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mitsuko_tada 2025年01月15日(水) 00:02:08履歴
国漢文混用を使うべきだという福沢諭吉の発言から1882年の活動を始めて13年が過ぎ、1894年の甲午改革で朝鮮でも近代教育学校を作り始めるが、これも日本からの強い提案があってからのものである。
提案には国漢文混交の国文化や近代教育の他にも、官僚腐敗の一層と整備、税制改革、法の整備と裁判の公平性、奴婢制度撤廃や女性人権保護、警察創設や軍近代化、交通網の整備や交易税収を朝鮮がすべき(北方の港はロシアが実効支配していた)という事や外交専門官を持つべきだという事など、実に多岐に渡る。
実際、それにもかかわらず大韓帝国時代には北方でロシアによる実効支配されていた地域がある(親露派の朝鮮人のせいですね)。
ただし、日本は最終判断も実行も朝鮮の人がすべきと、国漢文混用の際と同じように提案と相談に乗るまでである。またこの提案も、朝鮮の人自身が朝鮮を独立国と考えているかを確認した上での事で、朝鮮が「中国の属国だ」と回答していれば提案自体がされていない(ちなみに甲午改革に繋がる近代化の為の内政改革提案を行うが、日本は中国にも朝鮮の近代化に協力するように声を掛けている。しかし、中国は朝鮮を属国としてしか見ておらず拒否している。それどころか後日に妨害工作を中国がしていた事も判っている)。
実際、それにもかかわらず大韓帝国時代には北方でロシアによる実効支配されていた地域がある(親露派の朝鮮人のせいですね)。
ただし、日本は最終判断も実行も朝鮮の人がすべきと、国漢文混用の際と同じように提案と相談に乗るまでである。またこの提案も、朝鮮の人自身が朝鮮を独立国と考えているかを確認した上での事で、朝鮮が「中国の属国だ」と回答していれば提案自体がされていない(ちなみに甲午改革に繋がる近代化の為の内政改革提案を行うが、日本は中国にも朝鮮の近代化に協力するように声を掛けている。しかし、中国は朝鮮を属国としてしか見ておらず拒否している。それどころか後日に妨害工作を中国がしていた事も判っている)。
朝鮮では甲午改革で近代教育校を建てようとするものの、親中派や親露派の同じ朝鮮の人たちによって妨害され排斥しようとされ続けているーーつまり中国もロシアも朝鮮の近代化に反対していた。
この甲午改革の1894年から朝鮮の人が自力で建てた近代教育校は、12年後の1906年時点(つまり国漢文混用を作られ25年目)で38校(これは小学校相当以外も含む)のみである。それに対して書堂は1883年頃の10000校程度から、1911年までに5000校程度を増加させた16540校になっており大きな違いがある。1年あたりにすると小学校は平均3校程度に対して、書堂は平均200校ほども新設していた事になる。これはそのまま、朝鮮では儒学と漢文(中国漢字)を教えるべきであり、ハングルはあくまで下賤な諺文であると多くの両班が考えており、国漢文混用を教える事を否定していたという事である。
結局だが、朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で38校であり、両班は近代教育に反発し、両班や中人の子弟は書堂と呼ばれる私塾でより漢文に重点を置いた教育を受けていた。初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、近代教育を改革の最優先事項として日本統治前に100校にまで押し上げている。
朝鮮は自力で近代教育が萌芽し出来るようになったわけではないのです。
この甲午改革の1894年から朝鮮の人が自力で建てた近代教育校は、12年後の1906年時点(つまり国漢文混用を作られ25年目)で38校(これは小学校相当以外も含む)のみである。それに対して書堂は1883年頃の10000校程度から、1911年までに5000校程度を増加させた16540校になっており大きな違いがある。1年あたりにすると小学校は平均3校程度に対して、書堂は平均200校ほども新設していた事になる。これはそのまま、朝鮮では儒学と漢文(中国漢字)を教えるべきであり、ハングルはあくまで下賤な諺文であると多くの両班が考えており、国漢文混用を教える事を否定していたという事である。
結局だが、朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で38校であり、両班は近代教育に反発し、両班や中人の子弟は書堂と呼ばれる私塾でより漢文に重点を置いた教育を受けていた。初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、近代教育を改革の最優先事項として日本統治前に100校にまで押し上げている。
朝鮮は自力で近代教育が萌芽し出来るようになったわけではないのです。
バードの朝鮮紀行では記録に「漢江の河畔に住む庶民は漢字で名前が書けた」とあります。
漢江沿いは客主が存在し、当時であれば数少ない商業活動があった場所で、書堂(当時の朝鮮の教育機関)も沢山あった主幹路ですね。
これは原書の59ページですね。韓国訳版では、これの前半を訳さずに「庶民は文字の読み書きが出来た」と意訳し、さらには原書にある以下の記載を削除しています。
女性に関しては、1000人に2人(0.2%)ぐらいの識字率と書いていますね。
漢江沿いは客主が存在し、当時であれば数少ない商業活動があった場所で、書堂(当時の朝鮮の教育機関)も沢山あった主幹路ですね。
これは原書の59ページですね。韓国訳版では、これの前半を訳さずに「庶民は文字の読み書きが出来た」と意訳し、さらには原書にある以下の記載を削除しています。
131ページ
「In the small hamlets of the interior, the women were generally ignorant and the men lazy.」
「内陸部の小さな集落では、女性は一般的に無知で、男性は怠惰であった。」
171ページ
「Many of the people, even those of the yangban class, were unable to read or write with any fluency.」
「多くの人々、両班でさえも、流暢に読み書きできる者は少なかった。」
215ページ
「The lack of educational opportunities for the common people was a significant hindrance to their social and economic advancement.」
「一般庶民のための教育機会の欠如は、彼らの社会経済的な発展にとって大きな障害であった。」
378ページ
「In the remote mountainous regions, I found that even many of the yangban were unable to read or write with any fluency.」
「遠隔の山岳地帯では、両班でさえも流暢に読み書きできない者が多かった。」
401ページこのようにもバードは書いています。
「The education of women was largely neglected, and most of the women I met in the rural areas were illiterate.」
「女性の教育はほとんど顧みられておらず、私が地方で出会った女性の大半は読み書きができなかった。」
