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mitsuko_tada 2025年06月29日(日) 13:56:46履歴
韓国と言えばキムチが有名ですね。
しかし、今の「唐辛子を大量に使い、長期熟成させ、赤く辛いキムチ」は朝鮮戦争後に出来た半世紀をやっと超えた、韓国となってから出来た新しいキムチです。
そこは間違えてはいけない。
しかし、今の「唐辛子を大量に使い、長期熟成させ、赤く辛いキムチ」は朝鮮戦争後に出来た半世紀をやっと超えた、韓国となってから出来た新しいキムチです。
そこは間違えてはいけない。
これは分かっており、中国北東部の塩漬け野菜がルーツになっています。
中国が「キムチは中国の伝統漬物の泡菜だ」と言うのも、外れた事を言っているわけではありません。
泡菜という漬物は紀元前5世紀頃にはある漬物で、そこから中国全域に広がっています。
現在の赤く辛い熟成させる『キムチ』は少し泡菜とは異なります(中国では別に辛い漬物野菜も存在します。唐辛子の漬物も存在します)が、問題は語彙が少ない為にいつまでも『キムチ』という名称を使う方なので。中国からすると「『キムチ』って漬物という意味なのだから分かっているって。だから、その漬物の名前は? なんていう名前の加工品なの?」と疑問に思うものですね。
朝鮮半島は歴史で、初めて国が出来たのは中国北東部にあった国『燕』が東進して出来た国であり。
燕の滅亡後には衛氏朝鮮が出来ますが、これは多民族国家であり、支配者層には高句麗に繋がる扶余族もおり、また被支配者層には新羅に繋がり韓国の祖先になる濊族が居ました。
ようは、中国や中国周辺国の北方民族が集まって出来た国です。当然ながら、当時、その文化も北方民族からやってきています。
また、三韓時代の馬韓は中国系民族であり、三国時代の百済は中国系と倭系が混ざった国です。中国北東部や日本の文化が入り混じった文化を形成しています。
少しずれますが、韓国が伝統文化と言う「オンドル」も中国北東部の家屋文化からで、ただ、中国北東部の家屋暖房文化は床暖房だけでなく個別暖房など複数が存在しますが、朝鮮にはその中でオンドルだけが残ったというものですね。
中国が「キムチは中国の伝統漬物の泡菜だ」と言うのも、外れた事を言っているわけではありません。
泡菜という漬物は紀元前5世紀頃にはある漬物で、そこから中国全域に広がっています。
現在の赤く辛い熟成させる『キムチ』は少し泡菜とは異なります(中国では別に辛い漬物野菜も存在します。唐辛子の漬物も存在します)が、問題は語彙が少ない為にいつまでも『キムチ』という名称を使う方なので。中国からすると「『キムチ』って漬物という意味なのだから分かっているって。だから、その漬物の名前は? なんていう名前の加工品なの?」と疑問に思うものですね。
朝鮮半島は歴史で、初めて国が出来たのは中国北東部にあった国『燕』が東進して出来た国であり。
燕の滅亡後には衛氏朝鮮が出来ますが、これは多民族国家であり、支配者層には高句麗に繋がる扶余族もおり、また被支配者層には新羅に繋がり韓国の祖先になる濊族が居ました。
ようは、中国や中国周辺国の北方民族が集まって出来た国です。当然ながら、当時、その文化も北方民族からやってきています。
また、三韓時代の馬韓は中国系民族であり、三国時代の百済は中国系と倭系が混ざった国です。中国北東部や日本の文化が入り混じった文化を形成しています。
少しずれますが、韓国が伝統文化と言う「オンドル」も中国北東部の家屋文化からで、ただ、中国北東部の家屋暖房文化は床暖房だけでなく個別暖房など複数が存在しますが、朝鮮にはその中でオンドルだけが残ったというものですね。
『キムチ』は、簡単に言えば外来語です。
語源は中国語の『沈菜(チムチェ)』になり、この『沈菜』は塩漬け野菜というか漬物を一般的に指す総称のようなものです。
つまり「キムチ」というのは漢字語であり外来語です。
(というか、朝鮮語は基本的に漢字語と外来語がほとんどです。なぜなら、ハングルを使う前は中国漢文をつかっていたのであり、中国仏教が長くあり、中国北方民族が南下して住み着いた場所ですから)
漬物として18世紀より前の『キムチ』と、今の赤く辛い熟成させる『キムチ』は違いますが、昔の『キムチ』は『沈菜』、つまり中国の塩漬け野菜そのものなのですから、中国が言うのも間違っていないのです。逆に中国側から見れば「チムチェ(キムチ)って、明らかに中国からのものなのに。なに自国発祥のような事を韓国は言っているのか?」と不快に思ってもおかしくありません。
ようは、『キムチ』という他国文化の『漬物』を一般的に指す名称をそのまま使っている事が、根本の問題なのでしょうね。
