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【縄文人と渡来人】
縄文人が何処から来たのか、渡来人がどこから来たのか。
遺伝子でおおよその検討がついてきています。
よく、韓国では(日本でも)「渡来人の朝鮮人が大量にやってきて文化を伝え、血が混ざって弥生人が出来た」「渡来人が縄文人を駆逐した」などとのたまうが、多くが嘘です。
そもそも、現代日本人の遺伝子は基本的に弥生時代(紀元前10世紀あるいは紀元前9-8世紀から紀元後3世紀中頃の間)でほぼ成立しています。西暦に入ってからは、多少の変動はあるものの誤差程度です。「渡来人」の多くが南西諸島ルート・長江下流域から直接ルートや朝鮮半島に渡り中国系民族と交流し混血し帰って来ているものです。
南方ルートは中国の江南地方(水田稲作文化を持つ地域当たり)から、朝鮮半島からの出戻りは半島の南部域〜中央西部域から来ており、よく言われる釜山あたりから対馬へという伝達ルートは嘘です。
この弥生時代の時期に遺伝子が大きく変化したのは、縄文人の人口減少があります。そして西暦以降は誤差になるのも、人口増加があるからです。

【朝鮮半島への移動】

朝鮮半島への民族の移動は、北部と南部で大きく違います。

【北部の移動】

朝鮮半島の中央西部で倭人と中国系民族が陸路で交流するようになるのが、この弥生時代のBC10世紀の少し前(BC12世紀以降)あたりからです。
BC20世紀頃まで遼河地域周辺の中国系や東夷系の民族は遼東半島地域にも南下しておらず、遼東半島に南下したのはBC15世紀頃からで、そこから東南方向の朝鮮半島に入ってくるにはまだ時間がかかります。
これは地形的な話がでドングリ食にも描いてありますが、BC45世紀〜BC20世紀(6500〜4000年前)は現在より海水面が高いため、今より遼東半島の平地部分はかなり狭い上に河川の川幅も広く、遼東半島の南側〜朝鮮半島北部西岸域は陸路による民族移動が難しい土地だったからです。遼東半島の北側から西端あたりの領域がBC20〜15世紀(4000〜3500年前)、遼東半島の西端から平壌あたりまでがBC15〜10世紀(3500〜3000年前)あたりの民族移動になります。
下図のグラフは日本の川崎あたりなので一緒ではないのですが、氷河期では低くなっていた海水面が、BC45世紀(6500年前)をピークに今よりも高くなっています。

12000年前であれば平原だった黄海は海に沈み、さらに今よりも海水面が高くなっていき海が浸食しています。それを考慮してBC45世紀(6500年前の前後)の朝鮮半島の地形を考えると下図となります(赤い部分が現代に比べて海に沈んでいた部分)。

この海水が引いてきた4000年前(BC20世紀〜)で、やっと中国系民族は遼河地域から南下をし始めます。元々が内陸の民族なので、舟の製造技術や操作技術も原始的でしたでしょうね。BC10〜AD5世紀に渡り朝鮮半島以北の民族が南下しているのは、海水面が再び下がり始め、遼東半島に通れる道が出来たのが大きいのです。

ちなみに、中国の山東半島も元は島で、黄河や淮河の沖積によって大陸と接続した土地である。

興隆窪文化や新楽文化が少し陸に入ったところにあるのは、元はそこは海岸に近い土地だったからです。

もう少し言えば、9000年前ぐらいであれば渤海も平原であったのですが、海面上昇し遼河地域に閉じ込められたので、定住し興隆窪文化などが生まれたのです。12000年前に日本と、9000年前に中国との交流が断たれたというわけですね(日本からは海洋交易がされていましたが)。朝鮮半島の南側なども旧石器時代の人間なども判りやすいでしょう、年々、南から海が押し寄せてくる状況で平原を北西に渤海平原へと移動し、そしてさらに海水がやって来たので、北西の遼河地域に逃げるか、西南西の黄河地域に逃げるかをしたわけです。

中国中央部を拠点としていた漢族が北上して遼河地域に入ってくるのが海水面が下がってからのBC15〜10世紀(3500〜3000年前)頃なのも、海水面が下がり、今の河北省北東部に道が出来たからです。

【南部の移動】

遥か昔から生活に海洋を利用していた縄文人は8000年前ほどには既に朝鮮半島南部で定住しています(というより氷河期に来た民族も、一部を除き僅かでも海洋を渡り入ってきていますので)。
朝鮮半島に上陸した縄文系民族の動きは、ドングリ遺体の発見で見る事ができます。ドングリ利用が10000年以上前から行っている縄文人が朝鮮半島に上陸すると共に広がっていっているのです。


北部〜西海岸は海水面の上昇の影響を強く受けていますが、南部〜東海岸は元から傾斜がある地系なので海水面の上昇の影響はあまりありません。縄文人は既に舟を使った海路交流をしていたというのもありますが、遼東半島を使う陸路で北方から入ってくる民族がBC15世紀以前ではほぼなかったのも大きいです。


また、確かに百済を経由地として朝鮮半島を使い来た渡来人(中国系民族)ではなく、朝鮮半島から来た渡来人(中国系民族)が皆無とは言いませんが、現在の日本人の遺伝子は弥生時代でほぼ出来ていますので、AD3世紀中頃以降の渡来人は影響は誤差の範囲であり、現在朝鮮人(韓国人)と日本人には直接的な同族性はあまりありません
この縄文人から弥生人が形成される弥生時代(BC10世紀あるいはBC9〜8世紀からAD3世紀中頃)というのは、

始まりの頃は、
  • 長江下流から直接に日本にきた南方中国系民族
  • 南西諸島を伝って日本に北南方中国系民族
  • 清川江で遼東半島南岸を東に進んできた北方中国系民族と接触した時代
  • 朝鮮半島に渡った縄文系民族が遺伝子変化した民族が日本に戻って来た
というあたりが弥生人の形成になりますが、大きく変化したのはBC10世紀頃からの小氷河期などで植生が変わるなどがあり、縄文人の人口が大きく減り、日本国内の縄文人が8万人程度まで減少した事が大きいでしょう。

終わりの時代は、
  • 百済が南下してきて日本と接触した時代
である。百済と国交を結んだあと、高句麗の南下により百済が日本に従属し日本の地方国家になった時代であり、それ以降は百済が元は前漢であり、間接的ではなく直接的な中国文化が多く入って来る時代です。この頃の弥生人は60万人ほどになっていますので、AD3世紀中頃以降の渡来人は影響は誤差の範囲になるわけです。

韓国人の直接の祖先である朝鮮人(辰韓人)はBC10世紀の時代ではまだ南下しておらず、動き出すのはBC1世紀からですが、東沿岸を南下してくるのはBC1世紀でも後半以降で、弥生時代が終わる西暦3世紀の前半までは半島南海岸は倭の領域です(また、この当時の辰韓人は造船・操船技術が未熟であった事も別の史料で書かれていますので、彼らが独力で朝鮮半島から日本に来れる可能性は大変に小さいです)。この時代だと、日本に住む人口も回復してきており25〜30万人となっており、BC1世紀半ば以前よりも影響がかなり小さくなっています。
つまり、様々なルートで中国系民族の影響は受けているが、その中でも朝鮮人(韓国人の直接の祖先である辰韓人)の影響はほぼ受けていないという事です。辰韓人と倭人の混血が新羅を作り広がりますので、朝鮮人の影響を日本人が受けるより、日本人の影響を朝鮮人は多く受けているでしょう。

