×

【魏志(三国志)】

魏志で弁辰が書かれている部分は、辰韓と一緒になっている(中国wikiからだが、元の文章は一括で書かれているので、読みにくくなるが句読点を消している)。
辰韓在馬韓之東其耆老傳世自言古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之有城柵其言語不與馬韓同名國爲邦弓爲弧賊爲寇行酒爲行觴相呼皆爲徒有似秦人非但燕齊之名物也名樂浪人爲阿殘東方人名我爲阿謂樂浪人本其殘餘人今有名之爲秦韓者始有六國稍分爲十二國弁辰亦十二國又有諸小別邑各有渠帥大者名臣智其次有險側次有樊濊次有殺奚次有邑借有已柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離彌凍國弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁樂奴國軍彌國〈弁軍彌國〉弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戶路國州鮮國(馬延國)弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國〈馬延國〉弁辰瀆盧國斯盧國優由國弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家總四五萬戶其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼。辰王不得自立爲王〈《魏略》曰明其爲流移之人故爲馬韓所制〉土地肥美宜種五穀及稻曉蠶桑作縑布乘駕牛馬嫁娶禮俗男女有別以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚《魏略》曰其國作屋�堽潴昃�之有似牢獄也國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡俗喜歌舞飲酒有瑟其形似築彈之亦有音曲兒生便以石厭其頭欲其褊今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身便步戰兵仗與馬韓同其俗行者相逢皆住讓路弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施灶皆在戶西其瀆盧國與倭接界十二國亦有王其人形皆大衣服�論仰国�亦作廣幅細布法俗特嚴峻
この中で、辰韓部分と弁辰部分度、共用の部分を分けないといけない。
【国の構成】
最初に書かれている部分です。
辰韓在馬韓之東其耆老傳世自言古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之有城柵其言語不與馬韓同名國爲邦弓爲弧賊爲寇行酒爲行觴相呼皆爲徒有似秦人非但燕齊之名物也名樂浪人爲阿殘東方人名我爲阿謂樂浪人本其殘餘人今有名之爲秦韓者始有六國稍分爲十二國
この部分はまず辰韓の説明なので、「『辰韓』という国」で説明します。
それに対して、
弁辰亦十二國又有諸小別邑各有渠帥大者名臣智其次有險側次有樊濊次有殺奚次有邑借
は弁辰を説明しており、
弁辰も12の國ですが、多くの小さな邑があり、それぞれに指導者がいます。代表者を臣智、次は險側、次は樊濊、次は殺奚と呼ばれ、その他は邑借(邑人)です。
とあります。これは、國の構成を言っているのでしょう。村長(代表者)が「臣智」と呼ばれ、その補佐をする人が「險側」、「樊濊(濊に対する柵という意味)」は防衛責任者で、「殺奚(奚=奴隷)」は奴隷管理責任者となります。中国の歴史書なので、古代中国視点で見る必要があり、「邑」という集団郡の中で大きな「大邑」を「國」と称します。
【國の名前】
小国として、
有已柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離彌凍國弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁樂奴國軍彌國〈弁軍彌國〉弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戶路國州鮮國(馬延國)弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國〈馬延國〉弁辰瀆盧國斯盧國優由國
とあります。
このうち、「有已柢國」と判っている国としてあげていて、
不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離彌凍國弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁樂奴國
までは「辰韓」の国です。
軍彌國〈弁軍彌國〉弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戶路國州鮮國(馬延國)弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國〈馬延國〉弁辰瀆盧國斯盧國優由國
が辰弁の国となり、「樊濊(濊に対する柵という意味)」と先にあるように、北から南に来る濊を警戒していたようです。
挙げられているのは単純に北から順番に書いており、弁辰の国だけを挙げると、

大体の位置は図のようになるかと思います。一番北が「軍彌國」とあるように、北からの侵入に警戒をしていたようです。

これらの国で、
弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家總四五萬戶其十二國屬辰王
弁辰と韓(辰韓)を合わせると24國あり、大きな邑では4〜5千世帯、小さい邑で6〜7百世帯あり、4〜5万戸ある。その内の12國は辰王に属する。
とある。ここで「戸」も当時なら古代中国視点なので、平均すると1戸=5人余程度ですので、20〜30万人の人口が居たとなります。
「12國は辰王に属する」というのは、「『辰韓』という国」で説明しますが、つまり、弁辰は辰王に属していないという事です。。
辰韓人の民族自体は、元々は衛氏朝鮮(紀元前194年頃)が周囲の弱小部族を受け入れた際に入って来た周辺部族であり、衛氏朝鮮の滅亡時(紀元前109年頃)には南に逃げ馬韓に入りってきた民族です。しかし、馬韓の中で様々なトラブルを起こしたらしく、更に馬韓により東地にへと移住させられた民族なのである。衛氏朝鮮があったところが朝鮮県になるのだが、その朝鮮県の場所は山海経の中に「朝鮮在列陽東海北山南列陽屬燕(燕に属している朝鮮と言う地方は北に山があり東に湿地があり、列陽地域の南部にある)」と書かれているが、この「列陽」というのは古代におい現在の中国・遼寧省にある遼河と北流河の合流地点付近を指す地名なので、朝鮮半島には無く、遼東地域の中でも内陸部をかなり北に上がった場所にある地域にある。そこから辰韓人は来たと書かれている。

