最終更新:ID:juCKYzNXDw 2019年04月22日(月) 23:04:15履歴
あの日のことを思い出すたび、顔から火が出そうになる。
あまりにも世間知らず。あまりにも厚顔無恥。宮廷の騎士たちに笑われたことすら腹も立たない。
笑われて当然だ。騎士らしい装いも身に着けず、剣や槍すら持たず、馬にいたっては鞍すらつけていない裸馬。
森を抜け、街道を往き、そのままの足で宮殿に乗り込んだせいで旅の埃にも塗れていた。
今の自分が考えても、あの時の自分は少し上背があるだけの薄汚れた村娘にしか見えなかったことだろう。森の奥で母と共に暮らしていたパーシヴァルは実際には村娘ですら無かったのだが。
しかし、物を知らないというのは怖いものだ。あの時の自分は根拠のない自信に満ち、意気揚々とかの白亜の城の門を叩いた。
自分はここに来れば騎士になれるものだと信じて疑わなかったのだ。森で言葉を交わした、有り様の優美な騎士――後にランスロット卿だったと知る――のように、自分も美しいものになれるのだと。
パーシヴァルを送り出した母の憂いに満ちた表情だけは最後まで後ろ髪を引いたが、最早母にすら彼女の逸る気持ちを止めることは出来なかった。
きっと母は察していたのだろう。戦死した父より受け継いだ……いや、父をも遥かに凌駕するパーシヴァルの騎士たる血の濃さを。その類まれなる才を。
母はパーシヴァルを森の奥に匿って世に出そうとはしなかった。その騎士の血がきっといつかパーシヴァル自身を殺すと信じていたのだ。
それも森の中で騎士に会ったことで、パーシヴァルの騎士としての血が目覚めてしまうまでの話だ。今思えば、アーサー王の白亜の城に行きなさいと助言してくれた母の微笑みにあったものは諦観だったのだろう。
パーシヴァルの気持ちに蓋をさせて生きていくことは、もう出来ないと。もう女だてらに一廉の騎士となるまでは自分の娘が立ち止まることはないと。
そしてこれがきっと、今生の別れになるのだ、と。
当時のパーシヴァルはそのようなことは知る由もない。ただ前途への希望で胸を一杯にしていた。
だから、門の前で警邏の騎士に足止めを食らったことにも憤ったのだ。
『何故です、ここに来れば騎士にしてくださるのではないのですか?』
安っぽい格好をした、元気だけはいい小娘がそう言ってぷりぷりと怒るのだ。
それはもう、その場にいた騎士全員の失笑を買った。それでも丁寧にパーシヴァルを諭す者もいれば、あまり品の良くない冗談を言われたような覚えもある。
そのいちいちにパーシヴァルは憤慨し、騎士にしてくれるまで絶対にここを離れないとなおさら意固地になっていく。
何を言われようが小娘がてこでも動かないものだから、だんだんと騒ぎになってきた。
狭い通用門へ珍獣見たさに城に詰めていた騎士たちが群がってくる。ちょっとした人だかりになりつつあった。
その人数が開いた通用門の奥が見えないほどになった頃だった。
そう………運が良かった。あの時のパーシヴァルはとても運が良かったとしか言いようがない。
話が耳へ届く前に門前払いされることなく、たまたまその場を通りかかったかの御方は騒ぎを前にして足を止めてくださったのだ。
『何事です』
まるで薄く氷の張った湖に石を投げ込んだときのように、決して大きくはないその声はその場を鮮烈に割いてすぐさま伝わった。
パーシヴァルに馴れ馴れしく話しかけていた騎士も、ひそひそ声で隣の騎士と談笑していた騎士も、雷に打たれて姿勢を正し、声の方を向く。
通用口の向こう、城の中からその声は届いた。突然しんと静まり返ったその場にパーシヴァルは居心地の悪さを覚えた。なにか、とてつもないものを騎士たちの背中の向こうに感じ取ったのだ。
二言三言、パーシヴァルには聞こえない音量で誰かと話をしていた声の主は、やがて再び口を開いた。
『道を開けなさい』
人がたくさんいるところに行くのは時折森を出て近くの村へ物々交換に赴く時くらい。だから、パーシヴァルはここまで整然と動く人間たちというものを生まれて始めて見た。
通路を塞いでいた騎士たちが一人残らず全員、糸で操られてでもいるかのように几帳面な動きで真ん中を開けたのだ。
その動きには騎士たるものをまだ爪の先ほどにも分からぬパーシヴァルにも察することが出来る、強い畏怖と敬意があった。
具足が石床を打つ、冷たく澄んだ音が鳴り止む。開けたその道を闊歩してくる者と、初めてパーシヴァルは向き合った。
――――――きっと、いいや、絶対。永遠に、その瞬間を忘れまい。
体格は想像以上に小さい。女性としてはやや大柄なパーシヴァルと比べても、頭ひとつぶんは低い。周りの騎士たちと比べれば大人と子供のようだ。
騎士であることを示す装いも最低限の軽装であり、しかも質素であった。戦の最中ではないので軽装は分かるとしても、畏敬の念を抱かれるほどの尊き者としては飾り気がまるで無い服装だった。
顔立ちも表情こそ凛としていたが細面であり、剛毅な武者という感じではない。ともすれば女性に間違われそうな、少年の顔つきだった。
そして、それら全てがどうでもよくなるほど、その御方は神々しいまでの存在感に満ちていた。
空気を掻く一挙手一投足、それら全部に身震いするほどの王たる余韻があった。この御方を差し置いて、いかなる王も王とは呼べまい。そう信じきれるほどだった。
たまらずパーシヴァルはその場に膝をついて畏まった。誰かにその作法を習ったわけではない。体に流れる騎士の血が、この御方を前にして頭が高いと叫んだのだ。
ひと目で残りの人生を確定させるほどに確信した。
この御方こそ、私が仕えるべき王。この御方に己の全てをお捧げするために、自分は生まれてきたのだと。