【韓国人には関係ない他民族】

日本人が弥生時代でほぼ成立し、中国人は地域ごとに今でも遺伝子がかなり違う為に成立時期は一概に語れません。しかし、朝鮮人は比較的よく分かっていて、10世紀(13世紀には成立)頃です。

そもそもが、今の韓国人の祖先は移民であり、西暦元年前後に半島を南下してきた辰韓人や、白頭山大噴火による濊族の新たな侵入、更に元(モンゴル)や女真族などの南下によって朝鮮半島内で行われた民族シャッフルされている混雑で、『朝鮮人』という血筋が成立したのが13世紀頃です。紀元前や伽耶・百済といった時代との文化やその交流は、朝鮮人(つまり韓国人の祖先)とは全くと言っていいほど関係がありません。あくまで『朝鮮半島と日本列島の倭系人同士の交流』と、『日本人と中国系民族との交流』です。

ちなみに、「韓国人」として民族の歴史を話すなら、1948年以降からしかない。
「朝鮮人」としての民族の歴史にしても、1392年の李氏朝鮮(14世紀末)からのものしかない。
なぜなら、
  • 『韓国』自体、地力で戦ったものではなく、日本が手放した中でアメリカの思惑で出来た国である。
  • 『朝鮮総督府』は、大韓帝国側の懇願で併合したものである。
    にも関わらず、その後に内部でテロなど騒乱を何度も起こす。
  • 『大韓帝国』は、朝鮮半島の独立を日本と清が戦い、日本が勝ったので独立できた国である。
    しかし、独立させたにもかかわらず、直ぐに大国ロシアに擦り寄り国内混乱を引き起こしている。
  • 『李氏朝鮮』という自体が、その前の高麗を簒奪したものであり、簒奪者は元(モンゴル)支配下で千人長をしていた男の息子で民族性出自がはっきりしていない。
    モンゴルによって弱体化した高麗と、日本遠征で敗北し弱体化したモンゴルが撤退するというタイミングで、ろくに戦わずに手に入れた国である(元の主君筋を裏切ったのには変わらない)。
ここまでは、民族は続くが、それ以前は別民族が支配している国である。
  • 『高麗』とういう自体が、統一新羅の中で勢力を持ち、新羅を支配下に置き簒奪した民族ですが。高句麗の末裔を自称しているが、高句麗の主体である扶余系民族ではなく、女真系民族と言われている。
そして、高麗とそれ以前もまた違う。
  • 『新羅』という自体が、高句麗を唆して弱体化させた倭系国家である伽耶を簒奪した国であり、唐を呼び込んで百済や高句麗を滅亡させ、駄々をこねて従属国として出来た国である。
    ちなみに、新羅は伽耶の主体である倭とも、高句麗とも、従属を誓っている(複数回誓っている)のに裏切っている。
  • 『新羅』の前身である『斯盧国』自体が、倭系民族が首長をしていた『斯盧』を簒奪したものであり、辰韓自体が元は倭系民族が先住していた土地を奪ったものである。
  • 『辰韓』自体が、衛氏朝鮮の時に呼び込まれた濊系民族の下級民であり、衛氏朝鮮が漢に滅ぼされるときにいち早く逃げ、四漢郡の支配下に入っていた民族である。
  • 『衛氏朝鮮』は元は燕国の将軍だった衛満が、燕国を清に滅ぼされ、秦の苦役から逃げて作った国なので「漢人の国」である。
見事なほどに、「自力で国を作った」というのがなく、また、合意破りを平然と昔からしている地域・民族である。主たる血筋は変わるのだが、性格というか性質は辰韓人の影響を韓国人に至るまでずっと受けている感じですね。
【技術の伝来】
『「日本書紀」仁賢天皇の六年に日鷹吉士が高麗から工匠須流枳・奴流枳等をともない帰って献じた。朝廷はこれを大和国山辺郡額田邑においた。熟皮高麗(かわおしのこま)がこれであると記している。また「令義解」には大蔵省の条に典履典革という役目があり、靴履・鞍具をつくる者をつかさどっていたとある。靴履・鞍具をつくる者は高麗人・百済人・新羅人などであり、雑戸として調役を免ぜられていた。』というのがある。
しかし、仁賢天皇というのは代24代天皇であり、馬具に関しても古墳時代に埴輪として存在が確認出来るものであるから、この時に技術が来たとは考えられない。
また、漢字にしろ伝来自体はもっと古くから、仏教も古くから、鉄に至っては殷と同時代程度からある事から、定説として言われる『渡来人が5世紀頃に技術を伝えた』というのは合致しない。養蚕の絹織物にしても、BC3世紀のものが発掘されており、それ以前から養蚕をしていた事が伺える。漆にしても、日本の方が古くから存在した形跡がある。
これを考えるに、百済や新羅、高句麗から帰化した者達に対して「それぞれに出来る事を聞き、その仕事に従事させた」ものなのだろう。また、「より良い技術(上位互換の技術)」などを知的欲求から学びに行き、あるいは人を雇い入れ学び、それ受け入れ改造をしてきた、という方が正しいのだろう。
中国からの技術を唯々諾々とそれをそのまま受け入れていただけの統一新羅以降の朝鮮半島の技術とはまるで違うと言える。

【遺伝子系統での移動】

日本人の遺伝子は、C・D・N・Oの系統があります。現在の影響とするとD>O>C>Nの順番になりますが、年代からするとD>C>O>Nの順番になります。
今はもう少し分かっていますが、下図のように人類は動いています。

よくある、遺伝子系統ルートの図で間違いであるのは、D1a2系統とC1a1系統という縄文人の形成に重要な遺伝子の伝達ルートで、これを朝鮮半島を通っているように書かれている図がありますが、それが間違い。この系統は12000年より前に来ている系統であり、当時は氷河期で海水面が今よりも低いので黄海は広い平原です。この歩きやすく食料(獲物)を見つけやすい平原を通って日本にまでやってくるのであって、わざわざ斜面や山のある今の朝鮮半島の場所を移動する意味がありません。

複雑なので分けて説明していくと、以下になります。
また、実は遺伝子的に残っているかは判りませんが、原人類も日本には居た事は石器が残っているので判っています。

【D系統】

黒曜石を使い、7300年前の大噴火で朝鮮半島に移動し定住し始めたのがD系統と考えられる。

旧石器時代、40000年前で海水面が低くまだ黄海が平原だった頃にそこを渡り日本に来た系統です。
特に特徴的なのがD1a2系統で、これは日本で変異した系統であり縄文人の主幹となる血統です。50000年前にはD1系統から分岐しており、40000年前に日本で変化した血統でありその途中で分岐していないので、「孤立した系統」とも言われる特徴的な遺伝子となっています。

21200年前にD1a2a系統、17900年前にD1a2a1系統に分岐しており、新石器時代の朝鮮半島で見つかる遺体にこのD1a2a1系統が入っているので、朝鮮半島で縄文人系統が定住していた証拠になります。

