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オスマン帝国の歴史
古代
・ローマ帝国 58年~395年
・東ローマ帝国 395年~1453年
中世
・セルジューク朝 1037年~1194年
・ルーム・セルジューク朝 1077年~1307年
・オスマン帝国の建国 1299年
・アナトリア・ベイリク 1081年~1423年
・コンスタンティノープルの陥落 1453年
近世
・モハーチの戦い 1524年
・第一次ウィーン包囲 1529年
・東方遠征 1533年~1554年
・プレヴェザの海戦 1538年
・キプロス島遠征 1570年
・レパントの海戦 1571年
・第二次ウィーン包囲 1683年
近代
タンジマート改革 1839年~1876年
立憲君主クーデター 1908年
オスマン革命 1930年~1950年
現代
1995年クーデター 1995年

概要
オスマン帝国の歴史。
ww2などの世界的な大戦争はそのページを参照。

中世

建国史

オスマン一世とオルハンの建史
初期のオスマン帝国の兵士
1299年に、イスラム教の戦士団を率いていたオスマン・ベイによって建国されたと言われる。(オスマン君侯国)
オスマンは、近くの君侯国や戦士団と時には戦い、時には手を組みながら着実に勢力を拡大して行った。
ソユットを首都としたオスマン軍は、1326年にブルサへ侵攻し、これを陥落させるもオスマンが陣没。

第2代皇帝にオルハンが即位し、東ローマ帝国?の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大。アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた。
1346年には東ローマ皇帝の皇位争いに介入し、ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オルハンをダーダネルス海峡からバルカン半島トラキア地方に上陸させ、奇しくも後に東ローマを滅ぼすオスマン帝国の勢力拡大の足掛けを東ローマ皇帝自ら行ってしまう。

1354年に起きた地震に便乗してガリポリを占領。また、オルハンの治世下において、君侯国はそれまでの戦士団から、国家としての組織化が行われた。

オスマン帝国として

勢力拡大と瓦解
ムラト一世を刺し違えたとされるミロシュ・オビリチ。
オルハンの死後、第3代皇帝に即位したムラト一世は、1362年にエディルネを占領。ブルサから遷都すると共に、エディルネはコンスタンティノープル陥落?までオスマン帝国の首都として繁栄することになる。
さらにデウシルメ?と呼ばれる徴兵制度を敷き、国政を整えると共に、デウシルメで徴兵されたキリスト教徒の少年を徴兵し、イスラム教の知識を詰め込む教育をした後に「常備歩兵」としてオスマン帝国の拡大に功を成したのがイェニチェリである。

さらに戦いの途中に降伏したキリスト教の騎士なども殺すことなく再登用し、オスマン軍の騎兵として軍に組み込んだりした。

1371年マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年にはテッサロニキも陥落し、ライバルであったカラマン侯国も撃退した。
そんな征服の数々からムラト一世は神の代理人支配帝と呼ばれた。

そんなムラト一世は1389年にコソヴォの戦いでセルビア貴族ミロシュ・オビリチによって殺されてしまう。
しかし、その息子バヤズィト一世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。なお、バヤズィトは即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、これを兄弟殺しという。バヤズィトは報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した。

1393年〜1394年の間にはブルガリアを征服し、ギリシャに遠征し、ペロポネソス全域を制圧する。
さらにギリシャ遠征前にはコンスタンティノープルを包囲するなど、ヨーロッパを恐怖のどん底に突き落とした。
ニコポリスの戦い
これを危惧したヨーロッパ諸侯は、1396年に十字軍を結成してオスマン帝国に侵攻するも、ニコポリスの戦いで、逆にバヤズィト率いるオスマン軍に撃退される。
これによってバルカン半島でのオスマン帝国の勢力は固められた。
これによってバヤズィト一世は雷帝と呼ばれた。

しかし、1402年にアンカラに侵攻してきたティムール軍にオスマン軍は敗北。
皇帝バヤズィトも捕虜となり、帝国は瓦解。
アナトリア含むオスマン帝国領は一時的にティムール朝の勢力下に入る。
また、捕虜になったバヤズィトも1403年に死去し、オスマン帝国は空位時代を迎え、十数年にわたる皇位争いが始まる。

