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それは日本側が韓国に勧めたもので、朝鮮政府は乗り気ではなかった。

当時の花房義質京城公使の報告書
日本外交文書デジタルアーカイブ第14巻(明治14年/1881年)の「9 朝鮮関係雑纂」中の「1、鎗銃隊創設ノ件」
鎗銃隊之創設
兵制改革の忽にすべからざるは先年以来追々勧誘候得共常に言を左右するのみにて承諾の色も無之候処視察員の派出に至り少しく動く所あるが如く見受候得共我に対しては未だ何等確答もあらざりしに昨年信使随員として東京に来りし中軍尹雄烈は武衛営の別選軍官に在て其性忠実且武事に篤志にして国王殿下も信任し親しく其言を聞るゝ人の由なるが春来屡堀本少尉の所へ来訪して質問等も致候故我よりも亦深く勧誘する所ありしに其同僚忠武且営参奉金魯莞と共に王命を奉じ試に先歩兵一小隊編成の儀内決したれども政府にては先づ清国に告ざれば不可行教師を迎ふるには清国に謀ざるべからず等の論あり廷議難決に付拙者より政府を鼓動致呉度との内談有之に付京畿観察使並に礼曹判書に面話して之を促し尚別紙甲号を軍務司経理並に礼曹判書へ相送り其忽にす可らざるを説き且特に教師を迎るの議未決ならば先づ我館僚堀本少尉を延て錬修せば時月を曠待するに勝るべき段相勧候処乙号の通堀本と商議すべき段答書を来し即日去九日より慕華館清国冊封使送迎の礼を行ふ所にて迎恩門傍に在り巨大の堂なりを仮教場とし堀本少尉儀語学生武田甚太郎を伴ひ日々出張巡査中よりも一同申合繰合の上小林志津三郎明石次郎田中省三等出張拙者従僕岸本清堅も共に出張補助を為し教練致居候兵数は八十余名にて五営より志願者を採り特選して編成し武衛営に属せしめたるにて年齢は不揃なれども身体は長大にして且壮健也武衛営は親軍にて即近衛なるが如し然るに右慕華館は周囲墻壁も無之且黄海平安の孔道に当るを以て観者堵の如く譏笑嘲罵殆ど不可制者ありて即地捕縛杖撻を要する等のことも不少に付漢北門内に於て教場可相定筈なれども是亦難決に付拙者より促し呉度との内談有之即丙号を以て之を促し候処丁号の返答来候付不日移遷可致事と存候従来漢北門内には錬戎台洗剣亭など称る所も有之練兵には縁故も有之事と相見へ且つ総戎庁宣恵庁等広大の家屋も有之候故右等の内に相定候事と被存候右一定の上は兵士も入営留宿の積りと尹金等申居候右練兵検閲として去十三日には訓練大将申正煕慕華館に出張検閲後一同へ銭など与へて奨励の意を表し堀本始へも厚く謝詞有之拙者も於同所面会致互に謝祝詞の応答致候右申正煕は申憲の子なる由にて江華条約の両大臣及宮本野村の安否に問及帰宅の上は老父にも語り聞す可き旨も申居候
右は未だ真正の改革とは難云候得共之を以て彼政府が得失利害を考るの始とする者にて即真正改革の初歩我陸軍士官の手に相開ける者にて是亦交際上数年勧誘の一結果に付別紙往復相添不取敢及上申候此余技術上に関せる分は堀本より参謀本部への報告に譲り茲に略之候敬具
明治十四年五月十六日 弁理公使花房義質

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