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mitsuko_tada 2025年01月07日(火) 12:22:14履歴
ハングルやチョソングルと呼ばれる文字は、朝鮮語の発音を表記するための表音文字である。
1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、『訓民正音』の名で公布したものである。
でも、昔のハングルと今のハングルはまるで違います。
1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、『訓民正音』の名で公布したものである。
でも、昔のハングルと今のハングルはまるで違います。
基本的に中国漢文を使っている。
しかし、中国漢文を読むのは大変であったようで、日本の万葉仮名のような読み方があり、これを『吏読』と言います。漢字による朝鮮語の表記方法の一つで、新羅の時代から使われ19世紀末まで用いられている、すなわち、朝鮮で国文としては漢文が用いられてきたが、それ以外で分かりやすくするために使われていた言葉である。
ここで大事なのは、「ハングルが出来る以前」ではないという事です。
しかし、中国漢文を読むのは大変であったようで、日本の万葉仮名のような読み方があり、これを『吏読』と言います。漢字による朝鮮語の表記方法の一つで、新羅の時代から使われ19世紀末まで用いられている、すなわち、朝鮮で国文としては漢文が用いられてきたが、それ以外で分かりやすくするために使われていた言葉である。
ここで大事なのは、「ハングルが出来る以前」ではないという事です。
統一新羅時代(668–935)の言語。
存する唯一の文学作品は郷歌と呼ばれる10数編の方言詩、郷歌は郷札で書かれている。その他、石碑や木版に刻まれた碑文、仏典の解説書、漢文で書かれた作品の中の人名や地名の書き写しなどがある。古代朝鮮語の文字記録はすべて漢字に依存しており、朝鮮語の意味を表したり、音写したりするのに使われている。
いわゆる朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)の中で新羅における文字の導入は最も遅かったと推測されるが、最初期の状況は詳らかでないが、『梁書』「新羅伝」(7世紀初頭成立)には「文字無し(これは「独自の文字がない」という意味だと思われる)」と伝えらている。
存する唯一の文学作品は郷歌と呼ばれる10数編の方言詩、郷歌は郷札で書かれている。その他、石碑や木版に刻まれた碑文、仏典の解説書、漢文で書かれた作品の中の人名や地名の書き写しなどがある。古代朝鮮語の文字記録はすべて漢字に依存しており、朝鮮語の意味を表したり、音写したりするのに使われている。
いわゆる朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)の中で新羅における文字の導入は最も遅かったと推測されるが、最初期の状況は詳らかでないが、『梁書』「新羅伝」(7世紀初頭成立)には「文字無し(これは「独自の文字がない」という意味だと思われる)」と伝えらている。
新羅の朝鮮語文学は、現在では郷歌と呼ばれる地方の詩が残っているだけである。
新羅時代には郷歌が盛んであったようで、888年には勅命による作品集が出版された。その作品集は現在では失われ、25の作品が残っているだけである。
ただ、実際は高麗時代に編纂した書物に存在しており、高麗時代に作られたと思われる(それでも新羅時代の朝鮮語をできるだけ守っている)と思われる郷歌もある。
