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【朝鮮半島の畜産】

【元々はあまり肉を食べていない】

朝鮮総督府の年報には、畜産数も載っている。
それと今の韓国の発表している1980年代までの畜産数をグラフにすると、このようになる。

朝鮮時代末期や大韓帝国時代前期だけで見れば、日本の方が肉を食べています。
江戸時代だと同じぐらいか、鳥肉やジビエを考えると、日本の方が食べていたぐらいですね。
【統計データ】
1944年発刊の朝鮮農業統計図表に、牛・豚・鶏のデータがまとめられている(データの主体は1910年と1925〜35年、輸出量なども分かる)。

5年で1.9倍、30年で2.38倍と増大させており、生産調整しながら安定した牛畜産業を確立している。

20年かけ2.88倍と増大させており、そこから生産調整しながら安定した豚畜産業を確立している。

20年かけ2.55倍と増大させており、そこから生産調整しながら安定した鶏畜産業を確立している。
全て人口増加割合よりも増産しており、日本統治下では安定供給をしているのが分かる。
また産業としても拡大しており、それぞれの畜産生産額は、
1910年12,241,102円97,908円705,275円
1920年45,048,700円8,897,866円9,351,720円
1935年33,872,572円11,546,599円8,911,514円
1940年77,874,914円23,857,273円23,857,278円
となっており、価値も向上させ産業として確立している(また、豚の消費量が日本統治以前では少なかったのも数値から明らかである)。
【朝鮮ー大韓帝国時代】
一番左端が1910年で、ようはこの時の畜産数は大韓帝国時代のものとなるが、その畜産数の少なさから、それ以前に肉食はそれほど大きな割合で無かったのが分かります。見ると、明らかなほどに少なく、統治時代の4割ぐらい。現在だと鶏は5%程度で、牛や豚も15%程度となる。
また、黄彗性・石毛直道著『韓国の食』をみると、朝鮮王朝末期は「牛を屠る時は役人の許可が必要」だったらしい。それほど牛は大事にしていたのですね。1894年の『朝鮮雑記』を見ると、管理した畜産はされておらず放し飼いで、屠畜は各土地で一定数までは認められていたが、それ以上は認められておらず。また本来は管理をするはずの官吏が腐敗しており管理がされておらず、屠畜する場合には賄賂が必要としていた事も書かれています。

ちなみに、日本は1888年には全国に910万羽の鶏飼養があり、1916年に畜産試験場が設置され養鶏に対する国の姿勢が積極的になり、1925年には3678万羽に達しています。同時期の朝鮮では1911年で279.6万羽、1916年で440万羽、1925年で612万羽なので、日本の約1/5程度と、人口に差があっても日本の方が1人当たりでも肉を食べていた事が分かります。また、牛や豚の屠畜数を見ても日本の方が数倍です。
【日本統治時代】
そこから1942年までは日本統治でのデータであり、1939年まで確実に畜産数を伸ばしている。

この時に、養鶏や養豚を推奨したが、養鶏は受け入れやすかったが養豚は受け入れない人も多かったらしい。
また、統計データを見ると、無理に外来種を持ち込んでいるのではなく、在来種の頭数も維持している(つまり、増えた分が畜産に適した外来種)。在来種の保護もしており、朝鮮文化として在来種の頭数も維持し続けていた(在来種の頭数も記録されているのである)。韓国で現在、在来種の豚や鶏が少ないのは日本のせいではなく、戦後の韓国政府のせいである。
養鶏数が大きいので、それを除いて表示すると、

ですが、地道な努力で増やしていきます。
また、屠畜数も分かっており(犬と羊は初期までしか統計記録に記載がなかったが)、

日本統治前では屠畜数も限られており、豚肉食も犬肉食もがそれほどではなかったのが分かる(牛肉食も大韓帝国時代に急激に増えたものらしい)。

屠畜数から見た肉量を考えると、1人あたりの平均で年間4kg前後の消費となるので、現代と比べるとそれほど肉を食べていたわけではない。
1910年から暫くは、それまで中流以下では肉を口にするのが難しい社会だったからか、肉食量が急激に増えますが、それも収まってきます。また、豚肉食や鶏肉食も少しずつ増えてきます。1895年以前だと牛肉食は少なかった(それよりもっと昔だと、文献に色々と出てくるのだが、朝鮮時代も後期になっていくと土地の荒廃からか畜産がぎりぎりになっていたようです)のですが、1895年以降ぐらいから急に牛肉食が出てくるの文献が増えていき主流になっている。

ただ、1939年にはは第二次世界大戦が勃発した年であり、その前年の1938年度の朝鮮南部は大旱魃に見舞われた年で、その影響もあり1939年には大不作となっています。これから立ち直れなかったのもあり、また戦争勃発によって飼料が高騰したこともあって、朝鮮総督府は補助金も出していますが畜産業を廃業する朝鮮人が増えていきます。

上図は、養豚している戸数と飼育頭数ですが、朝鮮での不作や世界大戦による物価高騰は、こういう所にも影響を与えています。
【韓国時代】
これが、終戦から数年で、李承晩政権は農業施策が碌になく、畜産もほぼ壊滅的な崩壊します。
再び畜産が上昇してくるのは李承晩政権が終わってからの1960年頃からで、日本から豚肉輸入などを始めた頃。
1970年代には畜産技術を日本のODAで整備し始めた時代であまり変化がないが、1980年代から肉の需要が一気に高まる。
【朝鮮半島の畜産業の歴史】
日本統治下での朝鮮総督府の施策のように、畜産業を活性化させるというような事を朝鮮時代はしておらず、ひたすらに衰退させている。
この衰退は、戦後の韓国政府でも行っており、日本のODAで畜産業を復古することになる。
つまり、朝鮮半島における畜産と肉食の歴史は、
  • 古代からある中国北東部からの文化伝播である畜産業があり
  • ▼高麗時代では肉食や屠畜を厳しく制限し畜産業を衰退させ
  • ▲元の支配によって畜産業が復古し活発になり
  • ▼朝鮮時代には無策と官吏腐敗と土地荒廃により衰退させ
  • ▲開国によって外国志向が入ってきて肉食が復古し原始的な畜産業が復古し
  • ▲日本統治によって畜産業が近世代化し、土地の復活と庶民でも肉食の文化ができ
  • ▼戦後の韓国政府によって土壌荒廃と共に畜産業が壊滅的になり
  • ▲日本のODAによって近代化した畜産業が導入され躍進する
という歴史になっている。
つまり、朝鮮人は自分たち自身で自国での畜産業、肉食文化は作っていないという事である。全て、朝鮮半島の外から来た文化になっている。

ちなみに、日本では「豚は弥生時代に渡来人が連れて来た」とされていますが、7300年前の大噴火で沖縄や八丈島などに逃げた縄文人は家畜の豚を引き連れています。つまり、7000年前ほどに既に半島の南側に逃げた縄文人も豚を連れて来た可能性も高いのです。遼東文明でも豚を家畜化しており、それが南下して朝鮮半島に入ってきているので、朝鮮半島の「豚食」どころか豚自体もが中国と日本からやってきた文化ということです。