【C系統】

日本に来たC系統は、大きくC1系統とC2系統があります。この系統は元は同じなのですが、もっと西側で46400年前には分岐しており、C1系統とC2系統は別系統と言えるほど離れています。
【C1系統】
古い方だとC1系統で、やはり氷河期に来ており、旧石器時代の35000〜12000年前で海水面が低くまだ黄海が平原だった頃にそこを渡り日本に来た系統です。

日本でC1a1系統が派生するのが35000〜12000年前、5250年前にC1a1a系統、3500年前にC1a1a1a系統・C1a1a1b系統が派生しており、このC1a1系統もD1a2系統ほどではないにしろ日本で派生した「孤立した系統」なので、縄文人血統の証拠となります。また、このC1a1系統は翡翠を交易として使っていたのではないかと考えます。

中国の遺跡で見つかる日本産の翡翠、この分布とC1a1系統の遺伝子には一致性が見られるからです。また、朝鮮半島でも見つかる人の遺伝子にもこのC1a1系統があり、さらに、発掘された人骨の大体の位置とその遺伝子を並べると、朝鮮半島は南(日本に近い)ほど源流に近く、北(現在の平壌近辺)にいくほど派生系統になっていっているのも判り、このC1a1系統も朝鮮半島での縄文人(日本系民族)の広がりが判る指標になります。

この朝鮮半島や中国で見つかるC1a1系統の共通祖先は4800年前となります。
【C2系統】
C2系統も少しですが日本に入ってきおり、朝鮮半島には中頻度で現れます。

日本にはいまいち、どう入ってきたのかが分からないのですが、アイヌに比較的よくある血筋なので、やはり北回りで入って来たのではないかと思います。
  • C2a系統:C-L1373:日本(約0.9%)、韓国(約0.71%):アルタイ系民族?
こちらは、日本→朝鮮半島への移動になっている。
  • C2b系統(C2e1a(C-CTS2657)系統): 日本人(約2.5%)、韓国人(約7.1%)
こちらは、朝鮮半島→日本への移動になっている。
あとは、朝鮮半島ギリギリですが、北東の沿海州あたりのボイスマン文化(BC50〜35世紀)にもC2a1a3系統は入っており(今の研究だと、ボイスマン文化のようなアムール川流域狩猟採集民は<モンゴル新石器時代関連祖先系統が87%:縄文人関連祖先系統13%>になる。縄文系は北回りで入ってきている)、これが沿岸をさらに南下した際に東海岸で既に定住していた縄文人(結合織釣り針と縄文遺伝子遺体)と交わった人が日本に戻ってきた系統が入っているのもあるかもしれません。

このボイスマン文化の前後というのは、既に縄文人が朝鮮半島の南側に広く広がって定住していたのは、ドングリ遺体から判ります。

現代韓国人にC2系統が中頻度で入っているのは、元(モンゴル)に支配された13世紀の事ですね。また、日本は撃退しましたが、投降したモンゴル兵は民として受け入れましたので、日本にも系統が混じっているはずです。

【O系統】

DやC比べると新しく、12000年前程度に日本に渡って来たと考えられるのがO系統。
判りやすく言えば「中国中央以南の中国系民族の血統」です。

ただ、O系統は複雑で、3回(4回)に渡って大きな移動があるようです。
全ての系統の元は、中央アジアでNO系統からO系統に分岐した40000年前になります。
【O1b系統】
1つめがO1b系統。
こちらは南西諸島ルートで26638年前には日本に来ている系統です。

O1b2系統は中国にも少しあるので、九州よりは中国に近い南西諸島での発生ではないかと思う(といっても、当時はほぼ陸続きといっていい距離感)。O1b2a系統が派生したのは日本になる。
朝鮮半島は、O1b2a1a系統が7436年前で、その派生であるO1b2a1a2系統の年代を考えると鬼界カルデラの大噴火で九州から朝鮮半島に移動した系統と思われる。
「台湾から南西諸島を通って日本に入って来た」という説明もよくあるのだけれど、よく考えるとこの当時だと地形が全く違いました。

判っているのでは古くから朝鮮半島にも進出しており、約5477年前(BC35世紀)にはO1b2a1b系統が、約3678年前(BC17世紀)には朝鮮半島でO1b2a1a2aが派生している。その後、中国側に遺伝子が渡っている集団がいます。この2700年前というと中国では周の時代であり、主な交易相手を遼寧地方から変えたのかもしれませんが、この頃も日本は中国と海路で交流をしていたということです。

ちなみにこのO1b系統は、大成洞古墳群12号墓にて殉葬された遺骨はO1b2a1a2a1b1系統。堂北里甕棺墓(紀元後6世紀で朝鮮三国時代の百濟国領内)出土した遺骨はO1b2a1a2a1a系統で、これは日本で分岐したO1b2a系統ですので、縄文系の人物の墓です。

なぜか、「朝鮮半島あるいはその周辺でO1b2系統が派生した」と書かれていたりするが、O1b2a系統が日本派生なのでおかしな書き方がされているものも見掛ける。
  • O1b2系統は共通祖先が26638年。
この時期は、海水面が低くなっており黄海が大平原となっている時代ですので、山間部斜面に定住する理由がありません。
今は海の底になった当時の黄海大平原上で派生した、というなら可能性があります。
  • O1b2a系統の共通祖先は11500年前。
この時期の朝鮮半島には人の痕跡がない時代であり、日本で見られる系統である。
そのサブグループだと、
  • O1b2a1系統は共通祖先が10492年前。
この頃は今の形に近い地形になるが、黄海が水に沈んでいく時期であり、民族は内陸側に移動している時期です。
  • O1b2a1a系統は共通祖先が7436年。
  • O1b2a1a1系統は共通祖先が6311年。
  • O1b2a1a2系統は共通祖先が6057年。
この時期は海水面が上がっており、遼河地域の民族は朝鮮側に南下していない(できない)時期ですので、これは縄文人の移動を示しています。

このうち、朝鮮半島に見られるのがO1b2a1a2系統であり、ここからさらに派生していく。
【O1a系統】
2つめがO1a系統。
この血統は、大きくは2つの流れがあります。
  • 長江下流から直接のルートで来ており、最初は約5000年前には来ていたO-FGC66104系統。
    日本でも陸稲は既にあった可能性があるのですが、体系だった陸稲栽培法はこの時に来たのではないでしょうか。
  • 次がいつかはよく分かりませんでしたが、O-CTS352系統。
    この系統が水田稲作技術を持って来た、つまり「呉地方に定住していた民族」なのではないかと思います(呉音などもこの時に入ってくる)。
既に氷河期は遠く過ぎていませんので、海路による交流です。

朝鮮半島には2通りに入ってきており、古くは日本から半島南に入って来た縄文人です。もう1つが、周・秦・漢といった古代中国の時代になり、陸路で北周りからやってくるBC10世紀(3000年前頃)から入ってくるO-MF36599系統の漢民族です。
【O2系統】
3つめが、O2系統。
これはまだ調査途中で詳しくは判っていないが、広範囲に遺伝子が広がっていっている。
漢民族(最大65.7%)やビルマ系民族(最大86.7%)、朝鮮人(最大50.9%)に高頻度であり、東南アジア人でも中頻度で見られる系統です。日本でも約20%の男性にあります。