『後漢書』や『魏志(三国志)』も含め、多くで「三韓」とあるが、実はその中身は「中国支配を受けている馬韓と、その馬韓の支配国である辰韓」と「弁辰」になる。
また馬韓に東に移住させられた民族のその一部が、東海岸を南にと進み、先に定住した倭人が移民の辰韓人も住まわせたのが「弁辰」という正体になる。

軍彌國〈弁軍彌國〉jənjiei
弁辰彌烏邪馬國jieiojiara
如湛國joǐěm
弁辰甘路國ɑmo
戶路國oo
州鮮國(馬延國)joujian旌善郡
あるいは鬱陵郡
jiengjian
jətjəŋ
弁辰狗邪國oujia
弁辰走漕馬國ouzʰɑura于珍也郡wojiənja
弁辰安邪國〈馬延國〉anjia
弁辰瀆盧國uko
斯盧國jieio居知火県jieia
優由國joujou虞風県juojong
これを見て思うのは、やはり「三国史記」は6世紀以前の記載についてはほぼ出鱈目だという事ですね。
土地の履歴なども、まるで違うようです。
https://www.google.com/maps/d/u/0/viewer?mid=1YQGH...

休壌郡 jou
習比谷県  jəpjiuk
金壌郡  jəmng
習谿県 jəpiei
歙谷県 i̯əpuk
通州 ung

何瑟羅 ɑrjieta
河西良 aieijang
河西  aiei
徳節  əkiat
束草  jukau
峴県  iɑn
翼県  jək
水域領 jiəi jək
江陵市 rungjəŋ
悉直国 jiət jək
旌善郡 jiengjian
厚浦港 auo
盈徳  jiengək
江口港 rungou
青松  iengjung
浦項市 orung
鬱陵 jətjəŋ
蔚珍 jəd jiən
 于珍也郡 wo jiən ja
平海 jieng jəї/əї
 斤乙於県 jənjiətuo
于尸山 jǐu0rian
屈阿火県 jətaa
居知火県 jojieia
于火県 ji̯ua
律浦県 jəto
生西良郡 rengieijang
虞風県  juojong
律浦県 jəto
【耕作など】
土地肥美宜種五穀及稻曉蠶桑作縑布
土地は肥沃で、穀物や米の栽培、絹織物の製造に適しています。
これは、既に分かっている日本の縄文時代末期から弥生時代にかけて符合します。朝鮮東海岸ではほぼありえない記載内容ですので、辰韓は含まないと思われます。

実は、日本の養蚕はそれなりに古い。
BC3世紀には既に痕跡があり、それ以前からある事が判っているが、元は中国から来たものと考えられている。ただし、
  • 秦の時代のBC221年には統制が厳しくなっており技術流出を禁止されている
  • 弥生時代中期(BC200年頃)の福岡県有田遺跡で出土した平絹は中国の絹織物とは織り方が異なる
事や、それよりも古くから、あるいは日本独自で絹織物が存在していた可能性も示唆されているものです。