【韓国での畜産と肉料理】

朝鮮では、統治時代から養豚も推奨していてが、こちらは遅々として進んでいない事が1925年の経済論雑誌に掲載されている。養鶏の方は少しずつ広がっている事が分かるが、朝鮮では従来では、肉と言えば馬や羊、ジビエの鹿もよく食べられている。次いで牛だが、牛は食べられはするが農耕にも使う経済獣なので肉を目的の飼育ではない(ただ、統治時代でも牛肉が料理として出てくる記載は多い)。旅行記などの文献を調べてみると豚は統治時代も初期は記録にあまり出てこないが、中期以降になると豚肉が出てくる。
ただ、全体としてはやはり頭数が少ない。
朝鮮における「肉」料理の拡大は13世紀〜、1880年代〜、1920年代〜、1960年代〜、1970年代、1980年代〜というステップがあるのは理由もきちんとある。

朝鮮というのは元々は「3禁」の国で、その中に「禁肉」「禁酒」がある。
牛肉食べてはいけない、お酒飲まないでくださいという意味である。すべて農業の生産性をあげるようにして、穀物を作るために作成された原則であった。生活というのは農業に依存しており、牛は農作業に不可欠なのだから当然であり、食用ではなかったのだ。そのため、個人の屠殺は原則的に禁じられており、宮中祭祀や外国使臣接待などにのみ制限的に牛肉を使用した。牛の違法屠殺は重罪で、初犯でも棍棒100叩きに懲役3年の罰を受けた上で、発覚したら家族全員が賎民になって奴婢に配属されるという厳しいものだったのだ。
【10世紀〜】
高麗時代になり、屠畜禁止令を出し肉食を厳しく制限された時代で、肉食文化はほとんどが廃れる。
(ジビエなどは食べていたようですが)。
【13世紀〜】
朝鮮半島が元に支配された時代です。
元になると、モンゴル人は積極的に肉を高麗に求めました。これで朝鮮の肉食文化は新しくできたわけです。
『雪夜覓』や『貊炙』といった、モンゴル式の炙り肉なども記録に残っていますね。
ただ、豚肉ではなく山羊肉や羊肉でしょうね。

朝鮮時代になると高麗料理を模倣したり中国料理を模倣したりもあるのですが、時代が進むにつれ肉料理の記述は減っていきます。
これは儒教国家で労働する事を下に見るや、畜産は匂うものだから穢れと捉えたり、無計画な自然資源利用により国土荒廃をしていたのも関係しているのでしょうね。
そんな肉食文化ですが、朝鮮時代には徐々にまた衰退していきます。
しかし、その後にあまり肉食料理の発展はなく、あまり凝ったものがなく、ただ炙るか煮るか乾肉にしたものが料理になっている。
違っているのは、それに付ける辛子や胡椒といったものですね。
【1880年代〜】
中国以外の他国と交流する事になる開国してからの時代です。
日本でもあったのですが、西洋は肉食を求める事が多く、肉食のきっかけになっています。朝鮮では元(モンゴル)の時も同じで、他国からの肉食の欲求から増えるわけです。ただ、朝鮮半島南部では畜産できる環境ではなかったので、多くは朝鮮半島北部側(今の北朝鮮側)です。
開国後の食文化の変化は大変に大きかったようです。

ロシアとの貿易は、海路および陸路で慶興を経由する生牛の輸出によって、外交関係がなかったにもかかわらず1863年から始 まっている。
生牛は沿海州に駐留するロシア軍の食肉用として、ロシアにとっての必需品であった。1889年には年闘約1万頭が輸出されており、その50%から60%は元山からウラジオストックへ海路輸送されている。生牛の78%が牡牛で22%が牝牛であったという事もわかっている。生牛に次ぐ輸出品は燕麦で、威鏡道北部では年平均131tほどが沿海州に輸出されていた。そのため、どんなに金を積んでも当地では燕麦を買うことは困難とさえいわれた。これらの燕麦は、生牛と同じように沿海州のロシア軍の食糧であった。

大量の牛の 輸出は咸鏡道の耕牛の数を大きく減少させてしまい、耕牛価格をつり上げ、下層農民の生産手段を奪う結果を招いた。そのうえ燕麦の輸出は飼料不足をもたらし、農家の家畜数を大幅に制限することになった。生牛と燕麦の 対価として綿織物などの工業製品とロシア通貨が入ってきた。すでに揺らいでいた李朝封建農村は、ロシアとのた成鏡国境貿易によって急速に解体し始める。納税や兵役を逃れて下層農民の逃散がさらに拡大し、僻地に隠れて生活する数多くなり、流民が到る所でみられた。
さらに1869年の朝鮮北部の大凶作は追い討ちをかけた形になる。

1885年
この当時の肉食文化は、1885年12月から1886年2月にかけて当時の朝鮮の王都から東北のロシア国境に向けて旅行をした商人パーヴェル・ミハイロヴィチ・ヂェロトケヴィチの旅行記『朝鮮旅行記』の中に当時の肉食も様子も見える。
犬は「ソウルには夥しい数の犬がおり、食用として販売するため各自が自宅で数頭は飼っている」とあり、犬は一般的に食べられています。
ソウルの市場でカササギ、カラスなどの鳥が売られていたことが記録されています。
また、道中の食事では牛肉は出て来なくて、鶏肉と豚肉が出てきます。牛の畜産は朝鮮半島の北西側(中国と面した側)であれており、朝鮮半島北東側では牛肉は殆どなかったようですね。

ここで少し面白いのは、豚肉が出てくるのです。しかしその位置はソウルやその近郊、あるいは半島南側ではなく、「北青」「端川」「富寧」「会寧」と北朝鮮の東海岸側でロシアとの交易をする場所ですね。この辺りというと、イザベラ・バードの『朝鮮紀行』に書かれている、朝鮮の圧政に逃げ出した常民や奴婢が逃れて住んでいた場所で、朝鮮の支配の影響が小さくてロシアの支配の方が強く、ロシアの実効支配地域となっていた地域ですね。
当然ながらこの「養豚」も、朝鮮というよりロシアの影響によるものでしょう。
出てくる料理は、
  • 江原道:朝鮮式に炊いた穀物と塩漬け大根サラダ
  • 洪原:穀物飯、数片の肉切れ、魚2切れと激辛の香辛料
  • 北青:子豚料理
  • 端川:穀物飯と茹でた鶏肉と豚肉
  • 富寧:穀物飯、鶏肉、豚肉、卵、ひき肉
  • 会寧:穀物飯、牝鶏1羽、卵、厚切りの豚肉
といったものになります。 穀物類は別に話すとして、ここでは肉。
「数枚の肉切れ」は朝鮮の乾肉で、薄切りして天日でしっかりと干すといったものです。
他の料理は、モンゴル料理に近いのでしょうが、例えば だったのであろうことは想像しやすいでしょう。
  • 밀쌈(milssam)」は、「小麦の粉をこね扁円形(丸く平べったい形)にし中に野菜や肉を包んで油で焼いた料理」であり、モンゴルの「ホーショール」にそっくりです。
  • それ以外にも「sam」のルーツとしてモンゴル料理の「シリンゴル」があり、この「シリンゴル」という料理は春餅(小麦の皮)に羊肉や卵・春雨の炒めもの・キュウリやネギを巻いて、甘味噌で食べる料理です。これが韓国料理で一般的な「쌈(ssam)」のルーツになります(また、モンゴルのこの料理は中国の影響を受けた料理です)。
他に、キャベツは見かけなく、ジャガイモもほとんど見掛けなかった事も書かれている。韓国には豚の血を使ったソーセージがあるが、これもモンゴル料理が基になっており、モンゴルでは羊の血で作られる(これは、血を大地に落とさないようにし、全てを食べると言う風習で出来ている料理)。
本来、山羊や羊であったこの料理が豚になったのは、朝鮮の史料では山羊肉も出てきていた事を考えれば、放牧民ではなく定住しての生活では山羊や羊は根まで食べてしまうため、やはり土地の荒廃が進み朝鮮時代中期から後期にかけて飼育が難しくなり、豚に置き換わっていったのではないかと推測される。