語源は中国語の『沈菜(チムチェ)』になり、この『沈菜』は塩漬け野菜というか漬物を一般的に指す総称のようなものです。
つまり「キムチ」というのは漢字語であり外来語です。
(というか、朝鮮語は基本的に漢字語と外来語がほとんどです。なぜなら、ハングルを使う前は中国漢文をつかっていたのであり、中国仏教が長くあり、中国北方民族が南下して住み着いた場所ですから)
漬物として18世紀より前の『キムチ』と、今の赤く辛い熟成させる『キムチ』は違いますが、昔の『キムチ』は『沈菜』、つまり中国の塩漬け野菜そのものなのですから、中国が言うのも間違っていないのです。逆に中国側から見れば「チムチェ(キムチ)って、明らかに中国からのものなのに。なに自国発祥のような事を韓国は言っているのか?」と不快に思ってもおかしくありません。
ようは、『キムチ』という他国文化の『漬物』を一般的に指す名称をそのまま使っている事が、根本の問題なのでしょうね。
18世紀までの朝鮮半島のキムチは、簡単に言えば「塩漬け野菜」で浅漬けのものであり、中国の塩漬け野菜の漬物(泡菜)そのものです。
当時は様々な野菜を漬けていますが、今のように白菜が主役にはなっていません。大根や蕪、人参など様々な野菜が「キムチ」として塩漬け野菜とされています。
この塩漬け野菜は冬季に漬け、春の時期の大事な食料として食い尽くされるというものです。
歴史のある伝統の「キムチ」とは、塩漬け野菜ことになります。
当時は様々な野菜を漬けていますが、今のように白菜が主役にはなっていません。大根や蕪、人参など様々な野菜が「キムチ」として塩漬け野菜とされています。
この塩漬け野菜は冬季に漬け、春の時期の大事な食料として食い尽くされるというものです。
歴史のある伝統の「キムチ」とは、塩漬け野菜ことになります。
この頃に少し『キムチ』の作り方が変わり、独自性が出てきます。
このキムチに、
・漬けるのに唐辛子味噌を加えたり完成品に唐辛子の千切りを添えたりするのは18世紀から
・塩辛を入れて乳酸発酵による旨みを増す手法は18世紀末からのもの
です。
実は、これらの手法は朝鮮通信使が日本の漬物を食べて感動し、その日本の漬物技術を幾つか持ち帰ってからのものです。
朝鮮通信使が日本の漬物を食べて「キムチみたいだ」と驚いた様子は、日本・朝鮮の史料の双方にあります。
日本では、味噌を加えたり、塩辛を加えたり、唐辛子の千切りを添えたりというのは別個の漬物に見られるものです。
ただ、この時期の『キムチ』も浅漬けのもので、今の様に長期熟成のものではありません。
現在では「白キムチ」や「水キムチ」と呼び、また日本では統治時代に日本に持ち帰り出来てのが「朝鮮漬け」で、こちらのほうが伝統的なキムチの形態を残していると言えます。
あろうことか、韓国は赤く辛い熟成キムチの方を新しい漬物として名前を付けるのではなく、従来の『キムチ』の方の名前を今は変えてしまったのです(これの弊害として、朝鮮戦争以前の史料に「キムチ」と書いてあっても、それを現代の赤く辛い熟成キムチと勘違いしている人というのも見掛けます)。
このキムチに、
・漬けるのに唐辛子味噌を加えたり完成品に唐辛子の千切りを添えたりするのは18世紀から
・塩辛を入れて乳酸発酵による旨みを増す手法は18世紀末からのもの
です。
実は、これらの手法は朝鮮通信使が日本の漬物を食べて感動し、その日本の漬物技術を幾つか持ち帰ってからのものです。
朝鮮通信使が日本の漬物を食べて「キムチみたいだ」と驚いた様子は、日本・朝鮮の史料の双方にあります。
日本では、味噌を加えたり、塩辛を加えたり、唐辛子の千切りを添えたりというのは別個の漬物に見られるものです。
ただ、この時期の『キムチ』も浅漬けのもので、今の様に長期熟成のものではありません。
現在では「白キムチ」や「水キムチ」と呼び、また日本では統治時代に日本に持ち帰り出来てのが「朝鮮漬け」で、こちらのほうが伝統的なキムチの形態を残していると言えます。
あろうことか、韓国は赤く辛い熟成キムチの方を新しい漬物として名前を付けるのではなく、従来の『キムチ』の方の名前を今は変えてしまったのです(これの弊害として、朝鮮戦争以前の史料に「キムチ」と書いてあっても、それを現代の赤く辛い熟成キムチと勘違いしている人というのも見掛けます)。
今の真っ赤で辛い熟成のキムチはさらに歴史が浅く1960年頃からである。
これは朝鮮戦争で釜山の郷土料理が知られ、その手法を今までのキムチ製作手法、釜山周辺での郷土料理としてあるコチュジャンマリ(コチュジャンに漬ける保存食)に出会ってから、その手法と合わせて出来上がったものである。少しずれますが、同じように釜山周辺の郷土料理、ミョンランジョッというのが辛子明太子のルーツになります。
ようは、釜山の郷土料理である保存食の漬物手法である、唐辛子漬けやコチュジャン漬けの手法をそのままごった混ぜにして出来上がった新しい漬物である。
