両忠正公の憤死前後の真相を参考の為左に摘録す
閔泳煥は李熈王の伯父にして準皇族の待遇を受く当時元老の首班にして侍従武官長たり宮中排日派の推す所となり時事に関し屡上疏を為せしも其の親近者に語る所に拠れば天下の大勢は既に新協約の止を得ざるに傾倒せり而して其の身は衆庶の代表者たり若し乃公の上疏にして容れられざらむか憤死以て天に訴ふるあるのみと遂に自尽す
韓国の上下目して大忠臣となすは其の自殺に短刀を以てせしに由るか爾後亦数名の憤死者を出したりと云ふ
趙秉世は前議政大臣にして当時の元老たり齢已に八十を超ゆ秉世新協約に反対して成らざるや故山に退隠して余生を楽まむと欲し京城を出発す其の女婿李容稙之を召還して曰く君国の為閔等と其の意見を同じうし閔は已に自殺せり然るに公は八十の高齢を以てして尚余命を維かむと欲するか宜しく閔に倣ひて処決する所あるべしと之に贈るに毒を以てす秉世答ふるに辞なく其の夜表勲院に至り時事の非なるを慨論し翌朝勅使の至るを見るや鴉片を服して自殺せり
要するに京城騒擾の原因は新協約の反対は一片の口実にして従来権勢渇望の徒互に相軋轢し不遇の境涯に在る者愛国的一大問題を好餌とし一挙して現内閣を覆し以て自己の党勢を張らむとする野心家の為に利用せられむとせしに過ぎざるのみ
駐箚軍司令官は十二月一日より二日に亘り騎兵連隊及砲兵大隊をして訓練院練兵場に於て絶えず発火演習を為さしめ各城門には憲兵を増置し又内閣各大臣の護衛及監視を厳にして変態発生の虧隙を与へざらしめたり
十二月三日新任警務使具完喜を拘禁して警務権の濫用を防止し韓廷をして元老李根命、沈相薫等五六の頑迷党の罪を責めしめしが李根命、朴箕陽及朴斉斌の輩依然治安を害するの行為あるを以て之を拘禁して各大臣の登庁執務を促し新協約の発表を勧告せり十一日李根命の坡州に退隠を許し沈舜沢のを安山に帰還せしむ朴定陽は病を以て没し頑迷の元老漸く凋落して復事を為すべからざるを見るや残留の徒輩偽的愛国の仮面を脱して身を新時代に処せむと運動するものあるに至れり十三日に至り各大臣登庁して京城の秩序始て旧態に復せり皇帝亦政界の趨勢を覚り十四日在外公使の召還を訓令し(駐英公使は十一月三十日清公使は十二月二日米公使は同八日独公使は同十六日撤退す)十六日の官報を以て新条約の全文を発表せり形勢既に定るや曩に頑迷派より五大賊として攻撃せられたる李址容鎔、李根沢、李完用、権重顕、朴斉純は連署して自鳴疏を上り条約締結始末を詳にし且つ之を新聞紙上に公表して其の冤を訴へ反対派の反省を促せしが反対派は闃として声なく復一人の之を云為する者なかりしなり
地方にありては仁川、水原、全州、大邱、蔚山、慶州、平壌、義州等に於て一字人身動揺の徴ありしも十二月末に至り沈静す
締結後については韓国の嘆き・抗議・自決・排日を参照
地方政況
二 韓国官民は帝国諸般の施設経営を以て其の独立を侵害するものと誤認し内心之を喜ばざる者多く常に日本朝野の議論又は些細なる事件にも視線を注ぎ疑心暗鬼を生じ浮説流言を伝へて人身時に安んぜざるものあるが如し。曩に東京早稲田大学討論会に於ける韓国皇帝問題は漸く各地方に伝はり韓人一部の激昂する所となり、中には十二三歳の年少輩にして出題者の姓名を手帖に記載し其の他出題者種々の方法を以て之を記臆に存せんとするものあり、又は学校生徒にして論文を新聞に寄するあり、或は檄文を各地に送りたる等各地方の人民をして一時浮説流言に迷はしめたるが如き状ありしのみならず一般人民の感情を害したること少なからざりし状あり。
三 過般来排日運動各地に起り我国人を嫌忌し我国の製品を排斥するの傾向を生じ就中平安北道義州方面に於ては頃日商店は一切日本製品の取引を為さざる規約を結び従来日本人と共同したる屠獣営業者は韓人専用の屠場を建築する迄屠獣せざるを約し市場に獣肉の販売者を見ざるに至りたるを以て韓国官憲に注意しもっぱら人心融和の法を講じたる結果其の規約を撤回し漸く商況の円満を見るに至りたり。
○「東京早稲田大学討論会に於ける韓国皇帝問題」について
四十年三月に発生した擬国会事件は、大学部政治経済学科学生の田淵豊吉が擬国会の議案として提案した「韓国皇帝を華族に列するの可否」が、韓国留学生の一斉退学により表明せられた非難を招いた事件である。
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC...
