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mitsuko_tada 2025年07月10日(木) 01:53:25履歴
朝鮮初の近代新聞が発行に至るには2ルートある。
「朝鮮人ルート」と「日本人ルート」ですね。
どちらも起点は福沢諭吉で、朝鮮人ルートも、近代化に踏み出す為には新聞の発行が必要だと日本に留学してきた朝鮮人に教え、教えを受け朝の人は帰国するが、こちらは反対する他の朝鮮人たちによって潰される。
成功した方が日本人ルート、井上角五郎の方の事で、朝鮮の社会システムや社会的状況を観察し、王から説得し動かさないといけないと判断して、実際に動いて成功する。
韓国では、この朝鮮の人ルートしか言われず、更に言えば日本に来た際に福沢諭吉に教わり必要性を説かれてから行動した事や、失敗については話されないのだろう。「井上角五郎は途中から参加した」とも言われているがが、実際はその逆。正確には朝鮮人ルートは頓挫し、日本人ルートは王を説得し成功して、そんな成功した側に頓挫した朝鮮人たちが合流した、という方が正しい話となる。
「朝鮮人ルート」と「日本人ルート」ですね。
どちらも起点は福沢諭吉で、朝鮮人ルートも、近代化に踏み出す為には新聞の発行が必要だと日本に留学してきた朝鮮人に教え、教えを受け朝の人は帰国するが、こちらは反対する他の朝鮮人たちによって潰される。
成功した方が日本人ルート、井上角五郎の方の事で、朝鮮の社会システムや社会的状況を観察し、王から説得し動かさないといけないと判断して、実際に動いて成功する。
韓国では、この朝鮮の人ルートしか言われず、更に言えば日本に来た際に福沢諭吉に教わり必要性を説かれてから行動した事や、失敗については話されないのだろう。「井上角五郎は途中から参加した」とも言われているがが、実際はその逆。正確には朝鮮人ルートは頓挫し、日本人ルートは王を説得し成功して、そんな成功した側に頓挫した朝鮮人たちが合流した、という方が正しい話となる。
印刷機械も印刷職人も印刷する紙も印刷する活字も福沢諭吉たちが用意し日本から持っていっている。
しかしそれらは一度、朝鮮人たちの手によって機材などと共に印刷局が焼け落ちた。
それでも再度、井上角五郎が使命感から命の危険があるのも承知で、日本から職人や機材などを日本から持っていって再建して発刊する。
もちろん、朝鮮の人の中も一緒に動いている。
が、1番のキーマンは日本にいながら朝鮮の近代化に必要な活動を見抜き導いた教育者である福沢諭吉であり、実働としてのキーマンはその門下生である井上角五郎だ。ただし、実働はあくまで朝鮮の人が中心となりすべきだというのひたすらに下支えをする。
しかしそれらは一度、朝鮮人たちの手によって機材などと共に印刷局が焼け落ちた。
それでも再度、井上角五郎が使命感から命の危険があるのも承知で、日本から職人や機材などを日本から持っていって再建して発刊する。
もちろん、朝鮮の人の中も一緒に動いている。
が、1番のキーマンは日本にいながら朝鮮の近代化に必要な活動を見抜き導いた教育者である福沢諭吉であり、実働としてのキーマンはその門下生である井上角五郎だ。ただし、実働はあくまで朝鮮の人が中心となりすべきだというのひたすらに下支えをする。
朝鮮初の近代新聞は『漢城旬報』であ、1883年10月30日に創刊された朝鮮で最初の近代的新聞。政府の機関である「博文局」が発行している。
10日に1度発行され、全て漢文で書かれていた。記事の内容は、官報、国内私報(社会面)、各国近事(外信)、市直探報(物価情報)などだった。
1884年12月に甲申政変で博文局が焼けて、漢城旬報は廃刊となるが、全36号が発行された。
発行は政府の機関である「博文局」。「博文」の意味は大朝鮮国民に広く文学的に読み書きが広がるように、さらに博学的に知識が身につくように、願いを込めた意味がある。
発刊の経緯は1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の公式な修信使として朴泳孝らが訪日。
朴泳孝ら一行は、外務卿井上馨に朝鮮の借款や訪日費用等について相談する一方で、朝鮮改革を唱えていた福澤諭吉とも会見、福澤が朝鮮の独立と啓蒙の為に教育(留学)と新聞の発刊を提案、朴も借款の一部を啓蒙や教育に利用することに同意したというもの。これにより新聞が発刊されることになり、後に徐載弼ら数十名も慶應義塾と士官学校へ留学する運びとなった。
帰国した朴は1883年1月に漢城判尹(現在のソウル市長)に任命されると、新聞発行のための行動を始め、1883年2月には朝鮮国王から新聞発行の許可が下りた。しかし1883年4月、朴泳孝は朝鮮保守派からの反発から漢城判尹から解任され、新聞も「政治改良」を訴える計画だったことで、新聞発行計画は一時頓挫し、雇用されていた日本人印刷工と途中から新聞発行計画に参加していた福澤門下の井上角五郎以外の日本人は、全員日本へ帰国することとなった。
しかし、井上角五郎の説得が功をせいし、1883年8月には日本から印刷機と新聞用紙を購入して近代的印刷設備を整えた「博文局」が設置されることになり、1883年10月30日、博文局から『漢城旬報』第1号が発行されるに至った。