中国のO-M134系統が四方に飛び散るように分散しています。それぞれの系統とルートを更に調べないと分からないのですが、日本には4ルートが考えられます。
  • 氷河期に黄海平原を渡ってきた
  • 南下し台湾に入り、そこから北東方向に南西諸島ルートできた
  • BC60世紀には既にあった、日本と中国の海路交易でやってきた(遣唐使に類する様な交易交流)
  • BC10世紀前ぐらいからある朝鮮半島内での交流で混雑し、それが日本に来た(朝鮮半島西沿岸の中部〜南部における中国系民族の南下と在来の倭民族の交流から、馬韓や弁韓、任那・伽耶などの交流)。これの証拠となる1つが秦氏であり、秦氏のハプログループはチベット・ビルマ語派である「O2a2b1a1」(O-M117類、サブグループ省略)系統という研究が挙がっており、ルーツがチベット方面であり(当時の秦はチベット方面に位置している)、百済を経由して日本へ渡来したが、シナ語派であるO2a1系統の漢民族系や朝鮮・韓国にルーツが無い事がわかる

朝鮮半島を北から大量に入ってくるのは周・秦・漢といった時代にO-MF36599系統の漢人が押し寄せてきてからで、BC15〜10世紀ぐらいからで、縄文系統が南に入ってくるのに比べて随分と新しいです(河北省や遼寧省西側など、周・秦・漢の時代は、遺伝子系統の移動を見ても中心はO系漢民族です)。古いのだとO-M134系統が遼河文明域に入って来てはいますが、遼東半島にまでは南下していません(できません)。南方式の支石墓などは、このO-M134系統が持ってきたものではないかと思います。

日本を見ると、中国の方が古い系統であり日本での独自系統がない。
どうも、古くから継続的に色々なルートで入ってきている血統のようである。もっとも多いのが九州なので、「朝鮮半島を中継地とした中国との直接津交流」あるいは「朝鮮半島を南下してきた中国系民族による系統の交雑(既に交雑している百済遺民の流入や、漢系統が濃い高句麗遺民による系統の交雑)」が多いとは思うが、他のルートからも入ってきているようです。

【N系統】

N系統は遼河文明を支えた系統です。

N1b系統は円筒土器文化があり、陸路で大回りしてサハリン経由で北から日本に入ってくる遺伝子です。
N1a1系統は櫛目文土器文化があり、これは日本縄文人が海路で交易をしていたので、海路で日本にやって来ます。櫛目紋土器系統の発掘された時期を鑑みると、櫛目紋土器文化が日本に来てから朝鮮半島に伝わったようですね(対馬での発掘を考えると、日本から興隆窪文化に伝わった可能性もありますが、現在のところ、興隆窪文化の方が古い櫛目紋土器が発掘されています)。

他のC・D・O系統のように12000年より前の時代で移動を始めていれば違ったのでしょうが、N系統は遼河地域に10000年以上も居続けてあまり動かず、6000〜5000年前になってから動き始めています。これはおそらくですが、元々は個々は自然豊かな平原であり生活に困らなかったのでしょう。ですが、丁度、氷河期が終わり海水面が上昇し6500年頃になるとピークになり、元は平原だった黄海だけでなく、現在だと陸地である遼寧のあたりもかなり水に浸食されていたようですので、生活を変えていかなくてはいけなくなったのだと思います(興隆窪文化などは内陸にあるように見えますが、文化が興っていた時代では今よりもずっと海に近い位置にありました)。

12000年前までは、黄海も陸地でしたので大平原が広がっていたのです。それが氷河期が終わると海水面が上がり地形が変わります(赤い部分が現在との差)。そしてそこから海水面が現在と同じ程度となり、今の形になったのは4000年ほど前からです。

【日本への遺伝子系統での移動】

これを、時代ごとに分類すると、どう移動しているかが別の視点で判る。

【旧石器時代の移動】

12000年前までは海水面が低く、今より陸地は大きい事は判っています。
その氷河期時代に移動した遺伝子を図示するとこうなります。

日本へ多くは今は海に没している大平原を通ってきています。
【今の半島地域】
朝鮮半島にほとんど人がいた形跡がないのも当然で、狩猟採取民族だと「当時では山岳地帯でしかない今の朝鮮半島」に立ち寄る理由がほとんどないからです。
もっと言ってしまえば、「当時では山岳地帯でしかない今の朝鮮半島」があったので、南東方向に移動し、さらに今よりは幅が狭い海峡の先に土地があるのを見つけ渡って来た、というのが縄文人の祖先になります。そんな彼らも氷河期が終わっても、海峡の幅が広くなり流れも急になり、また暖流が傍に流れており気温的にも大陸より過ごしやすく、植生も豊かだった日本とその周辺からさらに移動しようとはせず「孤立した血統」が出来てくるわけです。
周囲を海洋に囲まれているので自然と海産資源の利用をする事になり、独自の舟技術が出来ます。
この血統の変化は、大陸側で船技術が発展するまで保たれるわけですね。

【新石器時代の移動】

新石器時代になると気温が上がり海水面があがります。
そのため、日本に来るには舟が必要になる為、限られたルートになります。
  • 南西諸島を伝う南ルート
  • 長江下流から直接来る南西ルート
  • 朝鮮半島に移住した縄文人が戻ってくる北西ルート
また、陸路が無きにしも非ずで、
  • 流氷を歩きくる北ルート
この北ルートはアイヌに遺伝子が入っており、円筒土器を伝えて来たルートです。

また、逆に日本から出ているのもあり、
  • 南西諸島を伝い南下する南ルート
  • 朝鮮半島沿岸を伝い遼河文明域や、その途中にある黄河文明域と海路交流する黄海ルート
  • C2系統とは逆ルートで北海道から大陸に渡る北ルート
  • 日本から朝鮮半島に渡る北西ルート
です。この黄海ルートが櫛目紋土器を伝えて来たルートとは思います(ただ、対馬の事例もあるように、曽畑式土器の方が櫛目紋土器より古い地層にあるのもあり、実際はまだ研究中です。ただ、朝鮮半島経由ではない事だけは確かです)。
「長江下流から直接来る南西ルート」の逆ルートは、海流と風の動きから実際的ではありません(大変に難破しやすいルートになります)。長江流域との交流交易は、中国側からは直接来れますが、日本側からは黄海に入り山東半島の南側を通って南下していく北周回ルートでないと難しいです(他に可能性としては、南西諸島東側を使い南下し、南まで行ってから北に北上して長江地域を目指す南周回ルートもあります)。
【半島南部は縄文人の領域】
この新石器時代(ここでは3500年前までと定義)では、朝鮮半島に入ってくるのは縄文系民族がほとんどです。
唯一、北東の沿海州でボイスマン文明などがあり、これが沿岸沿いに少し南下しています。ただ、このボイスマン文明圏の民族はC2a系統が主ですが、縄文系統も入っており、ボイスマン文化のようなアムール川流域狩猟採集民はモンゴル新石器時代関連祖先系統が87%:縄文人関連祖先系統13%といった構成の民族です。