空位時代

再統合と失地回復
典雅帝メフメト一世。
再建帝ムラト二世。
1412年に帝国の再統一に成功したメフメト一世は、失地回復に注力を尽くし、典雅帝と呼ばれた。
メフメト一世死後、第6代皇帝に即位したムラト二世は、再び襲来した十字軍を撃破し、破竹の勢いで失地回復、ヴァルナの戦いでヨーロッパ諸侯連合軍を撃破し、ブルガリアを回復。
モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国の勢力下に入った。
こうしてメフメト一世とムラト二世の時代は失地回復に費やされることとなる。

近世

千年都市とオスマン帝国

コンスタンティノープルの陥落
メフメト二世即位後のオスマン帝国
征服帝メフメト二世
ムラト二世死後の1451年に第7代皇帝に即位したメフメト二世は、1453年に東ローマ帝国?の帝都であり、千年間の都として栄えたコンスタンティノープルを陥落させ、ここを新首都と定め遷都する。
1460年にはミストラを陥落させ、オスマン帝国によるバルカン半島の支配が確定する。
陥落した千年都市に入城するメフメト二世
コンスタンティノープルの陥落後、メフメト二世はシャーリアに従うことを余儀なくされ、コンスタンティノープルには略奪の嵐が吹き荒れた。
しかしヨーロッパ文化を深く愛し、理解していたメフメト二世は、略奪を通常5日間の所を2日で停止させ、略奪の後の市内へ入った。
入城後、メフメト二世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始。
モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた。
またアンカラなどの地方に存在したトルコ系有力者、貴族を強制的にコンスタンティノープルへ移住させる。
コンスタンティノープルは徐々に活気を取り戻し、名前もギリシャ由来のイスタンブールとなってゆく。

また陥落後、コンスタンティノープル攻略に反対したチャンダルル・ハリル・パシャを粛清。さらにチャンダルル一族を粛清し、中央からチャンダルル家を排除した。

コンスタンティノープルを征服した後も、メフメトの征服活動は継続された。バルカン半島方面では、ギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニアの征服を達成し、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領。
1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服したことで東ローマ帝国の残党は全て消滅することになる。
1475年には、クリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功。
ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。
メフメト二世崩御直前の領土
1479年までにはジュノヴァの島々を征服し、エーゲ海、黒海を支配下に置き、「オスマンの内海」と呼ばれるようになるほどまでにオスマン帝国海軍は強くなる。
また、メフメト二世は上述の功績によって征服帝二大陸の皇帝と呼ばれた。

再侵略

中東侵攻
聖帝バヤズィト二世とその息子、冷酷帝セリム二世?
メフメトの跡を継いだバヤズィト二世は、父と異なり、積極的な拡大政策を採用することは少なかった。
聖人と呼ばれるほどイスラム教を深く信仰していたバヤズィトだったが、この弱腰姿勢は息子のセリム二世?に反発され、1512年に父を廃位して第9代皇帝セリム二世として即位した。
セリムは即位後に兄と父を殺し尽くして即位したことや、さらに自信に逆らうものは大臣であっても粛清したことから冷酷帝と呼ばれた。

セリムは父とは違い、積極的な拡大政策に転換し、その最初の目標は未だ征服未完了の東部アナトリア方面であった。

1514年、チャルディランでサファヴィー朝を撃退。
チャルディランでは、イェニチェリを中心とした銃歩兵と火砲を効率よく運用してサファヴィー朝の騎馬隊に一斉に銃を放つなど、近代的な戦い方で勝利。
この戦い方は数十年後に極東の戦国にて織田信長が使用している。
1515年にはイラクへ侵入し、マルジュ・ダービクでマムルーク朝軍を撃破してパレスチナ、イラク、レバノンなどを占領、併合した。
翌年1516年から1517年のたった1年でマムルーク朝領に深く侵入したオスマン軍はカイロを陥落させ、マムルーク朝をたった1年で崩壊させた。
またマムルーク朝の保護下であったイスラム教の聖地メディナ、メッカをオスマン帝国が保護したことで、オスマン帝国はイスラム教スンナ派の盟主となる。
また、セリムはマムルーク朝庇護下にあったアッバース朝末裔のカリフをイスタンブールに護送して庇護下におくも、最終的に監禁して獄死させてアッバース朝を断絶させた。
セリム二世崩御直前の領土
エジプトから帰国したセリム二世は、ロードス島攻略に向かうも途中で病死。
冷酷帝セリム二世のたった8年の治世でオスマン帝国の領土は4倍近くで拡大した。