女性に関しては、1000人に2人(0.2%)ぐらいの識字率と書いていますね。
1942年の『前進する朝鮮』にも「朝鮮では文字や学問は殆ど両班といはれる両家の占有物」と記載されています。
また、1911年の『朝鮮の研究』の中にも「書堂の教育は両班か地方の儒生等の中流以上に限られ、普通の農民では学ぶ者はいない。下流社会ではごくわずかに諺文を修得するにとどまり、まったく文字を知らない者も少なくない。文字を理解するという以前に自分の署名も出来る者は稀有である。女子の無教育は一層甚だしい」とある。
また、1911年の『朝鮮の研究』の中にも「書堂の教育は両班か地方の儒生等の中流以上に限られ、普通の農民では学ぶ者はいない。下流社会ではごくわずかに諺文を修得するにとどまり、まったく文字を知らない者も少なくない。文字を理解するという以前に自分の署名も出来る者は稀有である。女子の無教育は一層甚だしい」とある。
そもそもになるが。
李氏朝鮮時代に高い識字率を持てる教育システムを持たない。
バードの記録の前に、朝鮮時代の教育システムなどを知っておく必要がある。それを知っていれば、韓国で出版された『朝鮮紀行』の内容がおかしいとすぐに分かる。
李氏朝鮮時代に高い識字率を持てる教育システムを持たない。
バードの記録の前に、朝鮮時代の教育システムなどを知っておく必要がある。それを知っていれば、韓国で出版された『朝鮮紀行』の内容がおかしいとすぐに分かる。
1883年以前の書堂の就学率は3%弱、1911年でも5%弱というのは、1910年の朝鮮と1860年の日本と半世紀の差がありますが、正確ではないですが分かっている数値から換算して朝鮮と日本でに文字教育について比較すると、
・人口
朝鮮人は戸籍に入れられていない奴婢階級も入れると13,128,780人(朝鮮総督府による人口調査結果)ほど。
日本人は3400万人ほどで、約2.6倍。
・寿命
朝鮮人の平均は25最弱、日本は45歳で約1.8倍。
・就業年齢児童数
朝鮮は約300万人(全体の23%)。
日本は約450万人で約1.5倍(全体の13%)。
※人数や割合の差は、人口と寿命の差が大きい。
・学び場
朝鮮は学堂が1911年で16540校で1クラス平均約8.6人、9年教育。書堂以外の場所はほぼ衰退消滅。
日本は寺小屋が江戸末期で15560校以上で1クラス平均約30人、6年教育。他に同数程度の私塾、266校の藩学、幾つかの大学相当に高等学校などの教育機関、また児童の学ぶ機会は教育機関だけではなく実務で覚えていく丁稚奉公(徒弟制度)もある。
・文字を学ぶ児童数
朝鮮は書堂の学徒で1911年時点で141604人(約4.7%。ちなみに1883年だと1万校ですので約2.85%で、識字力を持つ人はほぼ学堂で学んだ人になり、それ以外に学ぶ機会はほぼなかったという事でしょう)。
日本は寺小屋含む教育機関以外にも徒弟制度が存在し150万人(約40%で朝鮮の約8.5倍。ただしこれでも少な目に見積もっており、寺小屋だけで150万人ほどだったという研究資料もあります。江戸では識字率70%はあるのですが、これは文字が周囲に溢れる環境であり商業活動が活発だったからであり、やはり地域差はある。人口の7%を占めていた武士は藩学で識字率はほぼ100%)。
まぁ、ざっと言えば、書堂が寺小屋と同校数あったと言っても1件あたりの平均生徒数で3.5倍あります。その上、寺小屋は日本の学び場全体の1/3でしかない、と言う事です。
・大人の文字習得
1910年あたりで朝鮮人識字率は6%だそうです、これを見ると4万人ほどは学校に行かずに文字を覚えている(新聞などが発行されて文字が身近になった為と考えられる。特に、一進会の活動で新聞や書物を読み覚えた人も少なくないでしょうね。そうでなければ併合を希望する署名を大韓帝国に出すなど出来ていないでしょうし)。
日本でも同じように新聞や書籍で覚えていたとすると、50万人ほどが学校に行かずに文字を覚えており、合計で230万人。51%の識字率となる(実際は商業活動も活発なので、朝鮮より学校に行かずとも文字を覚える人数はもっと多いと考えられる)。
・人口
朝鮮人は戸籍に入れられていない奴婢階級も入れると13,128,780人(朝鮮総督府による人口調査結果)ほど。
日本人は3400万人ほどで、約2.6倍。
・寿命
朝鮮人の平均は25最弱、日本は45歳で約1.8倍。
・就業年齢児童数
朝鮮は約300万人(全体の23%)。
日本は約450万人で約1.5倍(全体の13%)。
※人数や割合の差は、人口と寿命の差が大きい。
・学び場
朝鮮は学堂が1911年で16540校で1クラス平均約8.6人、9年教育。書堂以外の場所はほぼ衰退消滅。
日本は寺小屋が江戸末期で15560校以上で1クラス平均約30人、6年教育。他に同数程度の私塾、266校の藩学、幾つかの大学相当に高等学校などの教育機関、また児童の学ぶ機会は教育機関だけではなく実務で覚えていく丁稚奉公(徒弟制度)もある。
・文字を学ぶ児童数
朝鮮は書堂の学徒で1911年時点で141604人(約4.7%。ちなみに1883年だと1万校ですので約2.85%で、識字力を持つ人はほぼ学堂で学んだ人になり、それ以外に学ぶ機会はほぼなかったという事でしょう)。
日本は寺小屋含む教育機関以外にも徒弟制度が存在し150万人(約40%で朝鮮の約8.5倍。ただしこれでも少な目に見積もっており、寺小屋だけで150万人ほどだったという研究資料もあります。江戸では識字率70%はあるのですが、これは文字が周囲に溢れる環境であり商業活動が活発だったからであり、やはり地域差はある。人口の7%を占めていた武士は藩学で識字率はほぼ100%)。
まぁ、ざっと言えば、書堂が寺小屋と同校数あったと言っても1件あたりの平均生徒数で3.5倍あります。その上、寺小屋は日本の学び場全体の1/3でしかない、と言う事です。
・大人の文字習得
1910年あたりで朝鮮人識字率は6%だそうです、これを見ると4万人ほどは学校に行かずに文字を覚えている(新聞などが発行されて文字が身近になった為と考えられる。特に、一進会の活動で新聞や書物を読み覚えた人も少なくないでしょうね。そうでなければ併合を希望する署名を大韓帝国に出すなど出来ていないでしょうし)。
日本でも同じように新聞や書籍で覚えていたとすると、50万人ほどが学校に行かずに文字を覚えており、合計で230万人。51%の識字率となる(実際は商業活動も活発なので、朝鮮より学校に行かずとも文字を覚える人数はもっと多いと考えられる)。
1933年には、東亜日報で「朝鮮人の文盲率は72%」という記事が出ている。つまり、識字率が28%と言う事だが、韓国ではこれを「日本は朝鮮人に教育をしなかった」と話すが、この数値は23年間で22%上昇したということであり、年率1%弱の上昇と言う事。つまり、新聞や雑誌などの普及や朝鮮総督府が行っている内政としての教育の成果が出てきている事を示しているだけである。
1944年の学歴調査を見れば、
・12〜19歳で就学率33%とある。これは0〜7年前に小学校に行っていた年代であり、つまり、4年前の1940年ぐらいが就学率33%と言う事である。
また、
・20〜29歳、つまり8〜17年前に小学校に通っていた年代であり、平均して13年前の1931年ぐらいでは就学率25.5%(平均寿命35歳程度で、中央寿命では書堂教育で約8%・近代教育で約18%の学校教育識字率となる)という事で、これは東亜日報の数値とも整合が取れる数値である(朝鮮総督府の1944年資料から。ただし、実際の数値は1歳単位であり、これにより就学率の伸びを確認できる)。