井上角五郎からの第1号・第2号の報告を福沢諭吉にするのだだが、しかし福沢諭吉は「漢文での新聞ではいけない、国漢文混用(漢字とハングルが混じった文章)で新聞を発刊しないといけない」と伝えている。
「漢城旬報」の文章は、当初は純漢文であったが、福澤は井上から送られて来た「漢城旬報」の第一号・第二号を見て「朝鮮には諺文(ハングル)があるはずだ。諺文を使えば多くの人が読めるようになるだろう」と指摘している。井上は早速ハングルの使用について検討を始めた。当時ハングルの使用については、保守派があれこれ難癖をつけ使用の目途はつかなかった「漢城旬報」は朝鮮における最初の近代的新聞であったが、同国の保守派の人々は危険分子を助長させるとして反対した。また清国人は清国の従属国朝鮮が官報に独立論を掲載したのは許しがたい行為であるとし、その背後に日本があると断じ非難した。
このように、ハングルの利用どころか近代新聞の発刊も朝鮮の中の保守派や親中派からの妨害にあっている。
10日に1度発行され、全て漢文で書かれていた。記事の内容は、官報、国内私報(社会面)、各国近事(外信)、市直探報(物価情報)などだった。
1884年12月に甲申政変で博文局が焼けて、漢城旬報は廃刊となるが、全36号が発行された。
発行は政府の機関である「博文局」。「博文」の意味は大朝鮮国民に広く文学的に読み書きが広がるように、さらに博学的に知識が身につくように、願いを込めた意味がある。
発刊の経緯は1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の公式な修信使として朴泳孝らが訪日。
朴泳孝ら一行は、外務卿井上馨に朝鮮の借款や訪日費用等について相談する一方で、朝鮮改革を唱えていた福澤諭吉とも会見、福澤が朝鮮の独立と啓蒙の為に教育(留学)と新聞の発刊を提案、朴も借款の一部を啓蒙や教育に利用することに同意したというもの。これにより新聞が発刊されることになり、後に徐載弼ら数十名も慶應義塾と士官学校へ留学する運びとなった。
帰国した朴は1883年1月に漢城判尹(現在のソウル市長)に任命されると、新聞発行のための行動を始め、1883年2月には朝鮮国王から新聞発行の許可が下りた。しかし1883年4月、朴泳孝は朝鮮保守派からの反発から漢城判尹から解任され、新聞も「政治改良」を訴える計画だったことで、新聞発行計画は一時頓挫し、雇用されていた日本人印刷工と途中から新聞発行計画に参加していた福澤門下の井上角五郎以外の日本人は、全員日本へ帰国することとなった。
しかし、井上角五郎の説得が功をせいし、1883年8月には日本から印刷機と新聞用紙を購入して近代的印刷設備を整えた「博文局」が設置されることになり、1883年10月30日、博文局から『漢城旬報』第1号が発行されるに至った。
井上角五郎からの第1号・第2号の報告を福沢諭吉にするのだだが、しかし福沢諭吉は「漢文での新聞ではいけない、国漢文混用(漢字とハングルが混じった文章)で新聞を発刊しないといけない」と伝えている。
「漢城旬報」の文章は、当初は純漢文であったが、福澤は井上から送られて来た「漢城旬報」の第一号・第二号を見て「朝鮮には諺文(ハングル)があるはずだ。諺文を使えば多くの人が読めるようになるだろう」と指摘している。井上は早速ハングルの使用について検討を始めた。当時ハングルの使用については、保守派があれこれ難癖をつけ使用の目途はつかなかった「漢城旬報」は朝鮮における最初の近代的新聞であったが、同国の保守派の人々は危険分子を助長させるとして反対した。また清国人は清国の従属国朝鮮が官報に独立論を掲載したのは許しがたい行為であるとし、その背後に日本があると断じ非難した。
このように、ハングルの利用どころか近代新聞の発刊も朝鮮の中の保守派や親中派からの妨害にあっている。
1884年12月に廃刊になった『漢城旬報』の後継紙にあたる。『漢城旬報』と同じく、政府の機関である博文局が発行した新聞。
『漢城旬報』は、全て漢文で書かれていたが、『漢城周報』は、漢文、国漢文(通常の漢字ハングル交じり文とは別で、日本の漢字訓読文を元に、井上が提案し、それを元に朝鮮人儒学者が創造したもの)、ハングルだけの文の3種類が使われた。朝鮮の新聞でハングルが採用された初めてのものである。
1886年2月22日の紙面にドイツの商社である世昌洋行(Edward Meyer & Co.)の広告が掲載されたが、これが朝鮮最初の近代的商業広告となった。
『漢城旬報』を発行していた甲申政変で「博文局」が焼かれたため、朝鮮での新聞発行は中断することとなった。
巻き込まれ命からがらに井上らは朝鮮人たちと日本に戻るが、1885年早々に井上が朝鮮へ戻ろうとしたとき福澤は「行く必要はあるまい」と止めたが、井上は「先生がお教え下さったハングルの普及のため是非とも行かなければなりません」と言って漢城へ戻った。この井上の命を賭した私心なき情熱と行動が無ければ、朝鮮は今でも中国漢文を使い中国の属国になっていた可能性も高い。
井上は政変の事後処理のための井上馨と朝鮮政府との交渉の仲介役として、すぐに朝鮮へ戻ることになった。しかし博文局は焼け、その復旧に手間取り、ハングルを使うという空気ではなかった。そこで事あるごとにハングル使用の必要性を説き、ようやく実現の運びとなっている。この際に井上は朝鮮国王宛てにハングル使用の新新聞を発行する要望書を金允植へ提出した。金允植はこの要望書に姜韓が案出した漢字・ハングル混合文の写しを添えて高宗に提出したところ、1885年5月12日、新聞復刊の許可が出された。