そもそもが釜山の郷土料理となった唐辛子漬けは元会津藩士が、コチュジャン漬けは元肥後藩士が朝鮮半島に住むようになり作り始めた、朝鮮だと近年の漬物技術です(日本では唐辛子漬けも味噌漬けも辛子漬けも、それより古くから存在しており、それを朝鮮の土地に合わせてアレンジしたものになる)。
これは朝鮮戦争で釜山の郷土料理が知られ、その手法を今までのキムチ製作手法、釜山周辺での郷土料理としてあるコチュジャンマリ(コチュジャンに漬ける保存食)に出会ってから、その手法と合わせて出来上がったものである。少しずれますが、同じように釜山周辺の郷土料理、ミョンランジョッというのが辛子明太子のルーツになります。
ようは、釜山の郷土料理である保存食の漬物手法である、唐辛子漬けやコチュジャン漬けの手法をそのままごった混ぜにして出来上がった新しい漬物である。
そもそもが釜山の郷土料理となった唐辛子漬けは元会津藩士が、コチュジャン漬けは元肥後藩士が朝鮮半島に住むようになり作り始めた、朝鮮だと近年の漬物技術です(日本では唐辛子漬けも味噌漬けも辛子漬けも、それより古くから存在しており、それを朝鮮の土地に合わせてアレンジしたものになる)。
現在のキムチでは唐辛子を大量に利用されており、料理にも唐辛子が沢山使われている。
『料理に唐辛子が沢山使うこと』が「伝統」かというと、そんなことはありません。
現在の唐辛子の使用量は、1930年に比べるとキムチ(白菜1株あたり)で12〜13倍にまで膨れ上がっており、確かに昔も日本人よりは辛い物を食べたが、それでも過剰と言えるほどではなかったのです。この増加は、朝鮮戦争後の貧困とストレスからくるものだと医学的に考えられています。「辛味」とは「痛覚」であり、刺激に脳内分泌物が出て多幸感を得られるものであり、ストレスから逃れるために辛い物を好む様になったと分析されています。弊害としてはやはり、健康上としては刺激物なので癌の発生確率が高まる事と、あとは中毒性があり過剰になっていくという事。
白菜1株当たりの唐辛子の平均使用量は、1930年代に5.75g(大匙一杯ぐらい)だったものが徐々に増え2010年代に至っては71.26gと約12倍だ。韓国の農林畜産食品部(省)のデータでは、国民1人当たりの唐辛子の年間消費量も1970年の1.2キログラムから2010年代には3キログラム以上に増えている。
1885年〜1886年に朝鮮を訪れた商人ヂェロトケヴィチの『朝鮮旅行記』に
この、元の沈菜の漬け方が前者で、1株あたりに5gほどの唐辛子を使われた漬物が後者ですね。
2010年比でいけば韓国の唐辛子需要は年間21万t前後、それに対して日本の年間需要量6000tと全体量で単純比較で35倍の消費量。人口比にすると日本人に比べると韓国人は一人当たり80倍も消費していることになるなぜこんなに辛くなったのだろうかと、国立民俗博物館学芸研究員の2009年の論文解釈によると、辛い味が大衆に拡散した時期を1950年代と見て「朝鮮戦争、貧困と飢餓のストレスで辛い味を求めるようになった」と指摘しています。唐辛子の辛さが中毒症状とエンドルフィン効果を出すのだという。
ちなみに「現代よりは遥かに少ない」だけで、当時の日本人からすればそれでもかなり辛いものです。ようは80倍の1/30程度であったが、当時の日本人は現在の日本人よりもっと薄味を好んでいたので、「現代よりは遥かに少ない」辛さでも、当時の日本人からしたら5倍や10倍の辛さになるわけです。
『料理に唐辛子が沢山使うこと』が「伝統」かというと、そんなことはありません。
現在の唐辛子の使用量は、1930年に比べるとキムチ(白菜1株あたり)で12〜13倍にまで膨れ上がっており、確かに昔も日本人よりは辛い物を食べたが、それでも過剰と言えるほどではなかったのです。この増加は、朝鮮戦争後の貧困とストレスからくるものだと医学的に考えられています。「辛味」とは「痛覚」であり、刺激に脳内分泌物が出て多幸感を得られるものであり、ストレスから逃れるために辛い物を好む様になったと分析されています。弊害としてはやはり、健康上としては刺激物なので癌の発生確率が高まる事と、あとは中毒性があり過剰になっていくという事。
白菜1株当たりの唐辛子の平均使用量は、1930年代に5.75g(大匙一杯ぐらい)だったものが徐々に増え2010年代に至っては71.26gと約12倍だ。韓国の農林畜産食品部(省)のデータでは、国民1人当たりの唐辛子の年間消費量も1970年の1.2キログラムから2010年代には3キログラム以上に増えている。
1885年〜1886年に朝鮮を訪れた商人ヂェロトケヴィチの『朝鮮旅行記』に
- 京畿道の東境で「塩漬け大根のサラダ」