この「小学校に通っていた児童の時代」と「就学率」を確認すれば、その時代の就学率の伸びを確認できるのだが、この資料を基にした研究ではよく「20〜29歳では74.5%が学校に通っていなかった。つまり、日本は朝鮮人教育に力を入れてなかった」と曲解する事を述べている人は見掛ける。
1944年の学歴調査を見れば、
・12〜19歳で就学率33%とある。これは0〜7年前に小学校に行っていた年代であり、つまり、4年前の1940年ぐらいが就学率33%と言う事である。
また、
・20〜29歳、つまり8〜17年前に小学校に通っていた年代であり、平均して13年前の1931年ぐらいでは就学率25.5%(平均寿命35歳程度で、中央寿命では書堂教育で約8%・近代教育で約18%の学校教育識字率となる)という事で、これは東亜日報の数値とも整合が取れる数値である(朝鮮総督府の1944年資料から。ただし、実際の数値は1歳単位であり、これにより就学率の伸びを確認できる)。
この「小学校に通っていた児童の時代」と「就学率」を確認すれば、その時代の就学率の伸びを確認できるのだが、この資料を基にした研究ではよく「20〜29歳では74.5%が学校に通っていなかった。つまり、日本は朝鮮人教育に力を入れてなかった」と曲解する事を述べている人は見掛ける。
書堂は私塾教育で教育施設の規模は非常に小さかった。このような初等教育機関は古くからあり、遡ると高句麗時代の「扃堂」からの由来で、高麗時代においても全国の村々に書堂のような私学が設置されていたと記されています。つまり、朝鮮時代の教育は高麗時代の真似です。
この書院や書堂では先生を訓長、先生を手伝い教える生徒を接長、普通の生徒を学徒と言います。
1990年発表されている江戸時代の日本と朝鮮時代の教育を比較した論文にここら辺を詳しく説明されていますが、この訓長も朝鮮時代の後半にもなると田舎では漢文字も碌に使用できない低俗な者が多かったと説明があります。訓長でも漢文と発音註解があってかろうじて文章を読めるレベルや、製術という表策・記・銘の文を作し、詩などを作る事などは知らない者、そういう先生(訓長)が多かったそうですね。結局、朝鮮時代には迫害している高麗時代の真似をしただけですので、その根本というか理念が借り物だったわけです(朝鮮時代も初期の頃はまともだったのですが、中期からは腐敗や不正、政治思想が入り込んだ場になっていきます)。
そんな、「かろうじて文字が読める、書く事は難しい」という先生でも、文字が読めるだけで尊敬されていました。生徒も当然ながら、儒学の文章は暗記で誦じれる、だが文字は読めないし書けない、という人が多いわけです。
書道の教育方法は一応きちんとあり、それがされていればこんな事にはなりませんが。実際は首都や町でなければそれはされておらず、田舎だと先生(訓長)が発音し、聞いて覚えるという暗記が普通にされていたのですね。その中でたまに文字まで覚えようとする者が出てきます。
また先にも言いましたが、平民でも両班の官吏の手伝いをする役目の者(中人)は、教育を受ける機会がありました。その身分は両班家に生まれた者ではないので、文字が書けなければ仕事がなくなりますからね。そう言う身分の者が多い漢江沿いという朝鮮次弾の大動脈的街道になっていた社会・地理的特殊性から、そこだけは平民でも識字率が高かったのです。そしてそのような立地ですから常民(農民)は含まれておらず、また奴婢や女性はもちろん元から含まれていません。
この書院や書堂では先生を訓長、先生を手伝い教える生徒を接長、普通の生徒を学徒と言います。
1990年発表されている江戸時代の日本と朝鮮時代の教育を比較した論文にここら辺を詳しく説明されていますが、この訓長も朝鮮時代の後半にもなると田舎では漢文字も碌に使用できない低俗な者が多かったと説明があります。訓長でも漢文と発音註解があってかろうじて文章を読めるレベルや、製術という表策・記・銘の文を作し、詩などを作る事などは知らない者、そういう先生(訓長)が多かったそうですね。結局、朝鮮時代には迫害している高麗時代の真似をしただけですので、その根本というか理念が借り物だったわけです(朝鮮時代も初期の頃はまともだったのですが、中期からは腐敗や不正、政治思想が入り込んだ場になっていきます)。
そんな、「かろうじて文字が読める、書く事は難しい」という先生でも、文字が読めるだけで尊敬されていました。生徒も当然ながら、儒学の文章は暗記で誦じれる、だが文字は読めないし書けない、という人が多いわけです。
書道の教育方法は一応きちんとあり、それがされていればこんな事にはなりませんが。実際は首都や町でなければそれはされておらず、田舎だと先生(訓長)が発音し、聞いて覚えるという暗記が普通にされていたのですね。その中でたまに文字まで覚えようとする者が出てきます。
また先にも言いましたが、平民でも両班の官吏の手伝いをする役目の者(中人)は、教育を受ける機会がありました。その身分は両班家に生まれた者ではないので、文字が書けなければ仕事がなくなりますからね。そう言う身分の者が多い漢江沿いという朝鮮次弾の大動脈的街道になっていた社会・地理的特殊性から、そこだけは平民でも識字率が高かったのです。そしてそのような立地ですから常民(農民)は含まれておらず、また奴婢や女性はもちろん元から含まれていません。
質の悪い訓長(先生)も多かった事は分かっているので、就業児童に中でも識字が出来ない児童もいたでしょう(実際に数値で見ると、朝鮮の識字率は1883年から1900年あたりまで、学童は1.5倍になっているが識字率に伸びがほとんど見られない)から、1900年から1910年の間で学校以外で文字を覚えた人はもっといたでしょうね。
日本で6割(270万人)とすると、同じような伸びと考えれば就学児童での識字率は4%程度と、1883年から1910年で1%ぐらいは識字率が上がったと考えられます(これは日本の江戸時代の寺小屋就学児童の識字率はほぼ100%と分かっているからです。武士の子弟なら教養として書籍も読み覚えますが、寺小屋は町民文化であり実用が大事で読み書き算盤算学や礼儀手習が求められているからです)。
ただ、日本では新聞以外にも書籍文学や商業活動で覚えるというので機会が多いですが、統治以前の朝鮮半島では日本ほど周囲に文字媒体が溢れてはいないので、学校以外での文字習得の機会は日本よりハードルがかなり高い。数値で読み解くと、1883年開港以降に学堂を急激に増やしたが教師が足りず質も足りず、増やした学堂はほとんど成果が出なかったみたいですね。識字率を見ると成果が上がっていないので、「質に悪い訓長」もこの時に急に増えたのでしょう。統治中は新聞・雑誌・商標活動・広告と格段に増えるので、機会も格段に増えるが。
という具合になる。
これが1883年だと学童は約1万だから約3%、新聞などもまだなので学校以外で文字を覚える機会はほぼない。
もちろん、もう少し寿命分布など情報を入れると数数値が変わってくるが、大きくは外れないでしょう。朝鮮のものは1910年と朝鮮総督府の近代統計を一応されているが、1860年の日本はまだ西洋科学的な統計は本格的に取り入れていない時代の数値なので曖昧さは上がります。
「朝鮮人は識字率が大変に高かった」となるには、学堂は40万校ほど必要になります。実際はその4%ほどの16540校しかありません。
日本で6割(270万人)とすると、同じような伸びと考えれば就学児童での識字率は4%程度と、1883年から1910年で1%ぐらいは識字率が上がったと考えられます(これは日本の江戸時代の寺小屋就学児童の識字率はほぼ100%と分かっているからです。武士の子弟なら教養として書籍も読み覚えますが、寺小屋は町民文化であり実用が大事で読み書き算盤算学や礼儀手習が求められているからです)。
