☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 平安遷都を行った天皇名
- 平安京に遷る前の都
- モデルとなった中国の都市
- 大内裏から南に走る大路名
- 都市区画制度の名称
解答チェック
《解答例》 ※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]19〜24ページ/[新]12〜18・27〜29ページ
◦ 延暦13年(794)10月、桓武天皇は長岡京から葛野郡周辺に新都「平安京」を遷都した。
◦ そのわずか10年前に平城京から遷都されたばかりであったが、長岡京遷都の翌年延暦4年(785)9月に、桓武天皇の忠実な幕僚であった藤原種継が暗殺された。
天皇はその首謀者として反桓武勢力の大伴一族や、これに繋がるとされた実弟である皇太子の早良親王など関係官人全体を粛清した。
◦ しかし、早良親王は頑なに無実を訴え、幽閉先の乙訓寺で絶食して最期までその意志を貫いた。しかし、桓武天皇の怒りは収まらず、亡骸を淡路島に死後流刑するほどであった。
それが発端となり、その直後から生母の高野新笠や皇后の藤原乙牟漏が次々に病に倒れ死去し、さらに連年のように大雨・洪水・疫病など、早良親王の「怨霊」による祟りではないかと噂された。
◦ このため、桓武天皇は体制を立て直そうと、短期間のうちに再び都を遷すことを決意し、延暦12年1月に初代造宮太夫として藤原小黒麻呂にその一切を任じた。
◦ 新京予定地とされた葛野郡周辺は、地相「四神相応之地」により北に船岡山・南に巨椋池・東には鴨川・西に山陰道が配されていたことから、都としてふさわしいと判断された。
◦ 「平安京」と名付けられた新都は中国の都市「長安城」をモデルとして建設され、その規模は3分の1であったが南北約5.2キロメートル・東西約4.5キロメートルに達する。
◦ 大内裏が京域の北端に置かれ、その中央を南北に距離約4キロメートル・幅員約85メートルに及ぶ「朱雀大路」が貫通する。このような構造を「北闕型都市」と呼び、均整のとれた「左京」と
「右京」によりなる。
◦ 「左京」と「右京」はそれぞれ「東京」と「西京」あるいは「洛陽城」と「長安城」とも称され、個別に大行政区としての機能も果たしていた。
このような都市区画制度を「条坊制」といい、東西南北を走る24の大路・48の小路によってブロックごとにさらに細かく碁盤目状に区切られていた。
◦ ちなみに、最大単位の1条は4坊に値し、さらに1坊は4保、1保が4町と等しい。したがって、平安京は1条が64町からなる大ブロック、1坊が16町からなる中ブロック、1保が4町からなる小ブロック
であり、最小単位の1町は約120メートル四方だったといわれている。
◦ 平安京は最盛期にはおよそ数十万人と推定されるほどの繁栄を見せたが、左右両京が同様に発展して均整美を誇ったのはわずかな期間で、100年も経った頃には湿地帯が多かった右京が次第に衰退。
いたるところに小泉・沼が存在していたため、地盤沈下など居住が困難となったうえに、蚊の媒介によって温帯性マラリアが流行するなど人々が右京から次々に転居していった。
◦ 左右両京のバランスが崩れると、かつての中心線であった朱雀大路は狭小化し、平安京の正門といわれた羅城門は荒廃しても整備や再建されることはなかった。
一方、左京では右京から人々が数多く移住し、もとの京域だけでは収まらず、新たに二条大路を中心とした「外京」ともいうべき市街地が生まれた。
◦ 平安時代末期から鎌倉時代に至る頃には、鴨東の南域で都市化が進み、平氏政権が六波羅政庁をこの地に置いたことにより、一帯は3200軒余の武家屋敷が建ち並ぶ武家町に変貌した。
◦ このような左京中心の展開により、次第に「平安京」という首都名は失われ、「京」「都」「洛陽」「京洛(けいらく)」「京師(けいし)」などと呼ばれるようになり、やがて「京都」という名称が
固有名詞として定着する。
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