楽浪郡形式の遺物も見つかっており、当時から日本は楽浪郡とも交流交易していた事が判ります。BC108年に楽浪郡に養蚕が伝わっているのですが、秦の時代では厳しく制限されていた技術ですので、楽浪郡にはBC108年に伝わったと記録がありますが、前漢の時代に広めたようです。
283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、中国式の養蚕技術の導入も行われ、日本式にアップデートをされてきています。
「195年には百済から蚕種(カイコの卵)が伝わる」とありますが、これは百済はまだ存在しないので、史実かは確認が出来ない。
【牛馬の利用】
牛馬を利用していた事が書かれています。
乘駕牛馬
ただ、これを「牛や馬に乗っていた」と訳しているものが多いですが、これは訳し間違いです。
また、辰韓ではない(馬韓を通っているので、辰韓は馬韓の風習「不知乘牛馬,牛馬盡於送死」に似ている)でしょう。
古代史で見れば、遼寧省の内モンゴル自治区にある夏家店下層文化(紀元前2000〜1500年頃)で牛が使われ始めている形跡があります。また、馬に関してはやはり内モンゴル自治区の夏家店上層文化(紀元前1100〜500年頃)で、馬具や銅製車具も多く出土しています。ここは東胡の南下と同地の征服によって成立した文化で、同時代の西周の影響も受けている文化です。これらの部族が秦や漢の時代より前に南下し遼東半島も越え、漢による移住管理をされる前に南下した部族が倭の領域に定住し、そこから伝わった文化でしょう。BC194年=BC2世紀より前の時代であり、遼寧式青銅剣や青銅器・鉄器の文化を伝えて来た文化でしょうか(ただし、中国に錬鉄文化が来たのはBC9世紀。日本では成型鉄がBC10世紀に見つかっているので矛盾している)。
「乘驾牛馬」を「牛や馬に乗っていた」と訳しているのをよく見かけますが、これは訳し間違いで、「乘驾」は古代中国語だと「農具などを家畜につけ、引っ張る」という意味になります。つまり、「乘驾牛馬」は「農業に牛や馬を利用していた」という事が書かれています。あるいはさらに牛車や馬車のように車を曳かせて乗っていたかもしれません。

ただし、馬に関して倭は以前から中国や韓と交流をしていますが、「乗馬」は自体はいつからかと検討してみる。
百済はAD366年に倭と講和しており、AD391年には百済が倭に従属(倭の地方国家)になっており、百済との接触より古い。
考えるに、「魏以降での中国との交流」と考えられます。中国の郡が不雲関を設けて正式な国境を挟んだ交流を初め、この交流で手に入れた文化だと思われる。日本の在来馬が蒙古系家畜馬を起源にしているというのと、導入したのが古墳時代という事。また馬の埴輪が古墳時代前期(AD3世紀後半)から出土するようになっており、大体合っているかとは思う。
また、牛については五島や壱岐で2200〜2300年前(BC2〜3世紀)に牛の歯が見つかっているので、馬よりかなり古いです。
『魏志倭人伝』では
其地無牛馬虎豹羊鵲
その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
と書かれているが、少なくとも牛は『魏志倭人伝』が書かれているAD3世紀よりも500年ほど前には既に日本には存在して利用しています。中国からの使者が来て見て伝えた範囲では見つからなかっただけなのである。
【結婚】
結婚については、
嫁娶禮俗男女有別
結婚の慣習は男女で異なります。
漢代の結婚の風習は「漢代の結婚風習は、現在とは大きく異なり、特に「六礼」と呼ばれる儀式が重要視されました。六礼とは、納采、納幣、請期、親迎、門名、納吉の6つの儀式を指し、新郎側が新婦側への礼儀を尽くすことで、結婚の成立を確実にするためのものです。また、漢代では、初夜の儀式や、新郎が新婦を迎えに行く際に輿を用いるなど、独特な風習がありました」というもので、これとは違ったのでしょう。馬韓
「日本結婚史」によると、「日本の婚姻の形式は、「婿入婚」つまり、新郎が嫁の家に入りそこに住まうことが基本的なものであった」とあり、これが違ったという事でしょうか。古事記には「男女の出合いの場には、五穀豊饒を祈ったり、また取り入れの祭礼に、男女が歌い踊る歌垣というものがあった。ここで男女が歌を歌い合って求婚の機会とした。申し込まれた娘は父兄に身のふり方につて相談して、もし異存がなければ、即座に縁談が成立し、婿になる人は娘の家で挙式するのである。そして男はある期間同家に通い、後に家居を建ててここに同棲することになる」という形のようで、このような違いを言っていたのかもしれません。
このお祭り好きな具合は、
俗喜歌舞飲酒有瑟其形似築彈之亦有音曲
人々は歌ったり踊ったり酒を飲んだりするのが好きだ。琴のような形をした琴があり、演奏すると音が出る。
という記述にも符合します。

