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mitsuko_tada 2025年07月09日(水) 04:26:58履歴
韓国には「日本に味噌を伝えたのは高句麗だ」という俗説があり、そこから派生したものと思われます(実際は海流などの関係や当時の船技術の関係から、それはまず不可能なルートで、必ず任那の地域を通ります)。そもそも、高句麗という国が出来た時期よりはるか前より、日本では味噌に類した調味料は作られていたと考えられています。
この説は、一然という朝鮮の僧侶が13世紀に記載し、創作内容が多い事が判っている『三国史記』に書かれている内容で、イ・ソンウという人物が『高麗移転韓国式生活史研究(1978)』『韓国食品文化史(1984)』に広めた歪んだ韓国ナショナリズムで創作された俗説でしかない。捏造神話創作などからでも分かるように、一然という僧侶が、日本の文献を大変に多く参考にして内容を創作したようである。
実際、これの元になったのが『魏志東夷伝』なのだが、ここに高句麗が味噌を作っていた記述はなく、「(酒を)よく醸して(収)蔵する」ということが書かれているだけで酒を指しているものであり、根拠がありません(そしてその酒も「酒をよく造っていた」というだけで、「いい酒を造っていた」という記載はありません)。
この説は、一然という朝鮮の僧侶が13世紀に記載し、創作内容が多い事が判っている『三国史記』に書かれている内容で、イ・ソンウという人物が『高麗移転韓国式生活史研究(1978)』『韓国食品文化史(1984)』に広めた歪んだ韓国ナショナリズムで創作された俗説でしかない。捏造神話創作などからでも分かるように、一然という僧侶が、日本の文献を大変に多く参考にして内容を創作したようである。
実際、これの元になったのが『魏志東夷伝』なのだが、ここに高句麗が味噌を作っていた記述はなく、「(酒を)よく醸して(収)蔵する」ということが書かれているだけで酒を指しているものであり、根拠がありません(そしてその酒も「酒をよく造っていた」というだけで、「いい酒を造っていた」という記載はありません)。
『味噌』の作り方もまるで違います。
朝鮮では豆を茹で潰し固めて、藁の上に置いて枯草菌で発酵させた「味噌玉(メジュ。日本で言う「味噌玉」とは違います)」を作る事から始まり、これは中国と一緒の作り方で、中国から伝わってきた事が判ります(日本で分かりやすく言うと「茹でて潰した豆を藁で縛って発酵させた乾燥納豆」を作っており、それを味噌玉としているのです。ですので、かなり匂いがきつい)。
この納豆モドキの「味噌玉」に更に塩水(分かりやすく言えば海水)などを加えて甕の中で熟成させてできるのが『朝鮮の味噌』であり、その時の液体が『朝鮮の醤油(醤)』になります。
料理での利用方法も違い、朝鮮味噌は入れて煮立たせて食べるもの(そちらの方が臭い匂いが消えるし味が出る。まぁ、日本で判りやすく言えば「納豆汁」みたいなもの)です。
この種の調味料は、日本では室町時代以前の調味料からの系譜として僅かにですが現存(ただし、それでも作り方も菌も違う)してますが、中国はもとより、朝鮮半島や東南アジアには普通にある発酵調味料です。
朝鮮では豆を茹で潰し固めて、藁の上に置いて枯草菌で発酵させた「味噌玉(メジュ。日本で言う「味噌玉」とは違います)」を作る事から始まり、これは中国と一緒の作り方で、中国から伝わってきた事が判ります(日本で分かりやすく言うと「茹でて潰した豆を藁で縛って発酵させた乾燥納豆」を作っており、それを味噌玉としているのです。ですので、かなり匂いがきつい)。
この納豆モドキの「味噌玉」に更に塩水(分かりやすく言えば海水)などを加えて甕の中で熟成させてできるのが『朝鮮の味噌』であり、その時の液体が『朝鮮の醤油(醤)』になります。
料理での利用方法も違い、朝鮮味噌は入れて煮立たせて食べるもの(そちらの方が臭い匂いが消えるし味が出る。まぁ、日本で判りやすく言えば「納豆汁」みたいなもの)です。
この種の調味料は、日本では室町時代以前の調味料からの系譜として僅かにですが現存(ただし、それでも作り方も菌も違う)してますが、中国はもとより、朝鮮半島や東南アジアには普通にある発酵調味料です。
