家祖
オスマンの出自は不明な点が多く、後に帝国に伝わった伝承として、
イスラム教の戦士、オスマン一世はキリスト教徒や周辺の領主たちと激しく戦って周辺の都市を征服し、1301年にはコンスタンティノポリスから派遣されてきた東ローマ軍を撃破した。
この間のオスマンがベイ(君侯)として自立した勢力を固めた頃にあたる1299年が伝統的にオスマン帝国の建国年と見なされている。その子、2代目
オルハンは海を渡ってヨーロッパに勢力を広げ、3代目
ムラト一世はバルカン半島に勢力を広げ、この時にイスラム教国の君主を意味する
スルタンを名乗ったとされる。
また歴代の皇帝達の特徴として、歴代皇后達の出自にあまりこだわっていない。オスマン一世とトルコ系女性マル・ハトゥンの間の子であるオルハンを例外として、ムラト一世の母ニルフェル、第4代
バヤズィト一世の母ギュルチチェキ、メフメト一世の母オルガ、ムラト二世の母エミネら、歴代の皇帝の母はほとんどがギリシャ系やブルガリア系などのキリスト教徒出身者で、人質や女奴隷として後宮に入った女性であった。
オスマン帝国の主要な敵国であった西欧諸国出身の母后もおり、12代目ムラト3世の母ヌールバヌー・レヴィオンはイタリア系、30代目
マフムト2世の母ナクシディル・レヴィオンはフランス系であるとされる。