ただ、辰韓がどのような形態かは分かりません。漢系なのか、高句麗系なのか、濊系なのかで違います。
【葬式】
葬式については、
以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚
死者を送る際に鳥の羽を使うのは、死者(の魂)を空へ飛ばすためです。
とある。これは鳥葬文化を表している。
この鳥葬だが、朝鮮半島の忠清南道にある大田槐亭洞の遺跡である大田槐亭洞で出土した青銅儀器の一面には、樹枝に停る鳥が表現されており、他のヶ面にぱ鳥の羽をつけた耕人が踏鍬を踏み込んでいる状景が描かれている。これを韓国の民俗学者である張箱根が"霊鳥"信仰を表現するものであり、内陸シベリアー蒙古一満州系の霊鳥信仰の南漸があったことを示すとともにぐ大阪府四池に発見された弥生時代の木製の鳥は、霊鳥信仰が稲作にともない日本に及んだものと主張している説である。
しかし、彼らの文化はトーテム文化であり、熊・虎などで、鳥のトーテムは遼東地域にある新楽文化(BC5500〜4800年)の女真系部族のトーテムであり、実際は合わない。
また、青銅器(BC4世紀頃まで)の時代だと忠清南道は倭の領域である。
時代から見ても、出土した場所から見ても、『鳥葬』は朝鮮の文化ではなく倭の文化の痕跡と言えるでしょう。
また、BC5000〜2000年ぐらいだと、遼東半島は人が通りにくい時代(海水面が今よりも高いので、現在よりも通れる場所が狭い上に、河川の川幅が今よりも広い場所だったので、遼東半島を通っての南下自体が難しい時代である(特に鴨緑江を渡河は無理だろう)。

日本では古くから鳥葬文化が存在している。
日本への文化伝達は北方からか南方からか、それとも両方からと考えられる。北方は海道の石狩川河口に近い手宮・フゴッペ洞窟の岩壁には羽あるいは翼をつけた像が有角の像とともに描かれているが、これはシベリア系の鳥霊信仰の流れを汲むと言われる。もう1つが、南方からの・東シナ海じゃら来たもので、遅くとも弥生時代にはある鳥霊信仰である。鳥取県淀江町の稲吉角田遺跡から出土した収骨に用いられた弥生時代中期の壷の頭部には、羽の装いをした華南・江南系の船人が船を漕いでいる状景や、高倉のある集落の一角に、巨樹の枝から『魏志(三国志)』韓伝に記載されている鈴鼓に当たると推測されるものが垂下ている状景などを示す線刻画が描かれている。この羽装人物と葬送儀礼の結びつきは、東南アジアの青銅器文化である中国の東山文化(BC1000年頃)に特徴的な様式を残した遺物であり、これが日本に伝わったものと考えられる。朝鮮半島の忠清南道にある大田槐亭洞遺跡の壁画も、これが伝わったものと思われる。
それ以前にも、縄文文化の高台は見張り台ではなく、鳥葬の宗教的な施設ではないかとも考えられており、日本には朝鮮半島より古くから鳥葬文化は存在していたのである。
ちなみに青銅器に関しても、青銅器文化自体は中国が古いのは確かなのだが、日本には確認されているだけでもBC8世紀には遼寧式銅剣が出土しているに対して、朝鮮半島の南部では松菊里遺跡などBC3〜5世紀になり、日本より新しい時代から取り入れているのが判っている。これは難しい話ではなく、紀元前までぐらいは日本は朝鮮半島を使う陸路の交易よりも、黄海を使う海路での交易が主だったからである。ただし、実利的に使うのは半島の方が古い(どちらにしろ倭の領域での話なのですが)。

これは、稲作の伝達や土器・石器の伝達で考えられるルートと同じであり、環濠集落文化や変形頭蓋骨文化などでも考えられるルートと同じなのである。

西暦に入ってからで新しくなるが、L字形鎌でも、同じようなルートを辿っている(朝鮮半島で本格的に使われるようになったのは高句麗が南下してきてからでAD5世紀ぐらいから)。
【変形頭蓋と入れ墨】
生まれた子供の頭を変形させると言うのが書いてある。
兒生便以石厭其頭欲其褊
子供が生まれると、石を押し付け頭を平らにする
という風習だが、朝鮮半島で変形頭蓋骨が見つかっているのが慶尚南道金海市(金官国があった地域)の禮安里で発見された4世紀の伽耶古墳群である。この変形頭蓋骨は、日本の弥生時代終末期(3世紀)に鹿児島県種子島の「広田遺跡」出土の人骨と、古墳時代中期(5世紀)に熊本県和水町の前原長溝遺跡や同町松坂古墳出土の人骨で見られるものであり、どちらも背が平均より少し低いです。
これについては『魏略』に書かれており、
倭南有侏儒国其人長三四尺去女王國四千餘里
日本の南、女王国から300kmほど離れた場所には背が小さい民族がいます。
とあり、また『魏志(三国志)』でも
自女王國南四千餘里,至硃儒國,人長三四尺
日本の南、女王国から300kmほど離れた硃儒國があるが背が小さい
とあり、これが広田人の事だと思われます。

この変形頭蓋骨文化は中央アジアから西に広がってあったもので、中央アジアから東には来ておらず中国側(北から)来ている風習ではありません。そこで似たような変形頭蓋骨文化の風習が近隣で何処にあったかと探すと、フィリピンでそのような文化がある民族があり、南西諸島ルートで日本にやって来たものと考えられる文化です。