この「朝鮮味噌」ですが、従来の手法は「藁で乾燥納豆と言える味噌球を作り、それを塩水に漬ける」ものですが、今の韓国の製造法は今は大きく分けて「在来式」と「改良式」の2つに分かれます。
伝統手法として知られるのが在来式で、藁の枯草菌で自然発酵させた豆麹に塩水を加え一定期間漬けた後、豆麹のみを甕に移しさらに熟成させて作ります。このとき豆麹が漬かっていた塩水はカンジャン(朝鮮醤油)となります。
一方、改良式は朝鮮磯と朝鮮醤油が平行して出来る在来式と違い最初から朝鮮味噌のみを作る方法で、豆麹に塩水を加えて混ぜ合わせたものを熟成させるという「日本式の味噌作り手法を取り入れた方法」で、日本統治時代以降に出来た手法です。日本式を取り入れても、豆麹を醸す菌は違ってやはり枯草菌(納豆系統の菌)で変わりはありません(枯草菌は藁やバナナの葉にあり、茹でた豆と合わされば出来るので多発的に文化が発生している文化でどこの発祥とは言えないのですが、朝鮮味噌はその作り方が明らかに古代中国にそっくりである。また、日本では味噌造りや醤油造りに枯草菌は禁忌とされており、独自の製造方法なので明らかに違います)。
伝統手法として知られるのが在来式で、藁の枯草菌で自然発酵させた豆麹に塩水を加え一定期間漬けた後、豆麹のみを甕に移しさらに熟成させて作ります。このとき豆麹が漬かっていた塩水はカンジャン(朝鮮醤油)となります。
一方、改良式は朝鮮磯と朝鮮醤油が平行して出来る在来式と違い最初から朝鮮味噌のみを作る方法で、豆麹に塩水を加えて混ぜ合わせたものを熟成させるという「日本式の味噌作り手法を取り入れた方法」で、日本統治時代以降に出来た手法です。日本式を取り入れても、豆麹を醸す菌は違ってやはり枯草菌(納豆系統の菌)で変わりはありません(枯草菌は藁やバナナの葉にあり、茹でた豆と合わされば出来るので多発的に文化が発生している文化でどこの発祥とは言えないのですが、朝鮮味噌はその作り方が明らかに古代中国にそっくりである。また、日本では味噌造りや醤油造りに枯草菌は禁忌とされており、独自の製造方法なので明らかに違います)。
日本の味噌は縄文時代から製塩が行われ、醤などの塩蔵食品が作られていたと見られますし、縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっています。
日本では、実は味噌の原型といえる発酵食品が古くから存在していた事が伺える遺物が発掘されています。縄文・弥生時代の生活跡から、発酵した塩蔵食品を貯蔵したとされるフタ付きの土器が発見されたのです。また、現在の味噌の主原料は、大豆、塩、水ですが、大豆を持ち手に装飾した縄文土器が出土しています。
さらに、製塩するための土器も全国で出土しています。
このように、縄文時代には味噌の原料がそろっていたことは間違いなく、日本にも中国の「醤」に似た、いわば「縄文みそ」とでも呼べる食品が存在していたことがうかがえます。記録に残っているのは紀元前700年の中国が最古ですが、約1万2000年以上前の日本でも味噌のようなものが食べられていたことが推測されます。
味噌というのは、大豆と塩を合わせると出来ます(麹が中国から来る前の製法です)し、古墳時代からは麹発酵の技術を加えたものとなりますが、高句麗などという2世紀辺りに出来た若い国よりも、遥かに古いものなのですよね。
もっと言えば、高句麗は遼東地域に属しており、朝鮮半島には勢力を伸ばしたものであって、中国系民族なのですけどね。
韓国では「朝鮮時代中期(つまり、15〜16世紀)にはあった」と歴史がある事を強調して書かれているが、日本では平安時代(8〜12世紀)と、朝鮮より古くから既に現代に近い『味噌』として文献にも作り方などが出ています。
また、初期の味噌は豆や米を残した形(粒みそ)で、これは「茹でた豆を潰して味噌球を作る朝鮮の作り方」とは明らかに違います。滑らかに潰した形の味噌は鎌倉時代からで、これも作った味噌を漉して滑らかにしていますので、作り方自体は粒味噌です。
それぞれの作り方も大体わかっており朝鮮納豆と作り方がぜんぜん違います。
ただし、現代では味噌づくりの茹でた段階で滑らかに潰しています。
この「滑らかに潰さないで作る味噌」というのが日本の伝統的な味噌の作り方で、これは朝鮮どころか中国とも違うのですよね。
中国の交流をしだして中国の作り方も参考にしたかもしれませんが、それ以前の時代に既に味噌に類するものが日本にあったという事でしょう。