では、朝鮮半島の北部は?というと、誰も住んでいなかっただけです。
というか、海水面が上がっている時期なので、北から陸路で立ち入ることが難しい土地だったのです。

【青銅器時代の移動】

日本に来る系統は漢民族になるO1a系統やO2系統が中国から、そして朝鮮半島に渡った縄文人系統が日本に戻ってきたりします。また、縄文系統は中国に渡り南北にも拡散していきます。たぶんですが、O1a系統が水田稲作や呉音を日本に伝えて来た系統です。時代を考えると、春秋戦国時代に呉地方(今の長江下流域周辺)に定住していた民族で、周や呉などの国からの戦乱から逃げた人達だと思われる。

O-Y156452系統が陸路で北に逃げたように、海へと逃げたO-CTS352系統が日本に辿り着いた伝達したものだと考えられる(水田稲作もこの系統と思われる)。
支石墓文化は、O-M134系統ではないだろうか?
【中国系民族の朝鮮半島進出】
BC20〜15世紀になり海水面が下がり、遼河文明の民族が南下し遼東半島の西端あたりにまで進出します。
また、BC15〜10世紀になり、遼東半島南沿岸を通り、今の北朝鮮の領域に入ってきます。北方式支石墓から、BC12世紀(3200年前)頃かと考えられます。この頃になると、周・秦・漢といった中央部の漢民族も北進し、東夷蛮族征伐に乗り出すので、漢民族系になるO系民族が遼河地域や遼東半島などに大量に入ってきます。
朝鮮半島に南に定住している縄文人は平壌周辺まで伸びていましたが、北から中国系民族や東夷系民族が南下してきたことにより接触して交流する事になり、縄文系民族は徐々に南に下がり、朝鮮半島中央の西部で交流する事により、青銅器や鉄といった文化が入ってきます。

遠海できる造船技術や操船技術が中国北部に伝わってきたのが、たぶん、このO1a系統(O-Y156452およびO-MF36599)の北上によるもの。
つまり、それまで近海の漁で使う程度の原始的な小舟しか、中国北東地域では作れなかったのでしょう。

「渡来系」とされていますが、それまでの縄文系遺伝子の割合が減るのは、5000年前をピークに縄文人人口が下がり、3000年前ほどで減少ピークになっており総数が減っていたからです(この減少は、気象変化などによって植生なども変わり、それまでの狩猟採取生活では維持が出来なくなったからと言われています)。そこから急激に人口が上昇しており、日本で言う弥生時代で今の遺伝子割合のほとんどが出来上がります。

【弥生時代〜飛鳥時代の移動】

この時代の動きは『後漢書』や『魏志(三国志)』などの記録や、中国・日本の史料から動きが大体が判ります(朝鮮の歴史書は最古が12世紀の『三国史記』になり、これは歪曲や創作が大変に多く、歴史調査としては使えません)。

朝鮮半島はそれまでも様々に朝鮮半島に上陸し定住し混交していた縄文系民族と、北から来たO1a・O2系統の漢人を主体とした中国系民族、N1a系統の遼河地域・C2a系統のツングース系といった中国に支配されたり影響を受けた東夷系の民族といった総じて「中国系民族」が南下してきて交わって、様々な国が入り乱れる時代になる。
この民族の動きは、ドングリ遺体の年代(縄文人の動き)L字形竈支石墓などとも整合が取れる。
BC1世紀には少し縮小していますが、その頃でも大同江(現在の平壌市の中央を流れる川)より南は倭の領域であり、川の北側に楽浪郡などの中国系民族の国境関が出来て、陸路による交易交流をしています。これがAD3世紀半ば頃に前燕で政争に負けた派閥が遼東半島南海岸を通り、大同江の南まで入ってきて、日本と国交を結びます。その後を追いかけるように高句麗が入ってきて、百済は日本に救援を求め従属します。この中で血も混じり、また百済から日本に移民する民族もあります。他にも百済滅亡による百済遺民、高句麗滅亡による高句麗遺民も日本にやってきて日本人になるなど、AD3世紀中頃以降に中国系遺伝子が日本に入ってきていますが、弥生時代が終わった時代の日本人の総数から見れば少数なので遺伝子的な影響はあまりありません。
他にも、BC1世紀半ば以降に馬韓から東に送られた辰韓人の中に南下した者もおり、これらの辰韓人は倭の邑で雑居を許されており(『後漢書』や『魏志(三国志)』で「弁辰」とされた地域)、そこで遺伝子の交雑もあり、その血が日本に来たりもしています。
ここら辺の動きは、三韓は遼東半島?に書いてあります。
【参考】
分かりやすい説明がありましたので。

【朝鮮半島への遺伝子系統での移動】

朝鮮半島の場合、かなり判りやすい系統になっています。
というのも、全体的に新しく、何万年という歴史はないからです。

【日本からの系統の停止】

朝鮮半島のD1a2系統・C1a1系統・O1b2系統の遺伝子については判りやすく、これは日本で生まれた系統だからです。
日本分岐した、縄文人を形作り遺伝子ですね。
  • D1a2系統:40000年前
  • C1a1系統:35000年前
  • O1b2系統:26638年前 / O1b2a系統:11500年前
これらの遺伝子系統はこの時期より前に日本に来ており、日本で変質した系統です。その為、この遺伝子を持つ人は縄文人の子孫となります。
  • D1a2系統は約4.0%(日本人は約35%)
  • C1a1系統は約1.0%(日本人は約5%)
  • O1b2a系統は約30%(日本人は約30%)
つまり、現代の韓国人の30%以上は縄文人の子孫という事です。

朝鮮半島に北からの民族が南に下りてくるのは、4000年前から(BC20〜15世紀)あたりで上昇した海面が引いてきてからです。さらに今の北朝鮮の北から南に入ってくるのは3500年前から(BC15〜10世紀)になってからで、この時はN系統やC2系統だが、3000年前からはO1a系統のO-MF36599系統を中心とした周・秦・漢といった「漢族」が入ってきて北部に支配的な遺伝子系統になってくる。
  • 5000年前まで
5000年前だと、朝鮮半島には南からきている縄文人の他は、北東部の沿海州に僅かにボイスマン文化系統がある程度です。遼河地域やその周辺の民族は、海水面が現在より高く遼東半島を通れませんので南下する事はありません。
  • 3500年まで
海水面が下がりだし、4000年前ほどから遼河地域やその周辺の民族が遼東半島北部を辿って南下します。3500年前には遼東半島西端あたりに辿り着いており、今の中国と北朝鮮の境界当たりにまでやってきます。
3200年前ぐらいになると、大河を越えて北朝鮮北部に入ってきますので、北方式の支石墓などが作られています。
  • 3200年から
この頃から平壌辺りにまで南下してきますので、先住民である縄文系民族と陸路で接触し交易交流が行われます。
3000年前ぐらいになると遼河地方に中国を北上してきたO系統(漢民族)が大量に流れてきます。周・秦・漢といった国ですね。これらが東夷征伐で周辺を支配に置き、その後、遼東半島に居住した雑多な部族(韓や濊)が反乱を起こすので征伐が始まり、そこから逃げた人が朝鮮半島に入ってきます。
山東半島と遼東半島の間の海峡を小舟で利用するのもこの時代以降です。

つまり、中国系統や朝鮮半島以北から朝鮮半島に入ってくる歴史は3500年前からほど。それに対して縄文系統が朝鮮の南側に入って来た歴史は8000年以上あり朝鮮半島における先住民になります。

