政治経済法律〜一般教養までをまとめます

  • 制裁力と権力
 政治による紛争の解決はいかなる特徴を持つであろうか。一言で言えばそれは、制裁力を背景にした解決である。制裁力とは人々の所有するなんらかの価値を各人の抵抗を排して剥奪する力である。こうした制裁には、身体的自由や生命を奪うこと(例えば、懲戒や死刑)から、財産や領土の没収、名誉や地位の剥奪などに至るまで、さまざまな形態がある。一般的に、権力とは強制力をさすが、政治権力とは社会秩序を維持するために制度化された強制力をさす。上述の制裁力の行使はそうした権力の具体的発現にほかならない。政治による紛争の解決もまた権力を背景とした解決といってよいであろう。
  • さまざまな権力観
 権力の本質が制度化された強制力であるとするならば、そうした強制力を生み出す根源となっているものは、いったい何なのであろうか。この点に関連して、これまで権力の実体概念関係概念という2つの権力観が提唱されてきた。
 権力の実体概念とは権力を人間あるいは人間集団の保有する何らかのものであるととらえる。たとえば物理的強制力(暴力)、経済的強制力(財力)、心理的強制力(魅力)などが挙げられる。軍事力を重視したN.マキァヴェリ、富を重視したK.マルクス、多元的資源の付与と剥奪を重視したH.ラズウェルらが、その代表的論者である。
 他方権力の関係概念は、権力を具体的場面における人間あるいは人間集団の相互関係おいてとらえる。たとえば、その代表論者であるR.A.ダール「AはBがさもなければなさなかったであろうことをBになさしめる程度において、Bに対する権力を持つ」と定義づけている。第二次世界大戦後アメリカで発達した行動論的政治学ではこの見方をとるものが圧倒的に多い。
 しかし現代の権力観はこれに尽きるものではない。たとえばバラック=バラッツは、ダールの権力観が顕在的な争点を巡って行使される権力を念頭においたものである点を批判し、ある争点を議題から排除する権力(非決定権力)も存在することを指摘した。またS.ルークスは、関係論的権力を一次元的権力、非決定権力を二次元的権力と呼び、これらとは異なる第三の権力(三次元的権力)も存在すると主張した。それは他者の選好にまで影響を与えることで、ある争点が存在していることすら人々に認識させないように作用させる権力である。
 また、ゼロサム的権力観非ゼロサム的権力観という区別も、しばしば用いられる。ゼロサム的権力観とは、支配者が服従者から富を収奪する場合に見られるように、権力を行使しても社会における価値の総和は常に一定であるとする見方のことである。これに対して非ゼロサム的権力観とは、支配者が服従者を動員して灌漑施設を建設する場合に見られるように、権力の行使によって社会における価値の総和は変化しうるとする見方のことである。前者の代表論者がK.マルクス、後者の代表論者は、T.パーソンズH.アレントである。
 そのほかM.フーコーの権力論も示唆に富むものである。フーコーは権力によって産出された知が人々に内面化されていると考え、これによって人々は一定の規律に従った行動をとるように仕向けられていると主張した。こうした状況は、J.ベンサムの考案した刑務所施設になぞらえて、パノンプティコン(一望監視装置)と呼ばれている。
  • 権力と権威
 権力と混同されやすい概念に権威がある。アメリカの経営学者H.A.サイモンによれば、権威とは「他人からの通信を、その内容を自身で検討せずに、しかし進んで受容する現象である」という。たとえば、われわれは「辞典の権威」や「医師の権威」を認め、辞典の説明や医師の診断を無条件に受け入れることが多いが、こうした場合の権威は確かにサイモンのいうような権威であろう。その意味では権威は、一般的な社会現象であるといってもよい。それが政治とかかわりを持ってくるのは、権力が権威としての性格を帯びるとき、その効力が著しく高まるからである。
 このように、権力と権威は明らかに異なった現象であるにもかかわらず、権力はしばしば権威の衣をまとって現れる。権力の行使や保持を権威がより確実なものにしてくれるからである。いかなる場合に権力が権威化しうるかについては、M.ウェーバーの支配の正統性に関する分析が有効である。支配の正統性とは、権力者が発した命令が被治者によって無条件に受け入れられる根拠が何であるかを示すものであって、権力が権威化する根拠と言い換えることもできる。ウェーバーの挙げた正統性には伝統的正統性カリスマ的正統性合法的正統性の3類型があり、権力のこうした正統性のいずれかに基づくとき、それは容易に権威としての性格を持つようになると考えられる。
 また、この点についてはC.E.メリアムの考察も参考になる。メリアムは、支配者が自らを正当化する際に用いる象徴形式について考察し、これをミランダクレデンダに分類した。ウェーバーの提唱したミランダいしても、権力の正統化がしばしば非合理的な契機をもってなされることには注意しなければならない。
  • 権力構造論
 政治権力が存在しなければ、社会秩序の維持は困難となり、社会の統合は失われる。その意味において、政治権力は社会にとって不可欠のものである。しかし、政治権力の本質が強制力であるとするならば、政治権力と民主政治は緊張関係に置かれざるをえない。そこで政治においてだれが権力を握っているかということが、われわれにとって重要な関心事となる。
 かつてC.W.ミルズはアメリカにおける権力構造を考察し、そこに軍・産・政という3つの制度的秩序を見いだした。そして、これらの頂点に立つエリートが一枚岩的団結を誇り、民衆を一方的に支配していると主張した。これが有名なパワー・エリート論である。同様の主張は、アトランタの権力構造を研究したF.ハンターによっても唱えられている。
 これに対して、ニューヘブンという地方都市における権力構造を研究し、エリートの一元性を否定したのがR.A.ダールであった。ダールは公教育・都市再開発・候補者指名という3つの争点領域ごとに、影響力を行使している権力者を探り、それが相互に子おなっていることを見出した(多元的エリート論)こうしたエリートの多元性の主張は、D.リースマンの拒否権行使集団論にも見られるものである。
 

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