- 咸鏡北道の会寧で「塩漬け大根や唐辛子とともに漬けたサラダ菜よりなる朝鮮サラダ」
この、元の沈菜の漬け方が前者で、1株あたりに5gほどの唐辛子を使われた漬物が後者ですね。
2010年比でいけば韓国の唐辛子需要は年間21万t前後、それに対して日本の年間需要量6000tと全体量で単純比較で35倍の消費量。人口比にすると日本人に比べると韓国人は一人当たり80倍も消費していることになるなぜこんなに辛くなったのだろうかと、国立民俗博物館学芸研究員の2009年の論文解釈によると、辛い味が大衆に拡散した時期を1950年代と見て「朝鮮戦争、貧困と飢餓のストレスで辛い味を求めるようになった」と指摘しています。唐辛子の辛さが中毒症状とエンドルフィン効果を出すのだという。
ちなみに「現代よりは遥かに少ない」だけで、当時の日本人からすればそれでもかなり辛いものです。ようは80倍の1/30程度であったが、当時の日本人は現在の日本人よりもっと薄味を好んでいたので、「現代よりは遥かに少ない」辛さでも、当時の日本人からしたら5倍や10倍の辛さになるわけです。
韓国でも探せばまともなモノもあるのだろうが、大抵が貧困で唐辛子が過剰になったキムチしか教えていない。実は、日本の方がきちんと記録が残っているのかもしれない。
1961年発刊の雑誌『栄養と料理』に作り方が詳しく書かれている。
1961年発刊の雑誌『栄養と料理』に作り方が詳しく書かれている。
- 白菜:5株
- 大根:4本
- セリ:4束
- ねぎ:10本
- 唐辛子:小さじ3〜5杯(15〜25g)

実は、塩辛による乳酸発酵で長期熟成しているので、旨味はかなり強い。
ただし、過剰な辛さで分からなくなっているが。
あと、乳酸発酵なので腐る時は本当に腐る。時期を決めて食べきる事が大切。
ちなみに日本のキムチの多くは浅漬けにキムチ調味液が混ざっているようなものが多く、乳酸発酵で長期熟成をさせているようなものがあるので、栄養を考えている場合は納豆などと一緒に食べるといい(辛さも抑えてありますし)。
ただし、過剰な辛さで分からなくなっているが。
あと、乳酸発酵なので腐る時は本当に腐る。時期を決めて食べきる事が大切。
ちなみに日本のキムチの多くは浅漬けにキムチ調味液が混ざっているようなものが多く、乳酸発酵で長期熟成をさせているようなものがあるので、栄養を考えている場合は納豆などと一緒に食べるといい(辛さも抑えてありますし)。
中国北東部の原産で、漬け菜の仲間から中国で見いだされた葉菜です。
原種であるブラッシカ・ラパは、紀元前の中国大陸に伝わると栽培されるようになり、様々な野菜を生みだしています。
原産地の地中海沿岸地方では、漬け菜のような姿だったものが、中国大陸へ伝播した後に、11世紀頃に結球型となったものです。
朝鮮半島にはじめて紹介されたころの白菜は非結球種で、主に消費していたのは富裕層が中心で、高価で貴重品です。
今の様な結球種の白菜が作られるようになったのは、日本が中国の白菜を自国で作れないか(江戸時代からも度々種子は来ていたようだが、朝鮮と同じようにすぐに白菜ではなくなった)と、明治から大正にかけて品種改良の研究を20年続けて出来たのが白玉白菜であり、これが1909年に朝鮮に持ち込まれてからである。韓国wikiを確認すると、まるで「自分たちで作った」ように記載されているが、このを朝鮮向けの品種改良は日本統治下で行われたものである(ちなみに、その品種改良の記載も1909年からのものである。不思議ですね?)。
韓国では「白菜は500年の歴史を通じて韓国野菜の王座を占め」などあるが、これは嘘である(3年で白菜で無くなるのに、どうやって?ですね。よほど大量に種子を購入し続けなければできませんが、朝鮮時代にそんな農業支援はありませんので)。作物から種子を採って3年も経てば交雑によって白菜の特徴がなくなる(白菜はとても混交しやすい種)という問題も起こっており、少なくとも1533年までは、朝鮮の人々は種子を中国から輸入していたが、量はそれほどないのは、朝鮮時代の資料で白菜の塩漬け野菜がほとんど出てこない事からも分かる(まったく無い訳ではない。中国から種を購入して栽培していたのである。ただし、この「白菜」も今で言う「白菜(結球白菜)」ではないが、「山東菜」のような非結球白菜である(日本では「シロ菜」と、白菜とは区別している)。
中国から朝鮮半島に紹介されたハクサイは非結球種で、主に消費していたのは富裕層が中心で、高価で貴重品だった。韓国に現存する最古の医学書『郷薬救急方』「(非結球の)白菜は甘くてまろやかな味がして毒がない」という記載があります。朝鮮時代には「京城(現・ソウル)で作られていた」とあるが、簡単に言えば王族や両班のためがほとんどである。
実際、どれぐらいの栽培量があったかも分かっており、下図になります。

