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【朝鮮での犯罪量】

朝鮮総督府調査資料 第23輯 朝鮮の犯罪と環境に記録があり、何処の地域でどのような犯罪が多かったまで記録している。

この項目で大体6割ぐらいの犯罪件数を網羅している(赤い二重点線が総犯罪件数で、右軸になります)。
また、朝鮮総督府統計年報にも詳しくデータが載っている。

まぁ、『窃盗』『傷害致傷』『詐欺』『横領』が多く、ここら辺は現在の韓国も変わらない。
また、日本と比較して性犯罪も多い。

【それぞれの犯罪】

窃盗の拡大が著しいので、窃盗を省いて記載するとこうなる。

最も多いのは窃盗なのだが、次に多いのが詐欺、そして死傷、そして横領と続く。
上位4つ(1:窃盗、2:詐欺、3:死傷、4:横領)を除くと下図のようになる。
【1925〜1938年のデータ】
比較的きちんと揃えやすいのが1925年から1938年のデータだが、それを積み上げると下図になる。
※1926年と1928年は『猥褻姦淫及び重婚』『殺人傷害』『略取誘拐』の細かいデータはまだ見つけていない。
この7種の犯罪で、全体の7割弱から6割弱を占めている。
『犯罪割合』は、ここに記載してあるデータだけで膳犯罪の中でどれぐらいの割合を占めているかの事です。
これを、人口10000人あたりにすると下図になる。


この「検挙人数」と「犯罪件数」を見ると、「犯罪件数」はあまり大きくは変化していない事が判ります。
それに対して検挙数が1930年代に膨れ上がりますが、これは「組織犯罪(複数人が協力して行う犯罪)」が増えた事だという事です。
これに対して、1940年にかけてに厳しく取り締まり、組織犯罪は取り締まれ、個別の個人犯罪が行われていた。
というのが分かります。

【朝鮮半島における犯罪における人種割合】

朝鮮半島での犯罪は、朝鮮人か日本人か中国人かその他の外国人かというのも分かる。

それを纏めると、95%以上が朝鮮人による犯罪だと判る。
【日本人の犯罪割合】
日本人が朝鮮半島で悪さをしていたかと言うと、その犯罪数と人種、そして在朝人数で分かる。

圧倒的に朝鮮人による犯罪が多い。
聖人君子ではないので日本人が誰一人犯罪を犯さないわけではない、が。それでも0.1〜0.2%となる(1000人いれば1,2人、おかしな奴もいる)。
それに対して朝鮮人は0.5〜1.0%程度と、大体、日本の5倍弱が犯罪を犯している事になる(1000人いれば5〜10人ほどおかしな奴もいる)。

日本は一定割合の「悪い事をする者」はいるが、定住する日本人が増え、そのため割合から人数が増えただけで、犯罪者割合が増えたわけではない。
それに対して、朝鮮人は民族として「犯罪をする割合」自体が増えている事が判る。

【略取誘拐をした犯人】

韓国人は「日本統治時代に日本は朝鮮人を無理矢理に〜」というのはよく言うが。
では『略取誘拐』の犯罪データを確認すると。

略取誘拐の犯行は98%以上が朝鮮人によるものだと分かっているし、これは当時の新聞記事でも確認ができる。当時の朝鮮人の人口から見ると1927年あたりでは10万人に約10人の割合で略取誘拐犯罪を行う朝鮮人が居た事になる。それが朝鮮総督府は厳しく取り締まり、1942年には10万人に約4人と低下させている(当時の日本の犯罪と比較すると、朝鮮では約4倍の犯罪率である)。
詐欺でも圧倒的に朝鮮人が多い。
ここら辺は、どのような事件があったのか。当時の新聞記事にもたくさん載っていますが、YouTubeでも何度も出ているので知っている人も多いでしょう。
【朝鮮近代化と犯罪】
朝鮮での犯罪は、近代化と共に上昇する。