きちんと自国の文字として残っているのは、これが最古級であり、日本より新しい。
新羅時代には郷歌が盛んであったようで、888年には勅命による作品集が出版された。その作品集は現在では失われ、25の作品が残っているだけである。
ただ、実際は高麗時代に編纂した書物に存在しており、高麗時代に作られたと思われる(それでも新羅時代の朝鮮語をできるだけ守っている)と思われる郷歌もある。
きちんと自国の文字として残っているのは、これが最古級であり、日本より新しい。
李氏朝鮮の時代には、もはや古代朝鮮語である郷歌は読めなくなっていた。
近代における古代朝鮮の詩の研究は、日本統治時代に日本の学者によって始められ、1929年に25編の古代朝鮮の詩をすべて復元することに初めて成功している。
つまり、『朝鮮の言語の文化・歴史』を再発掘したのも、また文化保護をしていた日本なのである。
そこから、近代教育を受けた朝鮮人が研究を始めている。
近代における古代朝鮮の詩の研究は、日本統治時代に日本の学者によって始められ、1929年に25編の古代朝鮮の詩をすべて復元することに初めて成功している。
つまり、『朝鮮の言語の文化・歴史』を再発掘したのも、また文化保護をしていた日本なのである。
そこから、近代教育を受けた朝鮮人が研究を始めている。
新羅の碑文にも古代朝鮮語の要素は記録されている。現存する最古の新羅碑文である浦項の441年または501年の石碑にも、現地語の影響を示唆する特異な中国語の語彙が見出される。しかし、これらの初期の碑文は、「漢文の構文を微妙に変えたものに過ぎない」と指摘されている。
ただ、それでも古代朝鮮語が変化していくのを確認する事ができる。
552年または612年の「壬申誓記石」は、古代朝鮮語の構文が使われている。
6世紀と7世紀の碑文には、漢字で朝鮮語を表現する方略がさらに発達している。いくつかの碑文では、付属語(機能語)を直接、意味的に相当する中国語で表現している。また、漢文の語彙のみを使用し、朝鮮語の構文に従ってそれらを完全に並べ替えたものもあり、吏読の使い方に近付いていく。
ただ、それでも古代朝鮮語が変化していくのを確認する事ができる。
552年または612年の「壬申誓記石」は、古代朝鮮語の構文が使われている。
6世紀と7世紀の碑文には、漢字で朝鮮語を表現する方略がさらに発達している。いくつかの碑文では、付属語(機能語)を直接、意味的に相当する中国語で表現している。また、漢文の語彙のみを使用し、朝鮮語の構文に従ってそれらを完全に並べ替えたものもあり、吏読の使い方に近付いていく。
『吏読の成立時期は明確ではないが、おおよそ三国時代に起こり統一新羅期に確立したものと考えられる。なお、文献資料では新羅人である薛聡が吏読を創作したという記述が見えるが検証するに値する証拠はなく、むしろ薛聡が当時の表記法を整理したと見なすのが妥当であろう。』とあるが、無理がある説だとは思う。なぜなら、郷歌より古い新羅の文字にも記載してあるが、古い古代朝鮮語は中国語を並び替えたものでしかないからだ。
552年または612年に立てられた「壬申誓記石」を例にすれば、
古代朝鮮語の形態素をより明確に表記し、中国語の意味と音韻に依存しているのが分かる。
552年または612年に立てられた「壬申誓記石」を例にすれば、
漢文:
誓三年倫得詩尙書禮傳
古代朝鮮語:と朝鮮語読みになるように順番を置き換えているだけだからである。
詩尙書禮傳倫得誓三年
古代朝鮮語の形態素をより明確に表記し、中国語の意味と音韻に依存しているのが分かる。
8世紀の漢訳仏典から古代朝鮮語の単語が発見されたものが最古級ではないでしょうか?