【弥生時代の遺伝子】

ここら辺はゲノム解析でも分かっています。

弥生人のDNAは現代日本人とほぼ同じで、紀元前でほぼ完成しています。
そして、なぜか約6000年前(縄文時代)の朝鮮半島南部人(釜山近くの獐項遺跡)ともほぼ一致しています。
AD4世紀以前では、朝鮮半島は縄文系統の子孫が定住していたという事です。

ただ、結構、縄文データは偏っています。
  • 三貫地貝塚:福島県:縄文時代後期〜晩期
  • 伊川津貝塚:愛知県:縄文時代後期〜晩期
  • 船泊遺跡:北海道:縄文時代後期
の縄文人データで、東北・西日本・四国・九州・沖縄などといった幅広いものではない上に、縄文時代後期(3800年前)と弥生時代にほど近いものだけとなっています。それに対して、弥生人は西九州からのデータだけになっています。

Natureの2021年の論文でも発表されていますが、

どこの遺骨遺伝子を利用したかも判っており、

ちなみに、日本は弥生人もそうですが、縄文人の遺伝子も他にも判っているのもあり、このグラフに載っていませんがかなり幅広い構造分布をしています。使っている縄文遺伝子は、北海道・東京・静岡・沖縄で、東北や西日本、四国、そして九州はここに入っていませんね(特に九州・西日本の縄文人遺骨のゲノムを入れていないのは、かなり偏ってますね)。逆に弥生人の遺伝子は、九州と沖縄しか入っていません。また縄文時代が長いのもありますし、また、日本は大変に長い(北と南の距離はアメリカや中国の北部から南部までと同じような距離を持つ)ので、年代や地域をある程度分けないと駄目でしょうね。
赤☆Yは、主埋葬者が弥生系ですね。そして従埋葬者が中国系の血が強い者となります。
縄文系遺伝子の採取場所が限られているのだが、縄文系の形質が濃いと言われる沖縄地域を考慮すると、縄文人遺伝子も弥生遺伝子と重なる感じで幅が広くあると考えられる。

朝鮮半島の8000〜1600年前の遺伝子は基本的に、縄文系統の遺伝子の系譜だと判っています。
朝鮮半島は、BC10世紀頃から中国の影響を日本本土よりも影響を受けているが、それでも主体は縄文系民族の形である。だが、AD4世紀から百済が前燕の所からやって来て南下し、朝鮮半島南部を大和が割譲し定住を許可した混雑を初め、高句麗の南下により中国系の遺伝子の影響が強くなる。その後、安東都護府(668-756)、渤海(698-926)、遼、女真、金、そして元(1269-1356)と他民族の血が交じり合い、AD4〜14世紀と1000年程度でがらりと遺伝子分布が変わっているのである。

AD4世後半から朝鮮半島にほとんど入ってこないD系統の遺伝子(縄文系固有の遺伝子)の割合で比較して見れば分かるのだが、実に82.5%ほども遺伝子が1000年間で変化している。『渡来人に征服された』というのは、朝鮮半島の方ですね。
これは、遺伝子の動き(民族の移動)とも合致します。

【新羅時代の移動】

ところが、三国時代が終わると日本からの流入が止まりますので、南からは遺伝子がほぼ来なくなります。
新羅時代になると、北から漢族・女真族・契丹族などの系統が朝鮮半島に大量に入ってきます。

【高麗時代の移動】

高麗時代になっても同じなのですが、13世紀に劇的な事があり、『朝鮮人』の形がこの時代で出来上がります。

C2c1a1a1系統はチンギス・ハーンの子孫が持つ、すなわち元(モンゴル)の系統です。

【長江下流から直接】

よく、「長江下流域から朝鮮半島南部に直接に伝わった」という説が出るが、これは嘘である。
【長江下流から日本へは可能】
長江下流域から日本(九州)に辿り着くのは、実はそんなに難しくない。
  • 長江下流から離岸流で東北東に流される
  • 偏西風により少しずつ東南東に押される
  • その結果、黒潮の支流に掴まり北東に流される
  • 支流に乗りながら偏西風に押されると、対馬海流に入っていく
  • 対馬海流に流されながら、偏西風で西南西に押される
と、結果的に運が悪くても対馬に、普通なら季節による偏西風の強さによって五島列島〜九州西海岸に漂着する事になる。
「海流」と「風」を常にポジティブに利用している形なのである。

これが、釜山から対馬というルートが現実的ではない理由でもあり、釜山から対馬に渡ろうとすると、
  • 対馬海流に斜めに逆らう形で進む必要がある
  • 偏西風は常に舷側側に受け転覆する可能性が高い
という経路であり、「海流」も「風」もネガティブな影響しかうけない。

ちなみに、百済滅亡後には遣唐使で朝鮮半島を利用しないルートを模索しているのだが、失敗率(難破率)が大変に高い「死の栄転」とされるのは、この長江下流域➡九州のルートの逆を利用しようとしたからであり、このルートは「海流」も「風」もネガティブな影響しか与えないので、当然な結果である(その結果、朝鮮半島には寄らないが、半島沿岸を航行して渤海に行くという、縄文時代に遼河文化と交易していたルートを使う事になっていく)。この失敗した遣唐使は、漂流して対馬〜薩摩あたりに漂着しており、「長江下流域から離岸流で沿岸を離れてしまい中国に戻れなければ、自然と日本に流れ着く」というルートなのである。
【長江下流から朝鮮半島南部には不可能】
この「海流」と「風」を考えて検討すると、実現的ではない事が判る。
もしあるとした場合、ルートは2つ考えられる。1つ目が、途中までは日本に来る場合と同じですが、途中から異なります。
  • 長江下流から離岸流で東北東に流される
  • 偏西風により少しずつ東南東に押される
  • その結果、黒潮の支流に掴まり北東に流される
  • 分流している黄海海流に乗り、偏西風に逆らい北北西に進む
というルートだが、黄海海流は対馬海流に比べると流速は遅く、結果的に「偏西風に逆らい人力で漕ぎ続ける」ことをしないと辿り着かない。
「風」がネガティブな影響しか与えないのである。

もう1つが、
  • 長江下流から離岸流で東北東に流される
  • 偏西風に舷側に受けながら離岸流を離れ北北東に進み、黄海の渦流に掴まる
  • 渦流から抜け出し、さらに偏西風を原則に受け続けて進む
というルートになり、常に偏西風を舷側に受け続けており転覆の可能性が高いネガティブな影響を受け続ける。
また、海流の恩恵もほとんど受け入れられないルートであり、常に人力で漕ぎ続けなくてはいけない。

長江下流から日本は、休息を挟みながらでも海流と風のポジティブな影響を受けるので辿り着く。それに対して、長江下流から朝鮮半島南部には、海流や風のネガティブな影響しか受けない上に、常に漕ぎ続けなければ最初のルートでは風と海流の影響で南西に流され朝鮮半島から離れ、後のルートでは風に舷側を押されて常に南西方向に流されるて、やはり朝鮮半島から離れることになるのである。

どちらにしろ、船の技術が高くなるまで長江下流から朝鮮半島南部にという」ルートは、海流や風にネガティブな影響を受けるルートであるため、物理的に不可能と言える

【山東半島からの嘘】

中国を見ると、中国南東の地方を除くと船の技術発展は比較的遅い。これは、主に船の利用が河川(大河)であるのと、広い陸があったからである。日本や東南アジアのように、必要性があって発展した歴史とは異なるのである。ただ、国際貿易を始める唐代になると、船は大型化し帆船も作られるようになる。
BC500年当時の絵から考えられる、黄河域の舟は下図のものである。