瞳は伏した。真っ白な石床しか映らない視界の中、痛いほどの静謐を切り裂いてきた足音が目の前に止まる。
何を言われるものかと体を縮こまらせたパーシヴァルへ、岩肌から染み出す清水のような、驚くほど冷たいはずのに温かい瑞々しさを感じる声音でその声の主は語りかけた。
『顔を上げなさい』
言われるままに、石火が如くパーシヴァルは伏していた顔を上げて眼の前の御方の尊顔を仰ぎ見る。
途端、視線を外せなくなった。吸い込まれるような翠の瞳に見つめられて、胸の奥の深い部分がどきりと音を立てた。
その顔は笑みも浮かべていなければ何か他の感情が滲んでいるということもなかった代わりに、凪いだ湖面のようにどこまでも静謐で美しかったのだ。
パーシヴァルの顔を見て目の前の方が何を思ったのかは知れない。だが、決して目を逸らしてはならないという強い思いに突き動かされ、懸命にそれだけは維持した。
心臓の鼓動がどくどくといやにうるさい。この御方の声を聞き取りにくくなるほど。いっそ刃を突き立てて止めてしまいたいとすら思った。
緊張に身を強張らせる小娘を審判するかのようにゆっくりと淡く朱の色をした唇が動く。
『話は聞きました。騎士になりたいと、あなたはそう言うのですね。
つい先日まで騎士というものすら知らなかったというのに。何故なりたいと思うのですか?』
『……………それは』
舌が緊張で上手く回らない。一言一句で噛みそうになる。
ただ、問いかけられたことを賢しげな言葉で取り繕って気に入られようという気持ちだけは終ぞ起きなかった。
それを許さない光が問い質した者の瞳の中には宿っていたし、それを許せない思いがパーシヴァルの胸中で渦巻いていた。
慎重に言葉を拾い上げる。思うままに積み上げたそれは一吹きで無残に崩れ落ちそうな脆いものだったが、不思議ときらきら光っていた。だからそれを思うままに唇に乗せた。
『私は……教わりました。
騎士とは………騎士とは、誰かのために強くあるものだと。
いかなる邪悪にも屈せぬ勇気を持つものだと。
人を陥れる数多の甘言を打ち払う高潔を胸に抱くものだと。
善き主の剣となり、盾となってその歩まれる道をお助けするものだと。
無辜の民の苦難を討ち、救うものだと。
何より、そのように美しくあるものだと……私もそのように美しくありたいと!そう思ったからです!』
ここに来る前に無闇に持っていた自信など一発で吹き飛んだ。
まるで高く傲然とそびえる冷たい壁へ思いの丈を吐き出しているかのようだ。言葉は反響してこちらに帰ってくるが、壁を震わせるに至ったかは定かではない。
こうして英霊となった後に回想すると、よくもまぁぺらぺらと勝手なことを言ったものだと頭を抱えたくもなる。
だが―――はっきりと覚えている。
その時、然と見つめていた真一文字に引き結ばれていた顔に微かな綻びが生まれたことを。ほんの僅かながらとても穏やかな微笑みが浮かんだことを。
その身に余るほどの僥倖、筆舌に尽くし難い光栄の極み、体の芯まで凍てつくような感動。
奇跡とはこれを指して言うのだと、思い知った。
『そうですか』
ほんの短く答えると、パーシヴァルの眼前で貴人はくるりと踵を返す。
『城内に入れてあげなさい。それと、温かい食事と替えの服を。
彼女を騎士にするにせよ、しないにせよ。旅路に疲れ切った者を労うのは自然の道理でしょう。
この城を目指してやってきたというならなおさらです。後のことはそれから考えればよろしい』
最後に呆然とするパーシヴァルの顔を横顔で一瞥して、かの御方―――アーサー王は何でも無いことのように城内へ戻っていった。幾人かの騎士が後に続いていく。
王はパーシヴァルに『期待している』だとか『あなたならなれる』など、分かりやすい応援は一切寄越してはくれなかった。
ああ、だがその一瞥だけでパーシヴァルには十分すぎた。
必ずや、どのような試練が待ち構えていようと、あの御方の御前に仕える騎士となりお支えするのだ。それを自分の運命とするのだ。
そう決心するのに何の不足もない、偶然の邂逅だった。
青地のマントが緩やかにたなびき、その小さな背中も連なる騎士たちの姿で見えなくなる。
近寄ってきた騎士に声をかけられるまで、跪いたままの姿勢のパーシヴァルは心へ刻みつけるかのようにずっとその光景を見送った。
城内へ迎え入れられたパーシヴァルを騎士ケイがからかうところからパーシヴァルの騎士としての道は始まるのだが………これはその前の話である。
様子がおかしい。
絶対に何かあったのだ。
モザイク市「梅田」の街の一角を小さな影が往く。
ひと目では少女と見紛うような、美しい少年だった。陽光に透ける金髪、底まで見通せるほど透き通った湖面のような碧眼。
まだあどけない顔立ちではあるが、妖精のような浮世離れした美貌。今浮かべている大人びた憂いの色も相まって高級な人形の如くだ。
装いも白を基調とした眩いばかりの仕立て。まるで精緻に彫金された金細工で飾られた宝珠のような少年だった。
アルス/XXXI――――「梅田」の幼き王は思い悩んで首を捻りながら歩いていた。
今や誰しも心臓に聖杯を持ち、ひとりにつき1騎はサーヴァントという超常の存在を傍に置く現代。
当然彼もその尊き立場に相応しい超一流の英霊を従えていたが、現在に限ってはそれぞれ別の行動を取っていた。
それ自体は然程珍しいものではない。ともに過ごす時間は多いタイプの主従ではあったが、それでも互いに自分だけの時間を持つことはそれなりにある。
だがこうして今ひとりで歩いている分の別行動は少々気まずいものであったとアルスは認めざるを得ない。
というのも、先だってより彼の胸中に渦巻く一筋の暗雲はそのサーヴァントが原因であるのだ。