当時韓国には韓国統監府が置かれ、日本警察がいた。その報告
韓国警察報告資料巻の1(206〜238画像目)
韓国警察報告資料巻の1(206〜238画像目)
明治四十二年十二月一日印刷 ※1909年
韓国現時に於ける地方人心の状況
三、官民の日本政府に対する感情其他信頼の程度
官吏は日本政府の施政を秕議せざるのみならず日本人に対しては常に其徳沢を謳歌し日韓人合同席上に於ては日本の厚意を喋々するを常とす。然れども一と度韓人のみの会合なるときは忽ち一変して日本を罵れり。若し儒生両班にして日本人に倚らんとする者あれば之れ必ず猟官の目的の為めにして信服し来れるものにあらず。而して久しく貴族の暴政に苦められたる国民中の多数を占むる下層民に至りても表面新政の公平なるを喜び警察に信頼し進で訴を為す傾向を来したるも之亦衷心より謳歌し来るにあらざるものの如し。殊に三税実施以来韓国民の負担は日本人官吏の収入に帰するものなりと猜疑し慶尚全羅忠南の所謂三南地方は所在日本人移住し商業に開墾に種々の事業に着手する者多数なるより日本は口に韓国の指導啓発を唱へ陰に韓人同化を図り以て韓国併呑の野心を達せんとするものなるべしと唱導し耶蘇教徒中には将来韓国が独立を図り文明の域に進むには米国に倚らざるべからずとの思想を有する者多数を占め而して此思想は一般民に普及されつゝあり。
要するに韓国官民にして衷心より日本政府に信頼せんとするものは極めて少数にして現に全羅慶尚各道人民が日本人の行動就中軍隊の行動を秕議することに汲々とし或は新統監は武断派なるを以て其在任は韓国の利益とならずと唱へ黄海道平山鳳山兎山地方の如きは概して事の大小是非を問はず日本人官吏若くは日本人の介入を喜ばず平安道方面には公然韓国独立策を唱道するもの多々あり。各道到る処の人民が日本政府又は統監政治を批難せる新聞記事を読むに当り多数鳩首凝義するの風あるは争ふべからざる事実なりとす。
四、官民が日本官民に対する感情其他信頼の程度
イ 韓人官吏が日本人官民に対する感情
官吏は表面好意を装ふも多数は内心排日的思想を包蔵し殊に日本人が韓国官吏に任用せられたる以来日本人と雖も韓人官吏の韓人官吏の配下なりとの感を以て動もすれば排日的悪寒を転じて日本人を軽侮せんとし韓人官吏は互いに気脉を通じて日本人官民に城壁を築くの傾ありしが今や漸次日韓人官吏間融和の徴あるものの如し。而して日本人を長官とする韓国人官吏は待遇の切実なると事務の公平なるとにより自己の位地安固なる如く思念し服従観念明白なるの状あり。
ロ 人民の日本人官民に対する感情
両班儒生の徒は日本人官吏の増加に伴ひ其権力の喪失せるを恨み一般に危惧の念を以て日本人官民の行動を注意しつゝあり。
尚ほ韓国官民中には韓国は日本の先進国なりと誇るものあり、或は日本人と雖も官吏として韓国人の下風に甘ずるを見ては漫に畏敬するの要なしとの意を以て評するものあり、其見る処千差万別なりと雖も日本人官民の欠点を誇大に称して誹謗せんとし下層民にありては日本人の来住は物価の騰貴を来し生活上に影響する處少なからずとなし之を喜ばざるの状況あり。只だ慶尚南道にありて日韓人同友会を組織し以て土地の繁栄を図らんとする者を輩出せるは注意すべき現象にして各道暴徒の減退により秩序回復せらるゝに従ひ日本人官民を嫌忌するの趨向減少しつゝあり。
五、官民の韓国政府並に大臣に対する感情其他信頼の程度
一般民は統監府設置以来誅求聚斂を免るゝに至り又大臣の存在を云為する者なきと共に敢て信頼するの傾向もなし。反之有識者の多数は親日輩売国賊等の言を以て施政の殆んど全部を秕議し、或は曰く今日の大勢は大臣貴族と雖も如何とも為し難し挙国一致新学を勧め愛国歌を謳ひ愛国心を喚起して国家観念を国民に注入すべしと。又曰く内閣は新政に藉口して日本に保護を約し一身の利益を図(?)るに過ぎざる売国奴なりと。或は曰く万政一に統監の指揮に出で政府は全く独断専行の権を喪失せりと。又曰く政府の権皆日本人官吏の掌中に帰せりと。或は政府大臣等皆日本人官吏の鼻息を伺ひ大臣の職は虚位に過ぎず最早畏敬するに足らずとの説を為せりと。平安北道に於て宋秉監睇大臣辞任以来民心多少静穏に帰せるの傾あると咸鏡南道大韓協会員が朴内相を歓迎するの状あるを異とするのみ。
民心の状況前顕の如しと雖も地方官が政府大臣を畏敬するに至ては今尚往日と毫も異らず常に大臣に接近せんとするに汲々たる状態は各道皆其揆〔ママ〕を一にするが如し。
六、人民の観察使郡守に対する感情其他信頼の程度
地方官が人民に対する生殺与奪の暴権を行ふ能はざるに至り加之警察権全く喪失し今又司法権も漸次職権中より分離し去らんとするより威権殆んど地に堕ち亦往日の如く人民は毫も畏敬せざるに至れり。殊に慶尚北道地方に於て裁判所が検挙し盛んにするより地方官吏の非行を発見したる人民は之を奇貨とし直に訴を為すの風増長せられつゝあり。又韓人官吏が日本人と交際をなすときは之を誹謗し咸鏡南道徳源府尹を目して日本党と称して排斥し或は平安南道耶蘇教徒等排日的行動を為す徒は観察使を日本化せりと罵り一進会員は農事試験場寄付金失敗等を数へて観察使を批難し全羅南道一部者は観察使以下韓人官吏は日本人官吏の頥使に甘んずと批難し黄海道に於ては人民郡守の処分命令を肯ぜず其不法巡査駐在所に訴ふる等の例あり、反之京畿に於ては人民漸次観察使の至誠に感じ江原道に於ては人民観察使が実践躬行殖産の奨励に尽力するを見て其徳を頌する者あるに至れり。
