オスマン帝国の君主? | |
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アブデュルハミト2世 オスマン帝国 第34代皇帝 | |
在位 | 1876年〜1909年 |
別号 | 流血帝 |
個人情報 | |
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出生 | 1842年 |
没年 | 1918年 |
配偶者 | なし |
子女 | なし |
母親 | 不明 |
父親 | アブデュルメジト一世? |
その他 | |
称号 | 赤い流血の皇帝、流血帝 |
宗教 | イスラム教 スンナ派? |
オスマン国第34代皇帝。
内政面の近代化を推し進めていた帝国内でKY行動を開始し、憲法制定者のミドハト・パシャを国外追放して専制政治を開始した。
帝国内部に電子網を張り巡らした後に非正規軍、秘密警察を組織して帝国の恐怖政治を展開した。
その恐怖政治で粛清された国民は数百万人と言われ、帝国内外から「赤い流血の皇帝」と呼ばれた。
内政面の近代化を推し進めていた帝国内でKY行動を開始し、憲法制定者のミドハト・パシャを国外追放して専制政治を開始した。
帝国内部に電子網を張り巡らした後に非正規軍、秘密警察を組織して帝国の恐怖政治を展開した。
その恐怖政治で粛清された国民は数百万人と言われ、帝国内外から「赤い流血の皇帝」と呼ばれた。
1876年に叔父アブデュルアズィズがクーデターを起こされて廃位されると、その後を継いだ兄のムラト5世も精神疾患ですぐに退位したため、新皇帝として擁立された。兄と共に叔父の西欧訪問に随行した経験を持つが、皇子時代のムラト5世が「新オスマン人」と呼ばれる立憲派と積極的な関わりを持ったのに対し、アブデュルハミト2世は逆に距離を置いていたといわれる。このため、開明的な人物であるという評判とは裏腹に、その政治姿勢や手腕は全くの未知数の人物であった。
当時の帝国は改革の真っ最中で、憲法制定を急いでいたり、帝国内の早急な改革を目指していた。
これにより、帝国では憲法を制定されることとなり、ミドハド・パシャを制憲委員会の委員長、ついで大宰相に任命して12月23日にオスマン帝国憲法の発布にこぎつけた。憲法ではムスリムと非ムスリムの平等が定められ、勅選の上院と民選の下院からなる議会も開設された。
こうして、オスマン帝国における第一次立憲制が始まったものの、アブデュルハミトは叔父がクーデターで廃位された経験から皇帝権を強化したい意向を持っており、憲法によって皇帝権が制限されることに強い警戒感を抱いていた。このため、憲法には戒厳令の発令や危険人物の国外追放といった、強い君主大権が残された。
当時の帝国は改革の真っ最中で、憲法制定を急いでいたり、帝国内の早急な改革を目指していた。
これにより、帝国では憲法を制定されることとなり、ミドハド・パシャを制憲委員会の委員長、ついで大宰相に任命して12月23日にオスマン帝国憲法の発布にこぎつけた。憲法ではムスリムと非ムスリムの平等が定められ、勅選の上院と民選の下院からなる議会も開設された。
こうして、オスマン帝国における第一次立憲制が始まったものの、アブデュルハミトは叔父がクーデターで廃位された経験から皇帝権を強化したい意向を持っており、憲法によって皇帝権が制限されることに強い警戒感を抱いていた。このため、憲法には戒厳令の発令や危険人物の国外追放といった、強い君主大権が残された。
1877年2月にミドハト・パシャは憲法の君主大権に基づいて大宰相を罷免され、国外追放に処され、後に逮捕、処刑された。
続く1878年2月、政府への批判が高まり、これらの批判に業を煮やしたアブデュルハミトは非常事態を口実に憲法を停止し、議会も閉鎖してしまう。こうして第一次立憲制は終焉をむかえ、以後30年に及ぶ専制体制が始まることになる。
アブデュルハミトはイスタンブールのユルドゥズ宮殿に引きこもって、帝国中に電子網を張り巡らせ、密告を奨励。
秘密警察を組織し、非正規軍をも創設し、帝国内で史上類を見ない恐怖政治を展開した。
この治世下で粛清された人数は数百万人と言われ、アブデュルハミトは国内外から赤い流血の皇帝と呼ばれるようになる。
