☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 保元の乱で争った兄
- 造営した院御所
- 寵愛され高倉天皇の生母となった人物
- 編さんした今様歌謡集
- 臨終仏とされる阿弥陀如来像を本尊とする寺院
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《解答例》※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]??ページ/[新]??ページ
◦ 後白河天皇は、大治2年(1127)に鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、平安時代末期の久寿2年(1155)に天皇に即位した。
◦ しかし、この皇位継承をめぐっては、保元元年(1156)に後白河天皇と兄の崇徳上皇による内紛がおこり、武力衝突にまで発展して朝廷が二分される「保元の乱」が起こった。
◦ 永暦元年(1160)、新たな院政の拠点として、後白河天皇は法住寺殿を造営した。その頃、後白河天皇は平滋子の美貌と聡明さを気に入り、女御としてする。そして、翌年に完成した法住寺殿に
入御し、その後「東の御方」と呼ばれるようになった。
◦ また、その年には後白河天皇と滋子との間に、のちの高倉天皇に即位する憲仁皇子を儲けた。
◦ 後白河天皇は晩年、愛好していた今様の歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編さんした。
◦ 寿永2年(1183)頃、後白河法皇は長講堂を建立し、臨終仏とされる阿弥陀如来像を本尊とした。これは、六条西洞院六条殿にあった持仏堂が元であった。