弁辰で雑居していた辰韓人だが、
今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身
今は辰韓人は全員が頭を変形させており、倭(従来人)に馴染んだ者は入れ墨も入れている
と書いており、これは弁辰の中で雑居していた辰韓人について書いてあるが、「昔は違っていたが、倭文化に順応した」という事を示唆しています。
これだが『後漢書』では、
語言風俗有異
言葉や風習は違っていた
と書いてある(つまりだが、弁辰に居る辰韓人は移民であり、『後漢』と『魏志(三国志)』の時代の間で辰韓人が倭に馴染んでいったという事である)。
【生活】
弁辰では、
弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與
弁辰は辰韓と雑居しており、邑(環濠集落)で衣服や住居を与えていた
とある。環状集落は、朝鮮半島の南側にある遺構で倭の形態です。この環濠集落も、日本全域と朝鮮半島の南部に見られる弥生時代の形式であり、日本の方が古くからあり、日本から朝鮮に伝わったものと考えられる文化です。この環濠集落の分布は下図になります。

実は意味を知るのに大事なのは「弁辰與辰韓」の「與」の字です。
「與」は「あたえる」「くみする」「あずかる」という意味です。ですので、正しいニュアンスで言えば「弁辰は辰韓人に邑(環濠集落)の中での生活を許しており、衣服や住居も与えていた」というような意味になります。単純な「弁辰と辰韓は雑居していた(弁辰和辰韓雜居)」とは少しニュアンスが異なりますが、「和」のような意味で訳しているものを多く見掛けますので注意が必要です。
その雑居していた弁辰は、
辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施
辰韓は弁辰と同じ言葉を話し弁辰の風習を守るが、宗教については異なっていた
と、雑居している辰韓人は弁辰に馴染んでいるが、宗教は自由だったことが書かれている。隷属のような関係ではなく、民として受け入れていたという事です。
灶皆在戶西其
竈は家の西側にあった
とある。『施灶皆在戶西』とある「竈」だが、日本では、福岡県の西新町遺跡から3世紀〜4世紀の竈の遺構が見つかっています。
既に朝鮮半島の南側より古い遺構が確認されており、従来は「『竈』は朝鮮半島から日本に伝わった」と言われていましたが、そう単純でないのが「竈」です。魏志伝は西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)〜297年(陳寿の没年)の間)に書かれたものですから、それより前の状況を書かれたものでしょう。この時にはまだ大同江以南では見られないが、弁辰地域では竈がある事が書かれており、その前には日本に竈が既にある事は考古学発掘から分かっている、という時系列になります。

「オンドル」の元になるL字形竈は、朝鮮半島の中央部あるいは大同江あたりで生まれたものだが、その時期はBC4世紀頃であり、その時代は「倭の領域」だった場所から発生している。それを馬韓が取り入れ寒い場所で使いだし(BC1世紀)、そして高句麗が南下した際に取り入れ(BC4世紀以降)て使いだしている。朝鮮半島の北側は高句麗の動きに合わせて広がり、朝鮮半島の南側は倭の活動に合わせて広がっています。どちらにしろ、辰韓人(韓国人の直接の祖先)が持っていた文化ではなく、また、持ってきた文化でもありません(倭から強奪した文化です)。
詳しくはこちらを読んでください。
《魏略》曰其國作屋�堽潴昃�之有似牢獄也
この国の家は木を水平に積み重ねて作られており、まるで牢のようだ。
たぶん、これは高床式倉庫の事を書いたものだろう。
其俗行者相逢皆住讓路
彼らの習慣では、人とすれ違えば立ち止まって道を譲ります。
とあり、礼儀正しい民族として記録しています。

ちなみに、「遼東郡朝鮮半島説」だと、松菊里遺跡は馬韓のあった領域になる。そこには『松菊里式住居』とは竪穴式住居があるのだが、では馬韓の住居は?というと、
居處作草屋土室形如塚其戶在上舉家共在中無長幼男女之別
墓のような形をした茅葺きの土小屋に住んでおり、その小屋は上部に戸があり、その中に老若男女の区別なく家族全員が住んでます。
とあり、松菊里遺跡にある環濠集落である竪穴式住居が彼ら(馬韓の北部で主流だった扶余系民族)の文化ではない事も判る(ちなみに、日本では環濠集落を既に作っていた時代である)。また、この時代ではまだ「オンドル」も出来ていない。