「博文局」の総裁に金允植が任命され、井上も博文局主任として留任する形となった。1885年6月、金允植は新聞再刊のために新たな印刷機と、ハングルを使用する新聞となったためにハングル活字の購入を井上に依頼し、井上は日本へ一時帰国をし、印刷機とハングル活字を購入した。このハングル活字は『漢城旬報』発行の際にハングルの採用を求めていた福澤諭吉が築地の活版所で造らせておいたもの(つまり、『漢城旬報』が漢文新聞なのを福沢諭吉は駄目だと、私費で作らせていた物)を井上が買い受け、不足していた活字を新たに鋳造させたものであった。
1885年11月、井上はすべてを揃えて漢城へ戻り、翌1886年1月25日、『漢城周報』第1号が発行されるに至った。
姜韓をはじめとする朝鮮側と福沢諭吉、井上角五郎ら日本側の努力により、ハングル使用の新聞発行が実現できたと評する韓国言論史の崔俊などの見解がある。
この「漢城周報」は、政府公認の公文書(官報)としては初めてハングルによる朝鮮文(吏読文など、漢字表記の朝鮮語が政府の実務文書に使われることや、民間への教化や布告がハングルで出されることはあった)が使用されたものとなる。ここでは、国漢文という日本の漢文訓読体をモデルにした新しい文体(ハングル創製以来使用されていた、単なる漢字交じり文とは別)が採用されている。
同紙は井上の指導のもとに軌道に乗ったが、背後に閔妃ら反日的な保守派が勢力を力を持ち始め、はじめ協力的だった関係者の気持ちが次第に遠のいていった。
朝鮮人のハングル利用は、新聞発刊後も朝鮮人の手によって押さえつけられ続ける事になる。
朝鮮の開化を願って朝鮮へ渡り、朝鮮人と共に行動したにもかかわらず結局受け入れられず、しかし、井上の帰国した後も「新聞の発行」は続き、朝鮮に近代新聞を発刊する萌芽が確かに出来たものだ。
結局は、ハングル語を用いた国漢文混用が庶民にまで学びの場を持たれるのは1910年から1945年の日本統治時代であり、ハングルは朝鮮の普通学校(小学校)の教科書に載り朝鮮の子供たちに普及していった。
『漢城旬報』は、全て漢文で書かれていたが、『漢城周報』は、漢文、国漢文(通常の漢字ハングル交じり文とは別で、日本の漢字訓読文を元に、井上が提案し、それを元に朝鮮人儒学者が創造したもの)、ハングルだけの文の3種類が使われた。朝鮮の新聞でハングルが採用された初めてのものである。
1886年2月22日の紙面にドイツの商社である世昌洋行(Edward Meyer & Co.)の広告が掲載されたが、これが朝鮮最初の近代的商業広告となった。
『漢城旬報』を発行していた甲申政変で「博文局」が焼かれたため、朝鮮での新聞発行は中断することとなった。
巻き込まれ命からがらに井上らは朝鮮人たちと日本に戻るが、1885年早々に井上が朝鮮へ戻ろうとしたとき福澤は「行く必要はあるまい」と止めたが、井上は「先生がお教え下さったハングルの普及のため是非とも行かなければなりません」と言って漢城へ戻った。この井上の命を賭した私心なき情熱と行動が無ければ、朝鮮は今でも中国漢文を使い中国の属国になっていた可能性も高い。
井上は政変の事後処理のための井上馨と朝鮮政府との交渉の仲介役として、すぐに朝鮮へ戻ることになった。しかし博文局は焼け、その復旧に手間取り、ハングルを使うという空気ではなかった。そこで事あるごとにハングル使用の必要性を説き、ようやく実現の運びとなっている。この際に井上は朝鮮国王宛てにハングル使用の新新聞を発行する要望書を金允植へ提出した。金允植はこの要望書に姜韓が案出した漢字・ハングル混合文の写しを添えて高宗に提出したところ、1885年5月12日、新聞復刊の許可が出された。
「博文局」の総裁に金允植が任命され、井上も博文局主任として留任する形となった。1885年6月、金允植は新聞再刊のために新たな印刷機と、ハングルを使用する新聞となったためにハングル活字の購入を井上に依頼し、井上は日本へ一時帰国をし、印刷機とハングル活字を購入した。このハングル活字は『漢城旬報』発行の際にハングルの採用を求めていた福澤諭吉が築地の活版所で造らせておいたもの(つまり、『漢城旬報』が漢文新聞なのを福沢諭吉は駄目だと、私費で作らせていた物)を井上が買い受け、不足していた活字を新たに鋳造させたものであった。
1885年11月、井上はすべてを揃えて漢城へ戻り、翌1886年1月25日、『漢城周報』第1号が発行されるに至った。
姜韓をはじめとする朝鮮側と福沢諭吉、井上角五郎ら日本側の努力により、ハングル使用の新聞発行が実現できたと評する韓国言論史の崔俊などの見解がある。
この「漢城周報」は、政府公認の公文書(官報)としては初めてハングルによる朝鮮文(吏読文など、漢字表記の朝鮮語が政府の実務文書に使われることや、民間への教化や布告がハングルで出されることはあった)が使用されたものとなる。ここでは、国漢文という日本の漢文訓読体をモデルにした新しい文体(ハングル創製以来使用されていた、単なる漢字交じり文とは別)が採用されている。
同紙は井上の指導のもとに軌道に乗ったが、背後に閔妃ら反日的な保守派が勢力を力を持ち始め、はじめ協力的だった関係者の気持ちが次第に遠のいていった。
朝鮮人のハングル利用は、新聞発刊後も朝鮮人の手によって押さえつけられ続ける事になる。