その気をもって意識を集中し互いの間に繋がっている経路を手繰れば、顔を合わせずとも会話することは難ないこと。
だが容易に話しかけにくい空気をアルスも感じ取っていた。まして、その理由を直接聞き出すなど。
去り際のサーヴァントの笑顔はいつもと同じもののようで、しかしアルスは鋭敏にその裏に潜むものを感じ取っていた。『今はひとりでいたい』、と。
「間違いなくあの時何かあったのだ……」
誰にも聞こえない程度に口の中だけでアルスは呟く。
あんな顔は初めて見たのだ。特殊な出生故、生まれた時から王となるべく教育、いや調整を受けているアルスだが未だその齢は11。
どちらかといえば彼のサーヴァントには励まされることの方が多い。あの柔和な顔つき、優しげな笑み。いつも支えられているという強い自覚がある。
だが『あの時』の彼女はアルスに見せるそれらとは全く違うものだった。言い知れない不安感が心を蝕む。
………このように憂鬱を抱えていても、こうして街中を歩いていてすれ違う者がいれば凛とした表情や王者に相応しい笑顔をアルスは作らねばならない。
若い娘ふたり組がアルスに気付いて喜色を顕にするのに気付き、気持ちと顔を切り替える。それがアルスがなることを課せられている王というものの振る舞いであり、そして――――
その一貫で行っている催事の最中に起きた『あの時』の記憶を、アルスは通行人へ向けていた悠然とした表情を引っ込めて反芻した。
昨日の話である。
『一体どうしたのだ、パーシヴァルよ……そなたらしくもない』
楽屋裏。普段来ている清楚な装いとは真逆の、華美な衣装のままでアルスは己のサーヴァント―――円卓の騎士がひとり、パーシヴァルを問い質したのだ。
「梅田」と「難波」間で行われている都市間対抗擬似聖杯戦争 、その「梅田」側都市軍の花形であるアルスとパーシヴァルは広報活動の一貫としてたびたびこういう格好をする機会があった。
即ち、アイドル活動である。全く馬鹿には出来ない。
都市間対抗擬似聖杯戦争 、略して都市戦争の戦士は戦闘員でありながら擬似戦争という興行の役者でもある。
この擬似戦争が一種の『見世物』である以上、それを支える観客、即ちファンからの人気というのは直接勝敗に直結しかねないのだ。
指揮官という全体を束ねる立場、ある意味主役のひとりであるアルスたちはなおさらである。主従揃ってルックスも実力も抜群なのでファンも膨大に抱えている。
かくして定期的にどうにも落ち着かないひらひらした衣装でアルスは踊ったり歌ったり愛想振りまいたりしなければならないのだった。パーシヴァルは意外にも俄然乗り気だが。
普段ならばやれやれ今回もなんとか乗り切ったとアルスはこの楽屋裏でため息を付いている頃合いである。だが、今日ばかりはそれどころではない心配事が心を占めていた。
『いえ………大丈夫です、アルスくん。気にしないでください。
その………知人を視界の中に見つけまして。少し気恥ずかしかったと言うだけの話ですから』
こちらもまだステージ衣装のまま、椅子に腰を落ち着けたパーシヴァルが困ったように微笑む。
傍から見ればなんでもない遣り取りだったように見えたかも知れない。だが文字通り生まれてこの方を共にしているアルスにはこれがまるで大丈夫な顔ではないと察知できた。
いや、まだ取り繕えている方だろう。先程のステージの上でなど、アルスだけでなく誰がどう見てもトラブルの発生を感じさせたのだから。
突然動きを止めたパーシヴァルを怪訝に思ったアルスが見たものは、半生を一緒に過ごしてきた英霊の見たこともない表情だった。
『……………………っ!』
目を見開いて彼方一点を見つめ、顔を引き攣らせている。ここがステージの上だということも完全に忘れ去ったように立ち尽くしていた。
日頃から物腰柔らかでありながら余裕を感じさせるサーヴァントだった。当人が生前積み上げた修練の時間や送った生涯からの経験がパーシヴァルにそうさせるのだろう。
主に仕える騎士として献身的に尽くしてくれる一方、深い愛情を向けられていることも同時に感じていた。身寄りのないアルスにとって、己の騎士でありながら頼りになる姉のような印象だった。
その態度にアルスは何度助けられてきたか分からない。誉れある円卓の騎士。赤き鎧のパーシヴァル。人柄も、実力も、全幅の信頼を置いている。
だからこそ突然のその豹変にアルスはどきりと胸を騒がせたのだ。まるで幽霊でも見たかのような、パーシヴァルのその動揺に。
どんなサーヴァントが相手だろうと、例えかつての同胞である円卓の騎士が相手だろうと、真っ向から立ち向かえるパーシヴァルの……そう、畏れに。
なんだこれは。どうしてパーシヴァルはこんな表情を浮かべている。小声ながらたまらずパーシヴァルに呼びかけた。
『パーシヴァル………?』
『…………………………ぁ』
主君の声が耳に届き、パーシヴァルの瞳に生気が戻ってくる。それがスイッチだったらしい。
一度電源が入れば再起動は一瞬だった。すぐさま状況を再確認し、はにかむようにアルスへ、そして観客へ笑いかける。
時間にして数秒のことだ。イベント自体にとっては些細なトラブルに過ぎなかった。台詞だか振り付けだかをパーシヴァルがど忘れしたというようなお茶目で済む。
パーシヴァルはその後も題目を完璧にこなし終え…………それでも、この楽屋裏でアルスは『いつもと違う』と直感を覚えていた。
身振り手振り。話し方のイントネーション。そういったものからパーシヴァルは未だに自分が見たものを信じられないほど慌てふためている、そう見抜いた。
こんなことはアルスにとっても初めてのことで、どう声をかければ良いものか自信が持てない。