こうした一方、アブデュルハミトはイスラム教の最高権威者カリフとして、近隣諸国に布教や、世界各国のイスラム教の積極的な保護や、1889年にはエルトゥールル号を近代化を成功させた極東の島国に派遣するなどして、オスマン帝国のカリフとしての権威を高めたりした。
また日本が明治維新後目覚ましい近代化を推進したことに共感を持ち、1881年に使節団を率いて訪問した吉田正春、1892年にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けに訪れた山田寅次郎を自ら出迎え、アブデュルハミト自身は明治天皇を多大に評価していた。
続く1878年2月、政府への批判が高まり、これらの批判に業を煮やしたアブデュルハミトは非常事態を口実に憲法を停止し、議会も閉鎖してしまう。こうして第一次立憲制は終焉をむかえ、以後30年に及ぶ専制体制が始まることになる。
アブデュルハミトはイスタンブールのユルドゥズ宮殿に引きこもって、帝国中に電子網を張り巡らせ、密告を奨励。
秘密警察を組織し、非正規軍をも創設し、帝国内で史上類を見ない恐怖政治を展開した。
この治世下で粛清された人数は数百万人と言われ、アブデュルハミトは国内外から赤い流血の皇帝と呼ばれるようになる。
赤い流血の皇帝 アブデュルハミト
こうした一方、アブデュルハミトはイスラム教の最高権威者カリフとして、近隣諸国に布教や、世界各国のイスラム教の積極的な保護や、1889年にはエルトゥールル号を近代化を成功させた極東の島国に派遣するなどして、オスマン帝国のカリフとしての権威を高めたりした。
また日本が明治維新後目覚ましい近代化を推進したことに共感を持ち、1881年に使節団を率いて訪問した吉田正春、1892年にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けに訪れた山田寅次郎を自ら出迎え、アブデュルハミト自身は明治天皇を多大に評価していた。
しかし、アブデュルハミトは厳しい独裁政治・恐怖政治を敷いたことから、遂に国民の不満は爆発し、 1908年に勃発する。
革命勃発直後、アブデュルハミトは暴徒と化した民衆を鎮圧するため、鎮圧軍をイスタンブールから送るも、鎮圧軍が民衆側に寝返る。
革命軍およそ数万人はイスタンブールのユルドゥズ宮殿に向けて進軍を開始。
打つ手をなくしたアブデュルハミトは革命軍の要求である憲法の復活を承認し、憲政が復活した。
しかし、翌1909年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起こったことで、この動きへの皇帝の関与を疑った議会はアブデュルハミト2世の廃位を決め、議会で廃位を決議した。
こうして、アブデュルハミト2世は、オスマン帝国史上初の議会で廃位を決議された皇帝となった。この決議はシェイヒュルレヴィオンの承認を得た上で実行に移され、後継の皇帝に弟のメフメト・レシャト(メフメト5世)が擁立された。
革命勃発直後、アブデュルハミトは暴徒と化した民衆を鎮圧するため、鎮圧軍をイスタンブールから送るも、鎮圧軍が民衆側に寝返る。
革命軍およそ数万人はイスタンブールのユルドゥズ宮殿に向けて進軍を開始。
打つ手をなくしたアブデュルハミトは革命軍の要求である憲法の復活を承認し、憲政が復活した。
しかし、翌1909年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起こったことで、この動きへの皇帝の関与を疑った議会はアブデュルハミト2世の廃位を決め、議会で廃位を決議した。
こうして、アブデュルハミト2世は、オスマン帝国史上初の議会で廃位を決議された皇帝となった。この決議はシェイヒュルレヴィオンの承認を得た上で実行に移され、後継の皇帝に弟のメフメト・レシャト(メフメト5世)が擁立された。
アブデュルハミト2世は帝国が近代化改革を推し進める中で典型的な専制政治を展開するなどの旧体制に縋る人物であったが、この専制政治の治世約30数年間は珍しくもオスマン帝国内では安定した期間であり、また国力を増強するのにも役立った。
さらにカリフとしての権威を高めるなどの有能とも思える評価が下せるところもある。
さらにカリフとしての権威を高めるなどの有能とも思える評価が下せるところもある。
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