朝鮮の開化を願って朝鮮へ渡り、朝鮮人と共に行動したにもかかわらず結局受け入れられず、しかし、井上の帰国した後も「新聞の発行」は続き、朝鮮に近代新聞を発刊する萌芽が確かに出来たものだ。
結局は、ハングル語を用いた国漢文混用が庶民にまで学びの場を持たれるのは1910年から1945年の日本統治時代であり、ハングルは朝鮮の普通学校(小学校)の教科書に載り朝鮮の子供たちに普及していった。
韓国では周時経を「ハングル中興の祖」とし、1896年発刊の『独立新聞』を初の純ハングル新聞としているが。
しかし、周時経がハングルの大事さを知ったのは1892年以降(これは、朝鮮でハングルが知られた日常的に使われていた文字ではない事の証左)であり、初の純ハングル新聞は『漢城周報』が、漢文・国漢文・ハングルだけの文の3種類が使われているので、ハングルだけの紙面も存在しており、『独立新聞』はそれより10年遅いので初ではない(なぜか韓国では、この独立新聞を初だと思っているようだが)。
『独立新聞』は「分かち書き」を初めて導入した点で注目される新聞である。
また、周時経は1892年以降で出会ったハングル、それは、それより10年も前に福沢諭吉が提唱した国漢文混用だったのです。
……言われたいか?と聞かれたら言われたくはない(福沢諭吉は朝鮮人の愚かさと裏切りに心を痛めた人なので)けど、
どうみても「ハングル中興の祖」は福沢諭吉でしょうね。福沢がハングルを見出さなければ、今も漢字のみを使っていた事でしょう。
伊藤博文が1906年初代韓国統監に就任。理想的に国家を立て直すため、まず「学校教育の充実」を最優先で実施している。
そのために、伊藤博文自身が日本銀行から500万円を借欺し、そのうち50万円を教育の振興に充てた。それにより、1906年に周時経が『大韓国語文法』を、1908年に『国語文典音学』を出版。また崔光玉の『大韓文典』と兪吉濬の『大韓文典』(崔光玉の『大韓文典』と同名)、1909年に金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』などが出版している。これらは、甲午改革後でも朝鮮が近代化を進ませるどころか妨害や排斥しようとしている様子に伊藤博文が叱り、そして彼が活動する事にハングルを教える学校や、ハングルを整備する公的なハングル研究部門が作られ推し進めた事により世の中に出たのが現代ハングルの基礎となるものである。
しかし、周時経がハングルの大事さを知ったのは1892年以降(これは、朝鮮でハングルが知られた日常的に使われていた文字ではない事の証左)であり、初の純ハングル新聞は『漢城周報』が、漢文・国漢文・ハングルだけの文の3種類が使われているので、ハングルだけの紙面も存在しており、『独立新聞』はそれより10年遅いので初ではない(なぜか韓国では、この独立新聞を初だと思っているようだが)。
『独立新聞』は「分かち書き」を初めて導入した点で注目される新聞である。
また、周時経は1892年以降で出会ったハングル、それは、それより10年も前に福沢諭吉が提唱した国漢文混用だったのです。
……言われたいか?と聞かれたら言われたくはない(福沢諭吉は朝鮮人の愚かさと裏切りに心を痛めた人なので)けど、
どうみても「ハングル中興の祖」は福沢諭吉でしょうね。福沢がハングルを見出さなければ、今も漢字のみを使っていた事でしょう。
伊藤博文が1906年初代韓国統監に就任。理想的に国家を立て直すため、まず「学校教育の充実」を最優先で実施している。
そのために、伊藤博文自身が日本銀行から500万円を借欺し、そのうち50万円を教育の振興に充てた。それにより、1906年に周時経が『大韓国語文法』を、1908年に『国語文典音学』を出版。また崔光玉の『大韓文典』と兪吉濬の『大韓文典』(崔光玉の『大韓文典』と同名)、1909年に金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』などが出版している。これらは、甲午改革後でも朝鮮が近代化を進ませるどころか妨害や排斥しようとしている様子に伊藤博文が叱り、そして彼が活動する事にハングルを教える学校や、ハングルを整備する公的なハングル研究部門が作られ推し進めた事により世の中に出たのが現代ハングルの基礎となるものである。
そもそも、漢字ハングル混用文はその作られる経緯も記録に残っている。日本に留学していた兪吉濬の学習の様子については1932発刊『福澤諭吉傳』にあり、
このハングルと漢字を合わせて使う文章作りは朝鮮において後に国漢文混用と呼ばれることになり、今の朝鮮語の構文の基礎になっている。この後に国漢文混用の構文を使って兪吉濬が『西遊見聞』を出版したのは1895年のことであるが、彼はそれに先立つ1883年、韓国最初の近代式外務省である統理交渉通商事務衙門の主事に任命された。彼は福沢諭吉が強く勧めた新聞の発刊に力を入れながら、多数の国漢文混用の文書を残している。兪吉濬は慶應義塾へ留学した際、福沢のもとで漢諺混用の仮名交り文を練習しつづけたのだが、この作り出した漢諺混用文は後日、朝鮮で「国漢文混用」と言われる文体となり、今の漢字を廃そうとしている韓国が使う朝鮮語の基になる。