『そうか……如何様な知り合いなのだ?そなたがそのように驚くほどあの場にいるのが不思議な相手だったのか』
『………そう、ですね。そのような感じです。まさかこんなところにいるとは………いらっしゃるとは』
アルスの心配そうな視線を受け止めていたパーシヴァルの瞳が一瞬すっと他所に流れる。
その時瞳孔に映っていた、様々な万感。思いの丈。複雑な惑い。視線を逸したのはアルスと向き合うのを避けるだけが理由ではないだろう。アルスはますます分からなくなった。
アルスが戸惑っている間に、やおらパーシヴァルが立ち上がる。何時も通りの微笑みには『一刻も早くこの場を離れたい』と書いてあるのがアルスには読めた。
『す、すみませんでしたアルスくん!それしきのことで心を乱すなど私も未だに未熟ですね。精進します。
ところでこの後予定はありませんでしたよね?申し訳ないのですが個人的な私用がありまして、暇を頂くことを許可願えませんか』
『あ、ああ………うむ、ライブの後でもある。疲れもあるだろうし無理をしてはならぬぞ』
『はい!ありがとうございますっ!それではっ!』
最後の方はいっそ空元気めいていた。
アルスの目の前でばたばたと荷物を纏め、着替える暇すら惜しんで霊装を顕して赤い鎧姿に――モザイク市では鎧姿のの英霊というのは珍しいものでもない――なり、楽屋裏を後にしていく。
ばたん、と閉まったドアの音がやけに大きく響く。残されたのはやや呆然とした調子でステージ衣装のまま佇むアルスだけだった。
―――というのが、昨日の話。
「……………はぁ」
誰も見ていないのをいいことに、アルスはすっかり弱った様子で溜め息をついた。
結局昨日は終日再会することはなく、今朝会ったときはさすがにいくらか落ち着いていたもののまだ心の整理は出来上がっていないようだった。
都市軍の指揮官として出席しなければならない午前中の公務こそ、アルスの完璧なる従者として普段通りの態度で傍に控えていたが、午後に予定がフリーになるとそそくさとどこかへ行ってしまった。
どう考えても互いに噛み合っていない。理由を詳しく聞き出そうにもパーシヴァルはうまくアルスの追求を躱して逃げていってしまう。
アルスからパーシヴァルを何らかの理由で避けることは過去に幾度かあっても、パーシヴァルがアルスを避けることは稀だ。いや、もしや本当に初めてではないか。
少し癪であり、ショックであった。主にも打ち明けられないような重大な苦悩をパーシヴァルが抱えているのは間違いない。
公にはアルスは尊大な人格で通っているが、内面は傷つきやすい多感な少年だ。近密な間柄であるのに喋ってくれないのに苛立ち、そうパーシヴァルにさせてしまう己の小ささに落胆した。
アルスはアルスでそのような懊悩を抱えつつ、気分転換に「梅田」の街を散歩をしていたのである。
空は曇天。まるでアルスとパーシヴァルの心をそのまま写し取ったような、今にも雨の降り出しそうな重い空模様。そんな感傷だけでいくらか気が滅入る。
そんなどうでもいいことに気を揉んでいたからだろう。
「………………………ふわっ!?」
歩道のさして高くもないちょっとした段差に足を引っ掛けた。
歩くことからさえ気を散らしていたせいで受け身すら損なう。結果――――
「ぷぎゅっ!?
―――――――――っっ!!」
頭の中で火花が散った。地面にぶつけた膝やら肘やらも鋭く悲鳴を放っているのだが、それよりも思い切りぶつけた額の痛みが意識を専有する。
悶えるその姿は恐ろしく情けないものだった。うずくまるそれは生まれたての子鹿もかくやだった。
こんな格好の悪い姿は他人には見せられない。速やかに立ち上がろうと脳裏のどこかが宣言をするが、痛覚によって交通渋滞を起こしている指示系統がなかなかついてこない。
額を押さえて痛みが行動可能になるまで引くのを待つことしか出来そうもなかった。
だからだろう。
目の前にゆっくりとやってきた人物の接近に声をかけられるまでまるで気が付かなかったのは。
「大丈夫ですか?」
頭の上から降ってきたその声は、何故か――――とても懐かしくて親密な気持ちがした。
とてもとても遠い昔に会ったことがあるような。今でもたびたび連絡を取っている古い友人のような。どこかで大切なものを遣り取りしたことがあるような。
痛みを堪え、ゆっくりと顔を上げる。視界にしゃがみ込んでこちらを見ている女性の顔が映る。
既視感を一瞬覚えたのは、毎日鏡に映る自分の顔と彼女がどこか似ていたからだろう。幅広の帽子の中に纏められているのはアルスと同じブロンドの髪。
眼鏡と前髪で目元は少し隠れていたが、これまたアルスと同じ碧い色の瞳がこちらを案じて揺らめいていた。
「ああ……だ、大丈夫だ。すまぬ。締まりの悪いところを見せた」
「いえ。お気になさらず。それよりも額が腫れているようです。何よりも先に手当をしたほうがいい。さぁ、お手をどうぞ」
「ああ、ありがとう………む?」
差し出されていた細い指をアルスが軽く握った時、ぽつりと頬に冷たい感触が走る。
つられてアルスは頭上を見上げる。目の前の女性も同じように空を仰いでいた。
決壊寸前だった黒い雨雲から、裂け目より水が溢れ出すかのように細い雨がモザイク市へ向けて降り注ぎ始めていた。
雨足は瞬きの合間にすら強くなりつつあり、本降りになるのは時間の問題と誰もに予想させる勢いだ。
少しずつ量を増す雨粒の中、アルスを助け起こした女性が彼の方へ見返って緩やかに微笑む。
「降ってきてしまいましたね」
雨粒を彼女の金糸の髪が弾く。ただの街角に過ぎないというのに、不思議とお伽噺の登場人物のように幻想的な光景に見えた。
無意識にアルスは息を呑んだ。