壮麗帝と最盛期(黄金期)

スレイマンの即位
壮麗帝スレイマン一世
セリム二世の死後、1520年第10代皇帝に即位したスレイマン一世は即位直後に周辺地域の反乱を平定する。
1521年から外征に乗り出し、ベオグラードを占領。
スレイマンは
ベオグラードは玄関

と言って、欧州への領土拡大の意欲をさらに出していた。
1522年にはロードス島を聖ヨハネ騎士団から奪い取って占領。この2ヶ所は曽祖父のメフメト二世が最後まで征服できなかったところであり、これにより帝国内におけるスレイマン一世の支持、評価は著しく向上した。また、ロドス島の征服によって三大陸にまたがるオスマン帝国領土内の海上交通のとげが取り除かれ、領土内の航行が円滑となった。

ロドス島征服の直後に、スルタン即位前からの寵臣で義弟のイブラヒム・パシャを大宰相に抜擢しているが、ベオグラード、ロドス島ともに、若いスルタンの実力を国内向けの演出する効果を狙ったイブラヒム・パシャの進言によるものとも言われている。オスマン帝国はこの時点でもまだ支配が安定せず、1522年から1524年にかけてエジプトで反乱が起こったが、イブラヒム・パシャは反乱を鎮圧、1525年に総督に赴任してエジプトの支配を安定させ、1526年・1527年にアナトリア南部で親サファヴィー派の部族が起こした反乱も収拾させ、軍事・行政共に有能な手腕を示し、スレイマンの信任を深めていった。
モハーチの戦いとウィーン包囲
モハーチの戦い
1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ二世を討ち取りハンガリー中央部を平定。
ハプスブルク家のオーストリア大公国と国境を接した。スレイマン一世はラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン帝国に服属したトランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュを推し、傀儡としてハンガリーの間接統治を狙った。
しかし、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家の神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール五世の弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント一世)と対立すると、1529年に第一次ウィーン包囲を敢行した。
第一次ウィーン包囲

オスマン軍は籠城軍の頑固な抵抗の前にウィーンを攻めあぐね、東から坑道を掘っていた大宰相イブラヒムの部隊が奇襲を受けて敗走するなど、不利な状況が続く。
オスマン軍も黙って見ているだけではなく、打って出た籠城軍およそ500人を討ち取るなど、一進一退の攻防が続く。
オスマン軍頼みの綱である火砲が届かなかった事と、冬が訪れたことでスレイマン一世は撤退を決定。
10月初頭の夜、オスマン軍は陣地の火をたいたまま闇夜に紛れて全軍が撤退を成功させ、スレイマンはイスタンブールへ帰還した。
ウィーン攻略は失敗したものの、オスマン帝国の戦略的勝利となり、ハンガリー王も兼ねる事になったハプスブルク家にとってすぐに反攻しハンガリー領を奪い返すことは出来なかった。
ウィーン包囲から1年後の1530年にイスタンブールにフェルディナントの使節が来訪、オスマン帝国との交渉は決裂したがすぐに戦端は開かれず、1532年になって両軍はハンガリー国境で対峙した。
しかし小競り合いに終始した後はスレイマンもフェルディナントも妥協を考えるようになり、1533年に和睦が成立、サポヤイのハンガリー王位が認められハンガリーは分割された。
スレイマン一世は1532年にも再びオーストリア遠征を敢行したが、どちらも戦端を開こうとせず和睦の話し合いが行われ、1533年にフェルディナントの使者とイブラヒム・パシャとの協議の結果和睦が成立した。
内容はオーストリア=ハプスブルク家がヤーノシュのハンガリー王位を認め、オスマン帝国に貢納金を支払うことが確約されたため、ハンガリーに対するオスマン帝国の優位が明言され、スレイマン一世はしばらくヨーロッパ遠征は控える代わりに東方遠征へ向かった。

オスマン帝国の東方遠征

オスマン帝国にとって、東のサファヴィー朝はチャルディランでセリム二世が粉砕したものの、依然として脅威であった。これを懸念したスレイマン一世と大宰相イブラヒムは、1533年より東方遠征を開始し、1534年にはバグダードを占領。
続く1535年にはアゼルバイジャンを占領し、国境線を確定させた。
1548年、1550年と複数回にわたって遠征を行うも機動力と焦土作戦でオスマン帝国の侵攻を止め、オスマン帝国は思ったように成果を挙げれなかった。
最終的に1555年のアマスィヤの講和で、サファヴィー朝とオスマン帝国の国境線が確定した。