新聞紙の発行は牛場顧問渡韓の際、先生が其実行を期せられた一事項であった。先生は予てより朝鮮の人の教育上その文章を平易ならしむるため、彼の国の諺文即ち仮名文字を漢字と混用使用することに着眼せられ、兪吉濬が三田の邸に寄寓して居たとき、兪に命じて「文字の教」の文章を漢諺混用の仮名交り文に訳せしめ、文章はこれでなければならぬといっていられた。「文字の教」の文章を漢文とハングルとを混用して新たな構文作りに挑戦したことがわかる。
このハングルと漢字を合わせて使う文章作りは朝鮮において後に国漢文混用と呼ばれることになり、今の朝鮮語の構文の基礎になっている。この後に国漢文混用の構文を使って兪吉濬が『西遊見聞』を出版したのは1895年のことであるが、彼はそれに先立つ1883年、韓国最初の近代式外務省である統理交渉通商事務衙門の主事に任命された。彼は福沢諭吉が強く勧めた新聞の発刊に力を入れながら、多数の国漢文混用の文書を残している。兪吉濬は慶應義塾へ留学した際、福沢のもとで漢諺混用の仮名交り文を練習しつづけたのだが、この作り出した漢諺混用文は後日、朝鮮で「国漢文混用」と言われる文体となり、今の漢字を廃そうとしている韓国が使う朝鮮語の基になる。
この構文は福沢諭吉が近代文化発展の重要な要素の1つとして提唱していた『俗文主義』と呼ばれるもので、女性や子供でも理解できる分かりやすい文章で書き話さなくてはならないというもので、ようは難しく考えなくても理解できる、持って回ったような古い難しい言い回しをしないというものである。
また、古いハングルは今と書き方や文字数が今と違っている部分が多々ある。これは、井上角五郎らがより簡単に書きやすくて覚えやすい文字にと変えたからであり、この文字が今の朝鮮語では使われている。
また、朝鮮初の近代新聞に深く関わる井上角五郎らが訪朝する際には、朝鮮の一般庶民の意識改革の為に識字率を上げる必要を感じていた福澤諭吉は井上らに
また、古いハングルは今と書き方や文字数が今と違っている部分が多々ある。これは、井上角五郎らがより簡単に書きやすくて覚えやすい文字にと変えたからであり、この文字が今の朝鮮語では使われている。
また、朝鮮初の近代新聞に深く関わる井上角五郎らが訪朝する際には、朝鮮の一般庶民の意識改革の為に識字率を上げる必要を感じていた福澤諭吉は井上らに
朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙の為には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠と訓示している。
韓国では「福沢諭吉は朝鮮の侵略を画策していた」などと歪曲した俗説もあるが、福沢諭吉はそのような意思はなく、ただただ朝鮮の民衆と近代化を思っての活動である。福沢諭吉が残している手紙の中にその記述があり、私心なく、朝鮮の近代化を望んでいる事が書かれており、井上角五郎に
その結果、晩年の福沢諭吉は「朝鮮に関わるな」と見捨てる。
君も亦朝鮮国に在て全く私心を去り、猥に彼の盛事に喙を容れず、猥に彼の習慣を壊るを求めずして、唯一貴の目的は君の平生学び得たる洋学の旨を伝え、彼の上流の士人をして自ら発明せしむるに在るのみ。自身既に発明するときは、政事の変革、風俗の改良の如きは誠 に易々たるねりにして、学者たる君に於ては之を傍観して可なりと伝えている。私心なく、政や習慣に直接干渉することは行わず、朝鮮の人自らで作り出せるように、支援を主にするべきであるとの事を伝えている。これがお膳立てや基本的なものは日本人から提案や相談として行うが、最終判断と実務は朝鮮の人自らがすべきであり、時代の変革は朝鮮の人自らが行うべきだという事であり、甲午改革でも同様な事を日本はしているわけである。他にも、福沢諭吉は何人もの朝鮮の人を教え、この人物なら朝鮮の近代化と独立した国家の道に進ませられると見込んだ人物も幾人かいた。だが、朝鮮の人自ら民族文字であるハングルを否定する姿や、近代化に導ける人材と見込み教え愛弟子としていたような人物を、邪魔をするだけでなく、朝鮮の人が利権や権威争いで暗殺し近代化の道を自らの手で潰す朝鮮に、福沢諭吉は大きな失望をしてしまう。
その結果、晩年の福沢諭吉は「朝鮮に関わるな」と見捨てる。
韓国では『朝鮮がハングルを使おうとするのを日本が潰そうとした』と習うが、史実はまるで逆である。
日本と、その日本からの教えを学んだ当時の朝鮮社会を憂い近代化すべきだと言う考えを持てたほんの一部の朝鮮の人が、朝鮮の人という民族アイデンテティを持つためにはハングルを使うべきだと確信し、使命感を持ち足掻きながらも進んできたものだ。
本来、韓国人が学校で教えるべきはこの「史実」であるはずで、朝鮮でも特に支配層だった朝鮮の人がハングルは不要な文字だと、奴婢が文字を知る必要はないと普及を邪魔し、足を引っ張り、否定をしていたものなのだが、韓国の学校では史実と逆の事を教えている。当時の朝鮮官僚の中には漢文しか認めず、漢文しかしらず諺文は書けない者もいたのである。それでも朝鮮は民族文字を使うべきだと福沢諭吉が思い考え始めた1881年から、その25年余りが経った後に、1909年頃には漢字ハングル混用文も定着し始め否定的な意見は小さくなってきている。
識字率が少し向上して3%→6%と倍になる事に繋がっている。