何か、とても大事なものと会っていることをアルスの奥底に刻まれた王の概念が感じ取り、目を見張ったのだ。
―――――モザイク市に雨が降っていく。その雨空の麗人とは、それが最初の出会いだった。
あまりにも世間知らず。あまりにも厚顔無恥。宮廷の騎士たちに笑われたことすら腹も立たない。
笑われて当然だ。騎士らしい装いも身に着けず、剣や槍すら持たず、馬にいたっては鞍すらつけていない裸馬。
森を抜け、街道を往き、そのままの足で宮殿に乗り込んだせいで旅の埃にも塗れていた。
今の自分が考えても、あの時の自分は少し上背があるだけの薄汚れた村娘にしか見えなかったことだろう。森の奥で母と共に暮らしていたパーシヴァルは実際には村娘ですら無かったのだが。
しかし、物を知らないというのは怖いものだ。あの時の自分は根拠のない自信に満ち、意気揚々とかの白亜の城の門を叩いた。
自分はここに来れば騎士になれるものだと信じて疑わなかったのだ。森で言葉を交わした、有り様の優美な騎士――後にランスロット卿だったと知る――のように、自分も美しいものになれるのだと。
パーシヴァルを送り出した母の憂いに満ちた表情だけは最後まで後ろ髪を引いたが、最早母にすら彼女の逸る気持ちを止めることは出来なかった。
きっと母は察していたのだろう。戦死した父より受け継いだ……いや、父をも遥かに凌駕するパーシヴァルの騎士たる血の濃さを。その類まれなる才を。
母はパーシヴァルを森の奥に匿って世に出そうとはしなかった。その騎士の血がきっといつかパーシヴァル自身を殺すと信じていたのだ。
それも森の中で騎士に会ったことで、パーシヴァルの騎士としての血が目覚めてしまうまでの話だ。今思えば、アーサー王の白亜の城に行きなさいと助言してくれた母の微笑みにあったものは諦観だったのだろう。
パーシヴァルの気持ちに蓋をさせて生きていくことは、もう出来ないと。もう女だてらに一廉の騎士となるまでは自分の娘が立ち止まることはないと。
そしてこれがきっと、今生の別れになるのだ、と。
当時のパーシヴァルはそのようなことは知る由もない。ただ前途への希望で胸を一杯にしていた。
だから、門の前で警邏の騎士に足止めを食らったことにも憤ったのだ。
『何故です、ここに来れば騎士にしてくださるのではないのですか?』
安っぽい格好をした、元気だけはいい小娘がそう言ってぷりぷりと怒るのだ。
それはもう、その場にいた騎士全員の失笑を買った。それでも丁寧にパーシヴァルを諭す者もいれば、あまり品の良くない冗談を言われたような覚えもある。
そのいちいちにパーシヴァルは憤慨し、騎士にしてくれるまで絶対にここを離れないとなおさら意固地になっていく。
何を言われようが小娘がてこでも動かないものだから、だんだんと騒ぎになってきた。
狭い通用門へ珍獣見たさに城に詰めていた騎士たちが群がってくる。ちょっとした人だかりになりつつあった。
その人数が開いた通用門の奥が見えないほどになった頃だった。
そう………運が良かった。あの時のパーシヴァルはとても運が良かったとしか言いようがない。
話が耳へ届く前に門前払いされることなく、たまたまその場を通りかかったかの御方は騒ぎを前にして足を止めてくださったのだ。
『何事です』
まるで薄く氷の張った湖に石を投げ込んだときのように、決して大きくはないその声はその場を鮮烈に割いてすぐさま伝わった。
パーシヴァルに馴れ馴れしく話しかけていた騎士も、ひそひそ声で隣の騎士と談笑していた騎士も、雷に打たれて姿勢を正し、声の方を向く。
通用口の向こう、城の中からその声は届いた。突然しんと静まり返ったその場にパーシヴァルは居心地の悪さを覚えた。なにか、とてつもないものを騎士たちの背中の向こうに感じ取ったのだ。
二言三言、パーシヴァルには聞こえない音量で誰かと話をしていた声の主は、やがて再び口を開いた。
『道を開けなさい』
人がたくさんいるところに行くのは時折森を出て近くの村へ物々交換に赴く時くらい。だから、パーシヴァルはここまで整然と動く人間たちというものを生まれて始めて見た。
通路を塞いでいた騎士たちが一人残らず全員、糸で操られてでもいるかのように几帳面な動きで真ん中を開けたのだ。
その動きには騎士たるものをまだ爪の先ほどにも分からぬパーシヴァルにも察することが出来る、強い畏怖と敬意があった。
具足が石床を打つ、冷たく澄んだ音が鳴り止む。開けたその道を闊歩してくる者と、初めてパーシヴァルは向き合った。
――――――きっと、いいや、絶対。永遠に、その瞬間を忘れまい。
体格は想像以上に小さい。女性としてはやや大柄なパーシヴァルと比べても、頭ひとつぶんは低い。周りの騎士たちと比べれば大人と子供のようだ。
騎士であることを示す装いも最低限の軽装であり、しかも質素であった。戦の最中ではないので軽装は分かるとしても、畏敬の念を抱かれるほどの尊き者としては飾り気がまるで無い服装だった。
顔立ちも表情こそ凛としていたが細面であり、剛毅な武者という感じではない。ともすれば女性に間違われそうな、少年の顔つきだった。
そして、それら全てがどうでもよくなるほど、その御方は神々しいまでの存在感に満ちていた。
空気を掻く一挙手一投足、それら全部に身震いするほどの王たる余韻があった。この御方を差し置いて、いかなる王も王とは呼べまい。そう信じきれるほどだった。
たまらずパーシヴァルはその場に膝をついて畏まった。誰かにその作法を習ったわけではない。体に流れる騎士の血が、この御方を前にして頭が高いと叫んだのだ。
ひと目で残りの人生を確定させるほどに確信した。
この御方こそ、私が仕えるべき王。この御方に己の全てをお捧げするために、自分は生まれてきたのだと。