なお、最初の1536年遠征の後に大宰相イブラヒムが粛清された。決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマンの不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためともいわれているが、いずれも伝聞に過ぎず真相は不明。また、1536年を境にスレイマンの大規模な領土拡張政策は終わりを告げ、以後は周辺国との交戦と重要拠点の確保、制海権や内政重視に目を向けていった。
制海権の確保
バルバロス・ハイレッディン
海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とする海賊勢力のバルバロス・ハイレッディンが帰順すると彼を海軍提督=パシャとした。
彼の帰順によりアルジェリアもオスマン帝国領となり、西地中海に足がかりを得ると共に、海軍力も大幅に増強された。
プレヴェザの海戦
彼の率いるオスマン帝国海軍は1538年のプレヴェザの海戦でスペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保、黒海も事実上支配下に収めた。ピーリー・レイースが海軍で名を挙げるのもスレイマン一世の時代である。

また、1540年にはサポヤイ・ヤノーシュが没すると、フェルディナンドが講和を破棄してハンガリーに攻め込んできたため、スレイマンは再びハンガリー遠征を敢行。
神聖ローマ軍をブダペストで打ち破ったスレイマンは、ハンガリー全域を制圧し、「オスマン帝国領ハンガリー」を設置し、中央から完全統治を行った。

このように隙のない行動力と栄華を極めたスレイマンは周辺諸国から壮麗帝と呼ばれた。

壮麗帝の死と最大版図

スレイマン崩御
晩年のスレイマン一世
1543年に次男メフメトが病死、1553年にイラン遠征の最中に長男ムスタファを謀反の罪で処刑、同年に末子ジハンギルも病死、1558年の最愛の妻ヒュッレムの死後、1559年に反乱を起こした皇子バヤズィトを1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送ったスレイマンは、1565年にマルタ島への遠征軍を派遣したが失敗、1566年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世が和睦を破りハンガリーを攻撃すると報復のためハンガリー遠征を敢行。

秋にはスィゲトヴァールに到着し、攻撃を開始するも、もはや彼に指揮する力はなく、各部署からの報告を聞くだけとなっていた。一進一退の攻防が続く中、9月7日にスィゲトヴァール包囲中(スィゲトヴァール包囲戦)に陣中で没した。

軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが代行して陥落させ、勝利。
スレイマン一世の遺骸を運び撤退した。遺骸はイスタンブールに運ばれて、自身がスィナンに建造させたスレイマニエ・モスクの墓地に葬られた。
次の皇帝には、政争の結果唯一生き残った皇子セリムが第11代皇帝セリム3世として即位、父と似ず大酒飲みの無能であった為、政治は大宰相ソコルル・メフメト・パシャを中心とした官僚達の主導で動いていった。
スレイマン没直後の領土(1566年)
最大版図
オスマン帝国の最大版図(1683年)
キョプリュリュ家?が世襲で執政を務めたキョプリュリュ時代、オスマン帝国は着実に領土をさらに拡大させ、国力の面では微かに衰退を見せていたものの、対外戦争では未だにヨーロッパの脅威として君臨した。

1683年、最大版図を迎えたオスマン帝国のハンガリーで反乱が発生する。これをスレイマン一世以後のハンガリー完全制圧の好機と見た大宰相カラ・ムスタファ・パシャは、150,000人という大兵力でハンガリー遠征を敢行。
ハプスブルク家本拠のウィーンを包囲し、第二次ウィーン包囲?を敢行する。
しかし城壁が前回よりも強くなっていたことや方位が1ヶ月に渡って行われたことからオスマン軍は疲労。
1683年10月にはヨーロッパ諸侯連合軍が到着し、オスマン軍と激突。
疲労しているに加え、騎兵中心であったオスマン軍は連合軍に大敗北を喫し大宰相カラ・ムスタファもベオグラードに敗走し、オスマン軍は散り散りとなって敗走した。
大トルコ戦争
詳細は大トルコ戦争を参照。
大宰相カラ・ムスタファ・パシャ
ベオグラードに敗走したカラ・ムスタファは残存兵およそ80,000人を集結させ、迎撃の構えを見せた。
帝都イスタンブールよりイェニチェリ10万人と皇帝メフメト四世がベオグラードに到着。
オスマン帝国軍18万と神聖同盟軍およそ12万はベオグラードで激突する。(ベオグラードの戦い?)
カラ・ムスタファの有能な采配と、メフメト四世が自ら出陣してきたことにより、士気が上がったオスマン軍は、神聖同盟軍に対し、圧倒的な力を見せつけた。
精鋭として名高いイェニチェリの銃撃や竜騎兵などの活躍もあり、オスマン軍はベオグラードで神聖同盟軍を撃退。
以後は守勢に転じ、補給を重要視したオスマン帝国は攻勢に出ることもなく戦線は頓着した。
最終的に1699年にカルロヴィッツ条約が締結された。内容としてはオスマン帝国のハンガリー領有の確定、神聖ローマ帝国とオスマン帝国の20年の和平が確約された。