ここには、
ここには、
漢文:
「尒時精進慧菩薩白法慧菩薩言」
「則爲不淨則爲可猒」
「无邊種種境界」
古代朝鮮語:と、吏読が入ってきているのが分かる。
「尒時精良進慧菩薩白法慧菩薩言」
「則爲不淨厼則爲可猒」
「无邊種種叱境界」
「朝鮮の吏読は日本の万葉仮名の元になった」という説があるが、年代を見るとその説は正しくない。
現在知られる日本国内最古の資料と言えるのは、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣である。
辛亥年(471年)の製作として、第21代雄略天皇に推定される名「獲加多支鹵大王」やその宮「斯鬼宮」、日本神話の登場人物で四道将軍の1人の大彦命に推定される「意富比垝」を始祖として、鉄剣の製作者とある「乎獲居臣」に至る8代の系譜があり、それらの人名や地名を表記する文字が刻まれている。5世紀には江田船山古墳から出土した銀象嵌銘大刀にも、「獲加多支鹵大王」「无利弖」「伊太和」という字音表記がある。なお、「癸未」銘のある隅田八幡神社人物画像鏡に「意柴沙加宮」「斯麻」「開中費直」の表記がある。いずれにしても漢字の音を借りて固有語を表記する方法は既に5世紀に存在していた事が判る。朝鮮半島で吏読が確認されるより古くから当て字が確認出来るのだ。
あったとしても逆、「日本の万葉仮名は5世紀には既に確認されており」、この仮名を取り入れて「8世紀の漢訳仏典から見られる古代朝鮮語の吏読ができた」というなら可能性がある。
現在知られる日本国内最古の資料と言えるのは、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣である。
辛亥年(471年)の製作として、第21代雄略天皇に推定される名「獲加多支鹵大王」やその宮「斯鬼宮」、日本神話の登場人物で四道将軍の1人の大彦命に推定される「意富比垝」を始祖として、鉄剣の製作者とある「乎獲居臣」に至る8代の系譜があり、それらの人名や地名を表記する文字が刻まれている。5世紀には江田船山古墳から出土した銀象嵌銘大刀にも、「獲加多支鹵大王」「无利弖」「伊太和」という字音表記がある。なお、「癸未」銘のある隅田八幡神社人物画像鏡に「意柴沙加宮」「斯麻」「開中費直」の表記がある。いずれにしても漢字の音を借りて固有語を表記する方法は既に5世紀に存在していた事が判る。朝鮮半島で吏読が確認されるより古くから当て字が確認出来るのだ。
あったとしても逆、「日本の万葉仮名は5世紀には既に確認されており」、この仮名を取り入れて「8世紀の漢訳仏典から見られる古代朝鮮語の吏読ができた」というなら可能性がある。
吏読が朝鮮語を朝鮮語自体の語順で表記する方法であるのに対し、口訣は漢文の間に書き入れて、漢文を朝鮮語式に読むための補助的手段であるという点が異なる。日本の漢文訓読に類似する方法である。
これが例えば、どのような文章かと言うと、養蚕経験撮要(1415年)を例にすれば、
ただ、15世紀まで漢字だけを使っていたのも確かな訳です。
これが例えば、どのような文章かと言うと、養蚕経験撮要(1415年)を例にすれば、
漢文:正式な文この中国語漢文では読むのが大変なので、これを以下のようにして読みます。
蠶陽物大惡水故食而不飲
(訳:蚕は陽物にして大いに水を悪(にく)む、故に食して飲まず)
吏読:読み下し文ずっとこのように使っていたわけです(ただし、時代によって使い方が少し異なります)。
蠶段陽物是乎等用良水氣乙厭却桑葉叱分喫破爲遣飲水不冬
(日本語訳:蚕ハ陽物ナルヲモッテ水気ヲ厭却、桑葉ノミ喫破シ飲水セズ)
ただ、15世紀まで漢字だけを使っていたのも確かな訳です。
何が書いてあるのか分からないので、口訣を現在のハングルに置き換えるとこうなる。
現代ハングルで訳しても、何を書かれているかは分からない文章になりますね。
これが、「日本が国漢文混用を作る前に使われていた文章」です。
吏読:読み下し文この吏読では今の韓国人に読むのが大変なので、これを口訣部分をハングルにすると以下のようにして読みます。
蠶段陽物是乎等用良水氣乙厭却桑葉叱分喫破爲遣飲水不冬
(日本語訳:蚕ハ陽物ナルヲモッテ水気ヲ厭却、桑葉ノミ喫破シ飲水セズ)
蠶딴 陽物이온들쓰아 水氣을 厭却 桑葉뿐 喫破하고 飲水안들このように、ハングルの元になる言葉として漢字が存在する、が。
現代ハングルで訳しても、何を書かれているかは分からない文章になりますね。
