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ムラト一世
オスマン帝国 第三代皇帝
在位1362年~1389年
別号支配帝ヒュダヴェンディギャール
個人情報
出生1319年/1326年
没年1389年
配偶者ギュルチチェク・ハトゥン
子女バヤズィト
母親ホロフィラ
父親オルハン
別名ーー
その他
称号神の代理人
宗教イスラム教 スンナ派?
概要
ムラト一世は、オスマン帝国の第三代皇帝。
オルハンの政策を継承し、バルカン半島での勢力の拡大を積極的に進めた。キリスト教国に対する戦勝はイスラーム世界におけるオスマン帝国の名声を高め、ヨーロッパ諸国は新興のオスマン帝国の動向に注意を向け始めるようになった。
イェニチェリを創設した本人であり、彼もまた「神の代理人」「支配帝」と呼ばれ畏れられた。
歴代君主の中で初めてベイ(君侯)という称号をやめて「スルタン」(イスラム教国の君主という意味)を使用した。

生涯

即位

1319年/1326年のどちらかにオスマン帝国の皇帝オルハン・ベイの次男として生まれる。父オルハンの在位中はイノニュの知事を務めていた。
オルハンの存命時は有能と賞賛されたムラトの兄スレイマン・パシャがオスマン帝国の後継者と目されていたが、1359年にスレイマンは不慮の落馬によって急死する。

オルハンの死後に皇子たちの間で後継者争いが起こり、抗争を勝ち抜いたムラトが帝位に就く。

即位後最初の2年間、ムラトはアナトリアで起きた反乱の鎮圧に注力する。バルカン半島の軍事を将軍のララ・シャヒーン・パシャ、ハジイル・ベイ、エウレノス・ベイらに任せてアナトリアに渡り、父のライバルとも言える東方のカラマン侯国の扇動によってアヒ(職人の同業者同盟)に占領されたアンカラを回復した。

エディルネ遷都

ムラト在位中の領土変遷
アンカラを奪還した後にビザンツ帝国が領有するアドリアノープル(エディルネ)攻略の準備に取り掛かり、援軍を阻止するために周辺の城を攻撃する。
将軍エウレノス・ベイは周辺の砦、城塞やアドリアノープル郊外にある町村を占領した。

1362年7月にアドリアノープル攻略に派遣した将軍ララ・シャヒーン・パシャがサズルデレの戦いでビザンツ軍に勝利。1363年にアドリアノープルはオスマン帝国の支配下に入る。
さらにララ・シャヒーンによって、トラキア地方が制圧され、トラキア地方はオスマンの手に帰した。
特に食糧の補給地点、エディルネを守る前線基地、バルカン山脈の北から侵入する敵軍の監視地点としての役割を有するフィリッポポリスを獲得した意義は大きく、要所を占領したオスマン軍は進軍を一時停止し、軍備を整えた。
セルビア総崩れ
セルビアに逃亡したフィリッポポリスの城主はセルビアにオスマンへの攻撃を要請し、教皇ウルバヌス5世は全キリスト教徒に反オスマンの十字軍を呼びかけた。
ハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、ボスニアからなる連合軍がエディルネに進軍し、オスマン軍は将軍ハジイル・ベイが率いて偵察に向かった。
ハジイル・ベイは数で優位に立つバルカン連合軍の油断に乗じて奇襲をかけた。
奇襲を受けたバルカン連合軍は混乱に陥り、逃げようとした者の多くがマリツァ川で溺死した。1364年のマリツァ河畔での戦勝はオスマン軍の勝利でおわり、後に「セルビア総崩れ」と呼ばれる。
ムラトは敵国の奇襲に対応するため、1366年にエディルネをバルカン半島での都とした。
1453年にメフメト二世がコンスタンティノープルを占領するまでの間、エディルネはアナトリアのブルサと並ぶオスマン皇帝の居住地とされ、現在も王宮が置かれていたりと重要視されている。

バルカン征服


オスマン帝国のヨーロッパでの勢力の拡大に対して、これまで対立していたバルカン半島の国家は団結してオスマンに抵抗しようとしていた。

1371年、将軍ララ・シャヒーン・パシャ率いるオスマン軍がセルビアの有力諸侯であるヴカシン・ムルニャヴチェヴィチらをマリツァ河畔の戦いで破り、セルビア・ブルガリア征服の一歩目を踏み出す。
同年にムラトはララ・シャヒーン率いる遠征軍をブルガリアに派遣し、ブルガリア皇帝イヴァン・シシュマンをサマコフの戦いで破り、ブルガリアを臣従させた。
ムラトはシシュマンを厚く待遇し、シシュマンの妹マリアを妃に迎えた。

また、1371年から1372年にかけて、ブルガリア遠征と同時期にエウレノス・ベイがマケドニアを攻撃していた。
エウノレスの攻撃により、カヴァラ、ドラマがオスマンの支配下に入る。