(七〜一一は省略)
一二、両斑平民相互間の感情
両斑は社会組織上優等の地位に居り官職は殆んど世襲の如くし平民を見ること恰も奴隷の如くし威権を擅にし民財を横奪するを当然の如くせり。平民又両斑を畏敬し之に事ふるに順柔なりしかば両斑の徒は大平を夢み亦時勢の推移に注意せざりしに近時官吏は多く下等社会より輩出して遽かに権利平等を主張するより今将に社会組織は自然に崩壊せられんとするの状況にあり。之を以て忠清江原平安道に於ては両斑平民間相軋轢せんとするの徴あり、其他の各道に於ては未だ斯る状況なきも民財掠奪を特権の如く思惟せし両斑の権利は何れも其跡を絶てり。為めに両斑の徒は一般に新政を喜ばず。両斑の権力消滅は日本人の居住する地より起り僻邑にありては今尚平民より大なる尊敬を受け思想界の中心にして此潜勢力は未だ容易に絶滅せざるの状あり。
一四、官民の耶蘇教に対する感情及入教の動機並に盛衰
中流以上は今尚ほ儒教を報じ耶蘇教を厭ふの風あり現今耶蘇教徒の多数派下層者に過ぎず、偶々両斑等にして入教するものあれば新政に対する不平者或は其犯せる罪過を免れんとするものたるに過ぎず。然れども両斑儒生の徒も漸次接近し仮令進んで入教するの意なしとするも亦敢て悪感を以て迎ふるが如き状なきに赴くの傾向あり。
入教の動機は概ね其勢力を藉って権威者に対抗せんとするにあるか或は官吏の誅求を免れんとするにありて千差万別なりと雖も耶蘇教が盛大の因を致したるは日露戦争にして各道中最も盛大なるは平安道なりとす。彼の平安北道定州郡の如き現今約二万の信徒を有し各部に冠たるものあるも日露戦争当時は僅に定州に微々たる一個の教会堂ありたるのみなりき。当時宣教師等は韓国は将来日本に併呑せらるべしとの口実を以て其災厄を免れんと欲せば耶蘇教に入り其保護を受くるに如かずと巧みに排日的言動をなし此説痛く韓人の歓迎する処となり多数の信徒を吸収したるに由るものとす。各道の布教状況も概ね之れと同一なり。而して爾来数次の日韓協約の成立を見たるより益々米国宣教師の先見に服し尊信するに至り韓人をして将来倚って以て独立を図るか若くは慈愛に富める誠実なる保護所謂人道上の保護を為すものは米国なりとの感念一般に普及しつゝあり。之れ米国人経営の耶蘇教が歳と共に旺盛となり英仏人の経営する耶蘇教を凌駕するに至りたるものとす。然れども信徒の出入常なきのみならず中流以上者の多数を信徒に網羅せんとするは未だ容易に成効〔ママ〕の見込なきものの如し。
一五、(省略)
一六、政社其他の会の状況会員の行動及官民の会に対する感情(221枚目〜)
一進会(※親日団体)は各道全く萎靡沈衰に陥り平安南道の如きは会員中一進会を口にするだに避くるの風を生じ全羅道に於ては会員中大賊の群に投じ或は猥りに人の財物を恐喝取財し漸く生活の資を得んとする者あり。黄海道は一進会員皆な侍天教徒にして殆んど無資無頼の徒多く弊害尠少なりとせず。要するに一進会員は概ね下層者が一時会勢振興の時に呵咐し漫に親日を標榜して民財を掠略し深く良民の怨恨を買ひたるに当り偶々暴徒蜂起し大打撃を受け僅に其名を存するのみの悲境に遭遇せるものとす。其偶々暴徒討伐上便宜を致すの観あるも之に伴ふ弊害却て甚しきものあり。咸鏡北道は一時一進会道の勢力中心となりしが弊害益々滋く為めに暴徒の攻撃に遇ひ殆んど全滅の状ありしが近時官民中入会する者を生じ較や復興の望あるに至りしも未だ行動するが如き域に達せず。
大韓協会は各道を通じ会員中流以上者に属し会員少数なりと雖も一進会を凌駕せんとし平安南道の如きは一部の民心を支配するの潜勢力を有すと。然れども全道僅に五十内外の支会にして会員又六千を出でず一般より見るときは会勢不振の状況にあり。全羅北道の会員が施政改善国民教育を唱導し地方民を益すること少なからざるものあるも咸鏡北道の会員は殆んど皆露領に根拠を有する暴徒と通じ其物資の供給密偵等を事とせしが支会首脳者を逮捕処分せし為め土崩瓦解せり。
要するに大韓協会は未だ全国に周ねからざるを以て一勢力として見る能はざるも社会の中流者を会員に吸収し又其会員の多数は排日的傾向を有する注意人物なり。其他の会としては京畿の畿湖興学会忠清北道の商務会忠清南道の大韓労働会大韓実業会江原道の関東学会黄海道の大韓労働界帝国実業会平安南道の自正社平安北道の商務●実業組合等あるも殆んど有名無実の団体たり。西北学会は平安咸鏡黄海道に根拠を占め耶蘇教徒と提携し学校を興し遊説を為し会の拡張に努むるも見るべき効果なきの状あり。反之黄海道の紳商社平安北道の定州商務会は殖産興業の発達商業上の利害共通を目的として組織し将来有望の会たり。其他平安南道陽徳郡儒生及有力者を以て組織せられたる郷会は郡政を論評し郡守の諮問に応じ(?)有力の会たり。観人は団体結合に狂奔するの癖あり、近時国権回復設と共に国民の合心団結を説く者続出せり。然れども其組織は必ず野心の欲望に出弊害あるを常とす。
一七、(省略)
一八、韓国民の愛読する新聞又は書籍及其の感化の状況