ただ、日本では新聞以外にも書籍文学や商業活動で覚えるというので機会が多いですが、統治以前の朝鮮半島では日本ほど周囲に文字媒体が溢れてはいないので、学校以外での文字習得の機会は日本よりハードルがかなり高い。数値で読み解くと、1883年開港以降に学堂を急激に増やしたが教師が足りず質も足りず、増やした学堂はほとんど成果が出なかったみたいですね。識字率を見ると成果が上がっていないので、「質に悪い訓長」もこの時に急に増えたのでしょう。統治中は新聞・雑誌・商標活動・広告と格段に増えるので、機会も格段に増えるが。
という具合になる。
これが1883年だと学童は約1万だから約3%、新聞などもまだなので学校以外で文字を覚える機会はほぼない。
もちろん、もう少し寿命分布など情報を入れると数数値が変わってくるが、大きくは外れないでしょう。朝鮮のものは1910年と朝鮮総督府の近代統計を一応されているが、1860年の日本はまだ西洋科学的な統計は本格的に取り入れていない時代の数値なので曖昧さは上がります。
「朝鮮人は識字率が大変に高かった」となるには、学堂は40万校ほど必要になります。実際はその4%ほどの16540校しかありません。
別の方向からも計算できる。
1999年辺りだとおおよそで人口は46,616,677人、小学校就学年齢児童は数3,945,977人、就学率は約100%、平均寿命約75歳。この数値は1910年ごろと比較すると、人口は4.05倍・寿命は約3倍になる(1911年で25歳、1930年で35歳)。逆算していくと、1910年頃の小学校相当の就学可能児童数は約300万人弱となるが、この数値は以前に行った推定値と一致する。これと1911年の書堂に就学していた人数とを比較すると、やはり5%弱になる。また、書道は1883年から急激に増加しており5000校ほど増やしているので、1883年以前は書堂数は10000校ほどと1911年の2/3ほど。就学可能児童数はそこまで大きく変化していないから、この頃まで修学人数は全体の3%弱に過ぎないことが分かる。
統治前の当時だと公的な割合で言えば両班は48.6%、公的な人口には出てこない人権が認められていない奴婢階級の中でも最下層な人達を入れても推定で人口の35%(全体で言えば奴婢階級を含む最下層階級は全体の約半分になり、その半分は人権も認められていない「物」として扱われて人口に数えられる事が無かった)。その中で修学年齢になる児童は両班家系だけで約100万人。
実際の書堂の就学児童数の記録もあり、1911年時点でも書堂の学徒数141604人(全て男子)、通えたのが両班の子供だけとしても全員は到底無理で、受け入れキャパがない。更に平民(中人と常民)が公的な割合でも20.2%。更に、両班と平民を合わせたのと同等ぐらいの人数の最下層階級(賎民)がいる。字を学べる機会は1911年でも4%台。ただしこれはこの世代だけで、書堂は27年で5000校ほど増えた上での人数であり、その前の世代は更に機会は低い。バードのいた時代だと、書堂は12000〜13000校程度だと推算される、そしてその時代の大人は書堂が10000校ほどの時代の人で就学率3%以下の世代の人達。
女性のほとんどは読み書きができなかったというのも併せ、この数値はバードが記録したこととにも合致する。
1999年辺りだとおおよそで人口は46,616,677人、小学校就学年齢児童は数3,945,977人、就学率は約100%、平均寿命約75歳。この数値は1910年ごろと比較すると、人口は4.05倍・寿命は約3倍になる(1911年で25歳、1930年で35歳)。逆算していくと、1910年頃の小学校相当の就学可能児童数は約300万人弱となるが、この数値は以前に行った推定値と一致する。これと1911年の書堂に就学していた人数とを比較すると、やはり5%弱になる。また、書道は1883年から急激に増加しており5000校ほど増やしているので、1883年以前は書堂数は10000校ほどと1911年の2/3ほど。就学可能児童数はそこまで大きく変化していないから、この頃まで修学人数は全体の3%弱に過ぎないことが分かる。
統治前の当時だと公的な割合で言えば両班は48.6%、公的な人口には出てこない人権が認められていない奴婢階級の中でも最下層な人達を入れても推定で人口の35%(全体で言えば奴婢階級を含む最下層階級は全体の約半分になり、その半分は人権も認められていない「物」として扱われて人口に数えられる事が無かった)。その中で修学年齢になる児童は両班家系だけで約100万人。
実際の書堂の就学児童数の記録もあり、1911年時点でも書堂の学徒数141604人(全て男子)、通えたのが両班の子供だけとしても全員は到底無理で、受け入れキャパがない。更に平民(中人と常民)が公的な割合でも20.2%。更に、両班と平民を合わせたのと同等ぐらいの人数の最下層階級(賎民)がいる。字を学べる機会は1911年でも4%台。ただしこれはこの世代だけで、書堂は27年で5000校ほど増えた上での人数であり、その前の世代は更に機会は低い。バードのいた時代だと、書堂は12000〜13000校程度だと推算される、そしてその時代の大人は書堂が10000校ほどの時代の人で就学率3%以下の世代の人達。
女性のほとんどは読み書きができなかったというのも併せ、この数値はバードが記録したこととにも合致する。
さらに別の方向からも計算してみることができる。
李氏朝鮮時代の1人の女性の出産数は約5.5人。これで3%弱(2.7%)の就学率だと、就学可能児童がいる家庭が6.27戸必要になる。さらに同じ家が就学可能児童を常に持つわけではなく、誰かの家に書堂1校に就学可能児童が毎年1人いる状況にするには、その親の世代は出産平均が5.5人なので3倍ほどは必要になる。つまり約20戸必要になる。当時の書堂は1校あたりの平均学徒数が約8.6人とあるので、それに対する戸数は約173.7戸と推定される。
別の資料を確認すると当時の1面(平均655.7戸)あたりの平均書堂数は3.77校、これが洞や里と日本で村に単位にすると、村1つ(平均45.1戸)に対して書堂は0.26校である。これは約173.9戸に1件の書堂があったということである。
「記録にある女性の出産数と当時の識字率や平均学徒数から書堂1件あたりに必要な戸数推算」と「記録にある面あたりの書堂件数」はほぼ一緒の値になる。つまり、書堂1校の平均額と数が8.6人という事から、書堂教育による識字率は3%以下程度だったことが確かな事がわかる。また、「朝鮮時代には全土に書堂があった、だから教育が庶民に広く行われていた」と述べている人を時々見かけるが、「全土にあった」という事は間違いではないが、「教育が庶民に広く行われていた」というのは嘘である事が分かる。平均45戸である1つの村、その村の1戸の家の子供の中から1人が書堂に行く機会があるかどうかという程度で、大半は教育を受ける機会がないというのが数値から分かる事実である。
これもバードの記載とあっている。
結局のところ、地方に書堂があっても、そこに通うのは官吏をする両班の家の子息と、その補佐をする中人階級の平民の子息が学ぶ機会があるだけで、運が良ければ村(洞や里)の代表の家である常民階級の平民の子息が1世代で1人通うぐらいだったのであろう。