近代

近代化の波

マフムト2世による改革
18世紀のイスタンブール
18世紀に入ったオスマン帝国は、近代化政策が積極的に推進され、ヨーロッパ世界に遅れまいと帝国も近代化政策を採用することとなる。
大宰相を中心とした帝国政府は、軍事を中心に近代化を行った。この軍事近代化は功を成し、オスマン帝国が現在まで続く大国としての基礎ができたと言える。
マフムト2世
19世紀に入った1802年、オスマン帝国でマフムト2世が第30代皇帝として即位する。
マフムトは、近代化を推進する開明的な皇帝で、典型的な啓蒙専制君主とされる。
マフムトが行った近代化政策の一つである、政治の面では、君主の代理人として絶大な権力をふるってきた大宰相の権限縮小をはかり、外務大臣、内務大臣、財務大臣、司法大臣などの大臣職を置いた。そして、これまで大宰相が主催してきた帝国の最高意志決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は閣議に改められ、オスマン帝国の伝統的政治体制は西洋式の内閣制度に近づけられていった。

保守派の牙城であった宗教勢力に対しては、宗教関係者の経済的基盤である寄進財産を政府の管理下に入れたりすることで、宗教勢力の力を削いでいった。
オスマン帝国の宗務行政において、最高の地位にあった''「シェイヒュルレヴァイン」も、これまでの超然とした地位を改められ「長老府」と呼ばれる宗務行政の最高官庁の長官とされ、閣議のメンバーに加えられるなど、政府機構の中に取り込まれていった。

1833年には、 翻訳局が設立され、オスマン帝国の若手官僚の中から、西洋の言語に通じ、通訳官・外交官として活躍できる人材が育成されていった。

また、従来の徒弟制的な家内教育と宗教勢力による学校教育が大勢を占めていた教育の分野も近代化がはかられ、軍医学校、音楽学校、士官学校などの近代的教育機関が創設された。彼らのうちの優秀なものたちは西洋に留学に派遣され、次世代を担うエリート改革官僚層を形成してゆくことになる。
文化の上でも、イェニチェリで採用されていた西洋式の制服とトルコ帽が1829年に宗教関係の分野を司ってきたウラマー(イスラム教法学者)の除く全ての文官にも採用され、オスマン帝国の服制に洋装が取り入れられた。