韓人の使用する書籍は史記通鑑の類にして論語孟子等は専門的書籍として儒生等の使用するにあるが如し。新刊物としては欧米建国又は亡国史を愛読す。而して各道を通じ其最も歓迎せらるゝものは米、伊、瑞西国の建国史安南波蘭亡国史東国史略にして之を韓国の現状に比して耽読するにあるものの如し。又新聞紙にありては大韓毎日申報独り各新聞の数十倍の読者を有す。新聞中購読者の最も少なきは大韓新聞及国民新報なりとす。雑誌にして各道に購読者を有するものは教育月報及少年等なり。其他の畿湖興学月報は京畿忠清に西北学会月報は黄海平安咸鏡に湖南学報は全羅に嶠南学会雑誌は慶尚道に購読者を有す。又大東学会の雑誌の購読者は殆んど京城に止るものの如し。
新聞雑誌の感化としては特に記すべきものなし。建国、亡国史大韓毎日申報の如きも所謂悲歌慷慨の極之を愛読すと云はんよりは韓国の現状に比し好奇心より迎るものの如き観あり。就中大韓毎日申報購読者にありては日本及政府要路者を罵るを快とするにあるが如し。然れども全羅南道暴徒首魁金聿は大韓毎日申報により暴徒を起したることを自白し又同新聞が安奉問題に関して日清開戦説を掲げ為めに平壌市場清韓人取引に恐慌を来さしめたる最近の実例あり、以て其影響が看過すべからざるものあるを知るべし。今左に愛読者多寡の順序により種類を掲ぐべし。(以下略)
「秘」凶変(※伊藤博文殺害)に対する韓国民心状況
今次の遭難に対する地方民心は既報の如く韓国民上下を通じ一般に重根の凶行を壮挙とし内心歓喜するが如き状あり。其著しきものは京畿冨平郡私立桂昌学校教官朴秉斌は二十七日哈爾賓に於ける凶変を聞くや大に喜び当時疾病臥床中の教師任章淳に告げたるに任は蹶起して安重根を称揚し同僚趙竜培三名と共に趙方に祝宴を開き日本人教師竹末簾(?)を招待せしも其応ぜざるや再三再四列席を求め又同道通津郡奉城面公学校職員は十一月一日開校式に藉口して遭難に対し祝杯を挙げ仁川羅馬加特力教に属する韓人牧師李考鉉、金尚沃、林海観等は二十七日夜信徒二十四名と共に遭難祝賀会を開き同教宣教師仏国人デヌーは同教付属博文学校に於て生徒に対し、今回の遭難は東亜は元より欧州各国に平和を来すは勿論韓国々運の為め最も喜ぶべき事件なり、速に加害者の無罪と幸福とを天に祈るべし、と告げ、相共に祈祷したりと。黄海道に於ては十一月一日海州邑東門外高昌周方に有力者多数集合祝宴会を開き其席上呂万変なる者、伊藤公を暗殺したるは同胞なりと、我国人尚此の志ありと云ふや、金得五なる者は、今回の事たる之を耳にし誰れか快哉を唱へざらんや、然れども今は警察の在るあり、漫に口外すべからずと戒め多衆口を噤して黙念たりしものありと。平安南道平壌に於ては十一月四日国葬式当日李殷弁(?)なる者日韓国旗を門戸に掲げて吊意を表するや隣家美以教に属する耶蘇書肆太極書館より同教の有力者安泰国等出て来り伊藤公の葬儀に韓国々旗を掲ぐる要ありや、思ふに国家観念なき者なるべし、と罵り、平安北道義州方面に於ては公の遭難は韓国独立に利益を来せり、凶行者は実に愛国忠君の士なりと一般に称揚すと、同路竜川府尹金祥演の通信によれば義州地方民心を推究するに内心凶行者を追慕称讃し表面凶行の結果日本に併呑せらるゝなきやを憂ひつゝありと、以て該地民心の如何を知るべし。忠清南道咸鏡北道に於ては表面哀悼の意を表し内心凶行を歓迎するの状あり、咸鏡南道に於ては十月二十八日元山里李大和方に金春遠、李圭植、朴東根、沈俊澤等集会の席上春遠は、吾人は「ウジ虫」同然にして国権回復の計立たず凶行者は真に忠国者なり、と称揚し圭植、東根は忽ち其言に讃し、此志ありて初めて国権回復すべし、と云ふや氏名不詳者傍らより此の凶事たる必ず韓国を悲観に陥るものなり、徒らに凶行者のみを賞すべきにあらずと告げたる事実あり。又咸興大韓協会支会長は、公の遭難は気の毒なるも老年なれば是非もなし、と評せり、又京畿路冨平人にして元冨平郡守たりし李明憲は伊藤公を暗殺するも日本の対韓政策に変更を来さゞざるのみならず却て何等かの要求を受くるの基を為さしめたり、徐丙與尹百憲等は凶行者は韓国擁護の赤誠より出たるものならんも斯る行動は韓国を危殆に陥るものなりと嘆じ平安南道平壌耶蘇教徒中の有力者金有鐸は伊藤公は老年にして余命決して永からず然るに今凶害を加へ遂に韓国に不利を招かしめたりと、大韓協会支会長金亀禧は伊藤公を殺害するも日本の覊絆を免るゝに由なし、然るに今之を殺害し却て伊藤公を世界の大人物たらしめたりと嘲りたりと。反之慶尚北道大邱尹大変、姜永周、金英斗の三名は民間より十三道代表者を東京に遣り凶行者の行動は韓国民の意思にあらざることを発表謝罪し以て国運を未倒(?) に防ぐべしと唱ひ各道孔子廟付属役員に書面を送りたり。尹等の此挙は誠意に出でたりと云はんよりは寧ろ名利の為めにあるものゝ如し、即ち尹大変は清道学校教師にして日本人経営に係る大邱新聞社に屡々出入して同社韓国文新聞記者たらんと希望中の者なり。金栄斗は一進会大邱支会長にして姜永周は其会員たり。而かも東洋実業奨励会顧問と称する三浦庄三郎の意見に聞き発起したる事実あり。其勧誘文に対する各道の意見は現に取調中に属す。其他皇帝は軍司令官に勾引抑留せられたり、或は謝罪として日本に拉去せらるべしとの評説は各道同一なり。