日本では、実は味噌の原型といえる発酵食品が古くから存在していた事が伺える遺物が発掘されています。縄文・弥生時代の生活跡から、発酵した塩蔵食品を貯蔵したとされるフタ付きの土器が発見されたのです。また、現在の味噌の主原料は、大豆、塩、水ですが、大豆を持ち手に装飾した縄文土器が出土しています。
さらに、製塩するための土器も全国で出土しています。
このように、縄文時代には味噌の原料がそろっていたことは間違いなく、日本にも中国の「醤」に似た、いわば「縄文みそ」とでも呼べる食品が存在していたことがうかがえます。記録に残っているのは紀元前700年の中国が最古ですが、約1万2000年以上前の日本でも味噌のようなものが食べられていたことが推測されます。
味噌というのは、大豆と塩を合わせると出来ます(麹が中国から来る前の製法です)し、古墳時代からは麹発酵の技術を加えたものとなりますが、高句麗などという2世紀辺りに出来た若い国よりも、遥かに古いものなのですよね。
もっと言えば、高句麗は遼東地域に属しており、朝鮮半島には勢力を伸ばしたものであって、中国系民族なのですけどね。
韓国では「朝鮮時代中期(つまり、15〜16世紀)にはあった」と歴史がある事を強調して書かれているが、日本では平安時代(8〜12世紀)と、朝鮮より古くから既に現代に近い『味噌』として文献にも作り方などが出ています。
また、初期の味噌は豆や米を残した形(粒みそ)で、これは「茹でた豆を潰して味噌球を作る朝鮮の作り方」とは明らかに違います。滑らかに潰した形の味噌は鎌倉時代からで、これも作った味噌を漉して滑らかにしていますので、作り方自体は粒味噌です。
それぞれの作り方も大体わかっており朝鮮納豆と作り方がぜんぜん違います。
ただし、現代では味噌づくりの茹でた段階で滑らかに潰しています。
この「滑らかに潰さないで作る味噌」というのが日本の伝統的な味噌の作り方で、これは朝鮮どころか中国とも違うのですよね。
中国の交流をしだして中国の作り方も参考にしたかもしれませんが、それ以前の時代に既に味噌に類するものが日本にあったという事でしょう。
そこで気になるのが、「唐醤」と「高麗醤」というもの。この製法が日本に来ているには確かです。
日本での醤油自体の起源は案外古く、縄文時代には肉を塩漬けした「肉醤(ししびしお)」、魚を塩で漬けた「魚醤(うおびしお)」、野菜や果物・海草などによる「草醤(くさびしお)」、穀物による「穀醤(こくびしお)」の四種、所謂「縄文みそ」が作られていただろうことは、発掘された土器の中の残余物の分析から推定されています(「肉醤」や「魚醤」は古代中国でも、記録にあるのでBC700年頃の記録があるが、これらは土器と肉や魚に塩があればできるので、多地点で発生しているものだと考えられる)。
古代の作り方は、例えば肉醤だと肉の内臓の酵素を使い発酵させる方法になり、麹を使うものではありません。どんなのかというと、https://www.rice.press/eat/25148こちらのプログなんかが判りやすいでしょうか?味噌とも醤油とも言えない、その間のようなものですね。実は納豆醤もこの一種で、酵素に枯草菌を使っているのです。
今日でも日本では、ハタハタやイワシを使った秋田の「しょっつる」、イカの内臓やイワシを使った能登の「いしる」、イカナゴを使った香川の「いかなご醤油」が魚醤としてよく知られている。
このように日本には古い土器文化があるので、日本の国内でも色々な「醤」が古代からあり、個別的に発生していて特におかしいものではない(すぐに「大陸や半島から来た」と言う人もいるが、この発想自体がおかしいのである)。
そのような中で日本に大和・飛鳥時代にやって来たのが、「唐醤」と「高麗醤」なのである。記録にあるという事は、それまでの日本の「古代醤」との違いがあったわけですね。
大豆や穀物がやってきて、と書いているものが多いが、日本では既に穀醤はあるので、これはおかしい。穀物に関しては稗や米なら1万年前にはあるが、明らかにおかしいのは大豆である。大豆に関しても野生種が1万年前には、栽培種は6000年前には日本にあります。中国の大豆は3100年前からで、古くはボイスマン文化圏の辺りで大豆が作られており、それを周代(BC11世紀)に中国北東部に持ってきて、それを漢代(BC2世紀以降)に南下して大豆を栽培しだしたことが書かれています。醤の事が書かれているのはBC8世紀なので大豆が南下していく前、今の中国の東北地域の春秋戦国時代の調味料としての「醤」があったという事になるのだが、この頃の日本は弥生時代です。