瞳は伏した。真っ白な石床しか映らない視界の中、痛いほどの静謐を切り裂いてきた足音が目の前に止まる。
何を言われるものかと体を縮こまらせたパーシヴァルへ、岩肌から染み出す清水のような、驚くほど冷たいはずのに温かい瑞々しさを感じる声音でその声の主は語りかけた。
『顔を上げなさい』
言われるままに、石火が如くパーシヴァルは伏していた顔を上げて眼の前の御方の尊顔を仰ぎ見る。
途端、視線を外せなくなった。吸い込まれるような翠の瞳に見つめられて、胸の奥の深い部分がどきりと音を立てた。
その顔は笑みも浮かべていなければ何か他の感情が滲んでいるということもなかった代わりに、凪いだ湖面のようにどこまでも静謐で美しかったのだ。
パーシヴァルの顔を見て目の前の方が何を思ったのかは知れない。だが、決して目を逸らしてはならないという強い思いに突き動かされ、懸命にそれだけは維持した。
心臓の鼓動がどくどくといやにうるさい。この御方の声を聞き取りにくくなるほど。いっそ刃を突き立てて止めてしまいたいとすら思った。
緊張に身を強張らせる小娘を審判するかのようにゆっくりと淡く朱の色をした唇が動く。
『話は聞きました。騎士になりたいと、あなたはそう言うのですね。
つい先日まで騎士というものすら知らなかったというのに。何故なりたいと思うのですか?』
『……………それは』
舌が緊張で上手く回らない。一言一句で噛みそうになる。
ただ、問いかけられたことを賢しげな言葉で取り繕って気に入られようという気持ちだけは終ぞ起きなかった。
それを許さない光が問い質した者の瞳の中には宿っていたし、それを許せない思いがパーシヴァルの胸中で渦巻いていた。
慎重に言葉を拾い上げる。思うままに積み上げたそれは一吹きで無残に崩れ落ちそうな脆いものだったが、不思議ときらきら光っていた。だからそれを思うままに唇に乗せた。
『私は……教わりました。
騎士とは………騎士とは、誰かのために強くあるものだと。
いかなる邪悪にも屈せぬ勇気を持つものだと。
人を陥れる数多の甘言を打ち払う高潔を胸に抱くものだと。
善き主の剣となり、盾となってその歩まれる道をお助けするものだと。
無辜の民の苦難を討ち、救うものだと。
何より、そのように美しくあるものだと……私もそのように美しくありたいと!そう思ったからです!』
ここに来る前に無闇に持っていた自信など一発で吹き飛んだ。
まるで高く傲然とそびえる冷たい壁へ思いの丈を吐き出しているかのようだ。言葉は反響してこちらに帰ってくるが、壁を震わせるに至ったかは定かではない。
こうして英霊となった後に回想すると、よくもまぁぺらぺらと勝手なことを言ったものだと頭を抱えたくもなる。
だが―――はっきりと覚えている。
その時、然と見つめていた真一文字に引き結ばれていた顔に微かな綻びが生まれたことを。ほんの僅かながらとても穏やかな微笑みが浮かんだことを。
その身に余るほどの僥倖、筆舌に尽くし難い光栄の極み、体の芯まで凍てつくような感動。
奇跡とはこれを指して言うのだと、思い知った。
『そうですか』
ほんの短く答えると、パーシヴァルの眼前で貴人はくるりと踵を返す。
『城内に入れてあげなさい。それと、温かい食事と替えの服を。
彼女を騎士にするにせよ、しないにせよ。旅路に疲れ切った者を労うのは自然の道理でしょう。
この城を目指してやってきたというならなおさらです。後のことはそれから考えればよろしい』
最後に呆然とするパーシヴァルの顔を横顔で一瞥して、かの御方―――アーサー王は何でも無いことのように城内へ戻っていった。幾人かの騎士が後に続いていく。
王はパーシヴァルに『期待している』だとか『あなたならなれる』など、分かりやすい応援は一切寄越してはくれなかった。
ああ、だがその一瞥だけでパーシヴァルには十分すぎた。
必ずや、どのような試練が待ち構えていようと、あの御方の御前に仕える騎士となりお支えするのだ。それを自分の運命とするのだ。
そう決心するのに何の不足もない、偶然の邂逅だった。
青地のマントが緩やかにたなびき、その小さな背中も連なる騎士たちの姿で見えなくなる。
近寄ってきた騎士に声をかけられるまで、跪いたままの姿勢のパーシヴァルは心へ刻みつけるかのようにずっとその光景を見送った。
城内へ迎え入れられたパーシヴァルを騎士ケイがからかうところからパーシヴァルの騎士としての道は始まるのだが………これはその前の話である。
様子がおかしい。
絶対に何かあったのだ。
モザイク市「梅田」の街の一角を小さな影が往く。
ひと目では少女と見紛うような、美しい少年だった。陽光に透ける金髪、底まで見通せるほど透き通った湖面のような碧眼。
まだあどけない顔立ちではあるが、妖精のような浮世離れした美貌。今浮かべている大人びた憂いの色も相まって高級な人形の如くだ。
装いも白を基調とした眩いばかりの仕立て。まるで精緻に彫金された金細工で飾られた宝珠のような少年だった。
アルス/XXXI――――「梅田」の幼き王は思い悩んで首を捻りながら歩いていた。
今や誰しも心臓に聖杯を持ち、ひとりにつき1騎はサーヴァントという超常の存在を傍に置く現代。
当然彼もその尊き立場に相応しい超一流の英霊を従えていたが、現在に限ってはそれぞれ別の行動を取っていた。
それ自体は然程珍しいものではない。ともに過ごす時間は多いタイプの主従ではあったが、それでも互いに自分だけの時間を持つことはそれなりにある。
だがこうして今ひとりで歩いている分の別行動は少々気まずいものであったとアルスは認めざるを得ない。
というのも、先だってより彼の胸中に渦巻く一筋の暗雲はそのサーヴァントが原因であるのだ。