これが、「日本が国漢文混用を作る前に使われていた文章」です。
漢文を朝鮮語の語順にあわせて返り読みする釈読口訣と、漢文の句の間に活用語尾や助詞にあたる要素を挿入して、漢文の語順通りに読む音読口訣とに分けられる。釈読口訣は高麗時代から朝鮮時代初期にかけての資料が残っているのみであるが、音読口訣はさらに後代まで用いられた。
つまり、朝鮮時代は「中国の読み順をそのまま使う事を正しい使い方としていた」と言う事です。
つまり、朝鮮時代は「中国の読み順をそのまま使う事を正しい使い方としていた」と言う事です。
1418年に李氏朝鮮の第4代国王世宗が即位すると、学ぶ機会のない民衆・農民が自分たちの意志を十分にあらわせないので、「無実の罪をきせられても、文字を知らない民百姓は、それに抗弁し、釈明する手段がなくてかわいそうだ」という理由で国字創制の指示が出された。1438〜39年に創字のために中国の音韻学を参考にアルタイ語系に属する朝鮮語の音韻表記の研究が開始された。また新羅時代からの「吏読」や高麗時代からの「口訣」という漢字の音や訓で朝鮮語を表記する方法も参考にされた。1442年12月に基本的骨組みが作られ、ハングルの「字形」がほぼ完成されたと思われる。
この時、世宗の記録している中に「モンゴル文字を参考にした」ことは明確に書かれている。
1443年12月正式に国家事業になり、正音庁が発足した。しかし国王の側近の漢学者(中国を宗主国とする事大主義)が根強い反対をしていたためか、公表されなかった。そして1446年9月29日国字は完成し、「訓民正音(28字)」と命名され、世宗により公布された。
この時、世宗の記録している中に「モンゴル文字を参考にした」ことは明確に書かれている。
1443年12月正式に国家事業になり、正音庁が発足した。しかし国王の側近の漢学者(中国を宗主国とする事大主義)が根強い反対をしていたためか、公表されなかった。そして1446年9月29日国字は完成し、「訓民正音(28字)」と命名され、世宗により公布された。
韓国では「朝鮮時代にハングルが禁止された事がなかった」と言う者を度々見掛けるが、そんなことはない。
朝鮮時代、ハングルは度々弾圧を受け、時には利用者が処刑される事があった事が何度もある(大きな問題とはなっていないのだが……)。
利用と禁止を繰り返され(この歴史は韓国では教えませんね)ており、「諺文」と下賤な者が使う文字と下げずまれていたのがハングルである。
ようは、日本が言うまで民族意識がほとんどなく、ハングルに対して朝鮮人は冷淡だったのですね。
これが、福沢諭吉の教えを受けたり、日清戦争で日本が朝鮮を独立させたりした事で民族意識が生まれて、やっと朝鮮人自身がハングルに目を向けだしたものです。
朝鮮時代、ハングルは度々弾圧を受け、時には利用者が処刑される事があった事が何度もある(大きな問題とはなっていないのだが……)。
利用と禁止を繰り返され(この歴史は韓国では教えませんね)ており、「諺文」と下賤な者が使う文字と下げずまれていたのがハングルである。
ようは、日本が言うまで民族意識がほとんどなく、ハングルに対して朝鮮人は冷淡だったのですね。
これが、福沢諭吉の教えを受けたり、日清戦争で日本が朝鮮を独立させたりした事で民族意識が生まれて、やっと朝鮮人自身がハングルに目を向けだしたものです。
1450年に世宗没し、文宗が即位する頃には事大主義の勢力が拡大し、端宗が即位すると文宗の弟の首陽大君が王位を纂奪し、1455年に世祖が即位。
このときハングル創制の参加学者は政変に巻き込まれ、新旧の勢力が争った。
仏教界をみると1461年に法華経・金剛経・円覚経・永嘉経などの仏典がハングルで書かれている。しかし1504年10代国王の燕山君がハングル関係書籍を焼却する事件をおこしたのも、民衆による反国王のハングル落書きや投書行動がきっかけであった。そしてハングルの教授や学習は禁止され、さらに学問の府であった成均館は遊技場になってしまった。12月には吏読も使用禁止された。
1506年燕山君の廃位運動とクーデタがおき、中宗が即位することになった。再びハングルの研究が活発化し、崔世珍の「四声通解」や「訓蒙字会」が発行された(こちらは日本で言えば平仮名ではなく、ローマ字の成立の様なものですね)。だが、その後に世宗の開いた諺文庁は廃止され、宮廷でのハングルを支援していた民族派は後退し、事大主義派が復活してきた。こうしてハングルは表舞台から消えていったという歴史がある。
