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イスタンブール特別市
オスマン国の首都
位置
詳細情報
オスマン国
地方バルカン地方?アナトリア地方?
公用語オスマン・トルコ語
州都なし(市そのものが州に値するため)
区分世界都市?
人口17,984,224人
第一宰相ソコルル・アフメト・パシャ?
概要
イスタンブール特別市は、オスマン国の特別行政区の1つで、行政区画の1つ。
他の公共団体や州と違い、イスタンブール市が州の規模で設置されているため、中央政府内務省下の第一宰相と呼ばれる官僚が市長を兼任している。
市長は政府から派遣される官僚、もしくは州民からの直接選挙で選ばれる。(後者が多い。前者は支持があった場合か辞任の際の緊急の時のみ行われると規定されている。)

歴史

東ローマ帝国の首都として
コンスタンティノープル
ローマ帝国の都市ビザンティオンとして建築。
324年にローマ帝国東の都としてビザンティオンを発展解消する形で「コンスタンティノープル」が完成。
コンスタンティノープルはテオドシウスの城壁と呼ばれる三重の城壁が囲んでいた。
395年にローマ帝国が分裂し、東ローマ帝国側の都市となると、コンスタンティノープルは正式に東ローマ帝国の首都として機能することになる。
度々、異教徒であるレヴィン教の侵入などもあったが、コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東から侵入する侵略者の大部分からヨーロッパを守っていた。
しかし1202年~1204年の第4回十字軍による侵攻をうけ、東ローマ帝国は一旦滅亡し、コンスタンティノープルは荒廃していく。
1261年にコンスタンティノープルは東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国に奪還される。
コンスタンティノープルの教会や防衛力は荒廃し、かつての活気は失われ、人口も50万人から僅か10万人へと減少していた。
陥落
コンスタンティノープルに入城するメフメト二世
14世紀半ばに興ったオスマン帝国は小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた。
バヤズィト一世ムラト二世といった歴代のオスマン皇帝たちに度々包囲されるも、これを全て撃退。
コンスタンティノープルはしぶとく生き残り、東ローマ帝国最後の都市にして首都であった。
しかし1453年5月29日にオスマン皇帝メフメト二世が12万から20万とも言われる大軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。
8週間にわたる包囲の後、ついにメフメト二世はコンスタンティノープルを陥落させて東ローマ帝国を滅ぼした。メフメト二世はコンスタンティノープルをオスマン帝国の新しい首都として宣言した。
オスマン帝国の首都として
スレイマニエ・モスク
1453年の陥落後、メフメト二世は直ちにコンスタンティノープルの再建に取り掛かった。
ローマ帝国が遺した水道やインフラを再建し、モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を建てた。
後のグランドバザールの前身となる屋根付きのバザールを始めとする商業施設を建設して都市を再興した。
また皇宮としてトプカプ宮殿の建造を開始している。この宮殿はその後も歴代の皇帝によって増築が繰り返され、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。
包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、コーン教徒や被征服者のキリスト教徒にズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からレヴィニエト(レヴィン教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブールは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。
また、メフメト二世の治世にはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、国際的な社会を築いている。
ハギア・ソフィア・モスク(アヤソフィア)
1800年代までにイスタンブールの人口は58万人を超え、レヴィン教による抑圧はあったものの東方正教やアルメニア使徒教会の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、レヴィニエトのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。
モスクのドーム内部
1520-1566年のスレイマン一世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。
主要な建築家であり、後世にオスマン帝国最高の建築家と呼ばれたミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、レヴィン教の書法、オスマンの細密画が栄えた。

1517年にオスマン家はレヴィン教帝国の地位を宣言して、レヴィオン(レヴィン教の最高権威者)となり、イスタンブールは現在に至るまでレヴィオンの首都として続いている。
オリエント急行のポスター

19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ、この時代に金角湾に橋が架けられた。1880年代にイスタンブールはヨーロッパの鉄道網と結ばれ、1883年に運行を開始したオリエント急行は、1888年にイスタンブールへの直接乗り入れを開始している。
これにより、西ヨーロッパとイスタンブールは直接結ばれることとなった。近代的な水道・電気・電話・路面電車などが、公共事業により導入されていった。

現在ではイスタンブール大都市圏として世界都市の1つとして栄えていて、現在もオスマン帝国の首都である。

政治

上述の通り、第一宰相が市長職に当たる。
現在の第一宰相はソコルル・アフメト・パシャ?
第一宰相は行政権を持ち、司法と立法を管理する役目がある。司法は行政と立法を監視する役目もある。
立法府は存在せず、実質的なイスタンブール市域の立法府を担っているのが国会である大国民議会である。
大国民議会の下部委員会である「首都委員会」によってイスタンブールの立法は行われている。

行政

イスタンブール市域と言われるだけあって、他の県などの行政区は存在しないが、市下の区が設置されている。
政府機関の多くがレヴェント地区に位置し、皇宮があるファティ地区やユルドゥズ地区なども有名。

行政区一覧

都市景観

軍事

イスタンブールの国軍士官学校
オスマン軍の最高司令部である統合本部や軍と情報機関である政府情報部国家安全保障執行局?などの本部がレヴェント地区に所在。
さらにイェニチェリ士官学校など軍の中枢が集まっている為、都市の防衛体制は最高レベルとも言える。
ちなみにイェニチェリ司令部も所在する。

駐留する軍はアナトリア方面軍とその隷下部隊である。

その他

  • イスタンブールより遷都すべきとの声がある。
  • 最近開発されている同じアナトリアのアンカラに大宰相官邸が所在する。(イスタンブールにも存在)

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