それを朝鮮の人から手紙を受け取った福沢諭吉の息子は、亡き父親も喜ぶことだろうと返信した手紙が残っている(福沢諭吉は1901年に亡くなっており、漢字ハングル混用文を朝鮮の両班の多くが否定して庶民まで広がる様子は自身の目で見る事が出来なかった。確かに甲午改革から国漢文混用を国の言葉として認められるが、それは公的文書であって、庶民まで広がっていたわけではない)。
日本と、その日本からの教えを学んだ当時の朝鮮社会を憂い近代化すべきだと言う考えを持てたほんの一部の朝鮮の人が、朝鮮の人という民族アイデンテティを持つためにはハングルを使うべきだと確信し、使命感を持ち足掻きながらも進んできたものだ。
本来、韓国人が学校で教えるべきはこの「史実」であるはずで、朝鮮でも特に支配層だった朝鮮の人がハングルは不要な文字だと、奴婢が文字を知る必要はないと普及を邪魔し、足を引っ張り、否定をしていたものなのだが、韓国の学校では史実と逆の事を教えている。当時の朝鮮官僚の中には漢文しか認めず、漢文しかしらず諺文は書けない者もいたのである。それでも朝鮮は民族文字を使うべきだと福沢諭吉が思い考え始めた1881年から、その25年余りが経った後に、1909年頃には漢字ハングル混用文も定着し始め否定的な意見は小さくなってきている。
識字率が少し向上して3%→6%と倍になる事に繋がっている。
それを朝鮮の人から手紙を受け取った福沢諭吉の息子は、亡き父親も喜ぶことだろうと返信した手紙が残っている(福沢諭吉は1901年に亡くなっており、漢字ハングル混用文を朝鮮の両班の多くが否定して庶民まで広がる様子は自身の目で見る事が出来なかった。確かに甲午改革から国漢文混用を国の言葉として認められるが、それは公的文書であって、庶民まで広がっていたわけではない)。
話は戻り、様々な妨害に遭いながら朝鮮の初新聞である『漢城旬報』は漢文で発刊される事になったが、実は兪吉濬が残している「漢城府新聞局章程」の発刊辞の準備文章からは纏まった形での書記の跡に国漢文混用と呼ばれる漢字ハングル混用文の様子は確認できる。
これも今の朝鮮語の形が日本の尽力によって出来ている証左になるのだが、だがハングルの利用は朝鮮の人により否定され妨害され、初めての新聞は漢文でのみの発刊になったのだ。発刊した報告を受けた福沢諭吉は、しかしその報告を読み、漢文だけではなくハングルを利用した国漢文混用(漢字ハングル混用文)の新聞でなければならないと断言した手紙を送り返している。それを受け考え、朝鮮の人によって機材など諸共に焼け落ちた博文局を、再度日本から機材を持ってきて再建なども必要になったが、1886年には漢文・国漢文混用・ハングル語と3種類の構文で記載した新聞を発刊する。
これも今の朝鮮語の形が日本の尽力によって出来ている証左になるのだが、だがハングルの利用は朝鮮の人により否定され妨害され、初めての新聞は漢文でのみの発刊になったのだ。発刊した報告を受けた福沢諭吉は、しかしその報告を読み、漢文だけではなくハングルを利用した国漢文混用(漢字ハングル混用文)の新聞でなければならないと断言した手紙を送り返している。それを受け考え、朝鮮の人によって機材など諸共に焼け落ちた博文局を、再度日本から機材を持ってきて再建なども必要になったが、1886年には漢文・国漢文混用・ハングル語と3種類の構文で記載した新聞を発刊する。
他にも面白い記録があり、鎌田榮吉の「義塾と朝鮮との関係」という演説の中でこういうのがある。慶應義塾へ留学した兪吉濬に期待を掛けていたもので、
(兪吉濬に)論語を出して読ませてみましたが、音読では(中国と同じように)真直ぐに行く、それから朝鮮の言葉で訳をつけさせますと、日本と同じ事で返っては読んでおります。その読んでいく言葉は固より判りませんが、引繰り返って行く所は、日本の読み方と違ひはない、日本と同じ語脈を伝へて居る言葉に違ひないと云う事は判りました。この朝鮮の言葉で訳とは高麗時代の仏典の読み方で、高麗時代に日本独自の漢文訓読を取り入れたものだ。正式とされる読みは中国読み、だが意味が分かるようにする訳文は日本語の漢文訓読のようになっていたわけである(この漢文を朝鮮の言葉で訳する記述構文は、今の意味の記述構文とは違う。上下を転倒して適切な助詞・助動詞・活用語尾などを補い、それ以外のものは漢語として読んでいく方法である)。
また1882年にも幾人もの朝鮮の人が福沢諭吉と面会し、朝鮮が中国の冊封から脱却し独立国になるにはどうすればいいか、近代化するためにはどうすればいいかを福沢諭吉から教えられている。この中では「若者の留学」「京城での新聞発行」「近代軍隊教練」必要だと教えている。その後に留学生が多数派遣される事になる。
また、同じ1882年だがそれより前に「今朝鮮国をして我国と方向を一にし共に日新の文明に進ましめんとするには、大に全国の人心を一変するの法に由らざるべからず。即ち文明の新事物を輸入せしめること是なり。海港修策す可し、灯台建設す可し、電信線を通じ、郵便法を設け、汽船を運転し、新学術の発酵を起こし、新聞紙を発行する等、一々枚挙す可ならず」と『時事新報」の社説にも載せている。中国への自大主義・鎖国主義を取る朝鮮が文明開化し、独立国として体裁を整える事が必要だと説いている。
ちなみに、朝鮮の人留学生たちは必要な留学費も払えなかった。福沢諭吉らもかなり窮していた財産状況だったが、開拓庶務費として朝鮮の活動費を渡しており、大変な負担を負っている。しかし、今は学費より勉強する方が大事と支援したものだ。