李氏朝鮮時代の1人の女性の出産数は約5.5人。これで3%弱(2.7%)の就学率だと、就学可能児童がいる家庭が6.27戸必要になる。さらに同じ家が就学可能児童を常に持つわけではなく、誰かの家に書堂1校に就学可能児童が毎年1人いる状況にするには、その親の世代は出産平均が5.5人なので3倍ほどは必要になる。つまり約20戸必要になる。当時の書堂は1校あたりの平均学徒数が約8.6人とあるので、それに対する戸数は約173.7戸と推定される。
別の資料を確認すると当時の1面(平均655.7戸)あたりの平均書堂数は3.77校、これが洞や里と日本で村に単位にすると、村1つ(平均45.1戸)に対して書堂は0.26校である。これは約173.9戸に1件の書堂があったということである。
「記録にある女性の出産数と当時の識字率や平均学徒数から書堂1件あたりに必要な戸数推算」と「記録にある面あたりの書堂件数」はほぼ一緒の値になる。つまり、書堂1校の平均額と数が8.6人という事から、書堂教育による識字率は3%以下程度だったことが確かな事がわかる。また、「朝鮮時代には全土に書堂があった、だから教育が庶民に広く行われていた」と述べている人を時々見かけるが、「全土にあった」という事は間違いではないが、「教育が庶民に広く行われていた」というのは嘘である事が分かる。平均45戸である1つの村、その村の1戸の家の子供の中から1人が書堂に行く機会があるかどうかという程度で、大半は教育を受ける機会がないというのが数値から分かる事実である。
これもバードの記載とあっている。
結局のところ、地方に書堂があっても、そこに通うのは官吏をする両班の家の子息と、その補佐をする中人階級の平民の子息が学ぶ機会があるだけで、運が良ければ村(洞や里)の代表の家である常民階級の平民の子息が1世代で1人通うぐらいだったのであろう。
これは書堂が、近代教育校の様なシステムではなく、現在でいう塾に近いシステムだと理解しなくてはいけない。平均学徒数が約8.6人で書堂は7〜16歳が中心(中には20歳を超えた学徒もいた)であり、期間は長く、朝から夜までと詰め込み教育をしているので入れ替え教育もなければ、労働力としても入れる事はできない。
9人としてA1・B1・C1・D1・E1・F1・G1・H1・I1の9人の学徒がいて、A1学徒が卒業して次に入ってくるのがA2であるが、この世代は兄弟や別の家の子供になるが、それがさらに一回りしてA2が卒業してA3が学徒になる年代は、A1の子供の世代になるという事である。
1校あたり平均8.6人の学徒であり、この2倍の17.2人。これがそのまま17.2年のサイクルで、書堂は毎年1人が入れ替わるようなシステムなのである(簡易で計算した説明なので、実際はもう少し違うが近い値ではある)。
9人としてA1・B1・C1・D1・E1・F1・G1・H1・I1の9人の学徒がいて、A1学徒が卒業して次に入ってくるのがA2であるが、この世代は兄弟や別の家の子供になるが、それがさらに一回りしてA2が卒業してA3が学徒になる年代は、A1の子供の世代になるという事である。
1校あたり平均8.6人の学徒であり、この2倍の17.2人。これがそのまま17.2年のサイクルで、書堂は毎年1人が入れ替わるようなシステムなのである(簡易で計算した説明なので、実際はもう少し違うが近い値ではある)。
また、満足に読み書きできない者が訓長をしていた書堂も少なくなかったという事は先にも話したが、韓国の時代でも最初の頃には同じような事が行われていた事は、韓国内の当時に生きた人の話でも出てくる話だ。まともなフランス語も話せない者が、数日フランス語を習っていただけなのに教授になっているなどの話がある。
さらに1948年の韓国政府の記録を見れば、6年制の小学校のはずが、平均すると1校あたりの生徒数140名ほどに対して、その6学年で計140名の生徒に対して教師は2名、これは1学年23人程度で教師は0.33人ということで、教育ができる環境にしていなかった事が分かる。ちなみに韓国では「韓国の小学校教師1人あたりの生徒数は、都市部では30人、非都市部では24人」と定められています。
ちなみに日本は、文部科学省の「学校基本調査」によると、2021年度の小学校教員1人に対して15人の児童となっています。1948年に調査が開始された当初は小学校教員1に対して38人の児童であり、これはほぼ終戦前の教師と生徒数になるのだろう。これが韓国では同じ1948年の時点で、教師1人あたり70人の児童が居たのであるーーつまり、戦前に比べると教師の割合は半減しているという事である(生徒数も半減近くになっているので、実質は教師数が約1/4になったという事だ)。
さらに1948年の韓国政府の記録を見れば、6年制の小学校のはずが、平均すると1校あたりの生徒数140名ほどに対して、その6学年で計140名の生徒に対して教師は2名、これは1学年23人程度で教師は0.33人ということで、教育ができる環境にしていなかった事が分かる。ちなみに韓国では「韓国の小学校教師1人あたりの生徒数は、都市部では30人、非都市部では24人」と定められています。
ちなみに日本は、文部科学省の「学校基本調査」によると、2021年度の小学校教員1人に対して15人の児童となっています。1948年に調査が開始された当初は小学校教員1に対して38人の児童であり、これはほぼ終戦前の教師と生徒数になるのだろう。これが韓国では同じ1948年の時点で、教師1人あたり70人の児童が居たのであるーーつまり、戦前に比べると教師の割合は半減しているという事である(生徒数も半減近くになっているので、実質は教師数が約1/4になったという事だ)。
朝鮮時代の話に戻るが、賎民を生み出している当時の朝鮮の社会システムである奴婢制度は、1894年当時、ハングルの国文化と共に日本の強力な後押しを受けて「甲午改革」で 「四民平等」を宣言して廃止されるまで続いたものだが。しかし、朝鮮社会は直ぐにはこれを受け入れず、形骸無実として継続して行われていた。
朝鮮半島の近代化や近代教育を邪魔していたのは、実際は朝鮮の人たち自身なのである。婢(女の奴隷)は、1910年当時になってもまだ朝鮮の人の中で行われており、朝鮮の人の間で一人30円で売買されていた事や未成年婚などが行われていた事は記録で分かっている。それぐらい女性や下層階級層を「物」として扱っていたのが朝鮮時代の悪習である。
朝鮮半島の近代化や近代教育を邪魔していたのは、実際は朝鮮の人たち自身なのである。婢(女の奴隷)は、1910年当時になってもまだ朝鮮の人の中で行われており、朝鮮の人の間で一人30円で売買されていた事や未成年婚などが行われていた事は記録で分かっている。それぐらい女性や下層階級層を「物」として扱っていたのが朝鮮時代の悪習である。
このように朝鮮では根深く横行していた人身売買(この人身売買も歴史が古く、ハングルを作った世宗も自身で中国に献上する女性達を見繕っていた記録がある。さらには中国側の史料でその女性達が過酷に扱われる記録もある)だが、統治時代に朝鮮総督府はこれを厳しく法で禁じ取り締まっている。しかし、統治時代になっても朝鮮半島では詐欺・人身売買などが違法に行われ続けており、人身を軽んじる根深い悪習と言える。統治時代でも記録がしっかりとあり、統治時代の警察の詐欺や人身売買・違法性商売などの犯罪の逮捕者は実に99%以上が朝鮮の人だった(初期は数千人の逮捕者の中に中国人や日本人も少数いたが、それで99%が朝鮮の人である。そこから徐々に逮捕者が減るが、他人種の逮捕者がほぼいない中で99.9%が朝鮮の人になっている)。この事は当時の警察記録にあるが、その他にも当時の新聞にも記事として様々に残っている(警察による逮捕記事だが、朝鮮の人が、田舎で同じ朝鮮の人の少女を買い中国に売っていた事や、就業詐欺で違法労働や中国への人身売買、未成年を含む女性を違法に性商売に従事させていたなど、様々に多数の詐欺や人身売買・違法性商売で逮捕された新聞記事は調べれば簡単に出てくる)。