その気をもって意識を集中し互いの間に繋がっている経路を手繰れば、顔を合わせずとも会話することは難ないこと。
だが容易に話しかけにくい空気をアルスも感じ取っていた。まして、その理由を直接聞き出すなど。
去り際のサーヴァントの笑顔はいつもと同じもののようで、しかしアルスは鋭敏にその裏に潜むものを感じ取っていた。『今はひとりでいたい』、と。
「間違いなくあの時何かあったのだ……」
誰にも聞こえない程度に口の中だけでアルスは呟く。
あんな顔は初めて見たのだ。特殊な出生故、生まれた時から王となるべく教育、いや調整を受けているアルスだが未だその齢は11。
どちらかといえば彼のサーヴァントには励まされることの方が多い。あの柔和な顔つき、優しげな笑み。いつも支えられているという強い自覚がある。
だが『あの時』の彼女はアルスに見せるそれらとは全く違うものだった。言い知れない不安感が心を蝕む。
………このように憂鬱を抱えていても、こうして街中を歩いていてすれ違う者がいれば凛とした表情や王者に相応しい笑顔をアルスは作らねばならない。
若い娘ふたり組がアルスに気付いて喜色を顕にするのに気付き、気持ちと顔を切り替える。それがアルスがなることを課せられている王というものの振る舞いであり、そして――――
その一貫で行っている催事の最中に起きた『あの時』の記憶を、アルスは通行人へ向けていた悠然とした表情を引っ込めて反芻した。
昨日の話である。
『一体どうしたのだ、パーシヴァルよ……そなたらしくもない』
楽屋裏。普段来ている清楚な装いとは真逆の、華美な衣装のままでアルスは己のサーヴァント―――円卓の騎士がひとり、パーシヴァルを問い質したのだ。
「梅田」と「難波」間で行われている
即ち、アイドル活動である。全く馬鹿には出来ない。
この擬似戦争が一種の『見世物』である以上、それを支える観客、即ちファンからの人気というのは直接勝敗に直結しかねないのだ。
指揮官という全体を束ねる立場、ある意味主役のひとりであるアルスたちはなおさらである。主従揃ってルックスも実力も抜群なのでファンも膨大に抱えている。
かくして定期的にどうにも落ち着かないひらひらした衣装でアルスは踊ったり歌ったり愛想振りまいたりしなければならないのだった。パーシヴァルは意外にも俄然乗り気だが。
普段ならばやれやれ今回もなんとか乗り切ったとアルスはこの楽屋裏でため息を付いている頃合いである。だが、今日ばかりはそれどころではない心配事が心を占めていた。
『いえ………大丈夫です、アルスくん。気にしないでください。
その………知人を視界の中に見つけまして。少し気恥ずかしかったと言うだけの話ですから』
こちらもまだステージ衣装のまま、椅子に腰を落ち着けたパーシヴァルが困ったように微笑む。
傍から見ればなんでもない遣り取りだったように見えたかも知れない。だが文字通り生まれてこの方を共にしているアルスにはこれがまるで大丈夫な顔ではないと察知できた。
いや、まだ取り繕えている方だろう。先程のステージの上でなど、アルスだけでなく誰がどう見てもトラブルの発生を感じさせたのだから。
突然動きを止めたパーシヴァルを怪訝に思ったアルスが見たものは、半生を一緒に過ごしてきた英霊の見たこともない表情だった。
『……………………っ!』
目を見開いて彼方一点を見つめ、顔を引き攣らせている。ここがステージの上だということも完全に忘れ去ったように立ち尽くしていた。
日頃から物腰柔らかでありながら余裕を感じさせるサーヴァントだった。当人が生前積み上げた修練の時間や送った生涯からの経験がパーシヴァルにそうさせるのだろう。
主に仕える騎士として献身的に尽くしてくれる一方、深い愛情を向けられていることも同時に感じていた。身寄りのないアルスにとって、己の騎士でありながら頼りになる姉のような印象だった。
その態度にアルスは何度助けられてきたか分からない。誉れある円卓の騎士。赤き鎧のパーシヴァル。人柄も、実力も、全幅の信頼を置いている。
だからこそ突然のその豹変にアルスはどきりと胸を騒がせたのだ。まるで幽霊でも見たかのような、パーシヴァルのその動揺に。
どんなサーヴァントが相手だろうと、例えかつての同胞である円卓の騎士が相手だろうと、真っ向から立ち向かえるパーシヴァルの……そう、畏れに。
なんだこれは。どうしてパーシヴァルはこんな表情を浮かべている。小声ながらたまらずパーシヴァルに呼びかけた。
『パーシヴァル………?』
『…………………………ぁ』
主君の声が耳に届き、パーシヴァルの瞳に生気が戻ってくる。それがスイッチだったらしい。
一度電源が入れば再起動は一瞬だった。すぐさま状況を再確認し、はにかむようにアルスへ、そして観客へ笑いかける。
時間にして数秒のことだ。イベント自体にとっては些細なトラブルに過ぎなかった。台詞だか振り付けだかをパーシヴァルがど忘れしたというようなお茶目で済む。
パーシヴァルはその後も題目を完璧にこなし終え…………それでも、この楽屋裏でアルスは『いつもと違う』と直感を覚えていた。
身振り手振り。話し方のイントネーション。そういったものからパーシヴァルは未だに自分が見たものを信じられないほど慌てふためている、そう見抜いた。
こんなことはアルスにとっても初めてのことで、どう声をかければ良いものか自信が持てない。
『そうか……如何様な知り合いなのだ?そなたがそのように驚くほどあの場にいるのが不思議な相手だったのか』
『………そう、ですね。そのような感じです。まさかこんなところにいるとは………いらっしゃるとは』
アルスの心配そうな視線を受け止めていたパーシヴァルの瞳が一瞬すっと他所に流れる。