「三板(サンパン)」と呼ばれるらしいが、小型船で帆を使ったものではない。
三国志の呉の時代だと、呉は船の技術が他の二国より優れていたらしく帆船を既に利用し、また、黄海を渡って高句麗に使者を送ったらしい記録はあるが、これは実際にあったとしてもAD3世紀の話である。
【旧石器時代(BC15世紀以前)】
もっと前、BC65世紀からあたりだと海水面は大変に上昇します。
この頃の朝鮮半島では縄文人骨などが各地で見つかっており、縄文文化由来の遺物や以降が多く見つかっている時代だが、この時代には遼河地域の民族は遼東半島まで南下をしていない。

これは簡単な話で、陸路で遼東半島を通る事が難しかった土地だからだ。

この時代だと、遼河文明での文化の流入は、北西部(チベット方面)か北東部(ツングース方面)から陸路が殆どであり、唯一違うと言っていいのが黄海を利用した海路を使っていた縄文系民族である。また、南からでもやはり遼東半島の地形は障壁になり、南からの陸路での交流はなかっただろう。
【旧石器時代から青銅器時代】
BC15〜10世紀ぐらいの話です。
BC15世紀頃というと、ちょうど遼河地域から遼東半島に南下が始まってから(BC20世紀ぐらいから)の頃で、遼東半島の西端の大連あたりには定住していた事が判りますが、船を使っていた痕跡はまだありません。ただ、三板(小型舟)で山東半島と遼東半島の間を島を伝って僅かに行き来していた可能性はあります(この辺りは海流の流れもほとんどないので)。

航路としては偏西風の風を舷側に受ける方向になるのですが、海流もほどんどありません。帆を使わず、小型で、そして小島間を伝う形であれば、人力舟で辿り着けます。最難関が北東の小島から遼東半島で、ここが約50km。海流のメリット・デメリットもないので人力舟速4kmほどで半日ほどで着きます。
この船にはO1a系統の民族が関わっていると考えられます。

時々見かけるのが、この時代に「山東半島から黄海南道(北朝鮮南部)や忠清南道(朝鮮半島中部)に船で伝えられた」という説を言う人もいますが、ほぼ不可能です。
幾つも理由があり、
  • 当時の中国系民族の南下はBC12cで鴨緑江あたりまで(北方式支石墓で判る)。
  • 当時の縄文系民族の北上はBC15cで鴨緑江上流あたりまで(どんぐり遺体で判る)
  • BC5世紀頃の中国側の舟は小型舟「三板」
という製造舟と地理歴史がまずあります。

それに加えて、
  • 山東半島から黄海南道に至るには200km
  • 山東半島から忠清南道に至るには300km
の移動が必要になります。
偏西風は斜め後ろから受けますが、海流は対馬海流の様に早くはないもののあり、それを舷側に、あるいは斜めに逆らうように進む必要があります。
結果的に海流と風の影響は±0になりますが、それで人力舟の速度は時速4kmほどになります。
  • 山東半島から黄海南道に至るには200km = 50hr
  • 山東半島から忠清南道に至るには300km = 75hr
と、2〜3日も漕ぎ続けなければ辿り着けませんし、途中で休む小島もありません。つまり、現実的に可能な航路ではないという事です。
日本(五島列島)⇒ 朝鮮半島(釜山)や朝鮮半島(晋州)⇔ 日本(対馬)が半日で辿り着くに比べても、距離的にも時間的にも遥かに遠いのが山東半島から朝鮮半島への直接航路です。中国(長江下流)⇒ 日本(唐津)は距離は長いものの、海流も風もポジティブに作用しているので1日で漂着できるので、物理的距離は遠くても体感的距離は遥かに短いです。

これは帆船(ジャンク帆)を使うようになった漢の時代だと変わってきます。
【帆船の登場】
漢の時代(BC2世紀〜)になれば、帆船(ジャンク帆)が出てきます。
この帆船は中国漢王朝(BC206〜AD220年)の頃に東南アジアの商人と接触し手に入れた技術です。ただし、この時代中国の船はほとんどが河川用で、海での利用も沿岸域などの短距離を横断するためのものでしかありませんし、それを取り入れたのは中国南東域であり、中域や北域ではまだ使われておりません。また、当時は方舟を作っており、中国は10世紀の宋王朝まで真の外洋船を建造していません。
古い記録だと、三国志の時代に呉がまず作り強い水軍を持っており、蜀や魏がその技術を埋めようと船の建造にも力を入れていますが、これも河川用です。当時の舟は方船でキールがないものですから、波には弱かった船構造です。
そのため、紀元前だと基本的には山東半島⇔遼東半島の間で使われるのが限界ぐらいで、海流の動きの影響は大きく、帆船が出てきてもAD3世紀の魏志倭人伝に航路が書かれているように沿岸を伝うようにして使われます。
【直接は6世紀から】
「遣隋使」や「遣唐使」の時代になり、『倭と中国は遼東半島を使わない交流交易』をする事になります。
これは、元は任那、そして512年に割譲して百済になる朝鮮半島南西部の存在と、高句麗は倭とも中国とも対立関係にあったからだとは思います。
好大王碑』にも書かれているように、倭と高句麗は度々ぶつかります(にも関わらず、高句麗滅亡後に日本に逃げた高句麗遺民を日本は受け入れます)。399年に、百済や新羅に巻き込まれる形で、高句麗と倭は対立します。更に、新羅はずっと倭との合意破棄や裏切りをしてきた歴史ですが、532年には金官国を、そして562年には任那・伽耶を滅亡させますので、対立します(その後も新羅は日本に対して度々にわたり海賊行為などもしており、高麗時代の女真族が行った「刀伊の入刀」は捕まっていた帰還者の証言があるまで、高麗の仕業だと思われているほどでした)。

結果、遥か以前から中国と交流をしていた倭は、「船の発展(帆船)に合わせた遼東半島や釜山を使わない航路」を開拓し、遣隋使や遣唐使といった交流交易を続けたのではなかと思います。
日本⇒隋・唐だと、
  • 九州北西部から海流を使い北上、新羅沿岸には付けず、そのまま西に海上を進み百済地南西部(元任那地)に。
  • 百済地南西部から、西沖に進み黄海海流を掴まえて北上
隋・唐⇒日本だと、
  • 偏西風を帆で掴まえて海流を踏みにじり直接な南東方向に
という航路を取ったのではないかと思います。
どちらにしろ、「帆船」の登場が大きく航路を変えた、という事です。

少し分からないのが、百済が551年に漢城(今のソウル周辺)を高句麗を取り戻したが、百済に協力していた新羅が553年に裏切り疲労困憊な百済を攻めその漢城周辺を占領した後の事です(「朝鮮人とは約束をするな、嘘つくし裏切る」の典型ですね)が。新羅は初めて半島西岸を得て、そして唐に使者を送り、高句麗や百済を攻めるように唆しています。朝鮮人だと当たり前のように繰り返している卑劣な行為なのですが、これがどういう技術で唐に使者を送ったかはよく分かりません。碌な船技術を持っていなかったはずなので、あるとすれば、技術を持っていそうなのが任那・伽耶ですので、任那・伽耶を滅ぼした際に掴まえた技術者を苦役し作らせた、でしょうか?