ここも参考に。
この悪習は戦後も半島ではしばらく続く。
というより、朝鮮総督府が法で管理し警察でも厳しく取り締まっていたのが解放されるからだが、実際をいうと終戦直前ぐらいから朝鮮の人の無法は記録がある。強盗や暴行、性暴行などの記録が実は多数残っている。その中で性暴行では1番多いのはロシア人なのだが、朝鮮の人だというのも多い。強盗や暴行は朝鮮の人のものが多い。
さらに、戦後は韓国政府は駐留米軍を対象目標とした慰安婦村の設置や女性を強制的に従事させていたこと、未成年をもそれらに従事させてい事なども記録に残っている(政府管理でその様な場所を作る事は、朝鮮時代からのもので。朝鮮時代、『妓生庁』という部署まであり、官妓生を管理していたという歴史的事実があるので、悪いとも思っていないのだろう)。
これはそうなるだろうな、と私は当然の結果だろうと思う。朝鮮では戦後に刑務所に収監されていた犯罪者を解放してしまい、彼らを韓国では『志士』とするのだが、そこには詐欺や人身売買(違法性商売も含む)ような人物が大量に含まれているからだ。思想犯罪による逮捕者もいたが全体として少数で、刑務所で死刑になった人物は二桁も前半程度(記録で確認できるが、24人だか14人だかそれだけ)で、またそれらの人物はテロ行為など多くの人身を害する直接的なことをした、現在でも重大犯罪を犯した人物だけである。また、ベトナムでも様々に記録が残っているし、最近でも塩田で外国人を奴隷労働させていた事も暴露されていた。
これらの悪習は朝鮮時代から続いており、朝鮮の近代歴史の中では、唯一といっていいぐらいなのだが、統治時代の間だけは女性人権が守られ、詐欺や人身売買が厳しく禁止され取り締まられている時代になっている。
このような社会意識なので、朝鮮時代では人として扱われず物として扱われていた賎民の人達は、教育を受ける機会がなく読み書きが出来なかった事も、バードの記録に載っているわけだ。
ちなみに、韓国政府が主に駐留米軍を相手にとして設置した慰安婦村は当時の韓国での重要な外貨収入になっており、1番大きい時だと歳入の2割がこの性商売によるものである。
ここも参考に。
この悪習は戦後も半島ではしばらく続く。
というより、朝鮮総督府が法で管理し警察でも厳しく取り締まっていたのが解放されるからだが、実際をいうと終戦直前ぐらいから朝鮮の人の無法は記録がある。強盗や暴行、性暴行などの記録が実は多数残っている。その中で性暴行では1番多いのはロシア人なのだが、朝鮮の人だというのも多い。強盗や暴行は朝鮮の人のものが多い。
さらに、戦後は韓国政府は駐留米軍を対象目標とした慰安婦村の設置や女性を強制的に従事させていたこと、未成年をもそれらに従事させてい事なども記録に残っている(政府管理でその様な場所を作る事は、朝鮮時代からのもので。朝鮮時代、『妓生庁』という部署まであり、官妓生を管理していたという歴史的事実があるので、悪いとも思っていないのだろう)。
これはそうなるだろうな、と私は当然の結果だろうと思う。朝鮮では戦後に刑務所に収監されていた犯罪者を解放してしまい、彼らを韓国では『志士』とするのだが、そこには詐欺や人身売買(違法性商売も含む)ような人物が大量に含まれているからだ。思想犯罪による逮捕者もいたが全体として少数で、刑務所で死刑になった人物は二桁も前半程度(記録で確認できるが、24人だか14人だかそれだけ)で、またそれらの人物はテロ行為など多くの人身を害する直接的なことをした、現在でも重大犯罪を犯した人物だけである。また、ベトナムでも様々に記録が残っているし、最近でも塩田で外国人を奴隷労働させていた事も暴露されていた。
これらの悪習は朝鮮時代から続いており、朝鮮の近代歴史の中では、唯一といっていいぐらいなのだが、統治時代の間だけは女性人権が守られ、詐欺や人身売買が厳しく禁止され取り締まられている時代になっている。
このような社会意識なので、朝鮮時代では人として扱われず物として扱われていた賎民の人達は、教育を受ける機会がなく読み書きが出来なかった事も、バードの記録に載っているわけだ。
ちなみに、韓国政府が主に駐留米軍を相手にとして設置した慰安婦村は当時の韓国での重要な外貨収入になっており、1番大きい時だと歳入の2割がこの性商売によるものである。
また、奴婢階級は除くとして考えても、これが1690年頃なら両班は人口の7.6%であり、簡単に考えてもその半分は女性であり、就学していない年齢の子供もいたのだから、学校の数を見ても3%弱の識字率で両班のほとんどは読み書きができていたのだろうと思われる。これは中世から近世、近代教育であれば妥当な話な割合である。その17世紀ごろまで朝鮮の教育の中心となって支えていた高麗時代の教育を踏襲した教育機関である四学や郷校も18世紀には荒廃衰退していく。
代わりに支配階級の教育機関である書院が台頭してくるが、これまた濫設されるようになり、免税などの特権に伴って次第に本来の目的である講学修道から外れ、政治思想の横行する場となっていき教育の場では無くなり、朝鮮が開国する頃にはほとんどが消滅していく。
書堂は17世紀から増え始めるが、これは支配階級の教育機関である書院制度に対する庶民教育欲求の表れではある。しかしこれも開国後に濫設され、やはり教育の質を低下させていく。
結局のところ、朝鮮時代の教育システムでは受け入れ人数はあまり変化がないので、全体の3%ほどの識字率というのはあまり変わらず20世紀初頭まで続いている。この失敗というか、教育システムが発展しなかった理由は、社会システムの問題の影響も大きいだろう。人口に対して1690年では両班が7.6%だったのが1900年頃では公称で48.6%(実質は34.5%)になるが、これは階級や職責を金で売買されていた政治や社会の腐敗の歴史があるからだが。社会構造の変化に対して教育システムは中世時代のままであり、さらにはその教育の現場も名誉と金と思想の場となり腐敗が質を低下させていく。
朝鮮時代の両班と変わらない自大意識が、今の韓国では多く見られる。これは文献を歪曲や改竄を平然と行い、また過去に渡って歴史を改竄や歪曲しようとするのは同じで、そしてそれを咎めようとする人達があまりいない、というのはそっくりである。
代わりに支配階級の教育機関である書院が台頭してくるが、これまた濫設されるようになり、免税などの特権に伴って次第に本来の目的である講学修道から外れ、政治思想の横行する場となっていき教育の場では無くなり、朝鮮が開国する頃にはほとんどが消滅していく。
書堂は17世紀から増え始めるが、これは支配階級の教育機関である書院制度に対する庶民教育欲求の表れではある。しかしこれも開国後に濫設され、やはり教育の質を低下させていく。
結局のところ、朝鮮時代の教育システムでは受け入れ人数はあまり変化がないので、全体の3%ほどの識字率というのはあまり変わらず20世紀初頭まで続いている。この失敗というか、教育システムが発展しなかった理由は、社会システムの問題の影響も大きいだろう。人口に対して1690年では両班が7.6%だったのが1900年頃では公称で48.6%(実質は34.5%)になるが、これは階級や職責を金で売買されていた政治や社会の腐敗の歴史があるからだが。社会構造の変化に対して教育システムは中世時代のままであり、さらにはその教育の現場も名誉と金と思想の場となり腐敗が質を低下させていく。
朝鮮時代の両班と変わらない自大意識が、今の韓国では多く見られる。これは文献を歪曲や改竄を平然と行い、また過去に渡って歴史を改竄や歪曲しようとするのは同じで、そしてそれを咎めようとする人達があまりいない、というのはそっくりである。