その後はきちんと習う場がなく、曖昧に使われてきた歴史となる(そのため、朝鮮時代後期のハングルはかなり乱れている)。
他にも、経文の諺訳文化も進められていたが、中には「経文の中にある意味が通じなくなる」と判り、それ以上の訳文化はやめたという事例もある。
このときハングル創制の参加学者は政変に巻き込まれ、新旧の勢力が争った。
仏教界をみると1461年に法華経・金剛経・円覚経・永嘉経などの仏典がハングルで書かれている。しかし1504年10代国王の燕山君がハングル関係書籍を焼却する事件をおこしたのも、民衆による反国王のハングル落書きや投書行動がきっかけであった。そしてハングルの教授や学習は禁止され、さらに学問の府であった成均館は遊技場になってしまった。12月には吏読も使用禁止された。
1506年燕山君の廃位運動とクーデタがおき、中宗が即位することになった。再びハングルの研究が活発化し、崔世珍の「四声通解」や「訓蒙字会」が発行された(こちらは日本で言えば平仮名ではなく、ローマ字の成立の様なものですね)。だが、その後に世宗の開いた諺文庁は廃止され、宮廷でのハングルを支援していた民族派は後退し、事大主義派が復活してきた。こうしてハングルは表舞台から消えていったという歴史がある。
その後はきちんと習う場がなく、曖昧に使われてきた歴史となる(そのため、朝鮮時代後期のハングルはかなり乱れている)。
他にも、経文の諺訳文化も進められていたが、中には「経文の中にある意味が通じなくなる」と判り、それ以上の訳文化はやめたという事例もある。
韓国内では「ハングル」の四面石塔は発見されていないという。
李氏朝鮮でも僧侶たちは仏典をハングルに翻訳し民衆に布教活動している。だが儒教中心のなかで、仏教弾圧がしばしばおこなわれ、とくに16世紀にはハングルの使用も禁止され、仏典仏塔にたいする破棄破壊が繰り返されたといわれている。その為、日本に逃れた僧侶がおり、千葉県にはハングルの石塔が存在する。
ただ李氏朝鮮後期に「浮屠塔」として僧侶の墓地にこの種の石塔が建てられたともいう。
李氏朝鮮でも僧侶たちは仏典をハングルに翻訳し民衆に布教活動している。だが儒教中心のなかで、仏教弾圧がしばしばおこなわれ、とくに16世紀にはハングルの使用も禁止され、仏典仏塔にたいする破棄破壊が繰り返されたといわれている。その為、日本に逃れた僧侶がおり、千葉県にはハングルの石塔が存在する。
ただ李氏朝鮮後期に「浮屠塔」として僧侶の墓地にこの種の石塔が建てられたともいう。
李氏朝鮮になると儒教が国の中心となったことで、仏教は衰退していく。太祖のとき、度牒制で僧侶を増加することを防止したり、仏教寺院の乱立を禁止しただけでなく、太宗は1406年に全国の242寺のみ残して他を廃止するという仏教弾圧をおこなった(その後、更に弾圧が行われ12寺のみになる)。ただ世宗のように個人的信仰のために、儒臣の反対を押し切って宮内に内仏堂をつくったり、世祖が円覚寺(パゴダ公園)を創建したり、仏典の諺解のために刊経都監を設置した国王もいた。
成宗は度牒制をも廃止し、僧侶となるための出家を禁止するという仏教抑圧政策をとった。さらに中宗は1507年僧科を廃止し、仏教と国家の公的な関係たち切っているが、その後1552年には僧科が再設置され、奉恩寺は禅宗の本山として、また奉先寺が教宗の本山に指定されたが、この時には既に弾圧されて衰退していたと共に、僧の地位は最下層に堕とされたままである。
成宗は度牒制をも廃止し、僧侶となるための出家を禁止するという仏教抑圧政策をとった。さらに中宗は1507年僧科を廃止し、仏教と国家の公的な関係たち切っているが、その後1552年には僧科が再設置され、奉恩寺は禅宗の本山として、また奉先寺が教宗の本山に指定されたが、この時には既に弾圧されて衰退していたと共に、僧の地位は最下層に堕とされたままである。
1つは、「朝鮮時代にハングルは使われていなかった」と日本人がよく間違えていることです。
実際はというと、使われてはいます。ただし、大々的に使われていたわけではなく、細々と使われていた、というだけです。
ハングルがある記載といっても、庶民が記録として残しているものが沢山ありますか?ということで、人口の半分を占める奴婢による文学は望めないでしょうが、では、常民の残した書付などはあるでしょうか?