これが660年になり百済が滅亡すると、元百済地南西部も使えないためにルートを試行錯誤します。

【朝鮮半島は縄文人と大陸人の混血】


古代の朝鮮半島は、BC3世紀以前だとほぼ縄文系統のみのDNAになる。
そこから中国系民族が朝鮮半島に入ってきて、混血されていく。これが弥生系朝鮮半島人になるが、縄文系統の子孫である事は間違いがない。
その後、中国系の強い民族が高麗・金・遼・元と入ってきて、縄文系統の遺伝子は薄れていく事になる。
朝鮮半島に渡った縄文人も参考してください。

【"90%は渡来人"の嘘】

最近、変な発言により「日本人の90%は渡来人」との言葉が広まっているが、これは誤りである。
その元々になるのはゲノム調査によるもので、

「三重構造モデル」として広まっており、これを「縄文系」「東アジア系」「東北アジア系」に分けているのである。
これだけを見て「90%は渡来人」と言っているのだが、これは言っては何ですが「言い方が悪い」ので、誤った認識をする人が出てきているだけです。

重要なのは「縄文人とは、そもそもが多様な遺伝子情報が混ざっている」という事です。
主にでも「D系統」「C系統」「O系統」「N系統」が混ざっており、更に同じ系統でも遺伝子が少し違うのが来ているので、「多段階構造」になっています。
そして、「縄文人」といってもその中に、「日本で変異した独特な遺伝子情報」の他にも、それ以外の遺伝子情報を元から持っています

沖縄が比較的に縄文系統の遺伝子をしっかり受け継いでいると言われます。
この「沖縄の遺伝子構造」が、元の「縄文人の遺伝子構造モデル」に似ているのです。元から、縄文人は「縄文系」「東アジア系」「東北アジア系」のモデルの遺伝子情報を持っている訳です。
「渡来人」とは、縄文時代後にきた人達を指します。その中には、「縄文時代に朝鮮半島や大陸に渡りそこで変質した遺伝子情報」もあり、これも「東アジア系」「東北アジア系」に含まれています。それを含めても、では「日本本土にずっといた縄文人遺伝子はどれぐらいあるのか?」となると、下図になります。

グラフの上にある数値が、「縄文人の遺伝子情報が残っている比率」になります。その「縄文人の遺伝子情報の割合」は50〜40%ほどで、関西は渡来人の割合が高くなりますが、九州は渡来人の割合はそこまで高くありません。この割合は、ゲノム分析以前とあまり変わりません
「縄文祖先」とされているのは、どうも旧石器時代、つまり縄文時代より前に来た遺伝子のみとしているようですね。
「東アジア系」「東北アジア系」がそれぞれどれぐらい増えているかも判ります。

それぞれの「三段階構造ゲノム」とを合わせると、下図のよう見る事になります。

「縄文祖先」となっているのは、まさに「縄文人の祖先となる16300年より前に来た祖先」となります。
時代ごとでの出産年齢は違いますが、900世代や1000世代ぐらい前の遺伝子という事ですが、その遺伝子もはっきりと日本人には残っているのですね。言い換えれば「3万年前から日本にずっといる遺伝子が10%残っている」という事です。
そして「東アジア人祖先」「東北アジア人祖先」は、16300〜3000年前の縄文時代に入って来た遺伝子と、3000〜1700年前の弥生時代に入って来た遺伝子の両方が混じっています。
実際の「縄文人」は3000年前より古いということなので、「縄文祖先」全てと、「東アジア人祖先」「東北アジア人祖先」の半分弱が入ります。750世代分ぐらいでしょうか。
また「弥生人」として赤色の「東アジア祖先」とされている部分が多いですが、その過半数が縄文人と、縄文人が朝鮮半島に移住してから日本本土に帰って来た出戻り遺伝子になります。さらに言うと、民族は移動していますので、「東北アジア祖先」と行ってもルートは朝鮮半島ルートで来ている訳ではありません(これを「漢民族」としているのを見掛けますが、その漢民族が北東部移動したのは、3000年前ぐらいの時代になります)。
例えば、海外に出たとしましょう。そこで結婚して子供が生まれたら、自分の子供には自分の遺伝子は1/2。その子供もそこで結婚して子供が生まれたら自分の遺伝子は1/4。その孫も現地で結婚して子供が生まれたら自分の遺伝子は1/8。つまり、3万年前に日本に来て定住して縄文人になる種族の曾孫ぐらいにいるわけです。縄文時代から見ると孫、弥生時代から見たら今の日本人は子供の位置になります。
模擬的に図を作ると下図となります。

ゲノム調査は、この赤の部分のみを見て「90%」と言っているわけです。
しかし、「旧石器人」「縄文人」「朝鮮半島などに渡った縄文人が出戻って来た渡来人」をきちんと考えると、模擬的な図は下図のようになります。

「縄文人」というと、旧石器時代の間に来た種と、新石器時代の縄文時代の間に来た種を合わせたものを言いますので、図内の赤と青を合わせたのが「縄文人」となります。またその混雑した種の中にも旧石器時代の遺伝子もあるのだが、混ざり変質しているので、これもゲノム調査では「渡来人」としているのである。
「旧石器人」というと赤の部分だけになりますね(縄文人の中にも旧石器人の遺伝子がある)。
この中身には「朝鮮半島や中国大陸に渡ってから戻って来た縄文人や弥生人」もおり、これを明確にすると、下図のような模擬図になる。

割合で見れば、10000人の中に「東北アジア系渡来人」は年間7人ぐらいが混ざれば、1000年でこの割合ぐらいになります。
また、10000人の中に「東アジア系」は年間9人ぐらいが混ざれば、1000年でこの割合ぐらいになります。
二つのルートが混ざっていますので、それぞれがその半分。つまり、1年間で8人ぐらいの渡来人が混ざった10000人(縄文人が9992人)であれば、今のモデルになるわけです。ただし、朝鮮半島や大陸での混血も入っているでしょうから、やはり倍。つまり10000人の中に渡来人とされる人達が16人いれば、今の三重構造モデルの割合になります。

縄文時代の終焉頃、人口は8万人ですから、100人ほどの渡来人が混ざったというぐらいです。
これが西暦元年頃には26万人、つまり300人ほどの渡来人が混ざっていた、という感じですね。
関西が割合が低いのは、これは西暦になってからで、帰化希望と亡命を受けれていた大和政権があったからでしょうね。それでも、1年間で純潔渡来人なら1万人の中に10人、混血した渡来人なら20人程度が混ざれば、今の三重構造モデルの形になります。

これで「韓国人」を見るとどうなるか?
というと、弥生人の時代は同じような割合(弥生人より少し中国系が多い)だった種、その82.5%が中国系に変わっていますので「弥生人の弟の曾孫」ぐらいになります。

「親等」で言えば、6親等ぐらい離れています。「従甥孫(じゅうせっそん)」「従姪孫(じゅうてっそん)」と呼びます。
韓国人から見れば、民族としては「族伯父・族伯母(いとこおじ・いとこおば)」または「従伯父・従伯母(いとこおじ・いとこおば)」と呼ばれる位置になりますね。

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