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kyo_miyato 2017年04月27日(木) 20:53:51履歴
平安時代、藤原氏は政変でライバルとなる貴族を排斥(はいせき)し、勢力を伸ばして行った。例えば、宇多天皇が藤原氏けん制のために登用した( 61 )は、藤原時平との争いに敗れ、大宰府に左遷され亡くなった。この事件後、時平や皇太子・皇太孫の病死や、清涼殿への落雷などの異変が相次いだことから、( 61 )の怨霊ではないかと恐れられ、それを鎮めるために現在の北野天満宮に祀られた。 さらに、藤原氏は天皇家との婚姻関係を強固なものとして、大きな実権を握った。その最盛期は藤原道長の頃で、一条天皇に長女の( 62 )を、続く三条天皇に次女の妍子(けんし/きよこ)を入内させた。長和5年(1016)、三条天皇の譲位によって後一条天皇が即位すると、道長は祖父として幼少の天皇を補佐する役割である( 63 )に就く。その後、後一条天皇にも三女の威子(いし/たけこ)を入内させ、皇后・皇太后・太皇太后はすべて道長の娘となった。 ( 62 )には、多くの女性文化人が女房として使えた。その一人である( 64 )が著した『源氏物語』の主人公である光源氏は、道長をモデルとしたとの説もあり、彼女の邸宅跡と伝わる蘆山寺には「源氏の庭」がある。また、和泉式部の墓といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある誠心寺は、道長が( 62 )に請われ、和泉式部のために「小御堂(こみどう)」と呼ばれるお堂を建て与えたことが起こりである。 晩年、出家した道長は、末法思想から極楽に見立てた( 65 )庭園をもつ広大にして壮麗な法成寺を建立した。道長の日記は『( 66 )』や『法成寺摂政記』などと呼ばれ、近衛家の陽明文庫が所蔵する国宝であり、平成25年(2013)にユネスコの記憶遺産に登録された。 道長の死後、長男の( 67 )が別荘であった宇治殿を寺としたのが、( 68 )の始まりである。10円硬貨にも描かれている国宝の阿弥陀堂は「( 69 )」の名で知られ、近年の修復作業により往時の彩色が復元された。また、本尊の阿弥陀如来坐像も国宝で、仏師の( 70 )の作であることが確認できている現存唯一の仏像である。 |
(61) 平安時代、藤原氏は政変でライバルとなる貴族を排斥(はいせき)し、勢力を伸ばして行った。例えば、宇多天皇が藤原氏けん制のために登用した( )は、
藤原時平との争いに敗れ、大宰府に左遷され亡くなった。
(62) 藤原氏の最盛期は藤原道長の頃で、一条天皇に長女の( )を、続く三条天皇に次女の妍子(きよこ)を入内させた。
(63) 三条天皇の譲位によって後一条天皇が即位すると、道長は祖父として幼少の天皇を補佐する役割である( )に就く。
(64)( 62 )には、多くの女性文化人が女房として使えた。その一人である( )が著した『源氏物語』の主人公である光源氏は、道長をモデルとしたとの説もある。
(65) 晩年、出家した道長は、末法思想から極楽に見立てた( )庭園をもつ広大にして壮麗な法成寺を建立した。
(66) 道長の日記は『( )』や『法成寺摂政記』などと呼ばれ、近衛家の陽明文庫が所蔵する国宝であり、平成25年(2013)にユネスコの記憶遺産に登録された。
(67) 道長の死後、長男の( )が別荘であった宇治殿を寺としたのが、( 68 )の始まりである。
(68) 道長の死後、長男の( 67 )が別荘であった宇治殿を寺としたのが、( )の始まりである。
(69) 10円硬貨にも描かれている国宝の阿弥陀堂は「( )」の名で知られ、近年の修復作業により往時の彩色が復元された。
(70) 本尊の阿弥陀如来坐像も国宝で、仏師の( )の作であることが確認できている現存唯一の仏像である。。
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