すなわち、広く使われていた文字ではないという事です。
生き残ったのは理由がありますが、18世紀末の書堂における教科書にも出てきますーーただし、発音を教えるものとして。
それ以外では、漢文で記載されています。
使われ方を見るに、日本の9世紀の平仮名の使われ方のようなものですね。
正式な地位はないが、その音や軽妙さから利用されるというものですが、正式に使われるものではなかった、という文字です。
ただ、「今の韓国が使っているハングルは使われていなかった」というのは正しい。
今のハングルは1882年に日本で考えられ、統治時代に正式に成立したものだからです。
実際はというと、使われてはいます。ただし、大々的に使われていたわけではなく、細々と使われていた、というだけです。
ハングルがある記載といっても、庶民が記録として残しているものが沢山ありますか?ということで、人口の半分を占める奴婢による文学は望めないでしょうが、では、常民の残した書付などはあるでしょうか?
すなわち、広く使われていた文字ではないという事です。
生き残ったのは理由がありますが、18世紀末の書堂における教科書にも出てきますーーただし、発音を教えるものとして。
それ以外では、漢文で記載されています。
使われ方を見るに、日本の9世紀の平仮名の使われ方のようなものですね。
正式な地位はないが、その音や軽妙さから利用されるというものですが、正式に使われるものではなかった、という文字です。
ただ、「今の韓国が使っているハングルは使われていなかった」というのは正しい。
今のハングルは1882年に日本で考えられ、統治時代に正式に成立したものだからです。
もう1つは、「朝鮮時代にハングルが広く使われていた」というもので、韓国人が良く間違えている事です。
これは教育を受ける場や文字が生活の周囲にあるような環境ではなかったので、広く使われていたものではありません。細々と使われていた、というだけです。
高麗時代やり朝鮮時代の教育システムを見る限り、知っていて、利用できたのは。王族や両班、官僚の手伝いをする中人、あとは妓生の中でも1牌と一部の者達ぐらいで、全体で言えば3%未満ぐらいです。
19世紀の開港してから暫くの間に訪れた外国人の記録や写真を見ても、諺文(ハングル)文字は見当たらないぐらい浸透していない文字です。
「ハングルの書籍があるのが広く使われていた証拠」であるなら、日本は平仮名文学も片仮名文学も平安時代に存在していますから、その主張であれば平安時代の日本は庶民まで漢字だけでなく平仮名・片仮名まで知れ渡っていたという事になりますね(もちろん、日本人はそうではない事を知っていますが)。
中世文化の時代では、文字は特権階級のものです。
また、今の「覚えやすいハングル」は、昔からそうだったわけではなく、日本人が中心になって朝鮮人と一緒に考え、そして統治時代に定められた文字が使われています。
ただ、「今の韓国が使っているハングル(諺文)とは違う諺文の文字は、朝鮮時代で識字が出来る全体の一部の人の私文などでは使われていた」というのは正しい。
ハングル自体は、今の形とは違っており使い方も違っているが、15世紀に作られてからのものは一部の文字を知る人達には使われていた。
ですが、今の使い方と違うので、満足に歴史資料を読める人もまれになってますね。
これは教育を受ける場や文字が生活の周囲にあるような環境ではなかったので、広く使われていたものではありません。細々と使われていた、というだけです。
高麗時代やり朝鮮時代の教育システムを見る限り、知っていて、利用できたのは。王族や両班、官僚の手伝いをする中人、あとは妓生の中でも1牌と一部の者達ぐらいで、全体で言えば3%未満ぐらいです。
19世紀の開港してから暫くの間に訪れた外国人の記録や写真を見ても、諺文(ハングル)文字は見当たらないぐらい浸透していない文字です。