1889年
ソウルより北方、つまり今の北朝鮮の地域の畜産については、ロシアの参謀本部が発刊したウェーベリ中佐の『1889年夏の朝鮮旅行』には、
「朝鮮では牧畜が農村における独立の生業としては成立しないことが判明する。家畜は農耕にとって必須であり、また家畜自らが耕した畑で獲られた麦藁で飼養される。この飼料の量が、家畜自体の頭数をも決定するが、そのための飼料が不足する以上、余剰の頭数は既に重荷以外の何物でもない。
上記のコザン地方は、記述の通り400頭を数えるが、もはやこの地方での飼養限界に達している。
余剰の家畜は零細な仲買人へ売却され、仲買人は6頭から10頭の牛の群れを逐って北へ、つまり(ロシア領)南ウスリー地方へ搬送するのである。」
とあり、朝鮮の荒廃した土地では飼育もかなり厳しい事が書かれているし、
「朝鮮にとっては、われわれによる牛の買付けがある程度まで慈善行為でさえあった。朝鮮は自らが飼育しえず、食用にも供さない部分をわれわれ(ロシア)売り渡している。肉はごく稀な場合に、最高位の貴族層によって食用に供せられるのみで、大都市においてさえ肉の購入は不可能である。肉は市販されていないのだ。」
と、朝鮮時代末期では牛肉食もあまりされていなかった事が書かれている
「過去数年間、われわれ(ロシア)が購入した牛の年間総頭数は次第に増加を見せて、現在1万頭に達するが、その内の5000頭から6000頭は元山から海路で運ばれてくる。」
朝鮮時代から、朝鮮は牛を輸出していた事も判る。「牛を奪っていた」のは日本ではなく、他国に売っていた朝鮮人たち自身なのですね。

1892年
1892年発刊の林武一の『朝鮮国真景』に豆を混ぜた米飯や、牛肉豚肉鶏が沢山あると書かれている。
これは釜山の話なのだが、確かに朝鮮で当時の米と言うと釜山周辺の南部が挙げられるのだが、肉も豊富にあったのか……?
と思う所なのだが、これの答えが同じ林武一が1891年に出している『朝鮮案内』にあった。当時の釜山には日本の雑貨商の小売店が複数あり、そこで醤油や肉、野菜などを販売していた事が書かれている。もちろん、朝鮮で入手する分もあるだろうが、日本から輸入しているのだ(当時、日本から米やお酒、醤油などを朝鮮に輸出もしている)。

1896年
ロシアの参謀本部が発刊したアリフタン中佐の『1895年12月および1896年1月の朝鮮旅行』でも、
「多くの牛が朝鮮からわが国の南ウスリー地方へ搬出されているが、これから朝鮮は牛が豊富であると結論を下すのは早計であろう。却って、朝鮮の牛はその絶対数でも、家畜間の頭数比においても非常に僅かであって、われわれは朝鮮から、余剰分の牛ではなく、住民が貧窮から、ならびに飼育するのが困難となって手放した牛を得ているのである。」
という記載もある。
ただ、1894年発刊『朝鮮雑記』には「馬肉は食べないが牛肉は食べる」とあり、庶民が簡単に口にできるものではないが、上流階級では食べていたようです。客が来ると豚肉や鶏肉を出したともあり、牛肉も食べてなかった事はないようです。

1906年
これに対してその約20年後である1906〜1909年に日本人が訪れた記録、1925年発刊の村田懋麿『朝鮮の生活と文化』に、両班がまだいた時代の食文化が載っていますが、この時代になると牛肉を食べる機会が増えているようで、開国による海外からの来訪者の影響があるようである。
  • 肉も下級層が口にできるものではない
  • 上流社会で主家や客は肉を食べられる
    • 牛肉の味噌汁(肉湯)
    • 鋤焼(『肉蒸』という料理の事で、「牛肉を芹や葱など野菜と一緒に鍋に入れ、苦醤油に水を混ぜて煮た料理」)
    • 肉脯(牛の乾肉)
    • 肉膾(生肉の膾)
といったものが食べられていた事が記録されている。
だが、よっぽど大きく豊かな大両班の家でなくてはそんな食事は出てこない。
  • 中流以下では肉はめったに食べられるものではない
    • 野菜の味噌汁
    • 清汁に漬物
    • 焼海苔(板海苔を焼いたものではなく、バラ海苔を焼いたもの)、焼昆布、貝類、塩辛く硬い干し魚
といったものが食事で、やはり肉を一般的に食べられるようになったのは日本統治下からのようである。
それまでだと中流以下で食べる肉としては、
  • 暑中に犬肉
  • 盆と正月くらいには鶏
とある。
つまり、甲午改革後、大韓帝国になってから牛肉食が増え、それでも上流階級の食べ物であり。一般的に肉食が行われるようになったのは、日本統治下になってからという事です。牛を勝手に屠殺する事は朝鮮時代から禁止されており、例えば脚の骨を折った牛を処分したい場合は「절라소지(折脚所志)」という「脚を折った牛を屠畜する願書」が必要だったようです(まぁ、賄賂で通ったようですが)。
朝鮮時代では牛の屠畜はかなり厳しく制限されており、きちんと願書を出さずに屠畜した場合は罰せられます