つまり、日本の「古代醤」らしき痕跡は中国よりはるか古くからあるのです。
また、このボイスマン文化圏の辺りというの縄文系の遺伝子が約13%入っている土地で、縄文人が何世代も前に入ってきている場所ですね。
結局は、中国の「醤」自体が、そのルーツは日本にある可能性が高いのです。
考えるに、
分かりやすく言えば、
「縄文みそ」の発展形で出来ているのが、
・「高麗醤」は中国北東部の遼東地域以北での伝統醤
これは「高麗」という名称がついているからややこしくなっているのだが、やってきている時代を考えると、『前燕』の時代に慕容仁に付いていっていた人達、平郭の民やその周辺が東(朝鮮半島)にと逃げた『百済』の人達を経由して日本に来たものだろう。「納豆醤」と言った方が間違えないかと思う。
その「納豆醤」がBC3世紀の大豆の南下で、それが研究され
・「唐醤」は中国は唐が最新研究で作った醤
というのが出来たのだろう。これも間違えない言うには「麹醤」とするといいのかもしれない。
ただし、納豆醤は、普通に穀醤として既に存在している。
「茹でた大豆」と「周囲の草や葉っぱなど」があれば納豆というのは出来る。つまり、「茹でる土器」「大豆の栽培」「自然にある枯草菌」があれば出来るものである。
それに「保管する土器」と「塩分を含んだ水、例えば煮詰めた海水」を合わせて保管すれば出来るものであり、これは基本的に穀醤の手法である。
つまり、「高麗醤」すなわち「納豆醤」も日本で既にあっておかしいものではないので、記録にあるという事は他に何か違いがあるのでは?
これは、世界の納豆に近い食品を見て、また韓国の伝統醤の作り方を見て、その違いは「乾燥納豆にして作る」なのではないかと思う。
日本だと気候的な話で、中国北東部に比べると温暖で湿度も高く、乾燥納豆にするにはその前に腐りやすい。腐らせず十分なカビを繁殖させるためには、低めの温度と乾燥した大気の方がいいので、日本でも古くから条件が合う山間部では作られていた(田舎味噌)のだが、人が集まる都市部では珍しい醤だったのではないだろうか。
こう考えると、既に古代からある既存の「豆醤(穀醤)」に、その醸す酵素を中国から伝わった麹に変えた(鼓を加えた)、という形に変化していったというのがスムーズな流れではないかとは思う。
肉には肉の内臓、魚には魚の内臓の方が相性がいい。豆には豆から出来たものを加えた方がいい。という感じだったのでしょう。
中国の遼東地域と日本は8000年前には既に交流をしていた形跡があり、縄文時代の土器に味噌や醤油(醤)の原型を作っていた形跡があるので、日本から直接に作り方を中国北東部に伝えた可能性もあるわけです。
結局、日本の伝統醤(古代醤)も含め、それらを政府として本格的に研究したというのが「大宝律令」によると醤院(ひしおつかさ)という役所の設置であり、日本独自の「醤油」が誕生したのだろう。

この魔改造はさらに隠されているものがある。
それは「麹菌」自体である。麹菌は元々は猛毒の気質を持つものを、日本は顕微鏡もない時代、見えぬ胞子を培養し続け、やがて毒を出さない麹菌を手にした歴史なのである。これには数百年という地道な研究が必要であり、文献として古くは1246年には出てくるのだが、これはつまり、その数百年前、「唐醤」が来ると間を置かずに麹研究を始めたという事なのである。

ちなみに、「高麗醤」の味噌の形式も残っているようで、それは室町時代かそれぞれの家で作られ始めた麹を使わない「自家製田舎味噌」の造り方である。
味噌の原型となる古代醤の肉醤・穀醤などは消えていったが、今も各地で残る「魚醤」、昔の麹を使わない自家製の「田舎味噌」、そして長い研究により毒性を無くした日本独自の麹を使った「醤油」や「味噌」。
全てが、現代にも日本には残っているのである。
また、朝鮮半島では「作っていた」といっても量は限られています。
というのも「醤油」や「味噌」といったものの原料となる大豆ですが、これが増えたのが日本統治時代。統治前に比べて3〜3.5倍の生産量にしています。
朝鮮の伝統式な製法と言われる自体が大量生産に向かない手法なので、日本統治以前から作っていたと言っても、限られた人が限られた量を作って使っていたいただけなのですね。一般的に広まり使われるようになるには、日本統治時代になってからです。