たぶんだが、朝鮮時代でも一般的であった民間家屋の形態をもう少し原始的にした家のようなものですね。

ちなみにこれらの写真は「田舎だから」ではなく、1880年代の京城(現在のソウル)の南大門通り(中心通り)でも普通にあった家の形式です。「墓のような形」ですので、たぶん、こんな感じですね。

つまりだが、「松菊里遺跡にある環濠集落である竪穴式住居」は、中国からではなく、日本からの文化の伝達である可能性が高いのです。
【瀆盧國】
『瀆盧國』は『弁辰瀆盧國』と書かれている、国の順番で後ろから3番目に書かれている國である。その位置は、
其瀆盧國與倭接界
と倭に接する場所だと判る。北から見ていくと、西側にはずっと白太山脈が続いており、1000m級の山のが連なりが続くので西に抜ける場所がない。
順番に南に見ていけば、可能性があるのが慶尚北道の盈徳郡のあたりで山が低い場所があり、西に行く事が出来る。

たぶんだが、ここが瀆盧國だろう。
【その他】
鉄も産出しています。
國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡
国は鉄を産出し、韓・濊・倭は皆鉄を輸入しています。中国が貨幣を用いるように、売買に鉄貨を使っています。そして2郡(この時代なので、帯方郡と楽方郡と思われる)にも供給しています。
とあります。日本が朝鮮半島から鉄を輸入していたのは知られた話であり、倭には伽耶地方から産出する鉄が流通していたのは判っています。
これですが『後漢書』には、
國出鐵濊倭馬韓并从市之凡諸貿易皆以鐵為貨
とあり、「韓」とは「馬韓」の事だと判り、「鉄を求めてやってくる」とあります。しかし、倭が大同江の南側まであり楽浪郡と交流や交易をしていた痕跡は見られますので、馬韓や楽浪郡・帯方郡への輸出は判るものの、濊は間に辰韓があり難しい。そういうので北朝鮮の東海岸でも調査すると、実は辰韓も鉄が豊富に採取できる場所があり、今でも有名な鉄産出地があります。ここの鉄が濊に輸出されていたのだと思います。
ただ、倭は遼東地域とは8000年前には既に交易を、沿海州あたりとも交易していた形跡はあるので、海路による交易を倭はしていた可能性はありますが。

その他にも、
便步戰兵仗與馬韓同
歩兵が使う武器や装備は、馬韓のそれと同じだった。
これは「鉄槍を使っていた」ということでしょうね。

【魏志(三国志)の内容】

辰韓と弁辰が混じっているので、判り難い。
これを辰韓を■■■、弁辰を■■■、弁辰の中で同居する辰韓人を■■■とすると、以下になる。
辰韓在馬韓之東其耆老傳世自言古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之有城柵其言語不與馬韓同名國爲邦弓爲弧賊爲寇行酒爲行觴相呼皆爲徒有似秦人非但燕齊之名物也名樂浪人爲阿殘東方人名我爲阿謂樂浪人本其殘餘人今有名之爲秦韓者始有六國稍分爲十二國弁辰亦十二國又有諸小別邑各有渠帥大者名臣智其次有險側次有樊濊次有殺奚次有邑借有已柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離彌凍國弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁樂奴國軍彌國〈弁軍彌國〉弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戶路國州鮮國(馬延國)弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國〈馬延國〉弁辰瀆盧國斯盧國優由國弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家總四五萬戶其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王〈《魏略》曰明其爲流移之人故爲馬韓所制〉土地肥美宜種五穀及稻曉蠶桑作縑布乘駕牛馬嫁娶禮俗男女有別以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚《魏略》曰其國作屋�堽潴昃�之有似牢獄也國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡俗喜歌舞飲酒有瑟其形似築彈之亦有音曲兒生便以石厭其頭欲其褊今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身便步戰兵仗與馬韓同其俗行者相逢皆住讓路弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施灶皆在戶西其瀆盧國與倭接界十二國亦有王其人形皆大衣服�論仰国�亦作廣幅細布法俗特嚴峻
この色区分で分けると、内容が読みやすくなります。
辰韓在馬韓之東其耆老傳世自言古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之有城柵其言語不與馬韓同名國爲邦弓爲弧賊爲寇行酒爲行觴相呼皆爲徒有似秦人非但燕齊之名物也名樂浪人爲阿殘東方人名我爲阿謂樂浪人本其殘餘人今有名之爲秦韓者始有六國稍分爲十二國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離彌凍國弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁樂奴國其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王〈《魏略》曰明其爲流移之人故爲馬韓所制〉
弁辰亦十二國又有諸小別邑各有渠帥大者名臣智其次有險側次有樊濊次有殺奚次有邑借有已柢國軍彌國〈弁軍彌國〉弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戶路國州鮮國(馬延國)弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國〈馬延國〉弁辰瀆盧國斯盧國優由國土地肥美宜種五穀及稻曉蠶桑作縑布乘駕牛馬嫁娶禮俗男女有別以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚《魏略》曰其國作屋�堽潴昃�之有似牢獄也俗喜歌舞飲酒有瑟其形似築彈之亦有音曲兒生便以石厭其頭欲其褊今辰韓人皆褊頭男女近倭亦文身便步戰兵仗與馬韓同其俗行者相逢皆住讓路弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施灶皆在戶西其瀆盧國與倭接界十二國亦有王其人形皆大衣服�論仰国�亦作廣幅細布法俗特嚴峻
共通している部分は、国(邑)の大きさと戸数の説明部分と鉄の産出部分です。
弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家總四五萬戶
國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡
文字数的にはそれほどまでの差ではないのだが、内容が辰韓の内容に比べると弁辰はしっかりとしている。これは、楽浪郡などとも日本が陸路でも交流していたからで、環濠集落の事も書いている事から南部まで使者が来ていたからだろう。そこに辰韓人も同居している東南部を知り、そこで辰韓の事を聞いたレベルではないのだろうか。