日本統治になり日本の調理技術が色々と入ってくるまでは、朝鮮半島の肉料理と言うと一般的な調理法が
  • 炙る(直火で炙る)」
  • 蒸す(石蒸など)」
  • 煮る
  • 乾す
というもので、簡単な調味がされただけで、
たまに、「串に刺した牛肉を炙って醤油に漬ける」という『醤散炙(쟝산젹:jyangsanjyeog)』「醤油に漬けた牛肉を煮る」という『쟝조림(jyangjolim)』など「漬ける」のような料理が存在する(大豆を醤油に漬けて煮るというのもある)が、基本的に単調な味の料理が多く、そこに胡椒や辛子、あるいは醤などを付けて食べるという手法である(韓国人は「料理に副菜の小皿が並ぶのが豊かな証拠」というが、これは逆で、味が単調な故に味変になる調味代わりの副菜、日本的に言えば「ご飯のお供」が沢山並んでいるという、『料理』自体に味付けする調理技術が未熟な故の古い時代の食べ方が残っているのである。日本も平安時代辺りの食事だと同じような食べ方をしている)。
といった簡単な料理がほとんどで、焼肉の様に鉄鍋の上で焼くような料理や油で揚げるような料理はほとんど見当たらない(単純に、油が高級だったことや、長時間の火力を必要とする料理も燃料代が高価になるため困難なだけなのだが)。朝鮮時代の料理については、当時に訪れた西洋の外交官が宮廷料理を食べ「中華料理の劣化模倣だ」とも感想を述べているし、胡椒や唐辛子・大蒜などで濃い味であったというのは様々な文献で見られる。料理のほとんどが、キムチ(沈菜)も含めて中国料理の模倣料理がほとんどであり。
この料理だが、日本だと平安時代あたりの料理とどこか似ているが、それでも日本の平安時代の方が創意工夫がされているように感じられる(それぐらい、料理的な発展とは無縁だったのだ)。
【1910年代〜】
日本が畜産を推奨し、畜産研究所も作りまた日本式の衛生を考えた畜産処理場を全国に作った時代です。

朝鮮時代でも肉は食べられていますが、大韓帝国時代に肉食の店が出来たのも今の朝鮮である半島北側の方にあるという記載が確認出来ます。文献を見ていくと、それ以前の朝鮮時代は初期より徐々に肉食が出てくるものが少なくなっていきますが、これは土地の荒廃で畜産は負担になっていったのではないかと思います。その後、統治時代になり増えていきます。
日本人が農家に養鶏を勧めていった話などは、幾つも残っていますね。
生産性のいい洋豚などもどんどんと入れていき、在来種より外来種の豚が主流になっていきます(在来種を減らしてるのではなく、在来種の数は保護・維持しており、増えた分が外来種になる)。

大韓帝国時代と比較すると、1人当たりで換算すると牛・豚・鶏は2倍ほどになります。
北方が大陸と繋がっている為か、山羊は4倍ほどになっています。

朝鮮総督府調査資料 第40輯 生活状態調査(其七)慶州郡』だと、日本との交易で砂糖を使い始めて甘党が増えた事や、近頃は日本の真似をして魚の切り身を食べるようになったので日本の醤油を使う朝鮮人が増えた事等も書かれている。1892年の『『朝鮮國眞景』にも「朝鮮は開国後に砂糖を知り使い始めた」とあり、朝鮮ではそれまでは蜂蜜を使っており、広く砂糖を使われ始めたのは日本統治に入ってからである(つまり、砂糖を使ったお菓子の多くは日本統治で生まれたものである)。
【1945年〜】
戦後で日本が撤退すると、朝鮮半島での畜産業は急速に壊滅的に低下している。
ロシア兵や中国兵も大量に入ってきているので、彼らが食べたり持って帰ったりしたのかもしれませんが、記録にある畜産数は大韓帝国時代の4割から1割5分ぐらいになっています。
なんか歴史を見てみると、他民族が文化を華開かせ濊族系民族は多民族の文化を模倣し奪い、それを自国の文化だと自慢し、劣化させていき壊滅的にする。そして他民族が花開かせた新しい文化や継続し受け継いできた文化がやってくる、それを濊族系民族は多民族の文化を模倣し奪い、それを自国の文化だと自慢し、劣化させていき壊滅的にというのが繰り返されているようですね。
磁器なんかもそうですね。
中国の陶工技術からの模倣から始まり、高麗時代には独自の磁器文化が花開いていたのに。朝鮮時代になると王族や両班は中国のものが最上とし国内磁器には目を向けなくなり、自国の磁器産業からは助成金は剥奪し窯も壊していき、磁器の陶工は窮地になりますね。日本が磁器の価値を認め陶工を連れ帰ると、朝鮮には戻りたくないと永住し、日本独自の磁器文化が花開く事になります。韓国になってから、陶工技術が残る日本に韓国人が学びに来る、なんて事になってます。
今の産業もそうですね。基礎基盤技術はほとんどが他国のもので、それの模倣で上手くいけば自国文化だと自慢し、そして劣化させて壊滅的にしていく。
【1960年代〜】
1960年代は輸出入が正式にされ始め国交正常化する時代であり、1960年代だと日本は養豚技術を再構築(以前もあったが戦争でかなりを失い、それを最新技術や生産性のいい種などが導入されて再興している)の確立をし、豚肉が日本国内で安価に安定して供給できたからで、また、当時に日本では流通が安定したために豚焼肉が流行していたのが影響し、韓国にも余剰豚肉が輸出され豚肉を焼く料理も模倣され出てくる(その際、日本西側では安い肉部位である三枚肉、すなわちサムギョプサルになる部位がよく輸出されたのです)。
プルコギもこの時期に出来た、日本のジンギスカンの模倣料理です。
【1970年代〜】
1970年代は、日本のODAで畜産場を畜産研究所を整備され、豚の畜産技術も伝えられる。1920年代に鶏の大規模養鶏場と技術が伝わったのと同じで、1920年代は鶏肉が庶民でも食べられるようになり、朝鮮時代の「参鶏湯」をルーツにしながらもまるで違う現代の『参鶏湯』ができます。その鶏肉が1980年代までは韓国における肉消費の上位になっていた。
しかし、豚肉も韓国が自国内で生産できるように徐々になり始めた。ただし、まだ輸入豚肉に多くを頼っており、豚肉消費量は今のようには高くない。
【1980年代〜】
1980年代は民主化運動であり、日本からの情報・文化や物品が大量にくる。また、養豚畜産が安定した為、韓国でも豚肉が安くなり安定供給されるようになる。豚肉が人気になり、消費肉種でも鶏肉から豚肉が増えていく。この頃に出てくる豚肉料理で、日本の焼肉屋が韓国に出店し『焼肉』が人気になり広く食べられるようになったのもあるが、日本のポークカツレツを真似した『トンカス』が出てくる。
ちなみに、この頃になるとやっと日本統治時代よりも肉摂取量が増えてきます(1945から1970年代にかけては、日本統治時代より肉摂取量は低い)。

【肉重量での比較】

ただ、頭数で見ると鶏が圧倒的になるのですが、1頭当たりにかかる時間も可食割合(臓物肉は除く)や異なりますし、1頭から取れる肉量もかなり違います(在来種の豚や牛は、生産性のいい豚や牛に比べると取れる量がかなり少ない)。
ただ、比較しやすいように平均的な肉量として1人当たりの年間量を計算すると、以下になります。

