最終更新: kyo_miyato 2017年04月27日(木) 01:47:08履歴
山科で平安時代以来の歴史をもつ古寺といえば、まず勧修寺(かじゅうじ)や随心院(ずいしんいん)を挙げることができる。 勧修寺は、明治維新に至るまで親王を住持とする門跡寺院であった。庭園の中心をなす氷室の池は睡蓮の名所として知られ、書院前庭には( 71 )より拝領したと伝える勧修寺型の石燈籠が建てられている。 一方、随心院は六歌仙の一人である( 72 )ゆかりの寺と伝えられる。毎年3月の下旬には「( 73 )」があり、菅笠に薄紅色の梅花を挿した少女たちが華やかに踊る。 北花山の元慶寺は、藤原兼家の謀略によって( 74 )が出家・退位した寺として有名である。天皇は出家後に西国三十三所観音巡礼を復興したといわれ、 ( 75 )として信仰されている。 さらに山科は、赤穂浪士の大石良雄が吉良邸討ち入りまでの一時期隠れ住んだ地とされている。西野山の( 76 )には、良雄の念持仏と伝わる本尊不動明王や四十七士の木像、位牌などが祀られている。毎年( 77 )に行われる「山科義士祭」では、山科区民が四十七士の扮装で、春の桜や秋の紅葉で有名な( 78 )から大石神社までを練り歩く。 また山科は、( 79 )が通る交通の要衝として重要な役割を果たし、旧街道沿いには江戸時代の道標や車石などが残る。現在は地下鉄が通り、天智天皇山科陵にちなむ地名「( 80 )」が駅名となっている。 |
(71) 勧修寺は明治維新に至るまで親王を住持とする門跡寺院で、氷室の池は睡蓮の名所として知られ、書院前庭には( )より拝領したと伝える勧修寺型の石燈籠が建てられている。
(72) 随心院は六歌仙の一人である( )ゆかりの寺と伝えられる。
(73) 随心院では、毎年3月の下旬には「( )」があり、菅笠に薄紅色の梅花を挿した少女たちが華やかに踊る。
(74) 北花山の元慶寺は、藤原兼家の謀略によって( )が出家・退位した寺として有名である。
(75)( 74 )は出家後に西国三十三所観音巡礼を復興したといわれ、( )として信仰されている。
(76) 西野山の( )には、良雄の念持仏と伝わる本尊不動明王や四十七士の木像、位牌などが祀られている。
(77) 毎年( )に行われる「山科義士祭」では、山科区民が四十七士の扮装で、春の桜や秋の紅葉で有名な( 78 )から大石神社までを練り歩く。
(78) 毎年( 77 )に行われる「山科義士祭」では、山科区民が四十七士の扮装で、春の桜や秋の紅葉で有名な( )から大石神社までを練り歩く。
(79) 山科は( )が通る交通の要衝として重要な役割を果たし、旧街道沿いには江戸時代の道標や車石などが残る。
(80) 現在は地下鉄が通り、天智天皇山科陵にちなむ地名「( )」が駅名となっている。
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