日本では当時に書かれた記録が沢山あり、確認する事ができる。
イザベラ・バードの『朝鮮紀行』も『三十年前の朝鮮』という表題で1925年には日本で翻訳されている。
新しい朴尚得訳版は読まない方がいい(かなり恣意的に盛っていたり、文を省いていたりしているので)。
また、同じ1882年だがそれより前に「今朝鮮国をして我国と方向を一にし共に日新の文明に進ましめんとするには、大に全国の人心を一変するの法に由らざるべからず。即ち文明の新事物を輸入せしめること是なり。海港修策す可し、灯台建設す可し、電信線を通じ、郵便法を設け、汽船を運転し、新学術の発酵を起こし、新聞紙を発行する等、一々枚挙す可ならず」と『時事新報」の社説にも載せている。中国への自大主義・鎖国主義を取る朝鮮が文明開化し、独立国として体裁を整える事が必要だと説いている。
ちなみに、朝鮮の人留学生たちは必要な留学費も払えなかった。福沢諭吉らもかなり窮していた財産状況だったが、開拓庶務費として朝鮮の活動費を渡しており、大変な負担を負っている。しかし、今は学費より勉強する方が大事と支援したものだ。
日本では当時に書かれた記録が沢山あり、確認する事ができる。
イザベラ・バードの『朝鮮紀行』も『三十年前の朝鮮』という表題で1925年には日本で翻訳されている。
新しい朴尚得訳版は読まない方がいい(かなり恣意的に盛っていたり、文を省いていたりしているので)。
世宗の時代、ハングルの教育が行われましたがすぐに禁止されます。
ただ、ずっと禁止されていたわけではなく、また教育を始め、禁止し、時には利用者を厳しく弾圧するといった歴史を繰り返します。その中で、漢字と朝鮮語発音を並べた解説書、辞書みたいな書籍も作られ、これは初級教育の初歩、漢字と発音を覚えさせる為には使われたようですが、これは例外的な使われ方で基本は漢文教育だけです。
こういう経緯がありハングルは生き残りますが、同時に朝鮮では認められていない文字としてずっと存在します。
例えるなら『phonogram(表音文字)』の読み方が「[US] fóunəgræ̀m(フォウナグラム)」と発音表記される感じで生き残ってきたわけです。色々と禁止や弾圧が繰り返されるにも関わらず、ハングルでの詩など李氏朝鮮時代で残っているのは、まさに表音文字で音の響きを詩に取り入れるからですね。日本語で説明すると、小学校の教科書の漢字にふられているルビの使い方ですね(ただ単に「ルビ使い方」というと、日本は言葉遊びをして本来は読めない読み方をルビとしてふったりしますから)。日本でも、わざと漢字ではなくひらがなで書く文学や詩などがあるのと同じです。古くは『土佐日記』もそうですね。
また、本来のハングルはもっと表音主義的表記法な文字で、今のように形態主義的な文字になったのは近代になってからです。
簡単に言えば、昔のハングルはカナ文字に近く、今のハングルは室町末期から日本に来た宣教師が日本語発音の為に作ったローマ字に近いという事ですね。
「日本語」を「にほんご」と書くか、「NIHON GO」と書くかみたいな感じです(「NI」で1文字になる)。
大きな違いは、平仮名や片仮名は日本固有の話し言葉として万葉仮名から変形してできており、認められた文字として古来から使われています。
それに対して、ハングルという文字の立場は公式には認められない文字として1894年まであった、ということです。
ただ、ずっと禁止されていたわけではなく、また教育を始め、禁止し、時には利用者を厳しく弾圧するといった歴史を繰り返します。その中で、漢字と朝鮮語発音を並べた解説書、辞書みたいな書籍も作られ、これは初級教育の初歩、漢字と発音を覚えさせる為には使われたようですが、これは例外的な使われ方で基本は漢文教育だけです。
こういう経緯がありハングルは生き残りますが、同時に朝鮮では認められていない文字としてずっと存在します。
例えるなら『phonogram(表音文字)』の読み方が「[US] fóunəgræ̀m(フォウナグラム)」と発音表記される感じで生き残ってきたわけです。色々と禁止や弾圧が繰り返されるにも関わらず、ハングルでの詩など李氏朝鮮時代で残っているのは、まさに表音文字で音の響きを詩に取り入れるからですね。日本語で説明すると、小学校の教科書の漢字にふられているルビの使い方ですね(ただ単に「ルビ使い方」というと、日本は言葉遊びをして本来は読めない読み方をルビとしてふったりしますから)。日本でも、わざと漢字ではなくひらがなで書く文学や詩などがあるのと同じです。古くは『土佐日記』もそうですね。
また、本来のハングルはもっと表音主義的表記法な文字で、今のように形態主義的な文字になったのは近代になってからです。
簡単に言えば、昔のハングルはカナ文字に近く、今のハングルは室町末期から日本に来た宣教師が日本語発音の為に作ったローマ字に近いという事ですね。
「日本語」を「にほんご」と書くか、「NIHON GO」と書くかみたいな感じです(「NI」で1文字になる)。
大きな違いは、平仮名や片仮名は日本固有の話し言葉として万葉仮名から変形してできており、認められた文字として古来から使われています。
それに対して、ハングルという文字の立場は公式には認められない文字として1894年まであった、ということです。
中国語の中国語構文で中国語読みなのに、なぜ漢字ハングル混交文が入っても混乱が少なく受け入れられたのか?