韓国から時々「日本は朝鮮の牛を奪った」というのを言う人もいますが、これも嘘で。
確かに輸入しましたが、多くは農作牛としてです(総合的に言えば肉の評価が悪かった。ただし、日本で育成すると肉質も向上したらしい)。
最大時で8万頭ですが、この時の朝鮮には50万頭の韓牛が居た時代で、その増加は朝鮮統治府が畜産も推奨し整えていったからであり、水準を維持しています。
グラフから分かるように、日本統治下では畜産を推奨し増やしているのであって、「朝鮮の牛肉を奪った」のは、牛に限らず豚や鶏も奪ってますが、活動家や李承晩時代の韓国政府になります。特に、韓牛はそれを奪ったのは戦後の朝鮮人たちですね。日本統治下では増やし維持しています。また、豚や鶏などは在来種ではなく、生産性のいい洋豚を統治時代に持ち込み拡大しており全体の半分が洋豚になります。当然だが取れる肉量も違います。

少し分かりにくいので、統治時代だけとし、1人当たりではなく全体にすると以下のようになる。

ちなみにこれらのグラフは比較しやすいように、畜産数を精肉にするまでの月日と1頭からとれる肉量から換算しています。
朝鮮総督府の報告には肉にしたものも書かれてはいるのですが、今回は畜産数から換算しています。
実際は乳牛などもおり、また農耕牛もあるので全てが肉になる訳ではありませんが、亡くなった牛は食べられる事が多かったです。
1人当たりの量
全てが肉になる訳ではないのですが、1人当たりのそれぞれの家畜の年間肉重量換算を見ると以下になる。

大韓帝国時代よりだいたい1.5倍の肉量を統治時代では確保している。
また、それぞれの量も初期の朝鮮半島での畜産業を積極的に増やした後は比較的1人当たりの牛肉量は安定しており、生産量を調整しながら国家運営していた事も分かる。豚・鶏に関して言えば倍以上にしており、朝鮮半島で肉食文化を作り出しています。

1939年から低下しているが、これは日本が搾取したのではなく、前年の1938年度に朝鮮南部で発生した大旱魃の余波で畜産業の廃業者が増えた為である。
朝鮮総督府の記録を見ると、補助金を出すなど政策を行い減少に歯止めをかけ維持しようと努めている。また、特に減っているのが豚や鶏で、これは主に農家が兼業で行っていたものですね。

韓国政府が「日本は統治時代に搾取した」と言うのは、終戦後からの活動家や韓国政府の無策状態で朝鮮半島の荒廃を隠すために、それは日本のせいだと捏造歪曲しているものが多いですね。特に李承晩政権では農業も含め無策であり、壊滅的な状態にまでしています
実際は、日本統治時代は農作物も畜産物も経済として整備し生産量が増加している期間です。しかし1938年度は朝鮮南部は大旱魃に見舞われ、1939年に大不作となり、そこで畜産を辞める農家が増え畜産業総数が低下し、戦争末期は飼料事情が悪化して畜産頭数は激減はします。しかし1945年から1950年の低下は世界情勢に説明ができるものではなく朝鮮半島内の問題であり、戦後に急激に畜産は壊滅していき朝鮮時代末期以上に肉食が無くなり、日本統治時代と同じレベルまで回復するのには1980年ぐらいまで掛かります。
【1985年の鶏肉量を1として比較】
1985年の鶏肉量を1とした場合で比較をしますが、分かりやすくするために10年毎のみをピックアップします。

すると、分かりやすく。
人口が大きく違いますが、それでも1人当たりの肉食量を比較すると大韓帝国時代での肉食は1985年時点の1/5〜1/10程度です。
すなわち、「朝鮮人はあまり肉を食べていなかった」と言う事です(たぶんだが、元時代の後の高麗時代から朝鮮時代初期は、モンゴルの影響で肉食もそれなりにあったのが、土地の荒廃や隔絶した身分制度というか社会制度の腐敗で衰退していったのだとは思う)。ただし、これは世界的に見てなので。当時の日本と比べると、日本の豊かな食文化だと肉以外の水産物の方が消費量は確実に上なので、そんな当時の日本から見れば肉は食べています。

また、畜産量を朝鮮総督府は確実に上昇していき根付かせる事に成功(人口の増加率より畜産増加率の方が増加率が高い)し、料理についても朝鮮時代からの料理ではなく、日本からの料理で醤油焼や味噌焼き(まさに日本の手法)などが1940年頃には定着しているのが確認できます。牛肉食が主だった朝鮮半島で、日本統治時代に豚肉食・鶏肉食が増え、戦後の李承晩政権で畜産業を壊滅的にした後に、日本式養鶏で鳥肉食が増え、日本式養豚と豚肉輸入で豚肉食が増えてという、朝鮮半島での肉食文化の歴史になります。

しかし、戦後は管理する者が居なくなり、その後に韓国になり畜産業が壊滅的に崩壊した事が分かります。
この時期の韓国は、畜産農業に対する施行がほとんどされていません。
【韓牛の畜産量】
回復するのは、日本との貿易が行われ始める1960年代、そして鶏は比較的簡単で養鶏のやり方自体を日本は残していましたから復活は早いですが。豚は新しい養豚技術をODAで取り入れるのが1970年代で、この時点ではまだ効果が出ません。しかし、国内で安定して供給できるようになる1980年代から急速に需要を伸ばします。

韓牛に関しては、結局、日本統治時代の韓牛畜産量に戻るのは1982〜3年ぐらいまで掛かっている。
戦前の日本統治下での1人あたりの肉消費量は1990年の韓国レベルであり、1975年の韓国だと大韓帝国時代レベル、1945〜70年だと朝鮮時代レベルの肉消費量となる。現在の韓国が言う「日本統治では搾取され飢え貧困が激しく」というのは嘘であり、日本統治は朝鮮半島に新たな食事文化が作られ肉料理も様々に作られ、中流以下でも食の楽しみが出来てきた時代であり、近代食事文化を作られてきた豊かさがある時代になる。