これらのほかにも、マフムト2世期の重要な改革として、常設大使館の設置、官報の創刊、納税者の全国調査実施、郵便制度の創設などがあげられる。

このように、マフムトは様々な改革を専制的に実施し、オスマン帝国近代化の歴史に大きな足跡を残した。しかしその急速な西洋化改革は多くのムスリム国民の反感を招き、マフムトは「異教徒の皇帝」とあだ名されたという。
*
タンジマート改革
アブデュルメジト1世
1839年11月、アブデュルメジト1世の「ギュルハネ」勅令によってタンジマート?が布告。
オスマン帝国は改革に向けて本格的に始動し、憲法制定、議会の設立、多民族国家となっていく。
アブデュルメジト一世は大宰相ムスタファ・レシト=パシャ?の補佐を受けて改革を順調に進める。
この頃よりスレイマン一世の頃に与えられたカピチュレーションを根拠にヨーロッパ列強がオスマン帝国に介入してくるようになる。
さらに加えてアブデュルメジトが、補佐役のムスタファ・レシトが死去すると改革を放棄するという事態が発生し、帝国の近代化は一定の期間止まることになる。
アブデュルメジトの死後、跡を継いだ第32代皇帝アブデュルアズィズは、海軍の近代化を推進。
アブデュルアズィズ
英国をモデルとした艦船に完全に心を奪われ、英国より技術者を招き、オスマン帝国の海軍エンジニア達に技術を根付けさせ、海軍の近代化に一定の評価を得る。
しかし皇帝大権を制限する憲法には否定的であった為、ミドハト・パシャ率いる改革派によってクーデターを起こされて退位。
甥のムラトが第33代皇帝ムラト5世として即位する。
ムラト5世は、改革派に協力的で、積極的に改革派の人物達と関わりを持っていた為、叔父アブデュルアズィズに監視されるほどであった。
ムラト5世は憲法制定にも賛成的で、改革派と共に近代化を目指すも、精神を病んでしまい退位。
流血帝の恐怖政治
紅い流血の皇帝 アブデュルハミト2世
退位したムラト五世の弟、アブデュルハミトが第34代皇帝アブデュルハミト2世として即位。
アブデュルハミトは、改革派でもなく、かといって逆でもない中立的な人物だったとされる。
アブデュルハミトの即位直後、憲法が制定された。こうして、オスマン帝国における第一次立憲制が始まったものの、アブデュルハミトは叔父アブデュルアズィズがクーデターで廃位された経験から皇帝権を強化したい意向を持っており、憲法によって皇帝権が制限されることに強い警戒感を抱いていた。このため、憲法には戒厳令の発令や危険人物の国外追放といった、強い君主大権が残された。
また、憲法を制定した改革派の大宰相ミドハト・パシャは憲法の君主大権に基づいて大宰相を罷免され、国外追放に処されていた(後に逮捕・処刑される)。
また、1877年3月に開会された議会では、オスマン帝国に対して容赦のない政府への批判が繰り返された。
1878年2月、これらの批判に業を煮やしたアブデュルハミト2世は非常事態を口実に憲法を停止し、議会(下院)も閉鎖してしまう。こうして第一次立憲制は終焉をむかえ、以後30年に及ぶ専制体制が始まることになる。

ミドハト・パシャの失脚後、イスタンブールのユルドゥズ宮殿に引き籠もったアブデュルハミト二世は皇帝による専制政治の強化を行ない、秘密警察(ハフィエ)を結成して密告を奨励する。さらに、国民の不満を抑えるために軍部を利用して厳しい弾圧を行ない、不正規軍ハミディイェの設立も行った。

アブデュルハミトの治世中における弾圧で殺された者は数知れず、ある時は血が河になったこともあったとまで言われている。このため、「赤い流血の皇帝(Kızıl Sultan)」称されて恐れられた。

その一方でイスラム教の外国布教に力を入れ、「オスマン皇帝」としてではなく、「カリフ」としてオスマン帝国外では、オスマン帝国の威信を高めた。
また、同時期に起きたギリシャ独立騒動では勝利を収めている。
また、日本が明治維新後目覚ましい近代化を推進したことに共感を持ち、1881年に使節団を率いて訪問した吉田正春、1892年にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けに訪れた山田寅次郎を自ら出迎え、アブデュルハミト自身は明治天皇を多大に評価していた。

しかし、アブデュルハミトは厳しい独裁政治・恐怖政治は30年間に及んで敷いたことから、遂に国民の不満は爆発し、クーデターが起こる。
立憲派のクーデター
国民の不満が爆発したクーデターに対し、鎮圧軍を派遣するも鎮圧軍が革命側に寝返ったことで、アブデュルハミト2世は憲法復活を迫られ、憲政の復活を承認。
しかし、翌1909年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起こったことで、この動きへの皇帝の関与を疑った議会は、議会で廃位を決議した。

こうして、アブデュルハミト2世は、オスマン帝国史上初の議会で廃位を決議された皇帝となった。この決議はシェイヒュルイスラームの承認を得た上で実行に移され、後継の皇帝に弟のメフメト・レシャト(メフメト5世)が擁立された。
1911年から翌1912年にかけて、イタリアとの戦争が勃発。
オスマン帝国トリポリタニア州が戦場となり、この戦争の講話によって西リビア、チュニジアをイタリアに割譲。
割譲によって北アルジェ州?が飛び地化してしまう。

1918年にメフメト5世が崩御。
その弟メフメトが第36代皇帝メフメト6世として即位するも、無力な存在=傀儡でしかなかった。
そんなメフメト6世は1926年に崩御する。