これは、日本からの影響ではなく、朝鮮人の精神性からである。

日本の場合は1927年までは安定して低い犯罪率なのだが、それ以降に共産思想や朝鮮人労働者を受け入れると、犯罪が急に上昇する。
増えた物も顕著で、賭博は厳しく取り締まられており減っているのだが、
  • 貨幣や紙幣、あるいは有価証券の偽造
  • 詐欺・恐喝
  • 家宅不法侵入
などであり、これらは大陸の共産主義に感化された者が増えたり外国人による犯罪が格段に増えたためである。昔から、日本に朝鮮人がやってくると悪さをしているのだ(そのため、悪評が当時から高い)。もちろんそうではない朝鮮人の方が多いのだが、人数に対する割合が極端なほど高いのである。日本人は逆に、朝鮮に在住している人の犯罪率は下がる(よその土地で犯罪をする人は少ない)のだが、その朝鮮人は真逆である。

韓国では「悪い事は日本が持ってきた」とよくいうが、データを見ると逆で、朝鮮人は近代化で自大意識が上がり、悪い事を率先して行っていっている。その朝鮮人や中国人が日本に来る事により日本国内の犯罪が上昇している事が分かる。事実は全く逆で、「悪い事は半島や大陸が率先して行っており、それを日本に持ってきた」という事である(ちなみに、古代の武装しての領土争いも同じである)。

【ついでに、朝鮮出兵での朝鮮人捕虜の話】

近年、韓国では「日本人は朝鮮人を奴隷とし、南蛮に売り渡した」などが言われますが、これは嘘です。
豊臣秀吉は、文禄・慶長の役(1592年〜1598年)において、九州の大名たちに対して朝鮮の人々を奴隷とすることを禁じる命令の書簡を送っています。
この書簡には、主に以下の内容が含まれています。

朝鮮の人々を捕らえて奴隷として売買することを厳しく禁じました。
捕虜となった人々に対しては、丁重に扱い、虐待を加えないように指示しました。
人狩りの禁止
朝鮮の人々を捕らえて奴隷として売買することを厳しく禁じています。
特に、キリシタン大名による人狩り行為を強く戒めています。
捕虜の扱い
捕虜となった人々に対しては、丁重に扱い、虐待を加えないように指示しています。
捕虜の身分や状況に応じて、適切な処遇を与えるように求めています。
また、戦場における略奪行為も禁止し、違反者には厳しい処罰を科すことを命じました。
秀吉の意図
秀吉は、朝鮮出兵をあくまでも明征服のための手段と考えており、朝鮮の人々を無差別に敵視することを望んでいませんでした。
また、キリスト教勢力による奴隷貿易を警戒し、自身の権威を維持しようとしたと考えられています。

さらに、当時の記録からは、日本軍に捕らえられたり、自ら従ってきた朝鮮の人々が、適切に遇され、技能を持つ者はその技能を尊重され、日本に定住した例も多く確認できます。
近年の韓国ナショナリズムによる偏向捏造
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に朝鮮人の奴隷化を禁じた書簡を出したというのは、当時の史料から確認できる「事実」です。
この書簡は、特定の書簡名で呼ばれているわけではありませんが、当時の記録や研究書において、複数の書簡や秀吉の命令を総合的に解釈することで、秀吉がそのような意図を持っていたことが確認されています。
確認できる主な資料としては、以下のものが挙げられます。
  • 当時の大名家文書
九州の大名家に残された記録の中に、秀吉からの命令や指示を記した書状が含まれています。これらの書状には、人狩りの禁止や捕虜の扱いに関する記述が見られます。
複数の書簡で確認できる内容です。
  • 「日本戦史・朝鮮役」
参謀本部が編纂した戦史であり、文禄・慶長の役に関する詳細な記録が残されています。この中にも、秀吉の命令や指示に関する記述が含まれています。
  • 各種研究書
文禄・慶長の役に関する研究書では、当時の史料を分析し、秀吉の意図や政策について考察しています。これらの研究書を参照することで、秀吉の命令や指示に関する情報が見られます。
これらの資料は、国立公文書館や大学図書館、博物館などで閲覧することができます。また、近年では、インターネット上で公開されているデジタルアーカイブも増えており、自宅からでも史料を確認することが可能です。