1人当たりの消費は現在の韓国では50kgもありますが、朝鮮時代は5kgほどであり、これが統治時代で10kgほどと倍になります(まぁ、朝鮮時代は人口の半分を占めた奴婢階級や農民である常民を除いた王族・両班・中人といった人達でほとんど食べていたのかもしれませんが。その場合は半分は平均10kg、残り半分は平均0kgとなります)。ただ、多くの野菜よりは栽培量が多かったものの、大根の60%ほどの栽培量で、かつ、日本統治後に栽培量が倍になっており、庶民まで広く使われるようになったものである。
なぜ白菜が主流になったかと言うと、戦後、収穫量が上がったのが白菜や芋類であり、特に李承晩政権の間の貧困状態において収穫高が高く、その時代から野菜の中心になったからです。つまり、「野菜の王座を占めた」のは500年ではなく、戦後からなので75年といったところです(統治時代やそれ以前だと、大根の方が白菜の倍ほども生産されている)。
実際の朝鮮時代のおかずの主役とも言えるのが、大根である。

白菜が韓国人の摂取野菜の主要を占めたのは1980年代頃からと比較的新しい。
韓国の野菜生産・消費動向にも書かれているが、以下の様になっている。

半島の南半分(現・韓国)で比較すると、1970年代に400千tの収穫量があって1人当たりの白菜消費量は20kgほどである。これが大韓帝国末期だと100千t以下と1/4以下しかなく、これが日本統治時代だと200〜250千tになっったのである。1970年代から20年ほどで1人当たりの消費量が50kgほどと、大量に白菜を栽培して食べるようになったものである。大韓帝国時代に比べると、1人当たりの消費量が約10倍になっているのだ。
唐辛子についても、1930年代に比べると12〜13倍になっているという統計記録比較があるので、日本統治時代では唐辛子比率は0.2%程度だったと推定される。
しかし、1985年まで大根と白菜が摂取野菜の60%で、2000年に入っても30%が大根と白菜というのは、韓国は野菜の種類が少ないですよね。
原種であるブラッシカ・ラパは、紀元前の中国大陸に伝わると栽培されるようになり、様々な野菜を生みだしています。
原産地の地中海沿岸地方では、漬け菜のような姿だったものが、中国大陸へ伝播した後に、11世紀頃に結球型となったものです。
朝鮮半島にはじめて紹介されたころの白菜は非結球種で、主に消費していたのは富裕層が中心で、高価で貴重品です。
今の様な結球種の白菜が作られるようになったのは、日本が中国の白菜を自国で作れないか(江戸時代からも度々種子は来ていたようだが、朝鮮と同じようにすぐに白菜ではなくなった)と、明治から大正にかけて品種改良の研究を20年続けて出来たのが白玉白菜であり、これが1909年に朝鮮に持ち込まれてからである。韓国wikiを確認すると、まるで「自分たちで作った」ように記載されているが、このを朝鮮向けの品種改良は日本統治下で行われたものである(ちなみに、その品種改良の記載も1909年からのものである。不思議ですね?)。
韓国では「白菜は500年の歴史を通じて韓国野菜の王座を占め」などあるが、これは嘘である(3年で白菜で無くなるのに、どうやって?ですね。よほど大量に種子を購入し続けなければできませんが、朝鮮時代にそんな農業支援はありませんので)。作物から種子を採って3年も経てば交雑によって白菜の特徴がなくなる(白菜はとても混交しやすい種)という問題も起こっており、少なくとも1533年までは、朝鮮の人々は種子を中国から輸入していたが、量はそれほどないのは、朝鮮時代の資料で白菜の塩漬け野菜がほとんど出てこない事からも分かる(まったく無い訳ではない。中国から種を購入して栽培していたのである。ただし、この「白菜」も今で言う「白菜(結球白菜)」ではないが、「山東菜」のような非結球白菜である(日本では「シロ菜」と、白菜とは区別している)。
中国から朝鮮半島に紹介されたハクサイは非結球種で、主に消費していたのは富裕層が中心で、高価で貴重品だった。韓国に現存する最古の医学書『郷薬救急方』「(非結球の)白菜は甘くてまろやかな味がして毒がない」という記載があります。朝鮮時代には「京城(現・ソウル)で作られていた」とあるが、簡単に言えば王族や両班のためがほとんどである。
実際、どれぐらいの栽培量があったかも分かっており、下図になります。

1人当たりの消費は現在の韓国では50kgもありますが、朝鮮時代は5kgほどであり、これが統治時代で10kgほどと倍になります(まぁ、朝鮮時代は人口の半分を占めた奴婢階級や農民である常民を除いた王族・両班・中人といった人達でほとんど食べていたのかもしれませんが。その場合は半分は平均10kg、残り半分は平均0kgとなります)。ただ、多くの野菜よりは栽培量が多かったものの、大根の60%ほどの栽培量で、かつ、日本統治後に栽培量が倍になっており、庶民まで広く使われるようになったものである。