ちなみに朝鮮時代の初期の頃は、中国の科挙制度を基としていた高麗時代の教育システムを踏襲し中国の科挙システムを踏襲した朝鮮の教育システムは、同じ時期の科挙システムは踏襲していない日本より優れているとは思う(科挙を模倣するのではなく、科挙を参考にした独自の人材登用制度は存在する)。
室町時代になるが、当時の日本では基本的に武士や公家などの支配階級は家庭学習をしている。
識字率としては同じ時期の朝鮮と変わらず、その階級の識字率はほぼ100%だが、教育システムとして考えると朝鮮の方が進んでいる。またその当時の日本では、庶民は望めば寺や神社で教育を受ける事はできた(寺小屋の前時代)が、庶民で教育を受ける者はそこまで多くない(一定数はおり、1000年前の庶民の落書きも残っている)。
ただ、より学べる教育機関、現代で言えば大学相当になる学教育機関が当時の日本では幾つもあり、宣教師ザビエルも本国に報告した書簡にもその記録がある。その大学相当の教育機関というのを持つ点では朝鮮より日本の方が優れている。
現代的な感覚で言えば、当時の朝鮮では小学校から高校相当の教育機関はあったが、大学は中国に留学することであった。つまり中国の地方教育という範囲の科挙を基本とした教育システムなのだ。
結局のところ、書堂を質を考えず増やしても僅かで限定的にしか識字率は上がらず、日本が考え行った俗文主義の構文や新聞を25年掛けた成果も合わせ、大韓帝国の内政失敗と政情不安から、新聞などから情報を得ようという人々が出てきてやっと識字率が上がり始める。
室町時代になるが、当時の日本では基本的に武士や公家などの支配階級は家庭学習をしている。
識字率としては同じ時期の朝鮮と変わらず、その階級の識字率はほぼ100%だが、教育システムとして考えると朝鮮の方が進んでいる。またその当時の日本では、庶民は望めば寺や神社で教育を受ける事はできた(寺小屋の前時代)が、庶民で教育を受ける者はそこまで多くない(一定数はおり、1000年前の庶民の落書きも残っている)。
ただ、より学べる教育機関、現代で言えば大学相当になる学教育機関が当時の日本では幾つもあり、宣教師ザビエルも本国に報告した書簡にもその記録がある。その大学相当の教育機関というのを持つ点では朝鮮より日本の方が優れている。
現代的な感覚で言えば、当時の朝鮮では小学校から高校相当の教育機関はあったが、大学は中国に留学することであった。つまり中国の地方教育という範囲の科挙を基本とした教育システムなのだ。
結局のところ、書堂を質を考えず増やしても僅かで限定的にしか識字率は上がらず、日本が考え行った俗文主義の構文や新聞を25年掛けた成果も合わせ、大韓帝国の内政失敗と政情不安から、新聞などから情報を得ようという人々が出てきてやっと識字率が上がり始める。
識字率上げる教育とは継続による積み重ねと失敗、教育システムの変化に伴い、社会が試行錯誤しながら進んでいくものだが。朝鮮の歴史を見ると、同じ失敗を繰り返しているのが分かる。朝鮮時代は中国の科挙制度を基にした教育システムを高麗を真似して行い、最初は上手くいくのだが、朝鮮の人の性質というべきか教育の場としてを損ない、濫造しだして衰退していくを繰り返し、教育者が単なる地位特権となり不正の温床になる。
ちなみに朝鮮時代の教育システムは高麗時代のものを踏襲したものであるが、これが中国の科挙を頂点とした教育システムの一部であるのは当然で、高麗人は中国系の血が大きい中国系民族と言える民族が母体だからである。高麗は新羅が分裂してからできるが、その民族系統は高句麗になる。高句麗は燕国滅亡後の衛氏支配層民族だが、中国系騎馬民族であり、その文化も中国北東部に基を持つ。漢に滅ぼされ四漢郡を置かれた後に再興し、周囲が公孫氏、そして魏の支配下に置かれる中で、魏の滅亡後に拡大する国で、やはり中国系である。このように中国系民族であるので、仏教とともに科挙制度という教育システムも受け入れたものである。
南側は、馬韓は中国系で、弁韓は倭系。百済はこの民族の混合で、だから日本式の土器も発掘されるし、百済から日本に来るのも漢族系である。
南側は、馬韓は中国系で、弁韓は倭系。百済はこの民族の混合で、だから日本式の土器も発掘されるし、百済から日本に来るのも漢族系である。
アミニズムな宗教の合致から、衛氏が漢族に滅ぼされる際に南に逃げた衛氏では被支配層だった民族が倭族に助けられ、辰韓となり新羅となる民族が今の韓国の系譜となる。
高句麗も百済も、唐に攻められ衰退し滅亡するが、三国で協力するはずが素早く唐に従属するのが新羅で、そのおかげで漁夫の利的に高句麗は百済の遺産文化を手に入れたのが新羅となる。
高句麗や百済からすれば、新羅は文化泥棒でしかない。
ちなみに高麗系は北方に追いやり差別し、百済系で逃げ遅れた者は済州島に押し込め弾圧をし続け、朝鮮時代は存在自体を忘れ韓国時代には命を奪う弾圧を行なっている。
高句麗も百済も、唐に攻められ衰退し滅亡するが、三国で協力するはずが素早く唐に従属するのが新羅で、そのおかげで漁夫の利的に高句麗は百済の遺産文化を手に入れたのが新羅となる。
高句麗や百済からすれば、新羅は文化泥棒でしかない。
ちなみに高麗系は北方に追いやり差別し、百済系で逃げ遅れた者は済州島に押し込め弾圧をし続け、朝鮮時代は存在自体を忘れ韓国時代には命を奪う弾圧を行なっている。
中国では科挙は587年から始まり、1905年まで実施されたものだから、中国の科挙がなくなっても朝鮮は科挙制度の教育システムに固執し続けた事になる。朝鮮での科挙でも五経四書を覚えなくては話にならないため、ハングルを諺文として下に見て中国漢文の暗記に重点が置かれた教育だったのも当然なのである。
こんな科挙システムだが中世や近世といった時代でならいい教育システムではあるが、近代化を成し遂げ、西洋と互角に渡り合うための人材を採用するには科挙に基づく教育は不適切だったため、中国でも韓国でも廃止されることとなる。またそれまでに教育が不正や教育に質の低下も起こっている。
朝鮮でも1894年の甲午改革で科挙は実質的には廃止になるが、両班はその後も書堂教育に固執を続けており、近代教育を否定し、妨害行為なども行っている。また朝鮮時代も後半になると、試験で他人の文を剽窃したり、本を持ち込むとか、試験問題を前もって知るなど、あらゆる不正行為が公然と盛行した。そのため科挙の権威は地に落ち、これに対する論難がひどくて、科挙の弊端を是正せよという建議も多かったが、一度曇り始めた制度の欠陥は抑えることができなかった。これと並行して賄賂と情実、門閥の高下、党派の所属によって及第と落第が決定されたなど腐敗が進み続けたため、科挙制度は極度に乱れるほかなかった。
なんというか、毎度のような朝鮮の失敗の流れである。
まぁ、簡単に教育システムを言ってしまうと、中国系である高麗の時代を模倣したのが朝鮮時代の教育システムで、日本統治時代の日本の教育システムを模倣したのが韓国の教育システムとなる。
こんな科挙システムだが中世や近世といった時代でならいい教育システムではあるが、近代化を成し遂げ、西洋と互角に渡り合うための人材を採用するには科挙に基づく教育は不適切だったため、中国でも韓国でも廃止されることとなる。またそれまでに教育が不正や教育に質の低下も起こっている。