また、朝鮮半島の牛肉食文化を壊したのも、日本統治時代ではなく戦後の韓国、李承晩政権である。

生の頭数データで韓牛だけを取り出して比較すると以下になる。

1950年代など戦後の李承晩政権下では、大韓帝国時代よりも牛畜産は壊滅的になっている。
それに対して日本統治時代は、牛畜産も推奨し技術も使い、大韓帝国時代の2.5倍ほどにしている。
韓国が日本統治時代と同じレベルまで回復するのは21世紀に入ってからの事になる
【統治以前の肉食】
統治以前の肉は、主に牛肉です。
1887年の『料理独案内:西洋朝鮮支那日本』では、牛肉・牛内臓肉や鶏卵は出てくるが、豚は出てこない。
1906年の『満韓利源調査案内』でも、牛肉・鶏肉・鶏卵は手に入りやすい事は書いてあるが、豚は出てこない。
1909年の『新食道楽』だと、やはり牛や鶏は出てきますが、『豚和え』というのが出てきます(膾ですね)。
1924年の『朝鮮の生活と文化』は、1906年〜1908年および1920年と4度にわたり朝鮮半島を旅行した筆者の記録なのだが、この中に豚(猪と書かれる、中国語)は出てきますが、料理についてはやはり牛肉のものばかりになります。まだ両班が居た大韓帝国時代も載っており、牛肉などは両班の食事には出たが、用人・下人・車夫・雑婢などは口にするような事がなく、食事に明太・鱈・鱒などの大変に塩辛い乾物が一片付くぐらいだとあります。また、『彘(これも豚の意味)や鶏は何かの祝い、例えば盆と正月くらいしかめったに潰して肉にしなかった』という事も書かれている。
このように、主に食べられる肉は当時でも「牛(他に馬や羊も出てくる文献はありましたが)」、次いで「鶏」で、「豚」はほとんど出てきません。肉としたらまだ野鳥類の肉の方が多く、犬肉も時々みかけ、珍しい所だと虎肉なんかも見られます。ただし、豚肉も食べられていなかった事はないようで、食べられている記載が出てくるのは北朝鮮側のロシア側の地域になります。裕福な両班だと客人が来ると豚を屠り豚肉を出していたようです。
ただ、売られていなかったわけではないようで、牛が主な肉だというのであり、
1885年の『朝鮮国京城奇談』には牛肉以外に豚肉とも出てくる。
他にも
1910年の『韓国社会略説』には、ここにも豚肉は出てくるのだが、「痘瘡に患者が居る家では鶏や豚の類を〆れば、神罰を被り感所に痘痕を残す」という迷信もあったらしい。また、やはり牛肉鶏肉の方が主に出てくる。
この牛肉食は、辿ってみると朝鮮時代の初期には出てくるが徐々に減っていきかなり少なくなり、それが開国で海外の嗜好が入ってきて増えだしているようにも見えます。また、どうも北東ではロシアの影響で養豚が増えだしており、半島南側は日本からの輸入で牛肉が増えている(日本だと江戸時代でも牛肉豚肉はあったが全体量としては少なく、野鳥も含めた鳥類の肉の方が食べられていたが、明治時代になり牛肉食は増えていくが、初期だと豚肉はそれほど多くはなく、増えていくのは19世紀末からである)。
1912年の『最近朝鮮事情要覧』にも少し詳しく載っており、
・牛:大柄で使役及び肉にもよく、皮を輸出している。
・豚:「矮小で晩成」とあるので、現代の養豚種に比べ肉量は少なく、成長も1年(現代の種は半年)かかる豚のようである。皮を利用しておらず、冬の食料にされる。
・山羊:黒色小躯で生産量少ないとあるので、肉量は少ないが、朝鮮では最上の美食とされる。皮は防寒に利用される。
・鶏:小型で卵も小さくより野生的。卵も頻繁に生む種ではないらしい。
など説明がある。
「豚は小型」とあるので在来種では25kgほどの肉量、山羊も小柄なので35kgほど。鶏も小型で1kgほどと思われる。

ただ――ロシア側の記録を見ると、牛は出てくるが肉はあまり出てきておらず。19世紀、開国後の10年ぐらいから急激に増えたのではないかとも言われています。

【屠畜量からの肉換算】

牛と豚に関しては屠畜場での屠畜数も分かっている。
戦後以前の朝鮮では、牛肉の方が一般的で、豚はめったに食べない肉になる。
それと1頭あたりの肉重量を換算していくと、市場に出る肉量は以下になる(鶏は屠畜場で〆ないが、サイクルが短いので全数の肉量としている)。

肉量は確実に増えるのだが、1人あたりとすると年間4kg前後で実はあまり変化がない。それほど肉を食べている訳ではなく、穀物や豆、芋、野菜が主な食事である。
また、主な肉は牛で豚はそれほどでもなく、時々牛より豚が人気になる歳があり、その時は牛のと屠畜数が減る代わりに豚の屠畜数が増えている。
また、どうやらこの牛の屠畜も1885年ぐらいから急激に増えたものであるらしく、それより前の朝鮮時代後期にはあまり牛肉食の記録も見られなくなっていた。

ただ、豚などはハレの日のご馳走として〆るなどもあり、屠畜場を使わずに肉にしていたなども勿論あるとは思う。

【日本が明治時代まで肉を食べなかったのは嘘】

よく勘違いしている人がいますがが、日本では肉食も長い歴史があります。
ただ、肉食が主流の文化かと言うと、違う、というだけですね。
それよりも豊かに水産物がありましたので。
【日本での肉食】
「日本では明治開化するまで肉食がなかった」と俗説があるが、これは嘘である
江戸時代、1643年の料理本には鹿・狸・猪・兎・獺・熊・犬などの調理法が載っており、ジビエは禁止されていない。
さらに、1843年には牛・羊・豚の調理法も載っている。
他にも狐などもあるが、最も多いのは鳥類で約100種類の鳥種を食材としており、その調理法や料理などが様々な江戸時代の料理本に記載されている。
当時の朝鮮半島よりも細かく肉種ごとや肉部位ごとの料理が実は存在していたのだ。
まぁ、殆ど知られていませんが。

  • 日本の縄文時代より前、旧石器時代(約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間)の岩宿人の遺跡から出土した焼け石に付着しているコレステロールを分析した研究で、岩宿人たちが焼き肉をしていたことが実証されていますので、遥か昔から肉を焼いて食べていたのです。
  • 縄文時代の貝塚や遺跡からは動物の骨も数多く発掘されていて、その9割は鹿と猪の肉で、その他にクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキ、ムササビ、カモシカ、クジラなど60種以上の哺乳動物が食べられていたようです。その調理法は焼く、あぶる、煮るなどであり、焼けた動物の骨も見つかっています(縄文人の骨に含まれるコラーゲンを分析した研究によれば、本州では肉ももちろん食べていましたが、主なエネルギー源は木の実であったことが明らかにされています)。
  • 続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他ウサギ、サル、クマなども食べられています。卑弥呼の時代(3世紀)に書かれた『魏志倭人伝』には、日本には牛馬がいなかったことが記されていますが、《死停喪十餘日當時不食肉》と「日本人は喪中には肉を食べない」とあります。逆に言えば、普段は当然のように食べてたわけです。
  • 奈良時代まで、馬肉を食べていた事も分かっています。江戸時代の前、熊本初代藩主になる加藤清正が朝鮮出兵で馬肉を食べており、馬肉を食べる文化自体は江戸時代でも続いてあったことは記録されています。
他、『牛肉・食肉の歴史』にも書かれていますが、肉以外に肝(内臓)も食べています。

確かに、『肉食禁止令』というのがあったのは確かなのですが、それが厳密に守られていたかというと、そうではないのです。
また、元々が農業の為の牛・馬の保護の目的もあったので、最初は農作期の話であり、その後でも野鳥類や野生の獣については寛容なため食べられていますし、一部では牛・豚・鶏などの家禽も食べられていましたので、肉食をしていない時代というのは、実は日本にはないのですね。魚貝類はもちろん食べていましたし、海獣類も食べていましたし。江戸時代だと山鯨(猪)や軍鶏(家禽ですね)は人気の食材でした。『延喜式』の中や絵巻などで、日常食とは言えないでしょうが肉食は描かれています。