要するに各道民心の状況は内心之を歓迎し表面哀悼の意を表し極めて少数の有識者と雖も内心凶行を歓迎することは其揆〔ママ〕を同ふす。只其異なる処は凶行にあり韓国遂に併呑せらるゝなきやを憂惧するにあり。然れども中流以下の多数人民にありては遭難に対し何等の感想なきものゝ如し。
尚ほ京城に於ける最近の民心状況左の如し。
初め前統監遭難の報伝はるや京城の韓民拍手して喜びたるの状あり。大韓日報が剣を取って起つべしとの記事を掲ぐるや韓民下流社会に至る迄倭奴何をか云ふ在韓日本人との個人間の争闘なるときは必ず勝を制すべしと傲語する者あるを見たり。最も事理に通ずる一部少数者間には一面凶行を喜ぶと同時に一面には之が為め日本の対韓政策に激変を来たし遂に併呑の厄に陥るなきやを憂ふるの状ありしと。然れども其喜憂も暫時にして十一月四日奨忠壇追悼会の如き李完用等が専ら奔走して参会者を勧誘し成立せしめ又李学宰なる者伊藤公爵頌徳碑建設を名とし自己の主宰すと称する各道商務組合所に寄付金の勧誘状を発したり。然れども其企ては決して真意に出るに非らず、建碑に藉口して私利を図らんとするものあるものゝ如く韓民又李学宰等の性行を知悉するより冷笑して之を迎ふるものゝ如し。又金聲根(正一品輔国前大臣)、南延哲(正一品前大臣)等が発起し日韓両国皇帝陛下の御真影を奉安する紀念堂を設立して皇上の聖意を仰体し日本国天皇陛下の聖徳を賛誦し以て百年後に伝ふる為め一●の碑を建て韓国臣民の微誠を表すべしとなし南延哲起草して既に趣意書を作成せり。然ども之れ又真意に出るに非らず。即ち日本の対韓政策の鋭鋒を避け併せて他日自己権勢の立脚地を造らんとするにあるものゝ如く、而して李完用は其背後にありて之を操縦するものなりと揣摩するものあり。従って韓民多数の歓迎する所とならず結局不成効〔ママ〕に終るべしとの説あり。
十一月四日追悼会には七十八校約二千名の生徒参会せしも之れ元より政府要路者勧誘の致す処にして進んで参会したるにあらざるものゝ如く其勧誘に応ぜざりし学校中南部長洞(米倉町)所在耶蘇美以教付属学校にありては教師金●、李東寧及同教牧師全悳(?)基等は参会の勧誘を受くるや伊藤博文は韓国彊土(?)を亡ぼしたる大寃讐なり、其喜ぶべき死に対し焉ぞ学生を率ひて追悼会に参列せんやと罵り遂に不参したるのみならず更に同教が遭難追悼会を営まんとするの議あるや全悳(?)基は米国宣教師(ハリス博士とも云ふ)に面会し果して追悼会を開催すとせば韓人は全部脱教し一人の信徒をも存せざるに至るべしと主張し其議を中止せしめたりとの説あり。一進会機関国民新報社長崔永年は韓国官庁の発起せる追悼会は成立せるも民間の主唱に基く追悼会未だなきは日本に対する真情吐露の道を尽さゞるものと云ふべしとなし韓人経営各新聞主催となり追悼会を開催すべき議を提出するや、大韓新聞、漢城新報同意せしも大韓協会機関大韓民報は十一月四日追悼会は官庁のみの経営にあらず官民共同の追悼会にして韓国民は全部参会せり、而も再び開催するは理由なしと主張して反対し大韓毎日申報帝国皇城両新聞皆な之に和し盛に崔永年の計画を攻撃せるより、崔は敢て他新聞の力を待つに及ばず独力開催すべしと唱へ十一月十四日東大門外に於て追悼会を開催せるに大韓毎日申報、大韓民放、帝国皇城両新聞は遂に参会を為さゞりき。近時大韓民報は排日的言論を紙上に掲げ却て大韓毎日申報より甚しきものあり、之れ蓋し巧みに民心に投じて排日的思想を挑発せんとするあるが如く該新聞の記事は能く現時の韓国民意を発揮するものなるが如き観あり。
西北学会員は凶行嫌疑者として李甲安昌鎬等が逮捕せらるゝや凶行に関係なき事実明かなる無辜者を漫に逮捕せるは日本が横暴を逞ふする証拠と云ふべし、如此んば韓民生色なきに至らんと誹謗し会員韓増竜の如きは統監府に攻撃書を贈り併せて其是非を世論に訴へ憲兵の処置不当なりとせば多額の要償金を懲出せしむべしと唱へ会員一同に勧誘せしも其挙は尚早しとなし賛同する者なかりしと。
要するに凶行を歓迎せることは早く既に過去に属し今は只だ日本の対韓政策が威圧政策進んでは併呑政策に変化するなきやを憂ひ韓国は遂に日本に併呑せらるゝに至るべしと推し現に韓国号を廃し皇帝を王と改称し大臣観察使は日本人を以て任用することゝなるべし等の流説を生じ只管日本将来の対韓方針を知らんと勉め凶行の結果を憂慮するの状ありて之を公言する者多々あると同時、に韓皇陛下謝罪の為め日本に渡航すべしとの説に対しては西北学会、大韓協会、員中には果して事実なりとせば極力反対すべしと唱ふる者あり、然れども一部者中には此凶行を利用し現内閣を更迭せしめんとし統監は李総理に辞職を勧告したり、或は李完用は凶行を前知するの理あり故に其時日発覚し統監より辞職を強命せられたり等の流言浮説を放つ者あり。
朝鮮農会報1935年11月号(9巻11号)
始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録
時日 昭和十年十月一日 自午前九時至午後七時
会場 京城銀行集会所倶楽部
佐藤政次郎(元朝鮮総督府道技師)