朝鮮でも1894年の甲午改革で科挙は実質的には廃止になるが、両班はその後も書堂教育に固執を続けており、近代教育を否定し、妨害行為なども行っている。また朝鮮時代も後半になると、試験で他人の文を剽窃したり、本を持ち込むとか、試験問題を前もって知るなど、あらゆる不正行為が公然と盛行した。そのため科挙の権威は地に落ち、これに対する論難がひどくて、科挙の弊端を是正せよという建議も多かったが、一度曇り始めた制度の欠陥は抑えることができなかった。これと並行して賄賂と情実、門閥の高下、党派の所属によって及第と落第が決定されたなど腐敗が進み続けたため、科挙制度は極度に乱れるほかなかった。
なんというか、毎度のような朝鮮の失敗の流れである。
まぁ、簡単に教育システムを言ってしまうと、中国系である高麗の時代を模倣したのが朝鮮時代の教育システムで、日本統治時代の日本の教育システムを模倣したのが韓国の教育システムとなる。
一応、李氏朝鮮時代にも「貸本」は存在します。
韓国時代劇ドラマ『秘密の扉』というのがありますね――ただし、貸本はあったが、ドラマのようなものではありません。
そもそも書籍は高価で庶民が読めるようなものでもありませんし、いつも通りの「韓流ファンタジー時代劇(笑)」でしかありません。
貸本が出てくるのは、18世紀頃の英祖から正租ぐらいの間で、『貰冊店(セクチェチョム)』と言うのがあり、これが貸本屋です。そしてあったのは京城(今のソウル)のみで、他は開城や平壌などの大きな都市には無かった事は、1894年発刊のモリス・クランの著書に書いてあります。また、日本でも同じ1894年発刊の『朝鮮雑記』に「京城に3軒あり」とある。ただし、裏路地の古本屋のように小さく、多くの本は、一揃いの書物の大半が欠けているものであるとも記載している。
では、京城では貸本が広く行われていたのか……というとそうでもなく、裕福な両班、それが囲った妓生(絹を纏い簪や腕輪をしていたとあるので、一牌の妓生でしょう)が読んでいたぐらいです。これは、18世紀の学者イ・ハクキュや文官のジェ・ジェゴンが記録に残しています。その上、かなり高価であり、婦女子が本を借りて家が傾いた、というのがあるようにとても高価だったようです。日本の江戸時代の様に、庶民が楽しめるような「貸本」ではありません。
ちなみに、両班の男は中国古典を読めるのが強要の証拠だと思っていたので、諺文などは読みません。教養として文字を習っていた一牌の妓生のみが貸本を楽しんでいたような感じです。
貸本も庶民は関係がなく、庶民は講談師を聞いて楽しんだというのはあるようです。
韓国時代劇ドラマ『秘密の扉』というのがありますね――ただし、貸本はあったが、ドラマのようなものではありません。
そもそも書籍は高価で庶民が読めるようなものでもありませんし、いつも通りの「韓流ファンタジー時代劇(笑)」でしかありません。
貸本が出てくるのは、18世紀頃の英祖から正租ぐらいの間で、『貰冊店(セクチェチョム)』と言うのがあり、これが貸本屋です。そしてあったのは京城(今のソウル)のみで、他は開城や平壌などの大きな都市には無かった事は、1894年発刊のモリス・クランの著書に書いてあります。また、日本でも同じ1894年発刊の『朝鮮雑記』に「京城に3軒あり」とある。ただし、裏路地の古本屋のように小さく、多くの本は、一揃いの書物の大半が欠けているものであるとも記載している。
では、京城では貸本が広く行われていたのか……というとそうでもなく、裕福な両班、それが囲った妓生(絹を纏い簪や腕輪をしていたとあるので、一牌の妓生でしょう)が読んでいたぐらいです。これは、18世紀の学者イ・ハクキュや文官のジェ・ジェゴンが記録に残しています。その上、かなり高価であり、婦女子が本を借りて家が傾いた、というのがあるようにとても高価だったようです。日本の江戸時代の様に、庶民が楽しめるような「貸本」ではありません。
ちなみに、両班の男は中国古典を読めるのが強要の証拠だと思っていたので、諺文などは読みません。教養として文字を習っていた一牌の妓生のみが貸本を楽しんでいたような感じです。
貸本も庶民は関係がなく、庶民は講談師を聞いて楽しんだというのはあるようです。
朝鮮の教育システムは中国の科挙制度と関係するが、科挙制度が根付かなかった日本では同様な教育システムが根付くことはなかった。
日本は室町時代までは現代で言えば小学校から高校相当の教育は家庭学習が主だが、優秀な人材は現代の大学相当にあたる教育機関に行きそこで切磋琢磨するという、当時の西洋に近い教育システムを独自に持っていた。足利学校は創建がはっきりせず、平安時代初期から鎌倉時代に創建と曖昧だが、室町時代に再興した事は判っており、学生数は3000人と記録されている。この頃の足利学校の様子を、宣教師ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられていた。ザビエルによれば、日本国内には11の大学及びアカデミーがあり、最大のものが、足利学校である。宣教師フロイスも大学だとイエズス会送った書簡の中に記録されている(ただ足利学校も江戸時代では教育内容は古く合わなくなってくるので、衰退していくのでだが。その代わりとして一部の様々な私塾が現代の私大みたいになっている)。
その他にも日本では紀元前から神宮に様々な物事を奉納する習慣があり、知識伝承もされてきている。この中には知識が奉納されていたりもする。
室町時代後期でも衛生観念や商業経済、科学技術は既に日本は先に進んでおり、それを朝鮮でもすべきだと朝鮮通信使が帰国後に上進したが上手くできなかった事は朝鮮側の史料でも分かる。江戸時代になると明らかに差が出ており、例えば算学を日本がしているというので朝鮮通信使が書籍を持って教えようとすれば、その書籍の記載間違いを日本側から指摘され。儒教を教えようと誦じようとすれば、庶民でも既に知っており、逆にその中身の論議をされかけて逃げている。大阪や名古屋や江戸と、圧倒されている様子は朝鮮通信使の記録にも残っている。
江戸時代では儒学なども算学と同じ、趣味の教養として親しむ人達がいたからだが。
日本は室町時代までは現代で言えば小学校から高校相当の教育は家庭学習が主だが、優秀な人材は現代の大学相当にあたる教育機関に行きそこで切磋琢磨するという、当時の西洋に近い教育システムを独自に持っていた。足利学校は創建がはっきりせず、平安時代初期から鎌倉時代に創建と曖昧だが、室町時代に再興した事は判っており、学生数は3000人と記録されている。この頃の足利学校の様子を、宣教師ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられていた。ザビエルによれば、日本国内には11の大学及びアカデミーがあり、最大のものが、足利学校である。宣教師フロイスも大学だとイエズス会送った書簡の中に記録されている(ただ足利学校も江戸時代では教育内容は古く合わなくなってくるので、衰退していくのでだが。その代わりとして一部の様々な私塾が現代の私大みたいになっている)。
その他にも日本では紀元前から神宮に様々な物事を奉納する習慣があり、知識伝承もされてきている。この中には知識が奉納されていたりもする。
室町時代後期でも衛生観念や商業経済、科学技術は既に日本は先に進んでおり、それを朝鮮でもすべきだと朝鮮通信使が帰国後に上進したが上手くできなかった事は朝鮮側の史料でも分かる。江戸時代になると明らかに差が出ており、例えば算学を日本がしているというので朝鮮通信使が書籍を持って教えようとすれば、その書籍の記載間違いを日本側から指摘され。儒教を教えようと誦じようとすれば、庶民でも既に知っており、逆にその中身の論議をされかけて逃げている。大阪や名古屋や江戸と、圧倒されている様子は朝鮮通信使の記録にも残っている。
江戸時代では儒学なども算学と同じ、趣味の教養として親しむ人達がいたからだが。