日本での醤油自体の起源は案外古く、縄文時代には肉を塩漬けした「肉醤(ししびしお)」、魚を塩で漬けた「魚醤(うおびしお)」、野菜や果物・海草などによる「草醤(くさびしお)」、穀物による「穀醤(こくびしお)」の四種、所謂「縄文みそ」が作られていただろうことは、発掘された土器の中の残余物の分析から推定されています(「肉醤」や「魚醤」は古代中国でも、記録にあるのでBC700年頃の記録があるが、これらは土器と肉や魚に塩があればできるので、多地点で発生しているものだと考えられる)。
古代の作り方は、例えば肉醤だと肉の内臓の酵素を使い発酵させる方法になり、麹を使うものではありません。どんなのかというと、https://www.rice.press/eat/25148こちらのプログなんかが判りやすいでしょうか?味噌とも醤油とも言えない、その間のようなものですね。実は納豆醤もこの一種で、酵素に枯草菌を使っているのです。
今日でも日本では、ハタハタやイワシを使った秋田の「しょっつる」、イカの内臓やイワシを使った能登の「いしる」、イカナゴを使った香川の「いかなご醤油」が魚醤としてよく知られている。
このように日本には古い土器文化があるので、日本の国内でも色々な「醤」が古代からあり、個別的に発生していて特におかしいものではない(すぐに「大陸や半島から来た」と言う人もいるが、この発想自体がおかしいのである)。
そのような中で日本に大和・飛鳥時代にやって来たのが、「唐醤」と「高麗醤」なのである。記録にあるという事は、それまでの日本の「古代醤」との違いがあったわけですね。
大豆や穀物がやってきて、と書いているものが多いが、日本では既に穀醤はあるので、これはおかしい。穀物に関しては稗や米なら1万年前にはあるが、明らかにおかしいのは大豆である。大豆に関しても野生種が1万年前には、栽培種は6000年前には日本にあります。中国の大豆は3100年前からで、古くはボイスマン文化圏の辺りで大豆が作られており、それを周代(BC11世紀)に中国北東部に持ってきて、それを漢代(BC2世紀以降)に南下して大豆を栽培しだしたことが書かれています。醤の事が書かれているのはBC8世紀なので大豆が南下していく前、今の中国の東北地域の春秋戦国時代の調味料としての「醤」があったという事になるのだが、この頃の日本は弥生時代です。
つまり、日本の「古代醤」らしき痕跡は中国よりはるか古くからあるのです。
また、このボイスマン文化圏の辺りというの縄文系の遺伝子が約13%入っている土地で、縄文人が何世代も前に入ってきている場所ですね。
結局は、中国の「醤」自体が、そのルーツは日本にある可能性が高いのです。
考えるに、
「唐醤」とは「麹を使う醤油」、日本でも今の残っている「鼓」を使って作る贅沢な醤油だったのではないだろうか。それに対して、
「高麗醤」は、伝統朝鮮醤油で作る形態、つまり周代に伝わって来た「醤」の作り方を発展させたものが南下して伝わってきたもので、枯草菌で納豆を作り、それに海水を入れて醤油を作る手法という違いだったのではないかと推察する。
分かりやすく言えば、
「縄文みそ」の発展形で出来ているのが、
・「高麗醤」は中国北東部の遼東地域以北での伝統醤
これは「高麗」という名称がついているからややこしくなっているのだが、やってきている時代を考えると、『前燕』の時代に慕容仁に付いていっていた人達、平郭の民やその周辺が東(朝鮮半島)にと逃げた『百済』の人達を経由して日本に来たものだろう。「納豆醤」と言った方が間違えないかと思う。
その「納豆醤」がBC3世紀の大豆の南下で、それが研究され
・「唐醤」は中国は唐が最新研究で作った醤
というのが出来たのだろう。これも間違えない言うには「麹醤」とするといいのかもしれない。
ただし、納豆醤は、普通に穀醤として既に存在している。
「茹でた大豆」と「周囲の草や葉っぱなど」があれば納豆というのは出来る。つまり、「茹でる土器」「大豆の栽培」「自然にある枯草菌」があれば出来るものである。
それに「保管する土器」と「塩分を含んだ水、例えば煮詰めた海水」を合わせて保管すれば出来るものであり、これは基本的に穀醤の手法である。
つまり、「高麗醤」すなわち「納豆醤」も日本で既にあっておかしいものではないので、記録にあるという事は他に何か違いがあるのでは?
