☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 造営した2人の親王
- 建築の様式
- 現存する茶屋
- 賞賛したドイツ人建築家

解答チェック
《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]38・149ページ/[新]45・189・190・205ページ
◦ 桂離宮は、詳細な資料は残っていないものの原形は元和年間(1615〜24)に造営されたとみられる。
◦ 八条宮家初代の智仁(としひと)親王により基礎づくりがなされ、その後およそ50年間に渡って二代の智忠(としただ)親王とともに父子二代に渡って整備された。
◦ 敷地面積は約2万1千坪で、現在でも江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物をほぼそのままの姿を残している。庭園と建物が一体となっており、最古の回遊式庭園として知られる。
◦ この頃は桂離宮や修学院離宮をはじめ、自由闊達な建築手法を取り入れた座敷や建物が多く建てられるようになり、これらの建築様式を「数寄屋造(すきやづくり)」という。
◦ そんな桂離宮も、寛永6年(1629)に智仁親王が没して以降は手入れされることなく、まだ若かった智忠親王が初めてこの山荘を訪れたのは同18年ごろだったと記録に残っている。
◦ この時を契機に殿舎が再興され、古書院に接続するように中書院が増築。さらに庭園内に5ヵ所の茶屋が設けられた。その背景には、寛永9年に徳川将軍家から銀千枚を下賜されるなど、
幕府からもたびたび援助があった。
◦ 明暦4年(1658)と寛文3年(1663)には、後水尾上皇の行幸に際して3度目の造営がなされ、楽器の間や新御殿の建設とともに庭園も整備された。5ヵ所だった茶屋はいったん廃止され、
あらためて松琴亭(しょうきんてい)・月波楼(げっぱろう)・賞花亭(しょうかてい)・笑意軒(しょういけん)が新設された。記録によるとこれに竹林亭と呼ばれるもう1棟も作られたが、
現存していない。
◦ しかし、この庭園が最初に一般の人々に知らされるのは日本人による研究からではなく、1933年に来日した際に同地を訪れたドイツ人建築家のブルーノ・タウトによってであった。
彼は著書や講演の中でたびたび桂離宮について触れ、ことあるごとに「日本建築の世界的奇跡」などと称賛したことによる。
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