御承知の通り明治三十七、八年(※1904、5年)の頃から内地及朝鮮の官民の中に、棉花を朝鮮に栽培するがよいと云ふことが論議され、この事業が実際に行はれることになったのは、明治三十九年からでありますが、私は三十九年の五月にこちらに赴任致しましたが…そうしてこの事業を本格的に拡張するために臨時棉花栽培所を設立されるや私はこれが所長となり前後三四年間この事業に携はりました。棉を三十九年に奨励し出した時には、全力を全南に注ぐと云ふことになってゐて、それ故に棉作所と云ふものを全羅南道に置いた訳であります。棉作所と申しましても、試験場のやうに棉作所で作って試験をするのではなく、悉く全部を農民に作らせる指導機関であります。
棉花栽培奨励の最初の頃
ところで今申しますやうに、日本と韓国の有志が諒解の下に遣ったと云ふのですけれども、実際に当って見ますと、地方官憲に於いて心よく思って呉れる人はなかった位で、況んや農家の如き直接関係を有する者には、こんなものを作って果してどの位ひの経済になるだらうか?と危ぶんだのは当然でありますから、時には拒絶的な態度に出ることもあり、予期せざる困難に遭遇したのであります。…
生死の巷に出入した指導職員
かやうに農民と、指導者の私共との間によく連携がとれてゐなかった一方、当時暴徒とか、或は義兵と称する一団が横行して、日本人と見ると殺害するといふ、治安状況でありましたから、私共も田舎に出掛けるには警察官に護衛せられて参る始末でありますが、それよりも危険なる地方に散在する棉採種圃の職員諸氏の苦心は想像以上でありました。
現に全南霊岩郡の棉採種圃は、千葉喜千彌氏が開拓し、その後を継いで繁野秀介氏が経営してゐましたが、明治四十二年三月二十四日の夜半、義兵と称する約三十名よりなる一団の襲ふところとなり、これに就いては私よりも詳しく繁野さんからお話になることと存じますが、私は軍服生活を一寸でも遣った経験がありましたから、少しは心得てゐますので、常に暴徒に襲はれたらあはてて立って騒いでは却って、頭部や腹部を弾丸が貫通する危険があるから、伏して畳なり、布団なりに隠れて敵の出方に依りて応戦した方がよいと日頃から話してゐましたので、その通りやったと見えて、死傷者は一人もありませんでしたが、事務所と倉庫を焼れたり散々な目に遭ったのであります。(33頁)
辻善一(不二興業社員)
私は明治四十三年(※1910年)の三月に朝鮮へ参ったのです。而して直ぐ全羅南道に赴任を命ぜられ、仁川に三月末までゐて、木浦に四月行ったのですが、当時は日韓併合の直後でありますから、例の朝鮮軍隊の解散兵が暴徒化して、日本人と見れば皆殺すといふ騒ぎの頃でありますから、私等も村田銃を持って居ったものであります。かやうな訳でありますから、私等の棉花試作所には守備兵が六人程も居ったのですが、(36頁)
でも私は幸ひに暴徒の襲撃は受けませんでしたが、出張するときは始終憲兵二名位に護衛されてゐたのでありまして、(38頁)
繁野秀介(朝鮮縄叺協会主事)
私は明治四十一年(※1908年)から昭和七年(※1932年)迄、農業技術員として、在勤致したので有るので、渡鮮以来併合に至る迄の情況を簡単に御話し致して見たいと思ひます。
私が初めて朝鮮に参りましたのは明治四十年(※1907年)十一月で、水原の勧業模範場に農事見習生として参りましたので…
暴徒撃退の応援に出張命令
其当時は暴徒の横行が甚だ盛でして、試験場の近く迄出没して居る有様で、光州の棉採種圃も襲撃せらるゝとの話で直ちに銃器弾薬を持って光州へ応援に出張せよとの命令を受けましたが、未だ湖南線の鉄道も出来て居らなかった時で交通は至て不便でしたから、木浦より艀舟で栄山浦に渡り、羅州、南平を経て光州へ行たものであります。丁度羅州の東門に差し掛ると斥候の騎兵二騎に出合ひまして、其の騎兵の云はるゝには、今此処は暴徒討伐の戦闘区域内で危険であるにより同行せよと云ふ事で、騎兵に付て馳け出ました訳だが、何分にも腰には多くの弾薬、肩には銃を担って居るので思ふ様には走れず、終に日が暮れて参り南平で騎兵を見失ひ、夜路を南平付近の朝日農場と云ふのが在りまして、其処に辿り着くと、其の農場は篝火を燃き夜警して暴徒の襲撃に備へて居る始末で、此処に一泊して翌日四方の山々に銃声を聞きつゝ光州に着きますと守備隊は全部出動し光州は大騒ぎでした。
棉採種圃は周囲に土嚢を築き、防戦の用意をして居りました、其の数日前には光州の佐久間農場が襲撃せられ場員に死傷者を出して居り、兎に角棉採種圃に銃器弾薬を渡し急ぎ帰途に就きましたが、栄山浦に参りますと守備隊の大舞台が宿営して居りましたので甚だ心強く木浦に帰りました。(38-39頁)
夫れからその当時の我々技術者は銃及ピストル等を携帯して……最も此の銃器は官給品で在ります……指導奨励に従事したのであります、何故銃器を携帯したかと申しますと、其の当時は暴徒の横行が盛んでありまして、いつ何時、暴徒の襲撃を受けるか判らないからでした。
