慈禧皇太后。日本では主に西太后の名前で知られている、中国・清王朝末期の権力者。
中国史上に於いて最も長く権力を握った女性とも言われており、一時は皇帝をもしのぐ権力を数十年に渡り持ち続けた女性。
現代では様々な風聞の記録やフィクションから、残虐な悪女というイメージが知られている。
競争相手の后の手足を切断して壺に生けた、鞭で打ちながらその悲鳴を楽しみ食事をしたなど、『傾国の美女』というイメージが強い。
だが壺のエピソードはフィクション由来だと判明しており、競争相手の麗妃(フィクションで壺に入れられた人物)についてはその人格を気に入ったのかむしろ厚遇していたなど、実際とは異なるものが多い。
その一方で、男装を好み挑発的だったという珍妃を最初は気に入っていたもののやがて幽閉するようになり、義和団事件後の脱出時には井戸に捨てさせたという事実関係や、ささいなことで宦官を鞭打ちの刑に処したという元宦官の証言など、気性の激しい、あるいは極端な部分があったのも確からしい。
記録では満州の名門とされるイェヘナラ氏族の生まれで、父は高官だとされている。
が、近年の新説では貧しい漢民族の農家の生まれで、母が死に父は失踪し買い取られて女官になったのだとも言われており、はっきりしない。
いずれにせよ、教養ある賢い女性として育ったことは確からしい。
やがて女官として宮廷に仕えるようになり、そこで咸豊帝に気に入られて側室となり、そして跡継ぎたる男児を出産したことで妃へと昇格した。
だが咸豊帝が病で亡くなると、息子である同治帝を僅か6歳という若さで皇帝として即位させ、自らはその背後の
御簾*1の裏から政治を執り行った。(垂簾聴政と呼ばれる)
同治帝が死去してからは、4歳になる甥の光緒帝を次期皇帝として即位させ、またも政治を裏から取り仕切った。
欧米諸国の近代技術を取り入れるなど洋務運動に力を注ぐも、清仏戦争でベトナムの宗主権を、日清戦争では朝鮮の宗主権を失う。
光緒帝と康有為は戊戌の変法による改革を提唱したが、西太后はこれを抑え込み光緒帝を幽閉した。
その後10年は権力を維持したが、義和団事件が勃発。当初は鎮圧を試みたが、困難だったため義和団を支持して諸外国に宣戦布告する。
しかし連合軍に本拠まで攻め込まれ、紫禁城を放棄して脱出。講和では北京議定書により国土の分割や他国の支配、多額の賠償を背負う。
そういった経緯を経て中国は内も外もボロボロになり、最終的に中国王朝はその歴史を閉ざし、中華民国が産声を上げる事となる。
そんな清王朝が崩壊する直前の1908年11月15日、幽閉していた光緒帝の死を追うように息を引き取った。
こういった歴史の狭間であったからか、悪政のイメージがつきやすい。
恐らくは、彼女が権力を握っていた時期が清王朝の末期であった事や、庭園「頤和園」を再建するために資金を注ぎ込んだ事、
何より未だ幼い子や甥を皇帝に即位させて実権を握った事や、逆らう者への躊躇ない追放や幽閉などの行為。
そういったイメージが、共和政の中で悪政の象徴として語られるうちに尾ひれがついて行ったものと考えられる。
だが近年の研究においては、彼女は暗愚ではなく、むしろ優れた手腕の政治家であったという意見も少なくない。
権力を持っていた時期は非常に国民に慕われており、死した時の参列には多くの人が詰めかけ嘆き悲しんだという。
当時はイギリスを始めとした列強たる諸外国が虎視眈々と中国、並びにその従属国を狙っている時期であり、それらを守るためにも彼女は苛烈な手段を取らざるを得なかったのだ。
庭園「頤和園」を再建したのは職を失った人々への救済策であり、追放や幽閉も歴代の支配者の采配と比べて極端に苛烈ではない、という意見もある。
政治をおろそかにし、国費を湯水の如く使って私腹を肥やしたというわけではなく、数々の西洋化政策を推し進め、中国が少しでも列強に勝てるように変革していった、現代にも続く中国近代化の先駆けと言える。
だが余りにも時代が悪すぎたため、結果中国最後の王朝たる清は滅びる結果となる。すでに彼女が権力者となった時点で、この結末はある程度見えるほどに中国はボロボロだった。
それでも必死に足掻き、なおかつ過度な近代化をすすめず中国王朝という形を維持したのは、彼女なりの意地だったのかもしれない。
その努力も虚しく、悪女という代名詞で後ろ指を指される結果になったのは、あまりにも皮肉な結末というほかない。
彼女はそんな悪名を濯ぐために聖杯を求め、此度はアサシンとしてのクラスで顕現した。