なぜ白菜が主流になったかと言うと、戦後、収穫量が上がったのが白菜や芋類であり、特に李承晩政権の間の貧困状態において収穫高が高く、その時代から野菜の中心になったからです。つまり、「野菜の王座を占めた」のは500年ではなく、戦後からなので75年といったところです(統治時代やそれ以前だと、大根の方が白菜の倍ほども生産されている)。
実際の朝鮮時代のおかずの主役とも言えるのが、大根である。

白菜が韓国人の摂取野菜の主要を占めたのは1980年代頃からと比較的新しい。
韓国の野菜生産・消費動向にも書かれているが、以下の様になっている。

半島の南半分(現・韓国)で比較すると、1970年代に400千tの収穫量があって1人当たりの白菜消費量は20kgほどである。これが大韓帝国末期だと100千t以下と1/4以下しかなく、これが日本統治時代だと200〜250千tになっったのである。1970年代から20年ほどで1人当たりの消費量が50kgほどと、大量に白菜を栽培して食べるようになったものである。大韓帝国時代に比べると、1人当たりの消費量が約10倍になっているのだ。
唐辛子についても、1930年代に比べると12〜13倍になっているという統計記録比較があるので、日本統治時代では唐辛子比率は0.2%程度だったと推定される。
しかし、1985年まで大根と白菜が摂取野菜の60%で、2000年に入っても30%が大根と白菜というのは、韓国は野菜の種類が少ないですよね。
白菜はメジャーなキムチではありません。
1887年の『料理独案内:西洋朝鮮支那日本』を見てみれば分かりますが、まずキムチとして出てくるのは『大根』『蕪菜』です。
1909年の『新食道楽』でもやはり白菜ではなく、『大根』『蕪』が代表的なものとして出てきます。
これは、白菜の種は朝鮮半島では中国からの輸入であり、自力で作っていたものではないからである。
自力になるのは、1909年に日本で品種改良された白玉白菜(結球型白菜)を持ちこまれ、これを朝鮮半島でローカライズな品種改良をしてから。
つまり、日本の主導による品種改良が行われたからです(これは、日本が独自に日本国内で白菜栽培方法を先んじて確立していたのも大きい)。
まぁ、分かりやすく言うと、日本統治以前のものは非結球型白菜(山東菜)であり『山東菜キムチ』で、日本統治してから今のキムチで使う結球型白菜(現在で言う白菜)で『白菜キムチ』なのですね。
もう少し細かく言えば、朝鮮に来た中国人とも関連がある。
1882年壬午軍乱の時清国は吳長慶を前に出して4500人余りの軍隊をソウルに送り、これから朝鮮に中国人が集団的に居住し始めた。済物浦では労働に、ソウルでは絹と雑貨販売で、そして金浦一帯では白菜農作業で彼らは生計をたてた。結局彼らを通じてまた他の白菜品種が韓半島に入ってきたのです。
高麗時代の時中国から入ってきて韓半島に定着した白菜は非結球白菜であった 1931年に発刊された『朝鮮総督府農業試験場25周年記念誌』では「在来種の白菜のうち有名なのは京畿道開城のいわゆる開城白菜と京城の京城白菜2品種だ」とある。また、1920年代に「開城白菜は比較的北側地方に大いに普及されたし、京城白菜は京城以南の地方にたくさん栽培されている」として韓国の農民は京城白菜を主に栽培すると書いているが、開城白菜にしろ京城白菜にしろ非結球性白菜であったが、日本統治により「結球性白菜栽培が次第に増加しているがまだ在来種栽培がその大部分を占めている」とも書いている。
結球白菜は「胡白菜」と朝鮮では呼ばれていたが、朝鮮総督府は胡白菜が在来種の白菜に比べて収穫量がはるかに多くて積極的に栽培を推奨。さらに化学的な栽培法を導入する場合、冬に胡白菜を植えてみることにも収穫できるので農家所得にも効果的だった。そのため、結局1930年代になれば結球白菜である胡白菜は朝鮮全域で栽培された。
ところが胡白菜の人気が急速に広がったのではない。 朝鮮白菜に比べてこくが少なくて野菜の固い部分も多くなくて全面的な人気を呼べなかった。それで1960年代までも正月前に食べる白菜キムチは胡白菜で漬けて、その後まで料理は朝鮮白菜で漬けなければなければならないと感じた。
だが高価格な在来種白菜に比べて胡白菜は安かった。1970年代初期だと朝鮮白菜が高くて庶民はやむを得ずキャベツでキムチの漬け込みをすることもした。しかしその味は朝鮮白菜で漬けたキムチに比べるのではなかった。 結局大量生産の時代に入り込んだ1970年代中盤になれば、農民は化学肥料と農薬だけあれば栽培も易しくて重さもたくさん出ていく胡白菜を選択するほかはなかった。ここに春にも出荷できて生産者や消費者皆が胡白菜にどっぷり浸かった。ついに1980年代初期になれば胡白菜でだけ越冬用キムチを漬けた。 当然市場では朝鮮白菜を探すことも難しくなったし、胡白菜という名前もそのまま白菜に変わった。もう別途の意を有していなければ朝鮮白菜で漬けた白菜キムチを食べるのが容易でない。
