最終更新:ID:7f/i/xpfuA 2018年11月14日(水) 02:00:50履歴
いとおかし〜ちゃんねる〜!
やあみんな久しぶり。
新選組参謀、御陵衛士盟主の伊東甲子太郎だよ。
私の事はリンク先で見てもらうとして、
みんなはゴールデンカムイの第二期見ているかな?
老土方くんの渋い味わい、素敵だよね。
あんな恥ずかしい句を量産して喜んでいた若者が変われば変わるものだねふふふ。
……いや失敬。
そういえば永倉くんも出ていたね。
いつも通りに見事ないぶし銀という役どころだ。
本人はわりとハチャメチャなくせに、何故かいつもそういう役回りになるね彼は。
さて、そろそろ本題に入ろうか。
今日は、いわゆる聖地巡礼の報告をしに来たんだ。
場所は私たち新選組が幕末の時代に走った地。
京都だ。
写真もたくさんあるのでぜひ見ていって欲しい。
それでは早速いってみよう。
まずは京都駅。
駅の近くには異人さんがいっぱいいたよ。
攘夷で揺れに揺れた時代も、今や昔という感じだね。
ちなみに、私は開国派だったんだけれど。
さて、こちらは京都タワー。
京都駅からすぐの場所にある131メートルのランドマークタワーだよ。
131メートルというのは、下の建物部分も合わせた高さで、タワーのみの高さで言えば100メートル。
京都の街は、美観保護の条例で高い建物が建てられないので、かなり遠くからでもこのタワーが見ることができるんだ。
例え碁盤の目の町並みで迷っても京都駅にたどり着けるこのタワーは、まさにランドマークタワーと言えるね。
でも、このタワーを建てるときにも「美観を損ねる」という事でかなりの擦った揉んだがあったみたいで、日本初の美観論争と言われてるんだ。
皆が浮かれていたバブルの時代でも京都の人は、それだけ自分の街を大切にしていたんだろうね。
まぁ結局建てちゃったんだけど!
ちなみに、1964年に完成したそうで、私の死んだ油小路の変からは97年後という事になる。
たわわちゃんと言う若干珍妙なマスコットも居て、それなりに人気スポットのようだよ。
あと、ここで人生の無駄知識を一つ。
この京都タワーの地下の大浴場、ハッテン場として有名だったんだ。
なぜかと言えば、まぁ実態は知らないんだけれど、そういうあやしげな雰囲気があったのは確かだね。
少し前まで、京都タワーって薄暗くて古臭くて辛気臭い場所だったから。
でも2017年のリニューアル工事が行われてからは観光客もよく来る人気スポットになりつつあって、
いわゆるインバウンドの外国人客がドバっと増えてからはハッテン場としてのイメージも段々変わってきているようだね。
興味があるなら調べてみるのもいいかもしれない。
……なんでそんな事に詳しいのかって?
新選組の中でも男色が大流行していたからね。
まぁ、色々と知ってしまう訳だよ。
私はそっちの趣味は無いけれど、新選組では武田観柳斎くんがそれで身を持ち崩してしまったことで有名だね。
あと薩摩藩もずいぶん男色がお盛んだったみたいだ。
どうも私はそういう人達と縁があるね。
ではここからは新選組の歴史を時系列順に振り返りつつ、名所を紹介していくとしよう。
ここは八木邸。
江戸を出た新選組(出た時点では浪士組)が最初に居を構えた場所だね。
八木家はこの辺りの村、つまり「壬生村」をまとめていた豪農で、敷地も広く二条城など重要な場所からも近いという事で「善意で」借してもらったようだ。
この地にとどまったことで、「壬生浪士組」が誕生した。
しかしこの八木邸、さすがに手狭だったようで、新選組(壬生浪士組)としてそれなりに京都での地位がはっきりとしてきた頃には、道を挟んで向かい側にある「前川邸」も借り受けたようだね。
この時、八木邸に水戸藩出身の芹沢鴨派閥、
前川邸に近藤さんたち試衛館派閥。
という露骨な分かれ方をしているんだ。
おそらく、この頃にはもう2つの派閥の間にはかなり大きな溝ができていたんじゃないかな。
特に芹沢鴨の乱暴狼藉は近藤さんと土方くん、それから京都の商人の頭痛の種だったようだし。
最終的には、業を煮やした会津藩(新選組に活動資金をくれる実質的な上部組織であり当時京都の守護をしていた)が、「芹沢を粛清しろ」と、それとなく伝えてきて―――