暴徒にも色々種類がありまして、其の時の政府に反対して徒賊をなすものを義兵と称へ、又た火賊と申しまして直ちに火を放ち掠奪するもの、夫れから各地の鎮営隊の解散兵が暴徒に変化したものが有りました、之れ等の徒が何時我々を襲撃するか判りませんので、今申し上げました通り付近の農民は能く親んで危険があれば直ぐに知らして呉れました、少し遠距離となりますと頗る危険でありますから、昼は終日指導に従事し、夜は農民を集め講話を致し、就寝する時は里長の宅か又たは酒幕で銃を抱へて壁に寄り掛った儘、転寝をして暴徒の襲撃を警戒しながら宿泊したのであります。翌日はま又た指導し、夜に入り帰所すると共に本所に報告書を書き、暴徒を警戒しつゝ殆んど日夜其の事に当たものであります。…
賊団の襲撃に銃火の洗礼
明治四十二年三月廿四日でした、夫れ迄は毎日、暴徒襲撃に対する夜警に銃を肩に所員交代で致して居りましたが、其の日は大暴風雨でもあり、連日の劇務に疲れて、所員一同早く就寝致しました処、間もなく午後九時過ぎと思ふ頃、俄然、轟然たる銃声に驚き一同目を醒すと、事務所の西方に、約三十名程の暴徒の一団が堆肥に凭り、散開して軍隊式に猛烈に一斉射撃を致しますので、弾丸は戸障子を破り、身辺には霞の様に飛来し、屋内は弾丸が土壁を貫通する毎に壁が落ち濛々たる土煙りを挙げ、それに銃火が映じて実に凄惨を極めたものでありました。
所員は直に備品の銃を執って、戸障子を隔てゝ発砲、防戦を致しましたが、何分にも暴徒は数が優勢であり、交戦すること約三十分位で我々の銃は何分にも猟銃の事でもあり、連続しての発砲の為に銃身は焼けて持つことが出来ない程に熱し、射撃を続けることが出来なくなりました。すると賊徒は松の枯葉に点火して事務所に放火しましたので、衆寡敵せずとし、一同は終に死を決したのでありました。この死を決した瞬間には近親の者の顔が順次に眼前に判然と浮び出た様な気が致しましたのは不思議でありました。其の内、暫し銃声が止みましたので、所員一同は死なば諸共と約し、血路を開く可く屋外に出ますと、再び一層猛烈な銃火を浴びせ掛けられましたが、幸に身に一弾も蒙らずに身を完ふした時に初て非常に恐怖を覚へました。其の時の焼け残りの無数に弾孔のある雨戸、暴徒の使用致しました軍銃、火縄銃の弾丸、薬莢等は今も尚ほ勧業模範場……現在の農事試験場に保存してある筈と思ひます。(40-42頁)
兵頭一雄(全南、営農)
たゞ今もお話ありましたが、光州の佐久間農場も暴徒に襲撃されたといふことも当時聞いたのでした。これらの暴徒といふのは、韓国の解散兵でありましたが、それ以前、明治四十一年(※1908年)から二、三年の間、あの全南の山地々帯に身を潜めて各地を荒して居ったのであります。私が四十二年の春、農場に入りますと同時にピストルを下げ望遠鏡を肩にして丁度、兵隊同様に軍人精神を横溢させて通訳を伴れて行くのでしたが、或る日のこと向ふの山を見ますると、遥か彼方を朝鮮人が二、三十人も向ふの山の方に進んで行くのであります。そこで匪賊か暴徒の出現でないかと思ひまして、望遠鏡を片手に通訳に早く随って来んかといふけれども「私は恐ろしいから!」といふて容易に進まないのであります。そこで通訳をその儘にして行って見ると、暴徒でなく担軍(荷物の運搬人)が並んで仕事をしてゐるのでありました。かやうに担軍が仕事をしてゐるのを見ても恐しいやうになってゐたのであります。全く当時の全南を開拓致しました各農場及び役人の方々は、今日の恰も満州に於ける移民のやうな気持、状態と同じだったと思ふのであります。(42-43頁)
久次米邦蔵(京畿、果樹栽培)
私が韓国政府に招致されましたのは、明治三十九年(※1906年)五月、韓国の隆煕元年統監府開始と同時であります、其の任務は園芸作物に関する機関の施設並に指導奨励にあったのですが、(47頁)
部落の人心日に日に悪化
用地の買収を終り、敷地の整理に周囲に鉄条網を張り、内地から先送してあった苗木を仮植したり、事業が進捗するに連れて部落民にボツボツ排日的傾向を呈し、毎日構内の揚柳を伐ると称し、十数人の者が斧を手に侵入して来たりして、場内は以上の緊張を呈した次第です。斯くの如き場合でも私は通訳を通じて説諭し、それでも退去しなければ直ちに縛り上げるぞ、と威赫したりして兎も角、事なきを得て居りました。
斯くの如き空気の裡にも親日の鮮人はありました。彼等は夜中人目を避けて来場し、頻りに文化の進んだ日本内地の事情を聞いて喜んで居りました。
私は明治四十年の春から十月まで病気で別府に行き留守にして居ましたが、留守中既に夜間に大勢で場を包囲して烽火を挙げたりして形勢頗る不穏であったので、場員家族の婦女子は朝鮮輿に乗せて、窃に京城に避難させた位であります。
更に同年の冬になると纛島の川向ふの奉恩寺に暴徒千余人が潜入して居て襲撃の機を狙ってゐる、といった警報が頻々と耳にしました。其の員数の多寡は兎も角として、銃器を持って潜入してゐることは事実でありましたから、後日の万歳騒ぎなどとは比較にならぬ程物騒でした。
頻々たる暴徒の襲撃事件
翌四十一年の六月上旬の或る日曜日に、山の中に銃声がして旺んに白煙の挙るのを見ましたが、最初は演習位日に思って居ると、次第に実弾が飛来し、鮮人が逃げ回るので愈々容易ならぬことゝ思ひ、事務所に帰り居残った女中に重要書類を持たせて逃げさせやうとしても、頑として応じませぬ、そこで私は弾丸三発と銃を持ち、日本刀を帯にして場外に走り出し麦畑の中に付し暴徒が柵を越ゆるのを狙撃しやうと待ち構へて居ると書記の某歩兵予備中尉と砲兵予備曹長が場外から引返して来て実は新に警備に来た、日本兵が何かの間違ひで発砲したことが判り一安心したのです。