【後漢書の内容】

『後漢書』にも、短いながらも色々と書かれています。
韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰馬韓在西有五十四國其北與樂浪南與倭接辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接凡七十八國伯济是其一國焉大者萬餘户小者數千家各在山海間地合方四千餘里東西以海為限皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王都目支國尽王三韓之地其諸國王先皆是馬韓種人焉馬韓人知田蠶作綿布出大栗如梨有長尾雞尾長五尺邑落雜居亦無城郭作土室形如冢开户在上不知跪拜無長幼男女之别不貴金寶錦罽不知騎乘牛馬唯重璎珠以缀衣為飾及縣頸垂耳大率皆魁頭露紒布袍草履其人壮勇少年有筑室作力者輒以绳贯脊皮缒以大木欢呼為健常以五月田竟祭鬼神昼夜酒會群聚歌舞舞輒數十人相隨蹋地為節十月农功毕亦復如之諸國邑各以一人主祭天神號為“天君”又立苏涂建大木以縣铃鼓事鬼神其南界近倭亦有文身者辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觞相呼為徒有似秦語故或名之為秦韓有城栅屋室諸小别邑各有渠帥大者名臣智次有儉側次有樊秖次有殺奚次有邑借土地肥美宜五谷知蠶桑作缣布乘驾牛馬嫁娶以礼行者讓路國出鐵濊倭馬韓并从市之凡諸貿易皆以鐵為貨俗喜歌舞飲酒鼓瑟兒生欲令其頭扁皆押之以石弁辰與辰韓雜居城郭衣服皆同語言風俗有異其人形皆長大美发衣服洁清而刑法严峻其國近倭故颇有文身者初朝鮮王准為衛滿所破乃將其餘眾數千人走入海攻馬韓破之自立為韓王准後滅絕馬韓人復自立為辰王建武二十年韓人廉斯人苏馬�貪�詣樂浪貢獻光武封苏馬�谿抓僧�斯邑君使屬樂浪郡四時朝謁靈帝末韓濊并盛郡縣不能制百姓苦亂多流亡入韓者馬韓之西海島上有州胡國其人短小髡頭衣韦衣有上無下好養牛豕乘船往來貨市韓中
やはり句読点は無くして読まないといけません。
韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰馬韓在西有五十四國其北與樂浪南與倭接辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接凡七十八國
ここはよく知られており、
『韓』には三種類あります。一つは馬韓、二番目は辰韓、三番目は弁辰です。
馬韓は西にあり54ヶ国を有し、北は楽浪、南は倭と接しています。
辰韓は東に12ヶ国を有し、北は濊貊と接しています。
弁辰は辰韓の南に12ヶ国あり、南は倭と接しています。
全部で78ヶ国あります。
で、位置を書いています。これは楽浪郡の位置が判れば馬韓の位置が判り、馬韓の位置が分かれば辰韓の位置が判り、辰韓の位置が分かれば弁辰の位置が判るのです。
【大勢の移動】
その後にある
伯济是其一國焉大者萬餘户小者數千家
これですが、「伯济」は百済ではなく、「移動した百家」と「秦や漢の時代に馬韓に避難した数多くの家」の事を言っています。ですので、
多くの家が移動し、その中で大きい邑(國)は1万戸以上あり、小さい家は数千家が韓に渡った
という事を伝えています。これが『弁辰』を「倭の中で辰韓人が混ざった土地』と紹介されていない理由にもなっており、あくまで中国視点、中国系民族が定住した場所で「馬韓」「辰韓」「弁辰」という地域を設定しているだけだからです。
【韓の臣従と騒乱】
建武二十年韓人廉斯人苏馬�貪�詣樂浪貢獻
光武封苏馬�谿抓僧�斯邑君使屬樂浪郡四時朝謁
「建武二十年」とはAD44年。この時に、韓を周辺国から楽浪郡の直轄地域(臣下)にしている。
靈帝末韓濊并盛郡
靈帝(在位168〜189年)の終わりの頃というから、AD180年代だろうか、時代に韓と濊が活発になる。これは帯方郡が出来る前で、帯方郡の湿地に韓濊が勝手に侵入すると調子に乗る。それを征伐するために公孫氏によって建てられたのが帯方郡である。
縣不能制百姓苦亂多流亡入韓者
制御が出来ないので征伐され再度組み込まれるのだが、百姓は苦しくなり韓の奥へと逃げていく事になる。