八木邸において、有名な「芹沢鴨の粛清」が行われた。
現場となった八木邸には、芹沢鴨暗殺の時についたという刀傷や、芹沢鴨がつまずいたという小さな机などが現在も展示されているんだ。
撮影禁止だったので写真は無くてごめんね。
案内人のおじさんが「ココは全て幕末のまま!」と連呼する割には、電気の照明やコンセントがあちこちにあったけれどそこはご愛嬌というやつだろうね。
壁や電気関係はともかく、柱や骨組みは実際かなり年季の入ったもので、天井や梁の低さからも当時の面影は十分感じられたよ。
ここは新選組がその名前を轟かせた池田屋……跡。
少し前まではパチンコ屋が建っていたんだけど、今は新選組のネームバリューを活かした飲み屋になってるね。
一応、池田屋事件が起こる頃には、新選組はそれなりに治安維持部隊として重用されてはいたんだけれど、
後々に将軍直参という破格の出世をなし得たのは、この活躍があったからだろうね。
次に紹介するのは壬生寺。
八木邸から歩いてすぐの距離にあって、新選組が隊士を弔ってもらったり、相撲興行を主催する時に利用したりした色々と縁の深いお寺だ。
境内では隊士の稽古や調練も行われていた。
現在、敷地の中には老人ホームや保育園が建っていて、愛らしい子どもたちのとても可愛い声が響いていたのが印象的だったよ。
しかし「壬生寺保育園」の出身って、大きくなった時に自慢できそうでいいね。
壬生寺のなかには、新選組グッズ売り場があって近藤、土方、沖田の人気者たちのグッズはもちろん、
鈴木三樹三郎や谷三十郎といった少しマニアックな隊長格のグッズもあって少し驚いたり関心したり嬉しかったりしたよ。
伊東甲子太郎グッズはあったのかって? もちろんあったよ! 私の地位は隊長より上の参謀だよ! 参謀!
グッズ売り場は撮影禁止だったから、本当か気になる人は自分で足を運んで確かめてくれ。
壬生寺の敷地内にある新選組の慰霊のスポット(こちらは撮影可)には色々とモニュメントが建てられていたよ。
なんかもう新選組のスポットにはどこにでもある気がする近藤さんの銅像。
最近は女性の参拝者もかなり多いようで、いわゆる聖地として賑わっているみたいだね。
私が訪れた時にも女性がちらほら居て、新選組談義に花を咲かせていたよ。
こういったノートで交流も行われているようだ。
新選組は当時から妄想小説を書かれたりしていて、夢見る女性達に人気があったものだけれど、150年という時間の洗礼を経ても人気なのは凄いことだねえ。
お次は光縁寺。
壬生寺や八木邸からもすぐ近くにある。
こちらでは、もっぱら新選組隊士が死んだあとにお世話になっていたみたいだね。
壬生寺は昔から由緒あるお寺だったので、あまり浪人くずれの新選組隊士の供養をたくさん行うという事には向いてなかった(いろいろ抵抗があったり費用の問題があったり)。
そこを光縁寺の方が引き受けて、供養していたそうだね。(※光縁寺住職談)
この寺に葬られている隊士として有名なのは、山南敬助。
江戸の試衛館組の兄貴分で、副長や総長も努めたという、新選組にとってとても重要な人物。
その最期は、脱走の末の切腹なのだけれど、これには色々と謎もあって、新選組を語る上では外せない所になっているね。
「あえて捕まえられるように脱走していたんじゃないか」とかね。
まあ細かい所は各自調べてくれると嬉しいな。
ちなみに、光縁寺に隊士の埋葬依頼に来たのは、他でもない山南さんらしい。
山南さんは「怪我をして満足に剣が振るえなくなった所に伊東が来て頭脳労働でも居場所がなくなった末に脱走した」という説もあるし、
「佐幕に傾倒していく近藤・土方との方向性の違いから心を病んでいった」という説もある。
伊東甲子太郎を「悪者」として描く作品では「近藤・土方への揺さぶりとしてまず山南を(何らかの手段で惑わせて)新選組自身に討たせて分裂を謀った」的な味付けをされる事が多いね。
しかし伊東甲子太郎と山南敬助は、実質的には3ヶ月程度の付き合いだったのだけれど、とても仲が良かったと言われていて、