肉は薬だった!? 肉食がタブーとされた江戸時代にも、肉は意外と食べられていた!』というプログ記事にも面白く書かれていますし、『江戸時代における獣鶏肉類および卵類の食文化』という論文でも説明をされています。
兎や鹿などのレシピもありますが、味噌漬けした牛や豚を炒り焼きをしたものは、そのまま「焼肉」ですね(別の郷土料理で鍋物の「煎焼き」というのもあるが、こちらは違います)。

また、部位もトモバラや枝肉などの名称は昔からあり、今ほど細かくありませんが、部位名は存在します。
クジラなどもそうで「さえずり」と言えば舌肉になります。
ただし、本格的に名称が細かくなってくるのは明治に入ってからで、海外の肉食料理の紹介と共に、どの部位はどういう料理がいいのかなどを記載しています。そこから、肉の名称が新たに区分されており、外来語由来の部位をいくつか挙げれば、「レバー」は英語の肝臓を意味する「liver」、「タン」は舌を意味する「tongue」、「ハツ」は心臓を意味する「hearts」、肩バラ肉の「ブリスケ」は胸肉や肋肉を表す「brisket」から、それぞれ名付けられたものです。またお尻の部分にある「イチボ」は、お尻の部分の骨が「H-bone」と呼ばれているところから訛ったと言われている。
「カルビ」にしても、これは元は「肋骨」を意味するモンゴル語で、それが朝鮮に伝播し「肋骨」や「肋骨とその周りの肉」という意味になる。これが日本に伝播して「肋骨周りにある肉」で肋骨を含まない肉名称になったというものである(つまり、今の『焼肉』で言う「カルビ」は朝鮮からの外来語だが、語彙は日本独自のものとなっている。これが逆輸入され、韓国でもカルビは今は「肋骨周りにある肉(肋骨を含まない肉)」の名称としても使われているのである――昔は、「骨がないからカルビじゃない」などの声が韓国人からあった)。
ちなみに、韓国では39種類、アメリカでは55種類の牛肉の部位があるが、日本はなんと118種類の部位が現在は存在している。
【牛や豚は江戸時代でも食べていた】
料理本やグルメ本が、江戸時代では沢山書かれ、出回っており、その中には獣肉や家禽肉の事もたくさん書かれている(ちなみに豚は家禽に入っている)。
江戸時代でも薩摩藩(南九州)から以南では昔から養豚も活発にされており、南西諸島や沖縄では古くから豚肉を食され江戸時代でも続いている。有名な所だと豚の角煮なども存在するのだが、『豚汁』も江戸時代に作られた料理である。また養豚も江戸時代後半では他の土地でも見かける事になる。
彦根藩などは「赤斑牛は大丈夫」と強弁し、牛肉を食べ、味噌漬けを将軍に毎年贈っていたという記録もある。

また、1718年創業の「ももんじや」は、獣肉を販売や料理を提供していた店だが、この店は今も東京で現存し営業している。焼き鳥も江戸時代にほとんど完成している食べ物だ。
朝鮮時代よりも、江戸時代の方が武士階級だけでなく、庶民でも食べている上に、識字率が高く記録を残しているので、食に関する資料は豊富にある為、肉料理が資料に出てくる数は圧倒的に多く、肉の料理方法なども多彩に残っており、食べられていた(江戸時代だとこれを『薬食い』という)。
まぁ、「肉も旨い」から食べてたのであって、だからこそ江戸時代の様々な料理本に肉料理も載っているのだが。海洋国家でもあるので、河川も多く、当然ながら水産物もよく食べているので、大陸の内陸部のように「肉しかないから」と言う訳ではないが。

面白いのは、戦国時代の宣教師の書簡の記録がある。かのフランシスコ・ザビエルを含めた宣教師が来日間もないうちは「日本人は肉を食べない。罪悪視すらしている」と本国に報告するが、滞在が長くなると「日本人は牛肉は食べないが好む」(1585年、ルイス・フロイスの報告)とその裏側を知るようになる。「食べないが好む」とは、これいかに。どう考えても「食べない(ことになっている)が好む」という意味なのだ。
赤穂浪士で有名な大石内蔵助は17世紀後半の人物だが、その当時でも彦根藩の牛肉の味噌漬けを贈った記録も残っており、江戸時代も初期から肉は公然の秘密として食べられている。
「桜田門外の変」で有名な井伊直弼が藩主になった江戸末期には、それをやめたが。

味噌漬けの豚肉は有名なのは薩摩藩であり、江戸藩邸跡でも大量の豚の骨が見つかっており、また、賞軍が強請ったのを「もうない」と断ったなど、将軍の好物の1つでした。『豚汁』も江戸時代に作られた料理だそうですね。
他、それ以南の南西諸島や沖縄では豚はメジャーなものであり、江戸以前から内臓肉も沖縄では食べていますね。
簡単に言えば「肉食中心の文化ではなかった」というだけで、昔から日本人は肉を食べています
鎌倉武士は副業として鶏を飼っていましたし(主に卵狙い)、今や外国人に人気の焼き鳥も、江戸時代にほぼその形が出来上がっています。
【内臓食】
「戦後に在日朝鮮人が食べ始めた。それまで日本では内臓を食べてなかった」というのは、嘘。
実際、飛鳥・奈良時代でも内臓食の記録はある。
1916年(大正5年)発刊の「田中式豚肉調理法」にも豚の内臓料理について載っている(この田中教授は、薩摩出身らしい。薩摩は江戸時代でも養豚をしていた場所です)。調べていると、この本を紹介している中には、内臓料理まで記載があることに「教授が少しおかしくなっていたようだ」との記載も見掛けたが、長く続く沖縄から南西諸島の豚食文化を知っていれば、田中教授が書いている豚の内臓料理も別におかしい記載はない、と思うのだが。沖縄では戦国時代より以前から豚の内臓まで食べる食文化でしたから。

既に奈良時代には酢を使って鹿の内臓を膾にして食していた事も記録で分かる。
江戸時代でも一部の層では内臓肉を食べていた事が分かっているが、はっきりとした記録であれば、1906年(明治39年)の神戸新聞には屠畜場周辺地域において、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが一皿1銭で出されていたのが新聞記事として残っている。
1920年代には「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店ができ、他にも動物の内臓を出す店ができている。東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ出し、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した
1936年頃はとても人気があり、大阪難波の店「北極星」は牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937年(昭和12年)には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。
『料理の友』には1936年(昭和11年)から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集され、1940年(昭和15年)2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演なんかも行われている。

また「ホルモン焼きのホルモンは放るもんだったから」というのは、大阪ジョークで1970年代ぐらいに作られた物。
「食べたら元気になる」と滋養があると言うことで「ホルモン分泌物」から名前をとって「ホルモン」と呼び始めたもので、更に言うと、「ホルモン」と呼ばれる前は今も使う「モツ」で呼ばれており、食べられている。

「万人に食べられていたか」というとそうではないと断言はするが、だからといって「戦後まで内臓食はなかった」というのは嘘だと分かる。江戸時代初期からでも、一部の地位にいる人たちは食べる事もあったのが、内臓食である。
【様々な肉料理】
日本では古くから肉料理が様々に発展してあります。
あくまで「主流ではなかった」というだけですね。