しかし、近年の韓国では「多くの朝鮮の人々が捕らえられ、奴隷として売買されたり、日本に連れてこられたりしました」という偏向捏造した事を喧伝しています。
近年の韓国人の研究では、以下の様な新解釈も出てきています。
  • 秀吉の命令が完全に遵守されたわけではなく、実際には人狩りや略奪行為も発生したと考える説があります。
  • 朝鮮の人々が日本に連れてこられた記録はありますが、その法的地位や具体的な生活状況については、研究者の間でも様々な議論があります。
  • 戦乱の中では、朝鮮の人々が日本に連れてこられたという記録はありますが、その人々が奴隷として扱われていたという明確な記録はありません。しかし、近年の研究では、異なる解釈も提示されています。
だが、これらの新解釈については、それを裏付ける明確な証拠となる記録などはなく、単に想像の上での話であり、韓国のナショナリズムによる偏向解釈であると考えられている。
なんにしろ、この「韓国人による新解釈」は、なんら混個もない俗説でしかない
朝鮮からの侵略行為
実際の史料を見ると、朝鮮半島から日本へ、侵略・虐殺・略奪・人身売買をしていた記録は多数みつけられます。
歴史を見ると、朝鮮半島からの海賊行為に関する記述が日本・朝鮮の双方の史料で複数見られます。
その多くが、朝鮮側から日本への海賊行為に関する記述であり、一方、日本から朝鮮半島への海賊行為に関する記述は、相対的に見てほとんどないと言えます。
ただし、倭寇に関する記録には、日本人、朝鮮人、中国人など、多様な人々が朝鮮半島で活動した事例も含まれています。
新羅時代の海賊行為:
『日本書紀』には、新羅からの侵攻や略奪に関する記述が複数見られます。
663年の白村江の戦いの後、新羅は度々日本沿岸を襲撃したと記録されています。
特に、7世紀後半から8世紀にかけて、新羅の海賊が対馬や壱岐などを襲撃し、住民を拉致したり、物資を略奪したりしたという記述が複数あります。
また、新羅による度重なる海賊行為や侵攻を受け、それに対する防衛や任那日本府の維持を目的とした軍事行動の記述があります。
この海賊行為は、国ぐるみで行っていた事も記録にあり判っています。
高麗時代の海賊行為:
高麗時代においても、日本沿岸部への海賊行為が行われていた記録があります。
『高麗史』には、日本の沿岸部を襲撃した倭寇に関する記述が多く見られ、高麗の軍勢が日本人を捕虜として連れ帰ったという記述も残っています。
これらの倭寇には朝鮮人・中国人も含まれていたものであり、日本側の史料では捉えた倭寇が高麗人だったという記録があります。

さらに、元寇(文永・弘安の役)の際には、高麗が元の侵攻を支援し、日本への攻撃に参加した記録もあります。
15世紀までの『倭寇』とは、この「倭」は必ずしも日本のみを指すものではなく、東アジアにおける「異民族」や「周辺の人々」を意味する広義の言葉として使われていたもので、したがって「倭寇」は特定の民族集団ではなく、海上で略奪行為を行う多様な集団を指す言葉です。この倭寇は『前期倭寇』とも呼ばれ、朝鮮人、中国人、日本人などが作っていた小集団です。日本人の倭寇も居たのは確かですが、「倭寇」=「日本人の海賊」ではありません(日本で海賊と言うと、主に瀬戸内海などですね)。
朝鮮時代の海賊行為:
朝鮮王朝時代においても、倭寇による被害だけでなく、朝鮮側の海賊行為も行われていた記録があります。
この当時の倭寇は「後期倭寇」と呼ばれ、中国人が中心となり、西洋人も混ざっています。『朝鮮王朝実録』にある被害記録も主に、半島西側(黄海側)が殆どです。
日本でも琉球などが被害を受けていますね。
歴史を見ると、日本から朝鮮半島へは、常に理由があるものでした。
  • 例えば、日本書紀にあるのは新羅による海賊行為や、伽耶への侵略に対するものです。
  • 白江村の戦いも、百済からの祖国奪還の要請を受けたものです。
  • 豊臣秀吉による朝鮮出兵も明に対するものであり、朝鮮に対しては通行許可を求めたものであり、それを拒否した上で、属国として明に連絡をし明側に立ったから発生したものです。これが、通行は認めないが中立を守る政治的判断をしていれば、まったく違った事でしょう。
歴史を見れば、日本から朝鮮には、朝鮮側の態度に対しての政治的に行動であり、当然に発生したものだというものです。
それに対して朝鮮から日本へは私利私欲なもので、侵略・虐殺・略奪・人身売買といったものが伴うものであり、それが長い歴史で何十回とあったのです。

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