「ハングルの書籍があるのが広く使われていた証拠」であるなら、日本は平仮名文学も片仮名文学も平安時代に存在していますから、その主張であれば平安時代の日本は庶民まで漢字だけでなく平仮名・片仮名まで知れ渡っていたという事になりますね(もちろん、日本人はそうではない事を知っていますが)。
中世文化の時代では、文字は特権階級のものです。
また、今の「覚えやすいハングル」は、昔からそうだったわけではなく、日本人が中心になって朝鮮人と一緒に考え、そして統治時代に定められた文字が使われています。
ただ、「今の韓国が使っているハングル(諺文)とは違う諺文の文字は、朝鮮時代で識字が出来る全体の一部の人の私文などでは使われていた」というのは正しい。
ハングル自体は、今の形とは違っており使い方も違っているが、15世紀に作られてからのものは一部の文字を知る人達には使われていた。
ですが、今の使い方と違うので、満足に歴史資料を読める人もまれになってますね。
日本では知られていないが、周時経という朝鮮の言語学者がいて、『ハングル中興の祖』という人物がいます。
この人物は漢陽に上京して書堂でおよそ4年間漢文を学ぶのですが、1892年から培材学堂で学び始め、文明国には固有の文字があると知り自国文字の重要性を悟ったそうです。
ーーが、この時ってすでに福沢諭吉と朝鮮人も含んだその門下生によって国漢文混用が世に出ている(新聞が発刊されてた)おり、それから暫く後の話ですね。
この時期からハングルと朝鮮語を研究し始めたそうですが、それまで『固有の文字』の大事さを知らなかったようですね。
ちなみに、「周時経は日本の朝鮮学者である高橋亨に朝鮮語を教えた」と韓国はしているが。高橋亨の方にはそのような記録はない(というか、高橋亨の方が先に文法的な整理を行った書物を発刊している。周時経の方が後発の研究者であるから、たぶん、逆なのだろう)。
高橋亨は1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年『韓語文典』を、1910年『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し採用された。1911年、京城高等普通学校の教諭となり、それと平行して朝鮮総督府の宗教調査や図書調査の嘱託として勤務。同年、普通学校用諺文綴字法を定めるための会議に委員として携わったという人物。
それに対して周時経は、1911年に『国語文法』という漢字を使わない文法を発表した、という人物であり、現在のハングルの文法の整理に携わっていない。
この人物は漢陽に上京して書堂でおよそ4年間漢文を学ぶのですが、1892年から培材学堂で学び始め、文明国には固有の文字があると知り自国文字の重要性を悟ったそうです。
ーーが、この時ってすでに福沢諭吉と朝鮮人も含んだその門下生によって国漢文混用が世に出ている(新聞が発刊されてた)おり、それから暫く後の話ですね。
この時期からハングルと朝鮮語を研究し始めたそうですが、それまで『固有の文字』の大事さを知らなかったようですね。
ちなみに、「周時経は日本の朝鮮学者である高橋亨に朝鮮語を教えた」と韓国はしているが。高橋亨の方にはそのような記録はない(というか、高橋亨の方が先に文法的な整理を行った書物を発刊している。周時経の方が後発の研究者であるから、たぶん、逆なのだろう)。
高橋亨は1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年『韓語文典』を、1910年『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し採用された。1911年、京城高等普通学校の教諭となり、それと平行して朝鮮総督府の宗教調査や図書調査の嘱託として勤務。同年、普通学校用諺文綴字法を定めるための会議に委員として携わったという人物。
それに対して周時経は、1911年に『国語文法』という漢字を使わない文法を発表した、という人物であり、現在のハングルの文法の整理に携わっていない。