というと。識字率の低さ、すなわち、どの言語構文を受け入れても文字的には白紙の人が多かったのも大きな要因ですが、もっと大きいのは高麗時代にまで遡ります。
高麗時代は仏教文化ですが、中国仏教の経典も漢字を用いて中国語の文法で書かれた古典です。理解が難しいのでその読解に日本独自の読み方を輸入します。
漢文訓読ですね。
ヲコト点がまずありますが、これは現存する高麗時代の経典にも痕跡が見られます(ヲコト点は他の中国漢文語圏でも見られるので、別々に発生したとも考えられる)。
韓国だと「朝鮮が日本に教えた」という人もいますが、ヲコト点は日本では奈良時代からあるものですので、そのような俗説は間違いです。
その後、カナ文字を取り入れて、少しの間、高麗では使います。そして出来るのが『釈読口訣』です。ですので釈読口訣にはカタカナそっくりな文字が存在するわけで、この釈読口訣がハングルが出来るルーツの1つにもなります。
つまり、日本語の構文も李氏朝鮮の時代では馴染み深いものになっていたわけです(ただし読みだけで、書きは漢文です)。
ちなみに韓国の中では「カタカナは朝鮮が教えたものだ。高麗時代にそっくりの文字がある」という俗説も見かけたが、日本でカタカナが成立したのは高麗という国ができるより前の時代であるから、誤りなのは明確です。
実際を言うと世宗の作ったハングルは、色々な参照している元があるので、新規発明というより実用新案というものですね(今あげた漢文におけるや文章に対する漢文訓読や読み方として追加される片仮名、他にも中国語漢字やモンゴルの文字もルーツになります)。他にもモンゴルの言葉も参考にしており、これは世宗が書いている『訓民正音』にも記載されている事だが、その後に中国(梵語)の影響を受けたものだと言う説も出てきているものである。
ただ、ルーツがありそれらを参考にして作った、というのは何も貶めるものではなく、そうであるこそ現実的かつ認められる業績ですね。
これを「0から世宗が作った」というファンタジーを話す方が、世宗の成果を貶めるものになります。
というと。識字率の低さ、すなわち、どの言語構文を受け入れても文字的には白紙の人が多かったのも大きな要因ですが、もっと大きいのは高麗時代にまで遡ります。
高麗時代は仏教文化ですが、中国仏教の経典も漢字を用いて中国語の文法で書かれた古典です。理解が難しいのでその読解に日本独自の読み方を輸入します。
漢文訓読ですね。
ヲコト点がまずありますが、これは現存する高麗時代の経典にも痕跡が見られます(ヲコト点は他の中国漢文語圏でも見られるので、別々に発生したとも考えられる)。
韓国だと「朝鮮が日本に教えた」という人もいますが、ヲコト点は日本では奈良時代からあるものですので、そのような俗説は間違いです。
その後、カナ文字を取り入れて、少しの間、高麗では使います。そして出来るのが『釈読口訣』です。ですので釈読口訣にはカタカナそっくりな文字が存在するわけで、この釈読口訣がハングルが出来るルーツの1つにもなります。
つまり、日本語の構文も李氏朝鮮の時代では馴染み深いものになっていたわけです(ただし読みだけで、書きは漢文です)。
ちなみに韓国の中では「カタカナは朝鮮が教えたものだ。高麗時代にそっくりの文字がある」という俗説も見かけたが、日本でカタカナが成立したのは高麗という国ができるより前の時代であるから、誤りなのは明確です。
実際を言うと世宗の作ったハングルは、色々な参照している元があるので、新規発明というより実用新案というものですね(今あげた漢文におけるや文章に対する漢文訓読や読み方として追加される片仮名、他にも中国語漢字やモンゴルの文字もルーツになります)。他にもモンゴルの言葉も参考にしており、これは世宗が書いている『訓民正音』にも記載されている事だが、その後に中国(梵語)の影響を受けたものだと言う説も出てきているものである。
ただ、ルーツがありそれらを参考にして作った、というのは何も貶めるものではなく、そうであるこそ現実的かつ認められる業績ですね。
これを「0から世宗が作った」というファンタジーを話す方が、世宗の成果を貶めるものになります。