明治になると、本格的に海外の肉料理を参考にするのですが、多いのは西洋の肉料理です。
それは肉部位名にも残っており「ロース」なんかがそれですね。
また、中国料理は江戸時代からも卓袱料理などで参考にされてきています。

ところが、調べていると「朝鮮の肉料理も参考にしてきた」とありますが、明治時代の書籍を確認する限り、朝鮮の肉料理はほぼ参考にされていません。というか「見るべき料理がない」と断じられていたりもします。つまり、「朝鮮の肉料理も参考にしてきた」というのは嘘です。

【日本での肉食】

日本では1939年には戦前最高の115万頭に近い豚が国内で飼育されていた。しかし、第2次世界大戦が長引くにつれて飼料事情が悪化し、さらに都市部が爆撃によって破壊されたこともあり、養豚は一気に衰退して終戦直後の全国の飼養頭数は8万強にまで減少している。飼料事情の悪化は朝鮮半島も同じだが爆撃などの戦災がなく、1937年時点がピークで162.5万頭がいたが、1945年でも19.5万頭の養豚数があり、日本と比較するとかなりましであった(つまり、戦争末期の畜産の低下は日本が収奪したものではない)。
日本の戦後の畜産数は浅野幸治の『工場式畜産の発展』に載っているが、養豚数は下図になる。

グラフから1950年時点で70〜80万頭とあり、朝鮮半島とは違い、戦後直後の8万頭から約10倍ほどになっており日本では戦後も畜産に力を入れていた事が分かる。
日本の戦前から戦後での1年での食種量
農林水産省にデータがあるので確認する事が出来る。
1人当たりの年間食事材料の全体を見ると、以下のように変化している。

戦前の食事量は、日本と朝鮮では変わらないか、朝鮮の方が多いぐらいであり、韓国政府が公言する「日本の収奪による貧困」は無かった事が分かる食糧事情悪化による貧困はあるが、これは朝鮮より日本の方が厳しかった)。
日本の肉に関係する部分だけにすると以下になる。

どちらでも韓国とは違い、1950年には回復を既にしている。
現代から見ればわずかだが、戦前から年間で2kgほどの肉食もしている。これは日本統治下での朝鮮人と比べれば半分ほどであるが、日本統治で朝鮮半島の畜産業が拡大したからであり、大韓帝国時代の朝鮮人と同じぐらいである(つまり、よく言われる「朝鮮では肉食が多かった」というのは誤った認識である)。

日本での肉種の変還も分かる。
【日本での畜産数】
このデータもある。

日韓併合時だと、畜産数に桁違いの差がある。
朝鮮半島の産業育成に畜産もいれており、朝鮮総督府は牛・豚・鶏といったものを元の2倍以上にしている。特に牛は、農業にも深く関係してくるので力を入れていたようだ。
また、豚に関しては日本より朝鮮の方が多い。
鶏に関しては、朝鮮でも日本統治で2倍以上にまで拡大しているのだが、昔から養鶏が盛んだった日本とは格段の差があり、日本統治初期の頃で9倍、日本統治後期でも7倍ぐらいの飼育数差がある。
【日本の屠畜数】
日本の屠畜数も分かっているのをグラフにすると下図になる。

日本だと牛をよく食べ始めて、19世紀終わり頃から豚もよく食べるようになり、豚肉の屠畜数が急激に上昇する。
また、日本人は馬も食べている。
【日本の屠畜数から見た肉重量】
全てが肉になるとは限らないのだが、肉になったとして換算すると下図になる(朝鮮と比較する為に馬や羊は省き、鶏は全数を換算している)。

豚肉や鶏肉がよく伸びている。
【日本の屠畜数から見た肉重量の1人当たり平均】
ただ、朝鮮半島と日本では人口も違うので、それぞれの当時の人口数で割り1人あたりを出すと下図になる。

朝鮮では1895年以前では牛肉がほとんど見掛けられていないので、日本と同程度か下回る程度の肉量になる。
日本では牛肉消費量は変わらないまま、豚や鶏に肉消費量が加算されていったような感じで、年間で1.5kg→2.5kgぐらいに上昇している(ただ、日本の場合はこれ以外に山羊や馬の肉も加わる)。
朝鮮では、朝鮮時代では1kgを切るぐらいで、大韓帝国時代に1kg→3kgぐらいに、そして日本統治で4kgぐらいで安定した肉摂取となる。

参考として、牛肉を省いた場合は下図のようになる。

大韓帝国から日本統治の時代だと、日本では牛・豚・鶏と様々に肉を食べられていたが、朝鮮では牛肉に偏重した肉食文化になっている。
「日本は牛を奪った」というのが嘘で、日本は朝鮮統治時代に牛・豚・鶏などの畜産数を倍以上に増やしており朝鮮半島で牛を消費していたのは朝鮮人で、さらにその朝鮮半島の畜産業・牛肉食文化を壊したのは戦後の朝鮮政府、李承晩政権だったのだ。

【日本の畜産】

定説とされていた古墳時代より、かなり古い事が考古学的な発見により判っている。
今後もどんどんと古くなっていくだろう。
【養牛】
弥生時代中期、つまりAD3世紀より以前のBC2〜BC1世紀頃には牛が居た事は判っている。
【養豚】
日本で最も古いブタの骨は、沖縄県嘉手納町の野国貝塚から出土した約7500〜7200年前のものとされています。これは、縄文時代に相当します。このブタの骨は、高齢個体が多いことから、人間による保護・管理、つまりこの時代には既に飼育されていた可能性が高い。また、この豚は中国ではなく、日本の在来種の猪が家畜化されたものであり、豚が中国から持ち込まれた文化ではない事も証明されている(中国からの豚も存在するが、持ち込まれた地域が限定されている)。
【養鶏】
日本最古の鶏の骨は、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で発見されました。この骨は弥生時代中期初頭(紀元前4世紀から同3世紀)のもので、これよりも古くから鶏がもう存在していたであろう事が判っている。
【養蚕】
実は、日本の養蚕はそれなりに古い。
紀元前3世紀には既に痕跡があり、それ以前からある事が判っているが、元は中国から来たものと考えられている。ただし、
  • 秦の時代の紀元前221年には統制が厳しくなっており技術流出を禁止されている
  • 弥生時代中期(紀元前200年頃)の福岡県有田遺跡で出土した平絹は中国の絹織物とは織り方が異なる
事から、それよりも古くから、あるいは日本独自で絹織物が存在していた可能性も示唆されているものです。

楽浪郡形式の遺物も見つかっており、当時から日本は楽浪郡とも交流交易していた事が判ります。BC108年に楽浪郡に養蚕が伝わっているのですが、中国では厳しく制限されていた技術ですので日本から伝わった可能性もあります。
283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、中国式の養蚕技術の導入も行われ、日本式の養蚕技術をアップデートをしています。
「195年には百済から蚕種(カイコの卵)が伝わる」とありますが、これは百済はまだ存在しないので、三国時代で言う「百済」ではないでしょう。

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