オスマン革命

アリー1世による革命
立憲派のポスター
1926年、メフメト6世の跡を継いだ息子のアブデュルメジ2世?は、文化人肌で世俗的権力に興味がなく、政治は大宰相ら側近に任せるという自由人であった。
早くから隠居したいと考えていたアブデュルメジトは、1930年に息子のアリー・ヴァーズブに皇位を譲り、隠居。ヴァーズブがアリー1世として即位した。

1930年、アリー1世はミドハト憲法を停止、同時に宮廷憲法学者、アムルースク・ファンサ?後継憲法の作成を命じた。
またアリー1世は
  • 貴族制度の事実上の廃止
  • 弟殺しの法令廃止
  • オスマン家典範の制定
  • 皇帝大権の制限
などの法令や法律を全面的に改正したり、廃止したりした。アリーは帝国を近代化させるために大宰相の独裁を禁じたりと、政府官僚の近代化も図った。
また、国内全体のインフラ整備、経済の近代化やバラバラだった貨幣の統一、エドワード商会と連携して帝国銀行の設立など、帝国経済全体を近代化させた
1943年、アリーは軍部の近代化にも着手し、軍部大臣現役武官制や武器や兵器の近代化、指揮系統の統一、国外から知識人、技術者を集めて国内の者達にその技術を根付け、海軍の軍艦や戦車などの近代兵器の技術を貰ったりした。
その結果、帝国軍は近代化に成功し、陸海軍部の暴走を禁ずる「軍事監察官」職の制定、軍部出身の官僚は大宰相にはなれないなどの法律も制定した。
また、各地の総督の軍も中央政府によって吸収され、帝国軍へと組み込まれた。
若かりし頃のアリー1世
1932年のオスマン帝国憲法発布後、正式に国号が「オスマン国」と規定された。

しかし1952年、アリーが病気がちになり、革命は終焉を迎える。
このオスマン革命は帝国の封建的階級や特権を事実上撤廃させ、国民の基本的人権の保護なども行われた近代的な革命であった。

影響

オスマン革命の結果、オスマン国の軍事、経済において全てが近代化された。
また、帝国本国内だけではなく、遠く離れたエジプト大州やアラビア州などにもこの近代化の波は訪れ、エジプトなどの北アフリカではエドワード財閥による急進的な近代化が行われることになる。

現代

新皇帝の即位
1953年にアリー1世が崩御。
アリーの死は国内各地に影響を与え、混乱を招いたが、未亡人となったアリーの妻、皇后マヒドゥ・レヴィオンが大宰相ら官僚をまとめ、混乱を収束させた。
その結果、アリーの息子アハミト・レシャト(アハミト1世?)が第39代皇帝として即位した。

アハミト1世はオスマン帝国(事実上)初の立憲君主となった。
高度経済成長
ワラキア州にある工業地帯
アリー1世の行った改革によって、国内各地の産業は盛んとなり、元々盛んであったが綿花の生産が大きく向上した。さらにアナトリアの都市、アンタルヤ?に工業地帯(アンタルヤ工業地帯?)が開設するなど、経済は大きく成長し始めた。
また帝都イスタンブールや各地の歴史都市での観光業が盛んであり、アムルースクの経済に大きく貢献している。
油田
また原油埋蔵量は世界一とも言えるアムルースクでは、原油の輸出なども国内経済の一翼を担っている。
日本への原油輸出は国内を大きく潤している。

農業面では、ヘーゼルナッツやさくらんぼ、イチジクの生産量は世界一を誇り、工業化に成功し、工業国となった今でも、農業大国として君臨している。

このように高い産業と、高度経済成長が重なった結果、アムルースク=オスマンは、先進国の一員となった。
また、五大国の一国でもあり国際連合の常任理事国も務めている。

現在

オスマン科学の全てが結集した未来都市アグリニオン
1995年にアハミト1世が崩御。
新たに皇太子エルトゥールル?が即位。
また大宰相アズィーム・イウサールによる長期政権が13年間にも及んでおり、国内は安定している。
また2019年には要塞都市アグリニオンがほぼ完成。
近未来な迎撃要塞都市として国内外で話題になった。

また人格移植OSの先駆けとして第6世代有機スーパーコンピュータと謳われるスーパーコンピュータ、「MAGI」が完成。
アグリニオン市の地下ジオフロントにあるイェニチェリ本部にオリジナルが、第2号機がイスタンブールに存在する。他にもタイプ1~5がエジプトなどに存在している。

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