1373年、ムラトの子であるサウジがビザンツの皇子アンドロニコスと共謀してクーデターを企てる事件が起きるが、ムラトは反乱を速やかに鎮圧し、サウジを盲目にした上で処刑した。

1375年にセルビアが領有するニシュを一時的に奪い、ニシュを失ったセルビアは大打撃を受ける。
1378年にはオスマン軍は協約を破り、ブルガリアに侵入した。軍備、内政の安定のため、ムラトは1380年までの間にバルカン諸国と一時的に休戦協定を結んだ。ブルガリアはオスマンに臣従を誓い、セルビアは毎年一定量の兵力と銀を貢納した。

コソボの戦いと死

ムラト一世を殺害したミロシュ・オビリチ
1381年に息子バヤズィトとゲルミヤン侯国の王女デウレト・ハトンの婚姻を成立させ、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤ、エメト、タウシャンル、スィマヴを獲得した。
ハミド侯国には圧力をかけ、ウスパルタ、カラアーチ、アクシェヒル、セイディシェヒを買収した。

また、アナトリアでのオスマン帝国の拡大はカラマンに危機感を抱かせ、アナトリアのオスマン領はカラマン侯国の攻撃を受けた。ムラトはキュタヒヤに軍を集結してカラマンの首都コンヤに進軍し、カラマン平野の戦闘で勝利を収める。この時にムラトが率いていた軍には、同盟国であるビザンツ、ブルガリア、セルビアの兵士が加わっていた。
1387年、カラマンはオスマン侯国から奪った土地の返還を認め、和平を結んだ。

同年、4年の包囲の末にビザンツ帝国の勢力圏にあったペロポネソス半島の主要都市であるテッサロニキがオスマン帝国の支配下に入る。ビザンツ皇帝マヌエル2世はオスマンへの臣従を拒んでいたが、テッサロニキの攻略後にムラトはマヌエル2世から臣従の誓いを受けた。

一方、バルカン半島ではセルビア、ボスニア、クロアチア、アルバニアらバルカン半島諸国がオスマンの同盟を結び、オスマン帝国に臣従していたブルガリアも密かに同盟に参加していた。ムラトはセルビアへの進軍に先立ち、1386年に大宰相アリー・パシャをブルガリアに派遣し、ブルガリア軍をニコポリスで破り、1388年までにブルガリアの大部分がオスマンの支配下に入った。
ムラトは以前と同じようにシシュマンを手厚く待遇し、オスマンへの協力を誓わせた。

とはいえ、1386年あるいは1387年には、ボスニアに侵入した20,000の非正規の騎兵がプロシュニクでセルビア・ボスニア連合軍に大敗を喫する事件が起きる。
また、セルビア君侯であるラザル=フレベリャノヴィチの下にはブルガリア、ワラキア、アルバニア、ハンガリーから援軍が集まり、セルビア・ボスニア連合軍の兵数は急速に増加していった。

1389年春、ムラトはセルビアに親征を行い、オスマン軍とバルカン諸侯の連合軍はコソボ平原で激突する。
しかしムラトは戦闘の最中にセルビア人貴族ミロシュ・オビリチによって殺害される。
直後にバヤズィトが即位し、ほかの弟達を殺し尽くして即位した為、事なきを得たオスマン軍はコソボにて連合軍を壊滅させ、勝利。
バヤズィトは戦後、報復としてラザルをはじめとするバルカン諸侯を処刑した。戦勝の結果セルビアがオスマンの支配下に入り、バルカン半島におけるオスマンの版図はより拡大した。

人物

ムラトは陣頭で指揮を執る人物だったと言われ、法律を遵守し、国家に対して献身的に奉仕し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられる。
このことから「神の代理人」や「支配帝」という別号が付いたと推測されている。

政策

軍事
現在も存在する精鋭歩兵軍イェニチェリを創設したとして有名である。
ムラトは征服した地のキリスト教徒の5分の1を自信のもとに集めて徴兵。これが「デウシルメ」と起源とされる。
父オルハンが目指した常備軍の創設を成功させ、軍指揮官にも皇子達ではなく徴兵された軍人奴隷が能力主義で次々と頭角を現した。
オスマン帝国のこうした完全能力主義は、ムラト一世の代で完成したと思われる。
内政
ムラトの元では、国の法を担うカーディー(判事)制度が整備され、新たにカザスケル(司法長官)職が設置された。

行政を司る宰相には軍事的な権限が与えられ、権限の拡大に伴って大宰相を筆頭とする複数の宰相が軍事と行政を担った。
カザスケルに任命されたチャンダルル家のカラ・ハリルはイェニチェリの設置に関わっていたと言われ、チャンダルル家は大宰相と宰相を多く輩出した。

次代

先代当代次代
オルハンムラトバヤズィト一世

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