尊王・開国・いずれ幕府をたたむことの必要性といった思想については、おそらく近かったとも言われている。
あと山南さんに脱走を強く勧めたのが伊東甲子太郎と言われているね。それから永倉くんも脱走するように勧めていたとか。
そんな彼の死に際して、伊東甲子太郎は4首の歌を詠んでいるんだ。
・春風に 吹き誘はれて 山桜 散りてぞ人に 惜しまるるかな
・吹く風に しぼまむよりは 山桜 散りて跡なき 花は勇まし
・すめらぎの 護ともなれ 黒髪の 乱れたる世に 死ぬる身なれば
・雨風に よし晒すとも 厭ふべき 常に涙の 袖をしぼれば
いくつも辞世の句を詠んでいるのは、「辞世の句も詠むこと無く切腹したから、その手向けに詠んだ」という説もあるけれど、
伊東甲子太郎が新選組隊士の死に手向けた歌はこの4首だけなんだ。
山南さんをとても惜しんでいる様に見えるけれど、それが逆にアリバイ作りめいていて怪しいって? はっはっはっ。
……まぁ、その辺りはご想像にお任せするよ。
これが山南さんの墓。
隣には他の墓も建てられているんだけれど、墓石に複数名の名前が刻まれていて、まとめて葬られている事がよく分かるね。
壬生寺には、局長として葬られた芹沢さんの他に、実家が豪商だった河合耆三郎くんのお墓(とても立派)があるので、その辺りの身分格差みたいなものも若干漂っていたりするんだよねぇ。
さて、山南さんを失った新選組だけれど、組織としては順調に大きくなっていった。
池田屋事件や、禁門の変で活躍した事で、会津藩のみならず徳川家茂公からも恩賞をもらえる程になっていたんだ。
組織が大きくなるにつれて、だんだんと屯所が手狭になってくる。
そして移ったのが――――
ここ、西本願寺。
西本願寺は帝ともパイプがある、とてつもないお金持ちなんだけど、当時は倒幕派の長州とつながっていたんだ。
だから新選組としては、長州とのつながりににらみを効かせつつ、とても広い敷地を手に入れられるという一石二鳥の策としてここに屯所を移すという大胆な手を打ったというわけさ。
(ここで強引な移転をした事で、尊王派の山南さんと近藤さん達がこじれたという説もある)
西本願寺は、幕末の時代から比べると区画整理などで敷地は減っているのだけれど、それでもかなり広い面積がある。
対面で2車線ずつある堀川通りを隔てて今も残っている「西本願寺 総門」を見れば、昔の敷地の広さがよく分かると思う。
この広い敷地で、新しく集めた隊員を鍛えたり、局中法度で切腹させたりしていたわけだ。
あと、栄養状態が悪いという指摘を医者から受けて、肉食を進めるために境内で家畜を飼ったりもしていたんだけれど、
屠殺する時の悲鳴やら焼いた肉の匂いやら、西本願寺の坊さん達からはそれはそれは嫌がられたものさ。
で、お願いだから西本願寺から出ていってくれと頼み込まれた新選組は、西本願寺に全額出してもらう形で新たな屯所を作ってもらう事になる。
それが、幻の屯所と言われる「不動堂村屯所」。
現在は、入り口で出迎えの人がいる高級ホテルが建っていて、その入口に石碑があるよ。(写真右下)
大名屋敷と言っていい程の豪華さと広さで、物見櫓や馬小屋、30人がいっぺんに入れる大浴場なんかもついていたそうだ。
ちなみに西本願寺からすぐ近くに作ったので、引き続き長州に睨みを利かせられた。
多摩の田舎の道場から始まった近藤さんのサクセスストーリーの集大成とも言えるね。
……まぁ残念ながら、「幻の」と言われるだけあって完成してから6ヶ月程しか暮らせなかったし(鳥羽伏見の戦いに入っていった)、資料もあまり残ってないんだけれど。
私は屯所の完成前に御陵衛士を結成して新選組から離れたので、不動堂村屯所で暮らしていないんだよね。
ちょっと惜しいことしたかもしれないなぁ。
少し気分を変えて華やかな場所に行ってみようか。
こちらは島原。
平成の今となっては、門と2箇所の建築物が残るだけで華やかな町並みは面影も残っていない。
だけれど、道路が石畳にされていたりして風情は感じられる場所になっている。
屯所からも近すぎず遠すぎず、ほどよい距離にあって、新選組もよくこの繁華街を利用していた。
ここは島原の「角屋」。
新選組行きつけの料亭だ。