私が其の頃、毎日没に三四十分程付近の山猟に出掛けて居ましたが、同四十一年の冬頃、或る日付近の鮮農……人が来て、七八町先きの山腹の山寺に暴徒が百余名も潜伏して付近を荒し回って居るから、猟は罷められた方がよい、と言ふので私も山猟は罷めて居りますと、二三日して日暮れ入浴中、突然面長が来訪し「御機嫌伺ひに来た」と言ふ許りですから、何かあったんでないか、と尋ねますと「暴徒は怖くないか」とか「何時来るかも知れん」とか言ひ棄てゝ一目散に逃げて行ったので、私も丁度、付近に駐屯して居る騎兵隊に申告し、其の夜は五、六挺の銃に弾丸を詰め警戒し乍ら寝ました。
暴風の夜半、日本人襲はる
丁度、その夜は西風が強く吹き、室内でも談話が困難で在りました。丁度十一時頃に部落内の日本人夫婦の家を襲ひ、男を銃殺し、二十一歳になる産後二ケ月程しかたゝぬ妻女を頭目数人で輪姦した上に拉致した騒ぎがあり、未明にこれを知った騎兵と警官隊が追撃しましたが、遂に見失ひました。然し直ちに捜索に向った一隊は、山寺の内で博奕を打って居る賊団を発見し、交戦の結果、馬三頭と銃十一挺を捕獲して引揚げました。一方、部落で暴徒に射殺された日本人男子の死体は、自分等の手で漢江の河原で火葬に付して居りますと妻女が帰って来たのです……それは同人夫婦に傭はれて居た鮮人が、四円で暴徒から買取って帰ったと言ふのです。
また或る夜、場員が一室に集って雑談をして居ると、部屋の外で異様な呻き声がすると同時に、障子に人が倒れたのであります、これは日本人の男子が部落で狙ってゐた暴徒に射繁〔ママ〕され血に染りつゝ吾々の居る所にまで辿りつき人事不省に陥ったのであります。兎に角、この頃の物騒千万な事柄を話し続けるなれば限りない程沢山あります。(50-51頁)
福島百蔵(京城、果樹栽培)
ところが長谷川閣下の時分にあの万歳騒ぎがあり、その後は昔と変った随分、おなさけある政治が行はれて以来、急激にこの生徒の気分は一変したのであります。要求を容れないとストライキをやると云ふ具合で、忽ちに同盟休校の風習は全鮮を風靡して了ったのであります。学生の気分と云ふものは斯く迄急激に変るものかと私はつくづく感じたのであります。(91頁)
安岡荘蔵(黄海道)
私が朝鮮に参りましたのは明治四十三年(※1910年)の四月でありました。丁度其の時が各道の勧業係に農業技術を解するものを配置せられた初であったのであります。京城に参りまして聞きますと私の任地は黄海道観察道と云ふ事でありましたが、黄海道が何処であるか知らぬ私は早速地図を買って調べて見ると京畿道に接して居りますから、「占めた!」と思って早速、農商工部に勤務の友人に話しましたら、「ソリャ大変だ黄海道は全鮮有数の未開地で、危険此の上もなき処で、種苗場にも時々虎が飛び出し道内一円亦暴徒の巣窟だ」との話に驚き…然し暴徒の激しかった事は御話し以上でありまして、観察道所在の海州に於てすら夜間は男子でも町端れに行く場合は独り歩きは禁じて居った位で、南門の鐘が鳴ったら内地人は凡て南門に集合と云ふやうな申合せを致して居りましたやうな時代もあります。随って奥地に於ては何々憲兵がやられた。何々土地調査局員がやられた。某山に暴徒の集団が現はれたと云ふやうな噂は殆んど毎日耳にしました。丁度昨今の満州国の一部では是れと相似たる事が多からうと思ひますから、彼の地に活動して居らるゝ人々に対し御同情申上ぐる次第であります。然し此の時代には凡て緊張味を帯び官民ともに非常な意気込みでありました。
以上のやうな実情でありましたから、官吏が出張命令を受けたら、第一に憲兵隊に赴き護衛方を依頼し所謂宿送りと云ふやうな有様で旅行し、郡庁所在地以外に於ては憲兵分遣所に泊めて貰ふのでありまして、憲兵さんには常に御世話になったものであります。(98-99頁)
山口賢三(慶北)
翌四十五年(明治45年=1912年)の一月私は慶北一の山奥奉化郡へ蚕業巡回教師としてやられました。当時の郡庁は春陽といふ所の両班の住宅を利用してゐたが、前任者の某君(特に名を秘す)は当時暴徒が出て、守備隊や憲兵隊はあっても小川面長を殺し、或は春陽普通学校の生徒が元暴徒の一味で今日本人の学校へ入るといふ事は仲間を売るものとして、裏山の松の木に括られて殺銃〔ママ〕されたりして、仲々物騒な時で、前任者は屋内深く鮮服を纏ひ長煙管で煙草を燻らして一歩も外出しない、遂にはホームシックか何かで辞めてしまった後釜なので、誰れも行きてがなたい〔ママ〕為めに乱暴無比の私が其選に当ったのです。(102頁)
アジア歴史資料センター・レファレンスコードC01004253900(23画像目)
「極秘」
別冊第二 昭和十二年六月 調製
朝鮮人志願兵制度に関する意見
朝鮮軍司令部
・・・半島民心趣向の善導は現下に於ける重要焦眉の大問題たるを失はず。然るに今静に半島統治の現況と之に対し滔々として隠然底流する朝鮮民族の反撥(原文旁「発」」、自棄的思想の儼存を看取するとき、吾人任を朝鮮の防衛に承くるもの断じて晏如たる能はざるものあり、・・・