これが去る100年間に品種も調理法もその味も変わってしまった白菜キムチの現実である。
1887年の『料理独案内:西洋朝鮮支那日本』を見てみれば分かりますが、まずキムチとして出てくるのは『大根』『蕪菜』です。
1909年の『新食道楽』でもやはり白菜ではなく、『大根』『蕪』が代表的なものとして出てきます。
これは、白菜の種は朝鮮半島では中国からの輸入であり、自力で作っていたものではないからである。
自力になるのは、1909年に日本で品種改良された白玉白菜(結球型白菜)を持ちこまれ、これを朝鮮半島でローカライズな品種改良をしてから。
つまり、日本の主導による品種改良が行われたからです(これは、日本が独自に日本国内で白菜栽培方法を先んじて確立していたのも大きい)。
まぁ、分かりやすく言うと、日本統治以前のものは非結球型白菜(山東菜)であり『山東菜キムチ』で、日本統治してから今のキムチで使う結球型白菜(現在で言う白菜)で『白菜キムチ』なのですね。
もう少し細かく言えば、朝鮮に来た中国人とも関連がある。
1882年壬午軍乱の時清国は吳長慶を前に出して4500人余りの軍隊をソウルに送り、これから朝鮮に中国人が集団的に居住し始めた。済物浦では労働に、ソウルでは絹と雑貨販売で、そして金浦一帯では白菜農作業で彼らは生計をたてた。結局彼らを通じてまた他の白菜品種が韓半島に入ってきたのです。
高麗時代の時中国から入ってきて韓半島に定着した白菜は非結球白菜であった 1931年に発刊された『朝鮮総督府農業試験場25周年記念誌』では「在来種の白菜のうち有名なのは京畿道開城のいわゆる開城白菜と京城の京城白菜2品種だ」とある。また、1920年代に「開城白菜は比較的北側地方に大いに普及されたし、京城白菜は京城以南の地方にたくさん栽培されている」として韓国の農民は京城白菜を主に栽培すると書いているが、開城白菜にしろ京城白菜にしろ非結球性白菜であったが、日本統治により「結球性白菜栽培が次第に増加しているがまだ在来種栽培がその大部分を占めている」とも書いている。
結球白菜は「胡白菜」と朝鮮では呼ばれていたが、朝鮮総督府は胡白菜が在来種の白菜に比べて収穫量がはるかに多くて積極的に栽培を推奨。さらに化学的な栽培法を導入する場合、冬に胡白菜を植えてみることにも収穫できるので農家所得にも効果的だった。そのため、結局1930年代になれば結球白菜である胡白菜は朝鮮全域で栽培された。
ところが胡白菜の人気が急速に広がったのではない。 朝鮮白菜に比べてこくが少なくて野菜の固い部分も多くなくて全面的な人気を呼べなかった。それで1960年代までも正月前に食べる白菜キムチは胡白菜で漬けて、その後まで料理は朝鮮白菜で漬けなければなければならないと感じた。
だが高価格な在来種白菜に比べて胡白菜は安かった。1970年代初期だと朝鮮白菜が高くて庶民はやむを得ずキャベツでキムチの漬け込みをすることもした。しかしその味は朝鮮白菜で漬けたキムチに比べるのではなかった。 結局大量生産の時代に入り込んだ1970年代中盤になれば、農民は化学肥料と農薬だけあれば栽培も易しくて重さもたくさん出ていく胡白菜を選択するほかはなかった。ここに春にも出荷できて生産者や消費者皆が胡白菜にどっぷり浸かった。ついに1980年代初期になれば胡白菜でだけ越冬用キムチを漬けた。 当然市場では朝鮮白菜を探すことも難しくなったし、胡白菜という名前もそのまま白菜に変わった。もう別途の意を有していなければ朝鮮白菜で漬けた白菜キムチを食べるのが容易でない。
これが去る100年間に品種も調理法もその味も変わってしまった白菜キムチの現実である。
漬物については日本では史料も多く残っており、古くは奈良時代の文献にも出てきてくる。
考古学的なものでは縄文時代から塩漬けの漬物が存在するので、朝鮮半島より遥かに長い歴史がある。今の日本の漬物技術は平安時代、つまり朝鮮でいう統一新羅後期の時代にはほぼできており、928年1月21日に発刊された『延喜式』という史料に記載があるので、それ以前には既に漬物手法がほぼ完成していたと分かる。高麗が918年に建国なので、その当時には日本では既に多彩な漬物文化が存在していたのだ。
最近の韓国では『沢庵は朝鮮が先に作った』など、統治時代に伝わった事は判っているのに、そのような捏造歪曲説を声高に言う人や、それを信じる韓国人を見かける。しかし沢庵は江戸時代初期に沢庵和尚が将軍に出して名付けられた漬物で、それの製法を辿ると平安時代の「すすほり」という漬物手法になる。その「すすほり」だが、『延喜式』よりも古い8世紀の木簡にも記載があり、朝鮮の新羅の時代には既にあった漬物手法である。