これは、世界の納豆に近い食品を見て、また韓国の伝統醤の作り方を見て、その違いは「乾燥納豆にして作る」なのではないかと思う。
日本だと気候的な話で、中国北東部に比べると温暖で湿度も高く、乾燥納豆にするにはその前に腐りやすい。腐らせず十分なカビを繁殖させるためには、低めの温度と乾燥した大気の方がいいので、日本でも古くから条件が合う山間部では作られていた(田舎味噌)のだが、人が集まる都市部では珍しい醤だったのではないだろうか。
こう考えると、既に古代からある既存の「豆醤(穀醤)」に、その醸す酵素を中国から伝わった麹に変えた(鼓を加えた)、という形に変化していったというのがスムーズな流れではないかとは思う。
肉には肉の内臓、魚には魚の内臓の方が相性がいい。豆には豆から出来たものを加えた方がいい。という感じだったのでしょう。
中国の遼東地域と日本は8000年前には既に交流をしていた形跡があり、縄文時代の土器に味噌や醤油(醤)の原型を作っていた形跡があるので、日本から直接に作り方を中国北東部に伝えた可能性もあるわけです。
結局、日本の伝統醤(古代醤)も含め、それらを政府として本格的に研究したというのが「大宝律令」によると醤院(ひしおつかさ)という役所の設置であり、日本独自の「醤油」が誕生したのだろう。

この魔改造はさらに隠されているものがある。
それは「麹菌」自体である。麹菌は元々は猛毒の気質を持つものを、日本は顕微鏡もない時代、見えぬ胞子を培養し続け、やがて毒を出さない麹菌を手にした歴史なのである。これには数百年という地道な研究が必要であり、文献として古くは1246年には出てくるのだが、これはつまり、その数百年前、「唐醤」が来ると間を置かずに麹研究を始めたという事なのである。

ちなみに、「高麗醤」の味噌の形式も残っているようで、それは室町時代かそれぞれの家で作られ始めた麹を使わない「自家製田舎味噌」の造り方である。
味噌の原型となる古代醤の肉醤・穀醤などは消えていったが、今も各地で残る「魚醤」、昔の麹を使わない自家製の「田舎味噌」、そして長い研究により毒性を無くした日本独自の麹を使った「醤油」や「味噌」。
全てが、現代にも日本には残っているのである。
また、朝鮮半島では「作っていた」といっても量は限られています。
というのも「醤油」や「味噌」といったものの原料となる大豆ですが、これが増えたのが日本統治時代。統治前に比べて3〜3.5倍の生産量にしています。
朝鮮の伝統式な製法と言われる自体が大量生産に向かない手法なので、日本統治以前から作っていたと言っても、限られた人が限られた量を作って使っていたいただけなのですね。一般的に広まり使われるようになるには、日本統治時代になってからです。
この日本の麹が作れなくて、韓国人が醤油作りで日本の麹を盗んで帰ったという逸話(盗んだ韓国人の本人がドキュメンタリーで話しています)があります。
味噌の起源は古代中国の「豉」とも言われますが、これは間違い。先に「日本では室町時代以前の調味料からの系譜として僅かにですが現存」というのがあり、これは中国から日本に来たの加塩発酵させた「鹹豉」で、これはコウジカビを使ったもので、一般的には「塩辛納豆」と呼ばれる食品になります(現代日本人が食べる納豆は「糸引き納豆」で枯草菌を使った発酵食品、こちらは縄文時代からある可能性も高い)。
中国の「豉」は、それはそれできちんと日本に伝わっており現在も続いているからこそ、違うとはっきりと判るわけです。
味噌の起源は古代中国の「豉」とも言われますが、これは間違い。先に「日本では室町時代以前の調味料からの系譜として僅かにですが現存」というのがあり、これは中国から日本に来たの加塩発酵させた「鹹豉」で、これはコウジカビを使ったもので、一般的には「塩辛納豆」と呼ばれる食品になります(現代日本人が食べる納豆は「糸引き納豆」で枯草菌を使った発酵食品、こちらは縄文時代からある可能性も高い)。
中国の「豉」は、それはそれできちんと日本に伝わっており現在も続いているからこそ、違うとはっきりと判るわけです。