京に入った鴨さん時代から、新選組はずっとここで宴会を開いているね。
鴨さんが従業員や呼び入れた芸姑に乱暴を働いたとか色々逸話が残っている場所で、芹沢一派の最後の晩餐が開かれた場所でもある。
私も、永倉くんと斉藤くんとの3人で正月の三が日を丸々ここで飲み明かして、土方くんに大目玉を食らったんだけれどね。ふふふ。
あの3日間はとても楽しかったよ……。
しかし、その1年後には大政奉還も行われて鳥羽・伏見の戦いで新選組は京から敗走しているというんだから、幕末というのは本当に激動の時代だねぇ……。
「角屋」は、新選組と対立していた陣営(薩長土肥の維新志士)もよく利用していたようだ。
上の写真は久坂玄瑞の碑。ご丁寧な事に、新選組のことについて書かれた看板とはかなり距離をとって建てられている。
ちなみに久坂玄瑞はイケメンで聡明だったということで、京の人には人気があったとかなんとか。
まあイケメンで聡明という点で言えば、わたくし伊東甲子太郎も相当評判が良かったけれどね。ははは。
新選組から離れた伊東甲子太郎一派は「孝明天皇御陵衛士(亡くなった孝明天皇の御墓を護るための士)」を結成して、
五条橋東詰長円寺にひとまず集まった後、京都の東にある高台寺の月真院に屯所を作った。
この事から、伊東甲子太郎一派は高台寺党、高台寺派とも言われる。
山のふもとを少し登ったくらいの坂道の中にあって、京の町並みを見下ろす事ができる立地だ。
西本願寺(不動堂村)からは4kmほどという距離にあって、それなりに距離はある。
(油小路もそれくらいの距離)
坂本龍馬の盟友の中岡慎太郎もこの屯所を尋ねてきて、相談したりしているんだよ。
ちなみに高台寺はもともと、病死した豊臣秀吉の冥福を祈るために正室の北政所が建てて、北政所と懇意にしていた徳川家康が守護したという場所で、今は人気の観光地として賑わっているよ。
さて、長かったこの巡礼ツアーもそろそろ終盤だ。
次に向かうのは――――
「伊東甲子太郎殉難の地」(本光寺)。
つまり「油小路の変の起きた現場」、ということになるね。
時は慶応三年、1867年。
伊東甲子太郎は近藤さんの妾宅からの帰り道に新選組隊士によって襲撃され、この地で死んだ。
御陵衛士の立ち上げから、わずか9ヶ月程のことだった。
閑静な住宅地に建っている本光寺の中には、
少し古びた墓と小さな社が建てられていて、とてもねんごろに葬られていたよ。
伊東甲子太郎の死体が晒され、新選組と御陵衛士が斬り合いになった「七条油小路」と、今紹介している「油小路の変跡」との位置関係はこんな感じだね。
一説には、伊東甲子太郎は別な場所で襲われて手傷を負い、ここまで逃げて死んだという話もある。
その際に、襲撃犯に対して「奸賊ばらが!」と言ったとか言わないとか。
え? 実際にそういう言葉を吐いたのかって?
幕末の夜、ちょうちんしか無い暗闇で襲われている時に「奸賊ばら」なんて、ふふふ、少し芝居がかりすぎているようにも思えるけれど……
まぁご想像にお任せするよ。
ちなみに、油小路の変の物語を描いたSSもあるので、興味があれば読んでみてほしい。
→油小路にて 油小路へ(前) 油小路へ(後)
御陵衛士の面々が葬られている戒光寺にも行ったんだけれど、お参りには予約が必要で見ることができなかったんだ。
小学校と幼稚園が近くにあって、元気な声が境内にも響いていたのが印象的だったよ。
国のために散っていった御陵衛士の慰めとしてはとても良い場所だね。
私の辞世の句は――――
逢ふまでと せめて命が 惜しければ 恋こそ人の 命なりけり
(あなたにせめて一目逢うまでは、捨てたはずの命が惜しい。恋という気持ちこそが人の命だといえる)
余談だけれど、すぐ近くに弓の名手の那須与一公の御墓があって、奇妙な縁も感じたよ。
と、今回の巡礼はこんなところだ。
これで皆も新選組について詳しくなったね!
長い話に付き合ってくれてありがとう。
また機会があったらお目にかかろう!
それじゃあ、みんな! 奸賊ばら〜!(別れの挨拶)
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