料理というのも、ある日突然に出来上がる様なものではなく、その料理が出来るまでの歴史や背景が存在する。
韓国料理の自称する俗説には、その歴史や背景が存在していないものが大変に多い。
考古学的なものでは縄文時代から塩漬けの漬物が存在するので、朝鮮半島より遥かに長い歴史がある。今の日本の漬物技術は平安時代、つまり朝鮮でいう統一新羅後期の時代にはほぼできており、928年1月21日に発刊された『延喜式』という史料に記載があるので、それ以前には既に漬物手法がほぼ完成していたと分かる。高麗が918年に建国なので、その当時には日本では既に多彩な漬物文化が存在していたのだ。
最近の韓国では『沢庵は朝鮮が先に作った』など、統治時代に伝わった事は判っているのに、そのような捏造歪曲説を声高に言う人や、それを信じる韓国人を見かける。しかし沢庵は江戸時代初期に沢庵和尚が将軍に出して名付けられた漬物で、それの製法を辿ると平安時代の「すすほり」という漬物手法になる。その「すすほり」だが、『延喜式』よりも古い8世紀の木簡にも記載があり、朝鮮の新羅の時代には既にあった漬物手法である。
料理というのも、ある日突然に出来上がる様なものではなく、その料理が出来るまでの歴史や背景が存在する。
韓国料理の自称する俗説には、その歴史や背景が存在していないものが大変に多い。
実は、豚キムチは日本の方が古くから存在しているようだ。
日本と韓国の料理本やグルメ本でいつから存在するレシピなのかと調査しているのだが、
豚キムチは1958年『家庭料理百科』において、「豚肉とキムチの炒め物」という名称で類似の料理が紹介されている。
「豚キムチ」という名称が明確に記載された最も古い文献としては、1965年『新編家庭料理事典』が挙げられる。
と韓国の書籍で見かけるより7年ほど早く、日本では見掛ける事になる。
豚キムチチャーハンも、日本では1965年『主婦の友』で掲載されている。
と、韓国の書籍では1970年代(1972年ぐらい)からで、日本より少し遅くからしか見つからない。
ただし、牛肉とキムチを鍋で煮る料理はそれ以前からある。
これがいつからあるかは調べないといけない。
日本と韓国の料理本やグルメ本でいつから存在するレシピなのかと調査しているのだが、
豚キムチは1958年『家庭料理百科』において、「豚肉とキムチの炒め物」という名称で類似の料理が紹介されている。
「豚キムチ」という名称が明確に記載された最も古い文献としては、1965年『新編家庭料理事典』が挙げられる。
と韓国の書籍で見かけるより7年ほど早く、日本では見掛ける事になる。
豚キムチチャーハンも、日本では1965年『主婦の友』で掲載されている。
と、韓国の書籍では1970年代(1972年ぐらい)からで、日本より少し遅くからしか見つからない。
ただし、牛肉とキムチを鍋で煮る料理はそれ以前からある。
これがいつからあるかは調べないといけない。
外食としてキムチチゲは、1960年代半ば以降に登場する。1966年8月8日京郷新聞は「豚肉を入れたキムチチゲは、出場する勇者が好んで食べる食べ物」とし、ベトナム派兵将兵たちに地元の韓国料理店でキムチチゲが最高の人気メニューであることを伝えている。
ーーが、ということは1960年頃には日本で「キムチチゲ」と料理本に出てくるので、日本の方が古くなる。
ーーが、ということは1960年頃には日本で「キムチチゲ」と料理本に出てくるので、日本の方が古くなる。
ここで大事な事は、別段、キムチが中国や日本の漬物だという事ではなく、朝鮮で歴史と共に出来た漬物であるのは間違いはないのだが、そこにある『文化の伝達』を歴史として残そうとしていない事が問題になっている。それが出来上がってくるまでの『文化の伝達』という史実の歴史を隠す、あるいは歪曲し履歴を捏造するのが韓国では日常茶飯事にある。
また、その『歴史を隠し、歪曲や捏造を行い広める事』をしているから、それが「朝鮮半島独自に出来た食べ物」と言われず「他国の食べ物や技術を模倣したものに過ぎない」と言われるのである。「他国の食文化や食技術を取り入れながら、独自の食べ物とした」と堂々と言えるようになって、初めて、『独自の食文化』と他からも認められるようになるだろう。
また、その『歴史を隠し、歪曲や捏造を行い広める事』をしているから、それが「朝鮮半島独自に出来た食べ物」と言われず「他国の食べ物や技術を模倣したものに過ぎない」と言われるのである。「他国の食文化や食技術を取り入れながら、独自の食べ物とした」と堂々と言えるようになって、初めて、『独自の食文化』と他からも認められるようになるだろう。