これを見ると、主に反抗していたのは馬韓においても西側地域だと思われる。ここが直接統治になり、前燕の時代では、前燕の領土となっている。
【弁辰】
ほとんどは『魏志(三国志)』と同じことを書かれている。
弁辰與辰韓雜居城郭衣服皆同語言風俗有異
というところで、やはり
弁辰は共に暮らし環濠集落で一緒に住んでいた
事が書かれている。ただし、やはり「共处」ではなく「與(意味は"与")」なので「土地の主が弁辰(倭)人で、共に過ごす暮らしを辰韓人に与えていた」ということです(対等な共存であれば「共处」になる)。また、
衣服は同じだが、言葉や風習は違っていた
ともある。【魏志(三国志)】だと「言葉も同じ」だったので、辰韓人が弁辰(というより倭)に時間を掛けて馴染んだ様子が判る。また、
其國近倭故颇有文身者
とあり、これを単純に「倭に近いから入れ墨している者もいた」と訳しているのが多いが、重要なのはそこに「颇」とある事です。「颇」は古代漢文において「すこぶる」「かなり」「相当に」といった意味で使われる副詞ですので、「倭に近く、倭の風習である入れ墨をしている者が大変に多い」と、倭系民族が主体の場所である事が書いています。
【内容の色別】
これを馬韓を■■■、辰韓を■■■、弁辰を■■■、弁辰の中で同居する辰韓人を■■■とすると、以下になる。
韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰馬韓在西有五十四國其北與樂浪南與倭接辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接凡七十八國伯济是其一國焉大者萬餘户小者數千家各在山海間地合方四千餘里東西以海為限皆古之辰国真番旁衆国也馬韓最大共立其種為辰王都目支國尽王三韓之地其諸國王先皆是馬韓種人焉馬韓人知田蠶作綿布出大栗如梨有長尾雞尾長五尺邑落雜居亦無城郭作土室形如冢开户在上不知跪拜無長幼男女之别不貴金寶錦罽不知騎乘牛馬唯重璎珠以缀衣為飾及縣頸垂耳大率皆魁頭露紒布袍草履其人壮勇少年有筑室作力者輒以绳贯脊皮缒以大木欢呼為健常以五月田竟祭鬼神昼夜酒會群聚歌舞舞輒數十人相隨蹋地為節十月农功毕亦復如之諸國邑各以一人主祭天神號為“天君”又立苏涂建大木以縣铃鼓事鬼神其南界近倭亦有文身者辰韓耆老自言秦之亡人避苦役适韓國馬韓割東界地與之其名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觞相呼為徒有似秦語故或名之為秦韓有城栅屋室諸小别邑各有渠帥大者名臣智次有儉側次有樊秖次有殺奚次有邑借土地肥美宜五谷知蠶桑作缣布乘驾牛馬嫁娶以礼行者讓路國出鐵濊倭馬韓并从市之凡諸貿易皆以鐵為貨俗喜歌舞飲酒鼓瑟兒生欲令其頭扁皆押之以石弁辰與辰韓雜居城郭衣服皆同語言風俗有異其人形皆長大美发衣服洁清而刑法严峻其國近倭故颇有文身者初朝鮮王准為衛滿所破乃將其餘眾數千人走入海攻馬韓破之自立為韓王准後滅絕馬韓人復自立為辰王建武二十年韓人廉斯人苏馬�貪�詣樂浪貢獻光武封苏馬�谿抓僧�斯邑君使屬樂浪郡四時朝謁靈帝末韓濊并盛郡縣不能制百姓苦亂多流亡入韓者馬韓之西海島上有州胡國其人短小髡頭衣韦衣有上無下好養牛豕乘船往來貨市韓中

管理人/副管理人のみ編集できます

広告募集中