その時瞳孔に映っていた、様々な万感。思いの丈。複雑な惑い。視線を逸したのはアルスと向き合うのを避けるだけが理由ではないだろう。アルスはますます分からなくなった。
アルスが戸惑っている間に、やおらパーシヴァルが立ち上がる。何時も通りの微笑みには『一刻も早くこの場を離れたい』と書いてあるのがアルスには読めた。
『す、すみませんでしたアルスくん!それしきのことで心を乱すなど私も未だに未熟ですね。精進します。
ところでこの後予定はありませんでしたよね?申し訳ないのですが個人的な私用がありまして、暇を頂くことを許可願えませんか』
『あ、ああ………うむ、ライブの後でもある。疲れもあるだろうし無理をしてはならぬぞ』
『はい!ありがとうございますっ!それではっ!』
最後の方はいっそ空元気めいていた。
アルスの目の前でばたばたと荷物を纏め、着替える暇すら惜しんで霊装を顕して赤い鎧姿に――モザイク市では鎧姿のの英霊というのは珍しいものでもない――なり、楽屋裏を後にしていく。
ばたん、と閉まったドアの音がやけに大きく響く。残されたのはやや呆然とした調子でステージ衣装のまま佇むアルスだけだった。
―――というのが、昨日の話。
「……………はぁ」
誰も見ていないのをいいことに、アルスはすっかり弱った様子で溜め息をついた。
結局昨日は終日再会することはなく、今朝会ったときはさすがにいくらか落ち着いていたもののまだ心の整理は出来上がっていないようだった。
都市軍の指揮官として出席しなければならない午前中の公務こそ、アルスの完璧なる従者として普段通りの態度で傍に控えていたが、午後に予定がフリーになるとそそくさとどこかへ行ってしまった。
どう考えても互いに噛み合っていない。理由を詳しく聞き出そうにもパーシヴァルはうまくアルスの追求を躱して逃げていってしまう。
アルスからパーシヴァルを何らかの理由で避けることは過去に幾度かあっても、パーシヴァルがアルスを避けることは稀だ。いや、もしや本当に初めてではないか。
少し癪であり、ショックであった。主にも打ち明けられないような重大な苦悩をパーシヴァルが抱えているのは間違いない。
公にはアルスは尊大な人格で通っているが、内面は傷つきやすい多感な少年だ。近密な間柄であるのに喋ってくれないのに苛立ち、そうパーシヴァルにさせてしまう己の小ささに落胆した。
アルスはアルスでそのような懊悩を抱えつつ、気分転換に「梅田」の街を散歩をしていたのである。
空は曇天。まるでアルスとパーシヴァルの心をそのまま写し取ったような、今にも雨の降り出しそうな重い空模様。そんな感傷だけでいくらか気が滅入る。
そんなどうでもいいことに気を揉んでいたからだろう。
「………………………ふわっ!?」
歩道のさして高くもないちょっとした段差に足を引っ掛けた。
歩くことからさえ気を散らしていたせいで受け身すら損なう。結果――――
「ぷぎゅっ!?
―――――――――っっ!!」
頭の中で火花が散った。地面にぶつけた膝やら肘やらも鋭く悲鳴を放っているのだが、それよりも思い切りぶつけた額の痛みが意識を専有する。
悶えるその姿は恐ろしく情けないものだった。うずくまるそれは生まれたての子鹿もかくやだった。
こんな格好の悪い姿は他人には見せられない。速やかに立ち上がろうと脳裏のどこかが宣言をするが、痛覚によって交通渋滞を起こしている指示系統がなかなかついてこない。
額を押さえて痛みが行動可能になるまで引くのを待つことしか出来そうもなかった。
だからだろう。
目の前にゆっくりとやってきた人物の接近に声をかけられるまでまるで気が付かなかったのは。
「大丈夫ですか?」
頭の上から降ってきたその声は、何故か――――とても懐かしくて親密な気持ちがした。
とてもとても遠い昔に会ったことがあるような。今でもたびたび連絡を取っている古い友人のような。どこかで大切なものを遣り取りしたことがあるような。
痛みを堪え、ゆっくりと顔を上げる。視界にしゃがみ込んでこちらを見ている女性の顔が映る。
既視感を一瞬覚えたのは、毎日鏡に映る自分の顔と彼女がどこか似ていたからだろう。幅広の帽子の中に纏められているのはアルスと同じブロンドの髪。
眼鏡と前髪で目元は少し隠れていたが、これまたアルスと同じ碧い色の瞳がこちらを案じて揺らめいていた。
「ああ……だ、大丈夫だ。すまぬ。締まりの悪いところを見せた」
「いえ。お気になさらず。それよりも額が腫れているようです。何よりも先に手当をしたほうがいい。さぁ、お手をどうぞ」
「ああ、ありがとう………む?」
差し出されていた細い指をアルスが軽く握った時、ぽつりと頬に冷たい感触が走る。
つられてアルスは頭上を見上げる。目の前の女性も同じように空を仰いでいた。
決壊寸前だった黒い雨雲から、裂け目より水が溢れ出すかのように細い雨がモザイク市へ向けて降り注ぎ始めていた。
雨足は瞬きの合間にすら強くなりつつあり、本降りになるのは時間の問題と誰もに予想させる勢いだ。
少しずつ量を増す雨粒の中、アルスを助け起こした女性が彼の方へ見返って緩やかに微笑む。
「降ってきてしまいましたね」
雨粒を彼女の金糸の髪が弾く。ただの街角に過ぎないというのに、不思議とお伽噺の登場人物のように幻想的な光景に見えた。
無意識にアルスは息を呑んだ。
何か、とても大事なものと会っていることをアルスの奥底に刻まれた王の概念が感じ取り、目を見張ったのだ。
―――――モザイク市に雨が降っていく。その雨空の麗人とは、それが最初の出会いだった。
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